子供の頃は、夏がくると、うれしかった。
昔の東京では、七月に入ると、氷水店が始まったが、冬の焼芋屋が変じて、そんな商売をやるのである。昨今は、焼芋屋というものが、行商に転じたようで、また、氷水そのものも、稀にしか、売ってない。
誰も、アイス・クリームを食べ、シャーベットを食べ、或いは、アイス・コーヒーを飲む。氷をカンナにかけて削ったものに、砂糖水をかけるなんてことは、ずいぶん原始的で、今の子供に向かぬのだろう。
でも、大人だって、昔は氷水を、よく飲んだ。どんな町でも、氷水屋の旗がひるがえっていたし、炎天を避けて、そこで一息入れる人の姿を、よく見た。
また、大きな邸宅は別として、普通の家だったら、夏の来客に、茶を出すよりも、氷水屋の出前を頼むのが、例だった。下町では、ことに、この風があった。
だから、氷水屋には、必ず、出前持ちがいて、大がい少女だったが、簡単な岡持ちに入れて、すぐに配達した。溶けやすいものだから、急いで配達したのだろうが、大変早く、持ってきた。
来客に出すのは、砂糖水をかけたものなら二杯、タネモノと称するのだと、一杯が普通だった。足つきの平べったい、安物のガラス・コップに氷の削ったのを、山盛りにしてあった。そして、匙はブリキ製だった。氷水屋の器具が、お粗末だったのは、夏だけの商売というので、看過されたのだろう。
私の中学生時代は、夏が来ると、遊ぶことが多くなり、一年で最も好きな季節だったが、氷水を食べることも、大きな愉しみだった。
「お前、もう、氷水飲んだか」
七月に入ると、私たちは、暑さとか、渇きに、関係なしに、氷水屋に行きたくなった。水イチゴという、紅いシロップ入りのが、人気があり、さもなければ、氷アズキだった。氷じるこというのもあったが、まず、氷アズキだった。
そういうタネモノを、最少、二杯食べるのを、例とした。暑さを凌ぐというよりも、冷めたい菓子を、食う気持だった。氷水のみならず、汁粉でも、ソバでも、昔はお代りをするものと、きまってた。昨今は、ソバ屋へ行っても、一杯だけで帰る人が、多いようだ。それは、今の人が少食になったというよりも、明治の世の中は、まだユトリがあったからだろう。お代りをしないで、出てくるなんて、見っともないと考える、心理もあった。
氷水屋の店で、玉ラムネという清涼飲料を、必ず売ってたが、それを氷水に注いで飲むと、あまり冷めたくて、鼻の奧がジーンと鳴った。私がシャンペン・サイダーというものを、始めて飲んだのも、氷水屋だった。三矢印シャンペン・サイダーというので、玉ラムネより、高級な味がした。それが、サイダーの始祖だが、明治三十八年、九年頃で、それから今日のコーラ飲料に至るまで、考えて見れば、あんなものも、幾山河を超えてる。
しかし、氷水屋が今残ってても、老人の冷水だから、私は立ち寄らぬだろうが、ちょっと、懐かしい気がする。氷水屋はヨシズ張りで、縁台を置いただけで、商売ができたから、どこの町内でも、きっと一軒ぐらいあったが、氷と書いた旗や、ガラスのスダレは、夏の風物詩であって、悪くないものだった。コレラが流行すると、途端に、氷水屋はヒマになったが、非衛生という点で、よく問題になった。もっとも、今の喫茶店が、どれだけ衛生的だか、私は知らない。
トコロテンとか、白玉というものも、氷水屋にあり、風雅な食べものだが、私たち明治少年は、進歩的であり、見向きもしなかった。ことに、トコロテンとなると、どこがウマいのか、わからなかった。でも、この頃になると、ちょいと、食べて見たくなることがある。白玉も、同様である。何によらず、古風な食べ物というものは、刺激的な味がないところに、魅力があり、一度は捨てられても、また、思い返されるのである。それは、回顧趣味以上のものであり、日本の風土で、長い間、人が食べ続けた理由が、やはり、あるのだろう。
しかし、夏がくると、うれしいというのは、遠い夢になってしまった。今の私にとって、暑気は最も耐え難く、若葉の爽かな色を見ても、やがて、めぐりくる炎暑の前触れと考え、恐怖感に襲われるのである。何といっても、氷イチゴと、氷アズキを、一時に食べるほどの胃の強さと、単純な味覚と、快活な精神とは、もう再会を期しがたい。