江戸人が初鰹《はつがつお》を賞味したのは、旧暦の四月だろうけれど、今でいえば、日本の美しき五月である。
初ガツオの刺身というのは、確かに、ウマい。
�髪結い新三�の芝居に、初ガツオを食うところが、出てくるが、大屋さんが�餅を食うようだ�と、味を批評するのは、当を得たものだった。一種の粘着力と、甘味があって、口中の感じが、似てるからである。
なぜ、初ガツオが、そんなにウマいかというと、脂肪が過度でなく、新鮮であればあるほど、清爽な味がするからだろう。やはり、男性の理想が、ついて廻るのである。
しかし、カツオとは、不思議な魚であって、マグロと似てるのに、刺身にして、ワサビが通用しないのである。これは、ショーガが、向くことになってる。実際、ワサビをつけて食っても、ウマくない。私は、ニンニクを磨ったもので、食べるが、一層、味がひきたつ。
四国の疎開中に、土佐の国境に近い、御荘という海岸の町で、カツオのたたきを、食べさせられたことがあったが、東京の�たたき�と、全然異るものだった。
カツオの身が、炙《あぶ》ってあるのは、同じことだが、夥しいポン酢の中で、泳いでるような姿は、同じ料理とも、思えなかった。そして、玉ネギ、ニンニク、その他の薬味が、極めて多量に、使われてた。味は、確かに、本場の料理法が、優れてた。
カツオという魚は、よほど、ナマぐさく、血くさいのであろう。それで、強烈な薬味を、必要とするのだろう。そのナマぐささが、どうも、鼻につくようになったのも、私の年齢のせいにちがいない。
戦前までは、私も、カツオの刺身が好きで、ことに、初ガツオを食うのは、大きな愉しみだった。それが、いつとはなしに、それほど美味と、思えなくなった。これは、カツオばかりに、限らない。マグロだって、同様である。中トロの刺身なぞ、ウマいと思うけれど、二、三片も食えば、充分である。とても、一人前は、食べられない。もっとも、酒のサカナにする場合のことで、熱い飯のオカズとすれば、もっと食べられる。鮨の場合も同様である。
つまり、マグロやカツオの刺身の味は、老人にとって、濃厚過ぎるのだろう。米飯を添えて、やっと、調和がとれるのだろう。とにかく、昨今は、初ガツオの時だけ、魚屋に頼むが、それ以上、脂が乗ってくると、食べる気がしなくなった。そして、カツオの刺身は、私の好物から外されてしまった。
ところが、再考すべきことが生じた。
三年ほど前、私は鹿児島へ行き、指宿温泉に泊った。そして、知人の観光会社の社長が、薩摩半島を、案内してくれた。開聞岳というのは、形のいい山で、それを背景に、青い海や、ツツジの花や、ヤシの木の多い風景は、どこへいっても、美しかった。
その海景を見渡すところで、会社の接待があったが、名産の唐芋《サツマイモ》や、その他、素朴な食事が出た。ちょうど正午だったので、それを午食と思い、私は、相当の量を食べた。カラ芋の味も、関東のサツマ芋とちがうので、もの珍しかった。
それから、朱塗りの美しい、開聞神社その他に案内されて、午後二時頃になって、枕崎という漁港に着いた。ここは、空襲にでも遭ったのか、風情のない町の姿で、そこでまた休憩することになり、同様に風情のない旅館に、案内された。
すると、やがて、午飯の膳が、運ばれたのである。私は閉口した。先刻、小憩した時のサツマ芋が、一向に消化されていない上に、出された料理も、食器も、見るから食欲を減退させられるものばかりだった。しかも、ひどく、品数が多い。
私はゲンナリして、箸をとらずにいると、
「この附近は、カツオが名物ですから、沢山上って下さい」
と、社長にいわれ、やむを得ず、一片の刺身を口にして見て、驚いた。
ウマいの何のといって、こんなウマいカツオを、生れてから、食ったことがない、といってよかった。ネットリとして、甘味があり、舌の感触は、マグロに近いが、やはり、カツオ独特の匂いがあった。
「これは、すばらしいですね」
私は、心から讃嘆して五、六片を平げた。あまり好きでなくなったカツオの刺身を、しかも、満腹の時に、それだけ食べたというのは、よくよく、味がすぐれてたからだろう。そういえば、枕崎というところは、台風の名所であるばかりでなく、鰹節の産地として、聞いてたのだが、また、薩摩の風変りな食物、カツオの血の製品の�せんじ�が、この附近から、良品が出ることも、知ってたのだが、社長の言を聞くまでは、すっかり忘れてた。
きっと、季節も適し、また、土地の人も、よいカツオを精選して、刺身で出してくれたのだろうが、何とウマいカツオが、存在するものかと、驚いてしまった。私は、老人になったから、カツオの味がわからなくなったのだと、考えてたが、ウマいカツオを出されれば、やっぱり、ウマいのである。すると、近来、東京へくるカツオが、昔よりも劣ってきたのだろうか。どうも、脂が乗り過ぎ、血なまぐささが強く、ニンニクの力を以てしても、どうにもならないのである。
しかし、枕崎のカツオは、薬味なぞ要らないほど(ショーガがついてたが)腥臭がなく、久し振りに、真味に接した感があった。この経験は、何がウマいとか、マズいとかいうことを、気早やに、結論してはならぬことを、私に教えてくれた。年齢と共に、ものの味わいが、変化してくることは、事実であるが、それを超越したウマさも、あるのである。ウマいものは、やはり、ウマいのである。ただ、ウマいからといって、大食はできなくなるが、その点は、年齢の支配を、免れがたい。
初ガツオの刺身というのは、確かに、ウマい。
�髪結い新三�の芝居に、初ガツオを食うところが、出てくるが、大屋さんが�餅を食うようだ�と、味を批評するのは、当を得たものだった。一種の粘着力と、甘味があって、口中の感じが、似てるからである。
なぜ、初ガツオが、そんなにウマいかというと、脂肪が過度でなく、新鮮であればあるほど、清爽な味がするからだろう。やはり、男性の理想が、ついて廻るのである。
しかし、カツオとは、不思議な魚であって、マグロと似てるのに、刺身にして、ワサビが通用しないのである。これは、ショーガが、向くことになってる。実際、ワサビをつけて食っても、ウマくない。私は、ニンニクを磨ったもので、食べるが、一層、味がひきたつ。
四国の疎開中に、土佐の国境に近い、御荘という海岸の町で、カツオのたたきを、食べさせられたことがあったが、東京の�たたき�と、全然異るものだった。
カツオの身が、炙《あぶ》ってあるのは、同じことだが、夥しいポン酢の中で、泳いでるような姿は、同じ料理とも、思えなかった。そして、玉ネギ、ニンニク、その他の薬味が、極めて多量に、使われてた。味は、確かに、本場の料理法が、優れてた。
カツオという魚は、よほど、ナマぐさく、血くさいのであろう。それで、強烈な薬味を、必要とするのだろう。そのナマぐささが、どうも、鼻につくようになったのも、私の年齢のせいにちがいない。
戦前までは、私も、カツオの刺身が好きで、ことに、初ガツオを食うのは、大きな愉しみだった。それが、いつとはなしに、それほど美味と、思えなくなった。これは、カツオばかりに、限らない。マグロだって、同様である。中トロの刺身なぞ、ウマいと思うけれど、二、三片も食えば、充分である。とても、一人前は、食べられない。もっとも、酒のサカナにする場合のことで、熱い飯のオカズとすれば、もっと食べられる。鮨の場合も同様である。
つまり、マグロやカツオの刺身の味は、老人にとって、濃厚過ぎるのだろう。米飯を添えて、やっと、調和がとれるのだろう。とにかく、昨今は、初ガツオの時だけ、魚屋に頼むが、それ以上、脂が乗ってくると、食べる気がしなくなった。そして、カツオの刺身は、私の好物から外されてしまった。
ところが、再考すべきことが生じた。
三年ほど前、私は鹿児島へ行き、指宿温泉に泊った。そして、知人の観光会社の社長が、薩摩半島を、案内してくれた。開聞岳というのは、形のいい山で、それを背景に、青い海や、ツツジの花や、ヤシの木の多い風景は、どこへいっても、美しかった。
その海景を見渡すところで、会社の接待があったが、名産の唐芋《サツマイモ》や、その他、素朴な食事が出た。ちょうど正午だったので、それを午食と思い、私は、相当の量を食べた。カラ芋の味も、関東のサツマ芋とちがうので、もの珍しかった。
それから、朱塗りの美しい、開聞神社その他に案内されて、午後二時頃になって、枕崎という漁港に着いた。ここは、空襲にでも遭ったのか、風情のない町の姿で、そこでまた休憩することになり、同様に風情のない旅館に、案内された。
すると、やがて、午飯の膳が、運ばれたのである。私は閉口した。先刻、小憩した時のサツマ芋が、一向に消化されていない上に、出された料理も、食器も、見るから食欲を減退させられるものばかりだった。しかも、ひどく、品数が多い。
私はゲンナリして、箸をとらずにいると、
「この附近は、カツオが名物ですから、沢山上って下さい」
と、社長にいわれ、やむを得ず、一片の刺身を口にして見て、驚いた。
ウマいの何のといって、こんなウマいカツオを、生れてから、食ったことがない、といってよかった。ネットリとして、甘味があり、舌の感触は、マグロに近いが、やはり、カツオ独特の匂いがあった。
「これは、すばらしいですね」
私は、心から讃嘆して五、六片を平げた。あまり好きでなくなったカツオの刺身を、しかも、満腹の時に、それだけ食べたというのは、よくよく、味がすぐれてたからだろう。そういえば、枕崎というところは、台風の名所であるばかりでなく、鰹節の産地として、聞いてたのだが、また、薩摩の風変りな食物、カツオの血の製品の�せんじ�が、この附近から、良品が出ることも、知ってたのだが、社長の言を聞くまでは、すっかり忘れてた。
きっと、季節も適し、また、土地の人も、よいカツオを精選して、刺身で出してくれたのだろうが、何とウマいカツオが、存在するものかと、驚いてしまった。私は、老人になったから、カツオの味がわからなくなったのだと、考えてたが、ウマいカツオを出されれば、やっぱり、ウマいのである。すると、近来、東京へくるカツオが、昔よりも劣ってきたのだろうか。どうも、脂が乗り過ぎ、血なまぐささが強く、ニンニクの力を以てしても、どうにもならないのである。
しかし、枕崎のカツオは、薬味なぞ要らないほど(ショーガがついてたが)腥臭がなく、久し振りに、真味に接した感があった。この経験は、何がウマいとか、マズいとかいうことを、気早やに、結論してはならぬことを、私に教えてくれた。年齢と共に、ものの味わいが、変化してくることは、事実であるが、それを超越したウマさも、あるのである。ウマいものは、やはり、ウマいのである。ただ、ウマいからといって、大食はできなくなるが、その点は、年齢の支配を、免れがたい。