コーン・ビーフとか、牛肉ヤマト煮のカンヅメに、馬肉を使うといって、主婦連が怒ってる。業者の方では、牛肉のような顔をしたいのだが、規則があるので、精肉とか、ウマ肉とか表記してゴマかすのだそうである。
これは、滑稽である。はっきり、馬肉と書いたらいい。馬肉はウマいのである。業者は内容を偽る必要はない。主婦連も、そんなに馬肉を忌み嫌わなくてもいい。馬肉のヤマト煮なんか、きっと安くて、ウマいだろう。
もっとも、私が馬肉のウマさを知ったのは、近年のことで、それまでは、忌み嫌わないまでも、牛肉に比すべくもないものと、考えてた。まだ、三田の学生の頃、愛宕下に、安い牛鍋屋があるというので、友人と出かけたが、どうも味がちがい、二度目の時に、馬肉屋であることを発見した。しかし一人前八銭だったから、文句もいえなかった。
数年前に、ある雑誌社の社長に誘われ、吉原日本堤の古い馬肉屋へ行った時も、昔の記憶があるから、期待はなかった。食物に偏見を持ってはならぬ、というだけの気持で、同行したに過ぎない。ところが鍋の中のものを、二箸、三箸と、口に入れてから、これはと思い、今では、病みつきとなった。
そのウマさは、私が老人になったことに関係があるらしい。第一、肉が柔かい。そして、味が軽い。脂肪が少いせいだろう。もう牛肉のロースは、ホンモノの松阪産であっても、一、二片で、ゲンナリで、わずかにフィレのステーキの少量をもって、満足するほどの胃袋が、馬肉だと、軽く二人前いくのである。
一向、腹に溜らない。牛肉をあれだけ食ったら、翌日が大変だが、馬肉はよほど消化がいい。
老人に向く肉食は、犢《こうし》となってるが、日本は牛肉がウマいくせに、犢肉はさっぱりである。そして、料理もヘタである。これに反し、馬肉の方は、材料も、料理も、西洋より優れてるのではないか。フランスも、ドイツも、馬肉を売ってるが、安料理屋で食ったステーキは、革を噛むようなものだった。
しかし、日本堤の馬肉屋で食う鍋は、独特の風味を持ってる。淡にして、且つ滋味を伴ってる。老人の肉食として、これ以上のものはあるまい。世間でいう異臭なぞ、まるで感じない。また、肉に水分が多く、煮ると泡が立つという評判も、ウソである。材料の肉が精選されてるのだろうが、一つには、その店の自慢の味噌タレが、馬肉とよく調和するのだろう。味噌タレでないと、いい味が出ない。牛鍋風のスキヤキでは、何か頼りない。そして味噌タレが、やや煮詰まった頃のを、私は好むが、馬肉屋の姐さんの説では、生煮えが最上だという。
そういうところから、ほんとの馬肉好きは、サシミを珍重するのだろう。鍋を食う前に、薄く切ったナマの肉をショーガ醤油で、ウマそうに食ってる。馬肉には寄生虫も、結核菌もいないそうで、生食に適するのだろう。私の相棒の社長さんは、サシミを愛好する。スタミナ食の意味も、考えてるのだろう。私は、今のところ、鍋の方がいい。しかし、今度行く時には黒パンとバタと、黒ビールを持参してやろうと思う。黒パンにバタを塗り、ナマの肉をのせ、キャナッペにしたら、ウマかろうと思う。そして、黒ビールがきっと合うだろうと思う。
でも、味噌タレの鍋は、ことによったら、馬肉料理として世界最高のものではないのか。これから、雪のチラつく日なぞ、あの鍋の前に坐ってチビチビやる想像は、まことに愉しい。そして、馬肉屋の空気というものが、大変古風で、大変気を落ちつかせる。
とにかく、馬肉はウマいのである。難をいえば、食べながら、あの可愛い動物の顔がちらつくことだが、ウマいものを食うという大義の前には、何ほどのことでもあるまい。