タケノコというものは、東洋独特の食物であって、その味わいも、われわれの舌のみが、知ってるのである。パリの中国料理店で、缶詰のタケノコを、料理に用いるが、フランス人の客は、バンブー(竹)を食うのかと、驚倒してしまう。竹は手芸品か、建築材料と考えてるからだろう。そして、味はどうだと、訊いて見ても、ウマくも、マズくもないとしか、答えない。要するに、無味なのだろう。
しかし、われわれにとって、タケノコのない春は、どんなに寂しいことだろう。気候の寒暖によって、遅速はあるが、春の彼岸の少し前にでも、
「もう、タケノコが出ましたよ」
と聞くと、ひどく幸福になり、すぐに買いにやらせたくなる。
ワカメとタケノコの汁も結構だし、木の芽和えもいいし、ただジカ・ガツオで煮たのも、好物である。味の点からいって、私は、秋の松茸よりも、春のタケノコを好む。といって、特にどういう味があるわけでもない。微かな滋味と、弱い香りと、そして、快い歯触りがあるだけである。しかし、それを総合した味に、何ともいえない、魅力がある。
私の母親は、非常にタケノコが好きで、季節がくると、毎日、食ってた。中国の二十四孝の母親も、寒中にタケノコが食いたくなったところを見ると、タケノコは、東洋の婆さんの好物なのかも知れない。
その遺伝なのか、私もタケノコを好むが、もう、根の方の堅いところは、食えなくなった。無論、歯と胃が、弱くなったためである。といって、尖端の一番柔かいところだけでは、もの足りない。全部が、ある程度柔かく、そして、歯触りの快さと、味と香の豊かなものがいい。すると、やっぱり、京都産ということになる。
鹿児島も竹の産地で、タケノコは名物だが、寒いうちから、手塩にかけて育てる、京都のそれには、敵し難いようだ。その上、京都人は、タケノコをいつ、いかにして食うべきかに、細心な注意と知識を持ってる。
�朝掘り�というのを午食に食えば、それ以上の適時はあるまい。そして、料理の手間をかけなければ、かけないほど、ウマイだろう。そういうタケノコを、一度、食って見たくて、機会がなかった。東京にいては、せいぜい、飛行便で届いた�朝掘り�を、「吉兆」か「辻留」あたりの夕食に味わうのが、関の山だろう。それに、ちょっと、ゼイタクである。タケノコなぞは、質素な気持で、食うべきものである。
しかし、東京にも、タケノコはあった。無論、京都のタケノコが、空を飛んで来ない時分だが、東京人は近在のタケノコで、充分に満足していたのである。
ことに、目黒のタケノコが、有名だった。今の目黒は、住宅や工場が櫛比して、竹ヤブどころではないが、目黒の不動尊は、それでも、まだ残ってるのではないか。
その門前町に、古い料理屋が、数軒あったのである。そこで、春はタケノコ飯、秋は栗飯を食わせた。その頃の目黒は畑と雑木林ばかりで、私が中学生の頃は、遠足だの、機動演習に行ったが、確かに、竹林も存在した。だから、土地で獲れるタケノコや栗を、江戸時代から続いて、名物としたのだろう。
その頃のタケノコ飯は、今のチキン・ライス程度のご馳走だったにちがいない。目黒のタケノコ飯は、時季だけの食物だったが、三田の春日神社下のタケノコ飯屋は、年中、食べさせた。タケノコ飯屋といっても、実は、ダンゴや汁粉も売ってたが、三田の学生だった私たちは、午飯代りに、よくタケノコ飯を食べた。しかし、べつにウマいタケノコ飯でもなかった。年中売ってるのだから、タケノコも塩蔵品で、味に乏しかった。もっとも、いつも空腹を感じるほど、健康だったから、食いあますことは、絶対になかった。
タケノコ飯というものを、今でも、季節になると、二度や三度は、食膳に上らせるが、うちの子供は、それほど喜ばぬようだ。それでも、タケノコ飯は、まだ食べるが、菜飯《なめし》に田楽とくると、もう、見向きもしない。
菜飯なんて、味覚よりも、視覚を喜ばすもので、白飯に点じた青が、季節の詩なのだが、あれだって、炊きようによって、ウマいマズいが、あるにちがいない。そして、附きものというより、形影相伴う夫婦のように、木の芽田楽が出ることによって、春の料理としての資格を、備えるのである。
明治時代の東京人は、ずいぶん木の芽田楽を食べた。浅草に、菜飯と田楽を食わせる店もあったが、それよりも、町の豆腐屋で、少し大きな店なら、季節になると、必ず、木の芽田楽の出前を始めた。家庭で田楽をやるのは、なかなか厄介だから、出前をとったのだろうが、焼きたてを、配達してくれたのである。
そして、容器が美しかった。黒塗りの長方形の箱で、内部は朱塗りで、田楽の串が外へ、ズラリと列び、味噌が容器に附着しない仕組みになってた。あんな手の込んだ容器を、一年のうち春だけに使うために、準備するのだから、明治期は、悠長な時代だったと思えるし、豆腐屋がもうやらなくなったのも、当然だろう。
私は、木の芽田楽が好きだが、ガス台で豆腐を焼いても、意味はないし、愛和県の豊橋市に、ウマい店があると聞いても、序《ついで》もないし、せいぜい、焼豆腐を湯がいて、木の芽味噌を塗ることで、我慢してる。でも、そんな田楽が、ウマいはずもない。
数年前、三月に京都へ行った時、八坂神社の側の中村楼で、田楽を食うことを、思いついた。昔から有名な、二軒茶屋の一つで、祇園豆腐の田楽といえば、古い唄の文句に出てくるほどのものである。
といって、田楽を食うのが目的だから、座敷へ上る気もなく、店先きで食べることにした。そんな設備があると、聞いたからである。
ところが、その店先きというのが、大変なものだった。恐らく、昔は、そこが店の調理場だったのだろう。古い井戸、古いカマド──そして、広くて暗い内部の調子が、実に美しかった。飛騨あたりにも、古い台所は、残ってるだろうが、ガッシリと、巌丈な中に、ここほどの洗練さが、見出されるか、どうか。やはり、ここは京都だと思い、京都でも、これだけの美しい台所を建てる職人は、もういないだろうと考えた。
とにかく、私の見た最も美しい台所だが、そこへ置いた縁台の赤毛氈の上へ腰かけ、料理のくるのを待った。アメリカ人らしい女が、通訳と共に入ってきて、薄茶を註文したが、この台所なら、金閣寺ぐらいの見物に匹敵すると、思った。
しかし、やがて運ばれた田楽の味は、それほどでなかった。田楽は二の次ぎで、台所を味わわせるつもりかも知れなかった。
しかし、われわれにとって、タケノコのない春は、どんなに寂しいことだろう。気候の寒暖によって、遅速はあるが、春の彼岸の少し前にでも、
「もう、タケノコが出ましたよ」
と聞くと、ひどく幸福になり、すぐに買いにやらせたくなる。
ワカメとタケノコの汁も結構だし、木の芽和えもいいし、ただジカ・ガツオで煮たのも、好物である。味の点からいって、私は、秋の松茸よりも、春のタケノコを好む。といって、特にどういう味があるわけでもない。微かな滋味と、弱い香りと、そして、快い歯触りがあるだけである。しかし、それを総合した味に、何ともいえない、魅力がある。
私の母親は、非常にタケノコが好きで、季節がくると、毎日、食ってた。中国の二十四孝の母親も、寒中にタケノコが食いたくなったところを見ると、タケノコは、東洋の婆さんの好物なのかも知れない。
その遺伝なのか、私もタケノコを好むが、もう、根の方の堅いところは、食えなくなった。無論、歯と胃が、弱くなったためである。といって、尖端の一番柔かいところだけでは、もの足りない。全部が、ある程度柔かく、そして、歯触りの快さと、味と香の豊かなものがいい。すると、やっぱり、京都産ということになる。
鹿児島も竹の産地で、タケノコは名物だが、寒いうちから、手塩にかけて育てる、京都のそれには、敵し難いようだ。その上、京都人は、タケノコをいつ、いかにして食うべきかに、細心な注意と知識を持ってる。
�朝掘り�というのを午食に食えば、それ以上の適時はあるまい。そして、料理の手間をかけなければ、かけないほど、ウマイだろう。そういうタケノコを、一度、食って見たくて、機会がなかった。東京にいては、せいぜい、飛行便で届いた�朝掘り�を、「吉兆」か「辻留」あたりの夕食に味わうのが、関の山だろう。それに、ちょっと、ゼイタクである。タケノコなぞは、質素な気持で、食うべきものである。
しかし、東京にも、タケノコはあった。無論、京都のタケノコが、空を飛んで来ない時分だが、東京人は近在のタケノコで、充分に満足していたのである。
ことに、目黒のタケノコが、有名だった。今の目黒は、住宅や工場が櫛比して、竹ヤブどころではないが、目黒の不動尊は、それでも、まだ残ってるのではないか。
その門前町に、古い料理屋が、数軒あったのである。そこで、春はタケノコ飯、秋は栗飯を食わせた。その頃の目黒は畑と雑木林ばかりで、私が中学生の頃は、遠足だの、機動演習に行ったが、確かに、竹林も存在した。だから、土地で獲れるタケノコや栗を、江戸時代から続いて、名物としたのだろう。
その頃のタケノコ飯は、今のチキン・ライス程度のご馳走だったにちがいない。目黒のタケノコ飯は、時季だけの食物だったが、三田の春日神社下のタケノコ飯屋は、年中、食べさせた。タケノコ飯屋といっても、実は、ダンゴや汁粉も売ってたが、三田の学生だった私たちは、午飯代りに、よくタケノコ飯を食べた。しかし、べつにウマいタケノコ飯でもなかった。年中売ってるのだから、タケノコも塩蔵品で、味に乏しかった。もっとも、いつも空腹を感じるほど、健康だったから、食いあますことは、絶対になかった。
タケノコ飯というものを、今でも、季節になると、二度や三度は、食膳に上らせるが、うちの子供は、それほど喜ばぬようだ。それでも、タケノコ飯は、まだ食べるが、菜飯《なめし》に田楽とくると、もう、見向きもしない。
菜飯なんて、味覚よりも、視覚を喜ばすもので、白飯に点じた青が、季節の詩なのだが、あれだって、炊きようによって、ウマいマズいが、あるにちがいない。そして、附きものというより、形影相伴う夫婦のように、木の芽田楽が出ることによって、春の料理としての資格を、備えるのである。
明治時代の東京人は、ずいぶん木の芽田楽を食べた。浅草に、菜飯と田楽を食わせる店もあったが、それよりも、町の豆腐屋で、少し大きな店なら、季節になると、必ず、木の芽田楽の出前を始めた。家庭で田楽をやるのは、なかなか厄介だから、出前をとったのだろうが、焼きたてを、配達してくれたのである。
そして、容器が美しかった。黒塗りの長方形の箱で、内部は朱塗りで、田楽の串が外へ、ズラリと列び、味噌が容器に附着しない仕組みになってた。あんな手の込んだ容器を、一年のうち春だけに使うために、準備するのだから、明治期は、悠長な時代だったと思えるし、豆腐屋がもうやらなくなったのも、当然だろう。
私は、木の芽田楽が好きだが、ガス台で豆腐を焼いても、意味はないし、愛和県の豊橋市に、ウマい店があると聞いても、序《ついで》もないし、せいぜい、焼豆腐を湯がいて、木の芽味噌を塗ることで、我慢してる。でも、そんな田楽が、ウマいはずもない。
数年前、三月に京都へ行った時、八坂神社の側の中村楼で、田楽を食うことを、思いついた。昔から有名な、二軒茶屋の一つで、祇園豆腐の田楽といえば、古い唄の文句に出てくるほどのものである。
といって、田楽を食うのが目的だから、座敷へ上る気もなく、店先きで食べることにした。そんな設備があると、聞いたからである。
ところが、その店先きというのが、大変なものだった。恐らく、昔は、そこが店の調理場だったのだろう。古い井戸、古いカマド──そして、広くて暗い内部の調子が、実に美しかった。飛騨あたりにも、古い台所は、残ってるだろうが、ガッシリと、巌丈な中に、ここほどの洗練さが、見出されるか、どうか。やはり、ここは京都だと思い、京都でも、これだけの美しい台所を建てる職人は、もういないだろうと考えた。
とにかく、私の見た最も美しい台所だが、そこへ置いた縁台の赤毛氈の上へ腰かけ、料理のくるのを待った。アメリカ人らしい女が、通訳と共に入ってきて、薄茶を註文したが、この台所なら、金閣寺ぐらいの見物に匹敵すると、思った。
しかし、やがて運ばれた田楽の味は、それほどでなかった。田楽は二の次ぎで、台所を味わわせるつもりかも知れなかった。