なんてひどい風なんだ。サバンナを渡ってくる烈風が、村のなかへ入ると砂を巻きあげて顔に痛いほど吹きつける。髪は砂だらけでジャリジャリ。いつの間にか、ヘソの穴まで砂でつまってしまう。人びとは、いつも風下である西をむいて小便をする。風上なんぞむいてやったら大変。身体じゅうびしょぬれになってしまう。マンゴーラの乾季は、昼夜をわかたず強い東風にみまわれる。この風のやむときが、雨の降り出す時節なのだ。
一九六七年の十一月から、六八年の二月にかけて、わたしは東アフリカのタンザニア共和国のマンゴーラ村に住んでいた。マンゴーラ村は、東アフリカの内陸部マサイステッペの東方、エヤシ湖のほとりにある。村といっても、万事大陸サイズのアフリカのこと、面積はとてつもなく広い。
マンゴーラ村は、神奈川県よりも大きいのだ。ここに住む人達は、約六千人程度と推定される。だが、野獣の数は、人口よりもずっと多いだろう。なにしろ、村のまんなかを横断して、毎夜サイが川辺まで水飲みに出かけるところなのだ。
マンゴーラ村は、一九六一年から、京都大学のアフリカ学術調査隊人類班の基地のひとつとなっていた。わたしが、いったときには、天理大学の和崎洋一さんが、調査員としてがんばっていた。わたしたちの調査は、マンゴーラの村民たちと友達づきあいをすることからはじまる。通訳は使わない。東アフリカの共通語であるスワヒリ語を、わたしたちはしゃべった。テントも使わなかった。
和崎さんは、三年前にも、マンゴーラへやってきている。このとき、かれは村のまんなかに間借りをして、寺子屋を開いた。村の子供達に読み、書き、そろばんを教えたのだ。子供たちと仲良くなったら、両親とのつきあいも深まってゆく。寺子屋へ集まる子供たちのPTAを通じて調査をすすめようというのがかれのねらいだった。和崎さんがこのまえ村を立去る前に、間借りをした家を寺子屋の教室用に拡張工事をしておいた。そこで、今度やってきたときには、逆に和崎さんの家の片隅に、家主が間借りしているようなかっこうだった。和崎さんと相談のうえ、わたしは村民のあいだを居候してまわることとなった。
わたしの調査の目的は、マンゴーラに住むさまざまの部族の生活様式を比較研究することにあった。短期間で、このような仕事をするには、ことばで聞きとるだけでは不充分である。身体をもって経験しながら知ることがいちばんである。そこでわたしは、生活様式のことなるさまざまな部族の家庭生活を体験してまわることとした。寝袋と、ノート、カメラだけを持って、ある家を訪れる。そして、そのまま最低一週間はそこに転がりこんで居候してしまう。もちろん、食事は、その家庭の人びとと同じものをたべる。畑仕事にも、放牧にもついていく。こんな居候方式の調査法で、わたしの仕事は進められた。短期間の調査では、居候方式が一番効果的である。寝食をともにしてくらしているうちに、一週間もすれば、その家の奥さんの下着の数までわかってしまう。
居候をするにしても、本や衣類などを保管しておく場所がいる。また、ときどきは居候先から、もどってきて一日昼寝をするところがほしい。そのような目的のために部屋を一つ借りることにした。つまり、下宿だ。居候はただであるが、下宿先には金を払わねばならない。部屋代、食費込みで、一カ月三千円ということになった。
下宿先にきまったのは、スクマ族のラシディ家だ。ラシディは、村で一番の酒造りの名手で、おまけに飲み助ときている。酒飲みのわたしには絶好の相手だ。あまり、いっしょにラシディ氏の手造りの酒を飲んだので、食事、酒つきの下宿代三千円では気がひけて、こちらから申し出て、下宿料の値あげをしてもらった。
スクマ族出身のラシディのように、バンツー語系の言語を話す人びとを、マンゴーラではスワヒリと一括して呼ぶ。スワヒリはスクマ族のほか、イサンスー族、イランバ族などさまざまのバンツー諸部族によって構成されている。マンゴーラのスワヒリは、すべて農耕民であり、その多くは、イスラム教徒である。マンゴーラには、スワヒリのほかに、ナイロート系の言語をしゃべる牧畜民のダトーガ族、クシティック語系の半農半牧民のイラク族、コイサン語系の狩猟採集民ハツァピ族が住んでいる。
村へやって来たはじめは、ラシディ家に下宿しながら、広大なサバンナに点在する家を、あちらこちら訪ねあるき、居候に都合のよい家の目星をつけることとした。
一九六七年の十一月から、六八年の二月にかけて、わたしは東アフリカのタンザニア共和国のマンゴーラ村に住んでいた。マンゴーラ村は、東アフリカの内陸部マサイステッペの東方、エヤシ湖のほとりにある。村といっても、万事大陸サイズのアフリカのこと、面積はとてつもなく広い。
マンゴーラ村は、神奈川県よりも大きいのだ。ここに住む人達は、約六千人程度と推定される。だが、野獣の数は、人口よりもずっと多いだろう。なにしろ、村のまんなかを横断して、毎夜サイが川辺まで水飲みに出かけるところなのだ。
マンゴーラ村は、一九六一年から、京都大学のアフリカ学術調査隊人類班の基地のひとつとなっていた。わたしが、いったときには、天理大学の和崎洋一さんが、調査員としてがんばっていた。わたしたちの調査は、マンゴーラの村民たちと友達づきあいをすることからはじまる。通訳は使わない。東アフリカの共通語であるスワヒリ語を、わたしたちはしゃべった。テントも使わなかった。
和崎さんは、三年前にも、マンゴーラへやってきている。このとき、かれは村のまんなかに間借りをして、寺子屋を開いた。村の子供達に読み、書き、そろばんを教えたのだ。子供たちと仲良くなったら、両親とのつきあいも深まってゆく。寺子屋へ集まる子供たちのPTAを通じて調査をすすめようというのがかれのねらいだった。和崎さんがこのまえ村を立去る前に、間借りをした家を寺子屋の教室用に拡張工事をしておいた。そこで、今度やってきたときには、逆に和崎さんの家の片隅に、家主が間借りしているようなかっこうだった。和崎さんと相談のうえ、わたしは村民のあいだを居候してまわることとなった。
わたしの調査の目的は、マンゴーラに住むさまざまの部族の生活様式を比較研究することにあった。短期間で、このような仕事をするには、ことばで聞きとるだけでは不充分である。身体をもって経験しながら知ることがいちばんである。そこでわたしは、生活様式のことなるさまざまな部族の家庭生活を体験してまわることとした。寝袋と、ノート、カメラだけを持って、ある家を訪れる。そして、そのまま最低一週間はそこに転がりこんで居候してしまう。もちろん、食事は、その家庭の人びとと同じものをたべる。畑仕事にも、放牧にもついていく。こんな居候方式の調査法で、わたしの仕事は進められた。短期間の調査では、居候方式が一番効果的である。寝食をともにしてくらしているうちに、一週間もすれば、その家の奥さんの下着の数までわかってしまう。
居候をするにしても、本や衣類などを保管しておく場所がいる。また、ときどきは居候先から、もどってきて一日昼寝をするところがほしい。そのような目的のために部屋を一つ借りることにした。つまり、下宿だ。居候はただであるが、下宿先には金を払わねばならない。部屋代、食費込みで、一カ月三千円ということになった。
下宿先にきまったのは、スクマ族のラシディ家だ。ラシディは、村で一番の酒造りの名手で、おまけに飲み助ときている。酒飲みのわたしには絶好の相手だ。あまり、いっしょにラシディ氏の手造りの酒を飲んだので、食事、酒つきの下宿代三千円では気がひけて、こちらから申し出て、下宿料の値あげをしてもらった。
スクマ族出身のラシディのように、バンツー語系の言語を話す人びとを、マンゴーラではスワヒリと一括して呼ぶ。スワヒリはスクマ族のほか、イサンスー族、イランバ族などさまざまのバンツー諸部族によって構成されている。マンゴーラのスワヒリは、すべて農耕民であり、その多くは、イスラム教徒である。マンゴーラには、スワヒリのほかに、ナイロート系の言語をしゃべる牧畜民のダトーガ族、クシティック語系の半農半牧民のイラク族、コイサン語系の狩猟採集民ハツァピ族が住んでいる。
村へやって来たはじめは、ラシディ家に下宿しながら、広大なサバンナに点在する家を、あちらこちら訪ねあるき、居候に都合のよい家の目星をつけることとした。