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食味歳時記17

时间: 2020-04-20    进入日语论坛
核心提示:鮎 の 月01私が老いを意識したのは、六十五歳頃だった。それまでは、単に、老人振ってたのに過ぎない。自分では、気力も体力も
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鮎 の 月01

私が老いを意識したのは、六十五歳頃だった。それまでは、単に、老人振ってたのに過ぎない。自分では、気力も体力も、さまで衰えを感じないのに、世間向けに、老人の顔をして見せるのは、ちょっと、面白いものである。
「いや、もう、サッパリいけません」
そんなことをいって、喜んでるのは、無論、いい趣味ではない。その罰として、やがて、ホンモノの老いが襲来して、腰を抜かすのであるが——
その疑似老人時代に、私は、次ぎのような、俳句をつくった。
鮎と蕎麦食ふてわが老い養はむ
ビフテキやウナギを食って、若い女を追い駆けようなんて意志は、毛頭ございませんというところを、表現したわけだが、その頃、淡味の食物を愛するようになったことも、確かな事実だった。つまり、味覚の老人趣味が、始まりかけてたのだろう。
しかし、鮎とソバは、若い時分から、私の好物だった。魚のうちで、何を最も好むかと、問われれば、私は躊躇なく、鮎と答えたろう。そして、ソバもまた、私を夢中にさせた。神田の�藪�や、日本橋の�砂場�のようなところへ、足を向ける時は、常に、イソイソとした気分になった。
鮎も、ソバも、軽い食物で、そういうものを食って、養生しようというよりも、実のところ、二大好物を飽食してやれという、食い意地に過ぎなかった。
実際、鮎が好きだった。
身の脆美さ、匂いの清らかさ、形のよさ、すべて、好きだった。一尾の塩焼を、頭部も、尾も、全部食べ尽さないと、気が済まなかった。よほど、好きだったのだろう。六月一日の解禁を、毎年、待ちかね、酢に混ぜる蓼《たで》も、庭の片隅に植えて、その日のために備えた。そして、若鮎を手に入れて、ウマい、ウマいと、食べ終ると、夏がきたなという気持が、腹から湧き出した。
若鮎は、味として、頼りないけれど、匂いの点では、最高である。私は鮎好きだけれど、身をむしるのはヘタで、料理屋で食べる時は、女中さんに、骨を外してもらうけれど、若鮎の時は、頭から丸かじりにする。そうするのが、一番ウマいと思う。
どこの鮎が一番ウマいかという問題は、結局、お国自慢に終るのだけど、私は、昔の多摩川の鮎は、バカにならなかったと思う。今の多摩川の鮎は、どうにもならぬけれど、以前、東京の人が、わざわざ食べに行った頃は、それだけの価値があったと思う。近頃は、土筆《つくし》亭のような、シャレた旗亭ができたが、私の若い頃は、田舎くさい料理屋ばかりで、料理もひどかった。しかし、鮎そのものは、悪くなかった。ことに、�柳ッ葉�と称する小鮎は、苔の香が高く、独特のものだった。何気なく、カラ揚げにして、食べさせた。
鮎というものは、若鮎か、初秋の子持ち鮎か、どちらかのものだろうが、長い間、私は若鮎党だった。つまり、鮎の香りを、喜んだからだろう。あの香りは、鮎以外の魚になく、そして、いかにも初夏の爽かさを、味わわせるからだろう。
しかし、味という点をいうなら、子持ち鮎が優る。形も見事であり、食べでもある。私は若い頃は、若鮎の外は、見向きもしなかったが、近年は、そうでもなくなった。そして、その若鮎も、塩焼一点張りだったが、年と共に、変ってきた。
ずっと以前、耶馬渓の茶店で、中食したら、ナスと鮎を、知恵もなく、煮たものを出され、なぜ塩焼にしてくれないのかと、情けなかったが、近頃になって、考えて見ると、それはそれで一つの料理で、それを味わうことができなかったのは、味覚が未熟だったのだろう。
干鮎の煮びたしは、結構なものだが、生鮮の鮎を煮つけにするなんて、意味ないと思っていたのだが、そういうものでもない。愚妻が山口県岩国に縁があって、そこの人から、毎年、初秋になると、鮎の大和煮というものを、送ってくる。名物だそうだが、実に見事な鮎であり、腹に一ぱいの子を持ち、錦帯橋のかかってる清流を、泳いでる時の姿を、想像させる。それを、ショーガを入れて、コッテリと、煮込んだものである。私は最初はバカにして、箸をつける気にならなかったが、近年になって、これは別種の鮎料理であることを覚り、食べてみると、なかなかのものである。ただ、味つけが甘く、形も大きいので、鮎好きの私も、一尾を平らげるのに、骨が折れるが、マズいとは、思わなくなった。しかし、鮎の香りなぞは、どこを探しても、行衛が知れない。これは、仕方がない。
一生のうちで鮎を最も多量に食べたのは、長良川の宮内庁の御漁場へ、呼ばれた時だったろう。普通、長良川の鮎漁をする場所より、ずっと河上で、寂しい町の宿場のようなところに、古風な造り酒屋があり、そこが、御漁場の事務所みたいなことを、やってた。私たちは、そこに一宿して、その家の田舎風な料理を、食べさせられた。
七月初旬の夕闇が迫る頃に、近くの河原へ行って、鵜飼を見せられたが、見物人といって、私たちの外にはなく、鵜匠がホー、ホーといって、鵜を使う声が、岸近い山に反響した。鮎は、いくらでも、獲れたようだった。
宿へ帰って、獲物を食べるのだが、料理は家のオカミさん、食器類はお粗末だったが、塩焼、魚田、フライなぞにして、持ってくる。何しろ、材料が多いから、後から、後からと、運んでくる。私は塩焼が好きだから、そればかり頼んで、片端しから、平げたが、遂に二十六尾食べて、止めて置こうという気になった。その年の一月に、私は胃潰瘍で、開腹手術をしたばかりなのだが、それだけ食べても、べつに異状はなかった。
翌夕は、河下の普通の場所で、舟の上から、鵜飼見物をし、川沿いの旅館で、夜食を試みたが、どうも、鮎の味は、上流の方がよかった。ただ、朝飯に出された鮎雑炊というのは、ちょっとウマかった。そして、御漁場でも、河下の旅館でも、タデ酢を添えて出さなかった。そのわけを聞いたら、あんなものは、古くなった鮎に必要なのだと、いってた。
とにかく、生れてから、あの時ほど、鮎を多く、食ったことはなかった。それでも、食べ飽きたという気にならなかった。
しかし、忘れ難い鮎の味ということになれば、戦前、築地の藍亭《らんてい》が、今と別の場所にあった頃に、ひどく結構な塩焼を出されたことがあり、どうも、あれが一番という気がする。藍亭の鮎も、長良川産を用いるのだが、焼き方が、適当だったのだろう。
テンプラの冷めたのは、閉口だが、鮎の塩焼も同様、熱いうちでなければ困る。よく、料理屋で、人肌ぐらいに冷めたのを、持ってくるところがあるが、あんな鮎なら、わが家で食う方が、どれだけいいか、知れない。私は、廊下に、七輪を持ってきて貰って、食卓との距離の短縮を、図るのだが、細君が、焼串からジカに、皿の上に外すのを、すぐに、食べる。どうも、それ以上の方法は、ないようだ。
鮎の塩焼に、酒は何が合うかと、考えて見たのだが、無論、日本酒に超したことはないが、冷やした白ブドー酒が、案外の調和を、教えてくれた。懐石の料理で、他にもいろいろ出るのだったら、日本酒だろうが、私のように、鮎の塩焼ばかり、ムシャムシャ食うのだったら、或いは、冷たい白ブドー酒が、最適といえるかも知れない。
私にとって、塩焼が最高なのだけど、鮎鮨も、ずいぶん好きである。鮎というものは、酢に合うのだろう。鮎をナマで食うのは、四国疎開の際、�背ごし�というのを、度々、試みて見たが、骨のプツプツという歯触りが、変ってるし、また、身だけを、刺身にしたこともあるけれど、私は、充分に酢で殺したものの方を好む。
鮎の姿鮨は、富山あたりのも、ウマいけれど、昔、東海道本線が御殿場を廻ってた頃、山北駅で売ってたものが、懐かしい。あの辺で、鮎が多量に獲れるはずもないし、他地産を用いたのだろうか、一年中売ってたのは、どういう貯蔵法だったのか。そのわりに、味もよかったし、折詰の箱の形も、悪くなかった。
とにかく、私は、長い間、どんな魚よりも、鮎を愛し、毎年、六月のくるのを、待ち兼ねてたのだが、この一両年来、どうも、若鮎の味が、思ったほどでなくなった。これは、年をとって、口が変ってきたのかと、悲しく思った。人間、一つの愉しみを失うというのは、一大事である。しかし、七月頃になって、ふと、鮎らしい味のものに、ブツかることもあるので、首を傾けざるを得なかった。
そのことを、人に語ったら、
「それァ、あなたの口が変ったんじゃなくて鮎が変ったんですよ」
と、いわれた。
どう変ったのかと、訊くと、養殖の鮎が出廻ってる由なのである。養殖の鮎は、形もよく、鮮度も落ちてないが、香りというものは、ゼロに近いのだそうである。
六月の声を聞くと、魚屋が持ってくるのは、そういう鮎らしい。それなら、名ある料亭へ行ったら、天然の鮎を食わせるかと、思ったが、やはり、形ばかり見事で、香りがない。料亭では、形を揃える必要があるから、どうしても、養殖を使うことになるそうである。
よくないことを、始めたものである。そんな鮎が、横行するのなら、ソバばかり食って、老いを養う外はない。
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