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食味歳時記11

时间: 2020-04-20    进入日语论坛
核心提示:春 爛 漫01鹿児島の酒鮨《さけずし》というものがあるが、あれほど、陽春を感じさせる、食物はあるまい。マゼ・ズシの一種だが
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春 爛 漫01

鹿児島の酒鮨《さけずし》というものがあるが、あれほど、陽春を感じさせる、食物はあるまい。マゼ・ズシの一種だが、極めて多くの具《ぐ》を用意し、見た眼にも、絢爛な美しさであるが、その味が、まったく独特である。スシと称しながら、酢を用いず、酒を混じるのである。その酒も、普通の日本酒でなく、あの地方で地酒《じざけ》と呼ぶ、ベルモットに似た、色と味を持ってる、それを驚くほど多量に、飯に混ずるのである。
私が最初に、酒鮨の味を知ったのは、昭和十六年の二月に、拙作『南の風』の取材に、天草から鹿児島へ行った時だった。私は約十日間、鹿児島にいたが、その地を初めて踏んだので、自然も風俗も、非常に魅力を感じ、ことに封建性が多分に、日常生活に残ってる点を、面白く思った。そして、鹿児島のことなら、何でも知りたくなり、料理もその一つだった。郷土料理の豚骨《とんこつ》や春羹《しゅんかん》なぞは、ちょうど寒い頃だったので、味もよく、もの珍しかった。
「まだ外に、土地の料理はありませんか」
私は、案内役の市の観光協会の人に、訊いた。
「そうですな、酒鮨というのがありますが、ちょっと、季節外れで……。でも、私の家が、実は、酒鮨に使う地酒の醸造元で、ご案内致しましょうか」
そして、私は町中の極めて古びた商家へ、案内された。戦災のひどかった鹿児島には、もう、あんな古風な建築の商家は、一軒も残ってないだろうが、そこで、私は酒倉の中へ入ったり、薄暗い帳場の框に腰かけて、地酒というものを、初めて味わったりした。酒というよりも、ミリンに近い──ベルモットにもっと近い甘さを知って、こんなもので鮨をつくったって、意味ないではないかと思った。
そのうち彼の母親という老婆が出てきて、私に酒鮨の製法なぞ、話してくれた上に、今は材料が乏しいけれど、一応の見本を、翌日の午飯に、私の宿へ届けるといい出した。親切はありがたかったが、私は大した期待は持てなかった。
しかし、翌日の正午頃に、その観光協会の人が、首桶のような道具を抱えて、私を訪ねてきた。
「これが、酒鮨の桶なんです」
と、彼はいささか誇らしくいったが、厚い木の巌丈そうな、黒塗りの桶に、これも巌丈な竹のタガが嵌り、黄漆が塗ってあり、見るから、民芸味が豊かだった。そして、厚い蓋をとって見せると、裏側の朱色の美しさは、何ともいえなかった。琉球の赤漆を、使ったものだといった。
私は容器の美しさに見惚れ、内容の方は閑却してたが、茶碗に盛られたものには、鯛のソギ身や、エビや、バカ貝や、サツマ揚げや卵焼のようなものが入ってて、なかなか賑やかだった。しかし、まるで地酒の茶漬けのように、酒に濡れ、酒の香がプンプンするのには、やや閉口した。
とにかく、一口、食って見た。甘くて、鮨の観念から遠い味で、ウマいとも思わなかったが、一杯を食い終ると、もっと食って見たくなった。そして、遂に、三杯半を平げた。その頃は、私の胃袋も丈夫だったが、それでも、飯は二杯ぐらいが、普通だった。つまり、何か、後をひく味があったのだろう。
観光協会の人も、私が沢山食べたので、喜んでくれた。そして、季節外れのために、タケノコや木の芽がなく、紅ショーガなぞを代用したことを、しきりに弁解してた。
「春に、是非、もう一度、お出かけ下さい。本式のものを、母につくらせますから……」
本式でなくても、酒鮨の味を覚えたことは、確かであり、私はそれに満足した。そして、東京へ帰っても、鹿児島に、そのような鮨があることを、よく人に語った。
間もなく、戦争が始まって、酒鮨どころの世の中ではなくなった。そして、日本人は誰も、餓鬼道に堕ちる生活をしたが、その戦争も終り、最初の鹿児島訪問から、十数年も経て、戦前の豊かさが、われわれの生活に帰ってきた。そして、「週刊朝日」が、新日本百名勝というような題で、全国の風光優れた土地に、文士を派遣して、書かせる企画を始め、その第一回に、私が鹿児島へ行くことになった。
私は記者やカメラマンと共に、羽田を出発したのだが、ちょうど四月の始めで、東京の桜が咲き出す頃だった。そして、出発の前に、私は鹿児島が酒鮨の季節であることを思い出し、今度こそは、タケノコや木の芽の入った、本格のものが食えるだろうと、朝日新聞の鹿児島支局の人に、前以て、その斡旋を頼んだのである。
そして、鹿児島に着いて見ると、支局の人は、
「酒鮨には、弱りました」
と、頭をかいた。
戦後の鹿児島は、ガラリと様子が変り、男尊女卑の弊風も、地を払った代りに、酒鮨のような、古風で、厄介な料理は、誰もつくる者がなくなったというのである。そういえば、十数年前にきた時も、あの地酒屋の母親のような、婆さんでないと、製法を知る者がないとは、聞かされたが、絶無というのは、何としても、残念だった。第一、あの民芸の傑作である鮨桶も、戦災で焼けてしまって、市中に残ってるのは少い、ということだった。
私が失望を顔に現わすと、支局の人は、
「でも、たった一人、料理学校の校長さんが、つくってくれるというのですが、食べさせる場所というのが、学校なんです。酒も飲めないわけなんですが、それでよろしかったら、ご案内します」
と、いった。
そうなると、私も意地で、学校はおろか、刑務所へ行っても、酒鮨を食べたくなった。鹿児島は八重桜が咲き、樟の若葉が燃え、爛漫の春で、酒鮨の最好季ではないか。私はすぐ、料理学校長へ依頼をしてもらった。
翌日の正午に、私はその学校へ行った。学校といっても、路地裏のバラックで、戦災後に建てたままらしく、黒板や調理台のある教室の次ぎの間が、茶の間のような和室で、そこへ通された。校長さんは、五十近い女性で、給仕をするのも、教室で何かやってるのも、若い生徒の娘さんだった。
前もって準備ができてたらしく、私の前へ見事な鮨桶が、列べられた。地酒の香りが、鼻を打った。桶の中は、友禅模様のように、色彩の豊かな具が、ギッシリ詰まってた。具の魚介は、十数年前とそれほど変りはなかったが、今度は、季節の酒鮨だけあって、タケノコと木の芽が、入ってた。それも、添加というような、生優しいものではない。飯は三層になってて、一層は桶一ぱいに木の芽の青さ、他の一層はタケノコの黄、最上の層は、あらゆる魚介である。実に美しく、且つ、豪宕の気分がある。木の芽をそんなに多量に使用するところが、サツマ人の神経らしく、面白かった。
そして、食べてみると、木の芽と地酒の香りで、噎《む》せそうになり、タケノコの触覚と、エビや鯛やサヨリや貝類や、サツマ揚げや卵焼との味と混合して、まるで、陽春そのものを、口の中へ入れた感じだった。
「こんな鮨は、食ったことがありません」
同行の記者も、讃嘆した。
それに、今度は、鮨をとりわける木皿が、美しかった。古い、琉球塗りの朱で、酒鮨を盛る器として、これ以上のものは、考えられなかった。
鮨桶といい、木皿といい、よくこんな器具が残ってると、感心したら、校長さんの家は、島津一家に関係のある旧家で、住宅が市外だったので、戦災を免れたとのことだった。
私は、すべてに満足して、酒鮨を礼讃した。単に鮨として、特異なだけでなく、料理のアイデアとして、東京にも、京都にも、発生しないものと、考えた。
「こういうものを、つくる人が少くなったのは、残念ですね。どうぞ、生徒さんに、よく教えて置いて下さい」
と、校長女史に頼むと、
「いえ、誰も、教わろうとする者が、おりません。皆、グラタンだとか、炒飯だというものの講習は、熱心ですが……」
その答えが、教室にいる生徒の耳に伝わったのか、若い娘たちの間に、クスクスと、笑声が起った。
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