私の書斎の机は、大きいので、やたらに雑物を乗せてしまうから、時には、整理の必要を、生じてくる。
この間も、それをやったところが、書物の間から、一個のマッチが出てきた。マッチなぞというものは、日本では、非常に安価であるのみならず、タダでくれるところもあり、保存の必要はない。なぜ、そんなものが、机の隅に残ってたのか。もっとも、タダのマッチは、レッテルにある名前によっては、家人に隠匿しなければならぬ場合もある。それで、書物の間にでも、かくしたのか。
しかし、私の発見したマッチは無記名だった。それに、大変、上品なマッチである。普通型よりやや大きく、表面の一方は、センイを漉《す》き入れたアサギ色、もう一方は、同じ質の白い日本紙に、セピア色の線描で、一輪の菊花と葉とクキが、かいてある。多い余白の中央に、ポツンと、かいてある。
はて、どこで貰ったマッチかな。
店の名が、全然、書いてないというのは、変ったマッチであるから、私も、ちょっと、スリラー小説的興味を、起しかけたのであるが、すぐ消えた。
そうだ、それは、宮中のマッチである。
菊の花の画で、思い出したのである。といって、十六弁菊花ではなく、半分図案化した、菊の画なのだが、それでも、すぐわかった。ご紋章の方は、みだりに、マッチの札なぞに、用うべきではないのだろう。また、文字が書いてないのも、うなずける。まさか、天皇家とか、あるいは、宮内庁と印刷しても、妙なものである。いわんや、電話番号の記入のごときは、まったく無用である。
これで、無記名のナゾは解けたが、宮中にも、喫茶店やバーと同じく、専用のマッチがあるというのは、何かおもしろい。もっとも、宮中というところは、よく人をお招きになるから、お客がタバコを喫《す》う時に、やはり、マッチが必要だろう。ライターでもいいわけだが、宮中は、倹約と古風なことが、お好きだから、やはり、マッチということになるのだろう。
以上で、万事解決だが、どうして、そのマッチが、私の手にはいったかというと、これは、ハッキリしてる。先年の五月二十日に、前年に推薦された芸術院会員が、宮中で午餐を賜わったのである。私も、その末席を汚したのである。
その時に、タバコを喫う機会が、二度あった。賜餐の前と後である。控え室で、召された人が集まるのを待つ間と、それから、食事のあとの別室で、陛下や皇太子の前で、茶菓を頂く時とである。もっとも、陛下も、皇太子さんも、タバコはあがらないけれど、お招きを受けた人々は勝手に喫《の》む。なぜといって、小卓の上に、シガーとシガレットと、灰皿と、菊印のマッチが、出てるのである。喫んでいけなければ、そういうものは出してないだろう。それに、茶菓の席の空気は、予想したように、堅苦しいものではなかった。陛下も、笑顔をお見せになるし、われわれも、声を出して、笑うこともあった。
タバコの方は、銀の皿の上に、紙巻き二種とシガーが列んでる。紙巻きの一種は、口つきで、昔の敷島とよく似てるが、ご紋章入りである。つまり、宮中タバコであるが、あれは、あまりウマくないことを、私は知ってる。そこで、シガーの方へ手を出した。高いものの方を喫っては、悪いような気がしたが、こういうお振舞いの時に、遠慮するのも、臣下としてあるまじきことと考え、菊印のマッチで、火をつけた。そしたら、隣席の石川淳さんも、シガーに手を出したから、仲間ができて、安心した。
私は今日出海さんのように、シガー通でないから、どんなのがいいのか、見当がつかないが、宮中のシガーは、少しカラいような気がした。ことによったら、専売公社の製品ではないかと、思われた。食事の時のワインも、甲州産だった。
しかし、そのシガーに火をつけた時に、私は無意識に(ここが肝心であるが)マッチを、ポケットへ入れたにちがいない。私はよくタバコを置き忘れる癖があるので、すぐポケットへ入れることにしているが、その時は、タバコの箱というものがないので、きっと、マッチの方へ手が出たのだろう。そう解釈する外はない。そう解釈したいものである。少くとも、宮中のマッチを、一個、失敬する犯意のなかったことは、神明に誓ってよろしい。
それに、その時は、私も気がラクだった。その前年に、院賞受賞者として、お招きを受けた時は、慣例で、茶菓の席で、陛下に何か、申し上げねばならない。新受賞者に限って、高橋院長の紹介のあとで、自分の仕事について、何か、言上するのである。生来の口不調法者が、そういう運命に立って、実に狼狽したのであるが、その時は、その心配もなく、ただ、人のいうことを、聞いてればいい。従って、悠々と、コーヒーやタバコを、頂くことができる。コーヒーは、ドミ・タッスだが、なかなか味がいい。お菓子は蒸し菓子が出たが、これは、だれも食べない。帰りがけに、紙で包んで、ポケットへ入れてしまう。きっと、細君や子供に食べさせる量見だろう。
そして、家へ帰ってきて、ポケットのものを出して見ると、そのマッチがあった。わざわざ、坂下門を潜《くぐ》って、返却に参内するほどの品物ではない。といって、珍しいマッチにはちがいないのだから、クズカゴへ捨てる気にもならなかったのだろう。それで、机の隅に、いつまでも、放置してあったのだろう。
さて、そのマッチの処分法であるが、まだ湿ってもいないし、使用に堪えるのだが、風呂場の点火用というのも、適当でない。といって、家宝として保存というほどのシロモノでもない。
そこで、思いついたのだが、こういうものは、漫画家の横山隆一さんに、進呈するに限る。あの人は、少しでも変った品物なら、何でもコレクションに加えてくれる。パリのエッフェル塔のカンナ屑まで、大切に納《しま》っとく人だから──