ダトーガ族は、牧畜民である。ウシ、ヤギ、ヒツジの群れを飼育する。最近では、役畜として、ロバも飼うようになった。ダトーガ族の家畜で、一番重要なものは、ウシである。周囲の部族から、ダトーガ族は「ウシのひと」というニックネームをつけられている。ダトーガ族の大長老では、三百頭くらいの牛を持っていることもめずらしくない。
いくら牛を持っていても、これをやたらに殺して食用にしたり、売って金銭にかえたりはしない。牛を殺すのは、儀礼のときであり、牛を売るのは税金をおさめ、ゴロレとよばれる身体をおおう一枚の大きな布などの、最低限の生活物資を買いこむためにだけである。
そこで、一度に数頭も手ばなすことはなく、ときたま、しぶしぶ牛を一頭、五十キロ離れたカラツの町で、月一度開かれる牛市に連れてゆくのである。役人も心得たものであって、牛市にはマンゴーラ村役場から収入役が出張しており、牛を売ったダトーガ族から、その場で税金をおさめさせる。
牛の大きさ、市でのセリの様子などで、牛一頭の価格は左右されるが、大体七千五百円から一万五千円の間である。牛を百頭持っていたならば、金に換算すると大金持なはずであるが、ダトーガ族の生活は、質素なものである。
のちにのべる、ギチェロ家では、十四名の家族がいる。ギチェロ家で一年間に、ウシ、ヤギ、ヒツジを売って手に入れる現金収入は、約五万円である。これで税金をはらって、十四名の生活をまかなう。ほとんど自給自足経済で暮しているのだ。マンゴーラの諸部族のうち、外界からおしよせてくる近代化の波に、最も抵抗し、伝統的な部族生活を守っているのがダトーガ族である。
口の悪いスワヒリ達は、ダトーガ族を評して、「アイツらは、牛が沢山いるのを見て楽しんでいるだけさ」という。スワヒリにしたら、牛がふえたら、どんどん売って、その金でもっとましな生活をしたらよいのにと思うのかもしれない。
しかし、牧畜民はもともと家畜を処分しないものである。牧畜民のところへいったらいつでも肉にありつけると思ったら、大間違いだ。案外牧畜民ほど、肉をたべる機会の少ない人びとはいないといった方がよい。牧畜民にとっては、家畜は、貯金の元金のようなものである。家畜を殺して、元金を食いつぶしたら、元も子もなくなってしまう。家畜の群れが大きくなったら、ほうっておいても、子どもが子どもを生んで利息がふえる。ときどき、ふえた家畜を間引くように農耕民に渡して、そのかわりに農産物を入手する。また、子どもを生む家畜の数が多くなれば、それだけミルクの量が多くなる。牧畜民の主食は、ミルクであって、肉ではない。ミルクという完全栄養食品を確保しておくためには、家畜の群れは、大きいほどよい。
乾季の終り、わたしはダトーガ族のギチェロ家に居候していた。ダトーガ族の家は、トゲの木の城壁にかこまれている。ドンベチャンダというマメ科の灌木には、長さが四、五センチもある鋭いトゲが一面に生えている。ドンベチャンダの木を伐って、高さ二メートルくらいに積み上げて、直径が百メートルくらいの垣をつくる。鉄条網よりも手ごわい垣根だ。夜、門にドンベチャンダの木をつんで、出入口をとざしてしまうと、ダトーガ族の屋敷は要塞と化する。それでも、ときには、ヒョウが家畜をおそい、ヤギを一頭くわえて垣をとびこすという。
ギチェロ家の垣のなかには、五つの家屋があった。ギチェロの母の住む家屋、ギチェロとその妻子の家屋、ギチェロの二人の弟の各々の妻子が住む家屋、それに若者の寝る家屋であった。
ダトーガ族は、拡大家族を単位として、居住する。すなわち、一つの垣根のなかには、家長の妻達とその子供の家、家長の母、夫に死別した家長の姉妹が出もどって住む家、まだ独立しない家長の弟達とその妻子、成長した家長の弟達とその妻子、成長した家長の子供とその妻子の家がつくられる。家長のギチェロは、四十五歳くらいだが、長老であった。男達のうち、長老のギチェロだけが、妻と同じ家屋で寝た。ギチェロの二人の弟は、おのおのの妻の住む家屋では寝ない。
ダトーガ族の若者組のメンバーである二人の弟達は、フーランダと呼ばれる「男の家」で夜は寝た。分家して、独立した屋敷を持ち、長老組のメンバーになるまでは、男たちは結婚しても夜は「男の家」でくらす。
「男の家」は、垣根の出入口の近くに建てられていた。「男の家」の壁には、ヤリ、楯、弓矢が立てかけられている。いったん事があれば、すぐ防衛出撃できるようにそなえてあるのだ。若者組のメンバーには、野獣から家畜を守り、昔からの敵であるマサイ族の侵撃に対して交戦する義務がある。戦士の見習い階層にある十六歳と十三歳のギチェロの息子も、母親のもとを離れて、「男の家」でくらしていた。
「男の家」はまた、応接室でもある。お客をまねき入れたり、旅人を泊めるのも、「男の家」だ。ギチェロ家でわたしは、「男の家」で寝泊りすることになった。
平屋根のダトーガ族の家屋は、天井が低い。一メートル半くらいだ。平均身長が百八十センチくらいある長身のダトーガ族は、家のなかをあるくときには、いつもオジギをしている。わたしはダトーガ族の家になれるまでは、すぐのびをしては、頭を天井にぶつけてコブだらけになる破目になった。壁は牛のフンと泥をまぜて塗ってある。だが乾ききっているので、臭いはあまりしない。「男の家」には、木の枝を組んで地上三十センチくらいの高さの大きな棚がある。このうえに、牛の生皮を敷きベッドとして寝る。生皮は、ピンとつっぱって、まるで板のようだ。大きな靴底のうえに寝るようで、じきに背中が痛くなる。なかなか安眠できないうえに、ダトーガ族は、朝が早い。寝坊のわたしには、つらいことだった。
落語にでてくる大家の息子が勘当されて、出入りの職人の二階へ居候した場合などは、のうのうと朝寝をきめこんだようだが、こちらは、出入りの職人どころではない。見ず知らずの異邦人のところへ、勝手に居候にころがりこんだのだから、居候先の生活のリズムに従うのが、エチケットというものだろう。
夜明け近くになると、ロバがいななく。あなたはロバの鳴き声を聞いたことがあるだろうか。ヒヒーンというウマのいななきでも、動物の声としてはいいかげん間がぬけたほうであるが、ロバにくらべたらずっと威厳がある。ロバの鳴き声は甲高くて、長く続く。「ヒエッ、ヒエッ、ヒエッ、ヒエー、ヒエー、ヒヒヒヒヒーン、ヒエッ」というふうに、ソプラノのウマが喘息にかかったような声でさけびはじめる。すると、牛が目をさまして、低い声でうなりはじめる。ヤギ、ヒツジが、か細い鳴き声をたてる。人間もおつきあいに起きなくてはならない。
朝起きたって、顔を洗うようなめんどうなことはしない。夜間、門につみあげたドンベチャンダの障壁をとりはらって、男たちは庭にすわりこんで雑談をしている。その間、女は、乳をしぼり、朝食の用意をする。朝日が出てから一時間もすると、食事が出来あがる。
わたしがギチェロ家へ居候した一週間の食事は、ウガリとミルク、及びサワークリームの献立であった。
ウガリにあたるものは、ダトーガ語でハミタと呼ばれる。近年、ダトーガ族にも畑を持つ者がふえてきた。しかし、経営面積は、一世帯一エーカー程度をこえず、植える作物も自家消費用のトウモロコシだけである。スワヒリは、トウモロコシを村の商店の製粉機にかけてもらって、ウガリ用の粉をつくってもらう。しかし、貨幣経済の段階に達していないダトーガ族は、自分の家で石のスリウスを使ってトウモロコシを粉にする。そこで、ダトーガ族のウガリは、粉があらく砂がまじっていたりする。出来あがったウガリをスワヒリのように皿や洗面器に入れて供することはすくない。つくったナベから手づかみでたべるか、半分に切ったヒョウタンのなかへウガリを入れてもってくる。
サワークリームは、牛乳を|攪拌《かくはん》してつくる。大きなヒョウタンを天井から皮紐でぶらさげる。ヒョウタンのなかに牛乳を入れて、前後に十分間ほどゆさぶる。するとミルクの表面にクリームが分離して浮びあがる。これを放置しておくとサージャンガという、クリームがふわふわと浮いた酸っぱいミルクができる。
牛乳は、ダトーガ語でサンシャゲーガとよぶ。朝夕、乳をしぼる前に、乳しぼり用のヒョウタンをさかさにして、くすぶっている薪をつっこむ。煙でいぶしたヒョウタンにしぼりこんだミルクは、独特の風味をもつ。
食事時間になると、この三種類の食物が、「男の家」に運ばれる。「男の家」に寝泊りする各員の所属する世帯の炉で、妻達がつくって持ってくるのだ。ギチェロの弟達の二人の妻がつくった食物、少年達の母親がつくった食物。三つの世帯から運ばれるのだ。これを、わけへだてなしに、他の世帯から持ってきた食物にも手をのばして共食するのだ。といっても、どの世帯でも献立は同じだ。三つのウガリのナベ、三つのミルク、あるいはサワークリームの入ったヒョウタンがならぶだけ。
ダトーガ族の女は、毎日の献立を考えるわずらわしさからは解放されている。乾季の終りは草がなく、家畜の乳の出が一番悪いときだ。わたしをまじえた「男の家」で食事をする五人に対して、ミルク、サワークリーム合わせて、一食に〇・六リットル程度の配給だった。牛乳が足らないので、女達はヤギの乳を飲んですます日もあった。
このほかにときどき、肉料理がついた。二週間程前にコウシが一頭、病気のために死にかかったので屠殺した。この肉を細長く短冊状に切って、屋根からぶらさげて乾肉をつくってあった。いくら乾季だからといっても、肉はすでに腐敗して、不快な臭いがついている。これを自家製のバターで煮る料理だ。
ダトーガ族の習慣では、ふつう肉は煮てたべ、焼きはしない。焼肉は、ダトーガ族の仇敵であるマサイ族の料理法だといってきらう。バターは牛乳をヒョウタンのなかで攪拌してつくる。肉料理のつくりかたは、バターをナベで溶かして、肉を入れるだけ。ときにはエヤシ湖の干あがった湖底から採集したソーダ分の多い塩を調味料に入れる。
ギチェロ家での腐った乾肉料理には、閉口した。口に入れると嘔吐をさそうような臭いがぷんとする。肉はごちそうなので、それ食えやれ食えと勧められる。ことわるのもめんどうなので、ろくろく噛みもしないで、大急ぎで腹のなかに飲みくださなくてはならない。
朝食が終ると「男の家」のメンバーは、家畜の放牧に出かける。若者はヤリをかついで牛を追い、少年はヤギ、ヒツジ、コウシの小家畜の放牧に行く。日没頃、家にもどるまで、飲まず食わずに家畜の群れを追ってあるき続けるのだ。長老のギチェロは、何もしない。長老は労働をせず、政治と儀礼をつかさどる。ギチェロと女子供は、昼食をとる。
毎食、ウガリとミルク、サワークリームの生活が一週間続くと、本当にうんざりする。ダトーガ族も、野草をたべないことはないが、その頻度はスワヒリにくらべてきわめてすくない。ダトーガ族の習慣で魚はいっさいたべない。狩猟許可証を持たぬ者に、狩が禁じられている現在、野獣が食糧とされることはほとんどない。
一週間たつと、スワヒリの野草料理が恋しくなり、ギチェロ家での調査も一段落したので、わたしはそうそうに下宿先のラシディ家へもどった。ダトーガ族の食事の単調さに、まいってしまったのであった。
いくら牛を持っていても、これをやたらに殺して食用にしたり、売って金銭にかえたりはしない。牛を殺すのは、儀礼のときであり、牛を売るのは税金をおさめ、ゴロレとよばれる身体をおおう一枚の大きな布などの、最低限の生活物資を買いこむためにだけである。
そこで、一度に数頭も手ばなすことはなく、ときたま、しぶしぶ牛を一頭、五十キロ離れたカラツの町で、月一度開かれる牛市に連れてゆくのである。役人も心得たものであって、牛市にはマンゴーラ村役場から収入役が出張しており、牛を売ったダトーガ族から、その場で税金をおさめさせる。
牛の大きさ、市でのセリの様子などで、牛一頭の価格は左右されるが、大体七千五百円から一万五千円の間である。牛を百頭持っていたならば、金に換算すると大金持なはずであるが、ダトーガ族の生活は、質素なものである。
のちにのべる、ギチェロ家では、十四名の家族がいる。ギチェロ家で一年間に、ウシ、ヤギ、ヒツジを売って手に入れる現金収入は、約五万円である。これで税金をはらって、十四名の生活をまかなう。ほとんど自給自足経済で暮しているのだ。マンゴーラの諸部族のうち、外界からおしよせてくる近代化の波に、最も抵抗し、伝統的な部族生活を守っているのがダトーガ族である。
口の悪いスワヒリ達は、ダトーガ族を評して、「アイツらは、牛が沢山いるのを見て楽しんでいるだけさ」という。スワヒリにしたら、牛がふえたら、どんどん売って、その金でもっとましな生活をしたらよいのにと思うのかもしれない。
しかし、牧畜民はもともと家畜を処分しないものである。牧畜民のところへいったらいつでも肉にありつけると思ったら、大間違いだ。案外牧畜民ほど、肉をたべる機会の少ない人びとはいないといった方がよい。牧畜民にとっては、家畜は、貯金の元金のようなものである。家畜を殺して、元金を食いつぶしたら、元も子もなくなってしまう。家畜の群れが大きくなったら、ほうっておいても、子どもが子どもを生んで利息がふえる。ときどき、ふえた家畜を間引くように農耕民に渡して、そのかわりに農産物を入手する。また、子どもを生む家畜の数が多くなれば、それだけミルクの量が多くなる。牧畜民の主食は、ミルクであって、肉ではない。ミルクという完全栄養食品を確保しておくためには、家畜の群れは、大きいほどよい。
乾季の終り、わたしはダトーガ族のギチェロ家に居候していた。ダトーガ族の家は、トゲの木の城壁にかこまれている。ドンベチャンダというマメ科の灌木には、長さが四、五センチもある鋭いトゲが一面に生えている。ドンベチャンダの木を伐って、高さ二メートルくらいに積み上げて、直径が百メートルくらいの垣をつくる。鉄条網よりも手ごわい垣根だ。夜、門にドンベチャンダの木をつんで、出入口をとざしてしまうと、ダトーガ族の屋敷は要塞と化する。それでも、ときには、ヒョウが家畜をおそい、ヤギを一頭くわえて垣をとびこすという。
ギチェロ家の垣のなかには、五つの家屋があった。ギチェロの母の住む家屋、ギチェロとその妻子の家屋、ギチェロの二人の弟の各々の妻子が住む家屋、それに若者の寝る家屋であった。
ダトーガ族は、拡大家族を単位として、居住する。すなわち、一つの垣根のなかには、家長の妻達とその子供の家、家長の母、夫に死別した家長の姉妹が出もどって住む家、まだ独立しない家長の弟達とその妻子、成長した家長の弟達とその妻子、成長した家長の子供とその妻子の家がつくられる。家長のギチェロは、四十五歳くらいだが、長老であった。男達のうち、長老のギチェロだけが、妻と同じ家屋で寝た。ギチェロの二人の弟は、おのおのの妻の住む家屋では寝ない。
ダトーガ族の若者組のメンバーである二人の弟達は、フーランダと呼ばれる「男の家」で夜は寝た。分家して、独立した屋敷を持ち、長老組のメンバーになるまでは、男たちは結婚しても夜は「男の家」でくらす。
「男の家」は、垣根の出入口の近くに建てられていた。「男の家」の壁には、ヤリ、楯、弓矢が立てかけられている。いったん事があれば、すぐ防衛出撃できるようにそなえてあるのだ。若者組のメンバーには、野獣から家畜を守り、昔からの敵であるマサイ族の侵撃に対して交戦する義務がある。戦士の見習い階層にある十六歳と十三歳のギチェロの息子も、母親のもとを離れて、「男の家」でくらしていた。
「男の家」はまた、応接室でもある。お客をまねき入れたり、旅人を泊めるのも、「男の家」だ。ギチェロ家でわたしは、「男の家」で寝泊りすることになった。
平屋根のダトーガ族の家屋は、天井が低い。一メートル半くらいだ。平均身長が百八十センチくらいある長身のダトーガ族は、家のなかをあるくときには、いつもオジギをしている。わたしはダトーガ族の家になれるまでは、すぐのびをしては、頭を天井にぶつけてコブだらけになる破目になった。壁は牛のフンと泥をまぜて塗ってある。だが乾ききっているので、臭いはあまりしない。「男の家」には、木の枝を組んで地上三十センチくらいの高さの大きな棚がある。このうえに、牛の生皮を敷きベッドとして寝る。生皮は、ピンとつっぱって、まるで板のようだ。大きな靴底のうえに寝るようで、じきに背中が痛くなる。なかなか安眠できないうえに、ダトーガ族は、朝が早い。寝坊のわたしには、つらいことだった。
落語にでてくる大家の息子が勘当されて、出入りの職人の二階へ居候した場合などは、のうのうと朝寝をきめこんだようだが、こちらは、出入りの職人どころではない。見ず知らずの異邦人のところへ、勝手に居候にころがりこんだのだから、居候先の生活のリズムに従うのが、エチケットというものだろう。
夜明け近くになると、ロバがいななく。あなたはロバの鳴き声を聞いたことがあるだろうか。ヒヒーンというウマのいななきでも、動物の声としてはいいかげん間がぬけたほうであるが、ロバにくらべたらずっと威厳がある。ロバの鳴き声は甲高くて、長く続く。「ヒエッ、ヒエッ、ヒエッ、ヒエー、ヒエー、ヒヒヒヒヒーン、ヒエッ」というふうに、ソプラノのウマが喘息にかかったような声でさけびはじめる。すると、牛が目をさまして、低い声でうなりはじめる。ヤギ、ヒツジが、か細い鳴き声をたてる。人間もおつきあいに起きなくてはならない。
朝起きたって、顔を洗うようなめんどうなことはしない。夜間、門につみあげたドンベチャンダの障壁をとりはらって、男たちは庭にすわりこんで雑談をしている。その間、女は、乳をしぼり、朝食の用意をする。朝日が出てから一時間もすると、食事が出来あがる。
わたしがギチェロ家へ居候した一週間の食事は、ウガリとミルク、及びサワークリームの献立であった。
ウガリにあたるものは、ダトーガ語でハミタと呼ばれる。近年、ダトーガ族にも畑を持つ者がふえてきた。しかし、経営面積は、一世帯一エーカー程度をこえず、植える作物も自家消費用のトウモロコシだけである。スワヒリは、トウモロコシを村の商店の製粉機にかけてもらって、ウガリ用の粉をつくってもらう。しかし、貨幣経済の段階に達していないダトーガ族は、自分の家で石のスリウスを使ってトウモロコシを粉にする。そこで、ダトーガ族のウガリは、粉があらく砂がまじっていたりする。出来あがったウガリをスワヒリのように皿や洗面器に入れて供することはすくない。つくったナベから手づかみでたべるか、半分に切ったヒョウタンのなかへウガリを入れてもってくる。
サワークリームは、牛乳を|攪拌《かくはん》してつくる。大きなヒョウタンを天井から皮紐でぶらさげる。ヒョウタンのなかに牛乳を入れて、前後に十分間ほどゆさぶる。するとミルクの表面にクリームが分離して浮びあがる。これを放置しておくとサージャンガという、クリームがふわふわと浮いた酸っぱいミルクができる。
牛乳は、ダトーガ語でサンシャゲーガとよぶ。朝夕、乳をしぼる前に、乳しぼり用のヒョウタンをさかさにして、くすぶっている薪をつっこむ。煙でいぶしたヒョウタンにしぼりこんだミルクは、独特の風味をもつ。
食事時間になると、この三種類の食物が、「男の家」に運ばれる。「男の家」に寝泊りする各員の所属する世帯の炉で、妻達がつくって持ってくるのだ。ギチェロの弟達の二人の妻がつくった食物、少年達の母親がつくった食物。三つの世帯から運ばれるのだ。これを、わけへだてなしに、他の世帯から持ってきた食物にも手をのばして共食するのだ。といっても、どの世帯でも献立は同じだ。三つのウガリのナベ、三つのミルク、あるいはサワークリームの入ったヒョウタンがならぶだけ。
ダトーガ族の女は、毎日の献立を考えるわずらわしさからは解放されている。乾季の終りは草がなく、家畜の乳の出が一番悪いときだ。わたしをまじえた「男の家」で食事をする五人に対して、ミルク、サワークリーム合わせて、一食に〇・六リットル程度の配給だった。牛乳が足らないので、女達はヤギの乳を飲んですます日もあった。
このほかにときどき、肉料理がついた。二週間程前にコウシが一頭、病気のために死にかかったので屠殺した。この肉を細長く短冊状に切って、屋根からぶらさげて乾肉をつくってあった。いくら乾季だからといっても、肉はすでに腐敗して、不快な臭いがついている。これを自家製のバターで煮る料理だ。
ダトーガ族の習慣では、ふつう肉は煮てたべ、焼きはしない。焼肉は、ダトーガ族の仇敵であるマサイ族の料理法だといってきらう。バターは牛乳をヒョウタンのなかで攪拌してつくる。肉料理のつくりかたは、バターをナベで溶かして、肉を入れるだけ。ときにはエヤシ湖の干あがった湖底から採集したソーダ分の多い塩を調味料に入れる。
ギチェロ家での腐った乾肉料理には、閉口した。口に入れると嘔吐をさそうような臭いがぷんとする。肉はごちそうなので、それ食えやれ食えと勧められる。ことわるのもめんどうなので、ろくろく噛みもしないで、大急ぎで腹のなかに飲みくださなくてはならない。
朝食が終ると「男の家」のメンバーは、家畜の放牧に出かける。若者はヤリをかついで牛を追い、少年はヤギ、ヒツジ、コウシの小家畜の放牧に行く。日没頃、家にもどるまで、飲まず食わずに家畜の群れを追ってあるき続けるのだ。長老のギチェロは、何もしない。長老は労働をせず、政治と儀礼をつかさどる。ギチェロと女子供は、昼食をとる。
毎食、ウガリとミルク、サワークリームの生活が一週間続くと、本当にうんざりする。ダトーガ族も、野草をたべないことはないが、その頻度はスワヒリにくらべてきわめてすくない。ダトーガ族の習慣で魚はいっさいたべない。狩猟許可証を持たぬ者に、狩が禁じられている現在、野獣が食糧とされることはほとんどない。
一週間たつと、スワヒリの野草料理が恋しくなり、ギチェロ家での調査も一段落したので、わたしはそうそうに下宿先のラシディ家へもどった。ダトーガ族の食事の単調さに、まいってしまったのであった。