カンバレマンバという魚がいる。カンバレというのは、スワヒリ語でナマズのこと、マンバとはワニのことだ。ワニナマズとでもいった魚か。
カンバレマンバの獰猛なことは、村人から聞いていた。なんでも、とてつもなく大きな魚で、釣糸なんか食いちぎってしまうから、めったに釣れやしない。釣針をはずそうとして、不用意に魚の口に手を持っていったら、たちまち指を食いちぎられてしまう。おまけに、味もまずい。まったく、しょうもない魚だと。
村民の一人が、カンバレマンバが釣れたといって、和崎さんの所へもってきた。和崎さんは、日本からナイロン製の太い海釣用のテグスを持ってきていた。これを村人にわけてやったところ、その糸で釣りあげた獲物を見せにきたのだ。
猛魚カンバレマンバさえも、糸を食い切ることができなかったのだ。日本の釣糸は丈夫だという評判が村中に広がり、これをわけてくれという村人達が殺到した。あまり、希望者が多いので、手でもってこの釣糸を引きちぎることができた者にやるという懸賞を出した。皆、かわるがわる渾身の力をしぼって糸を引っぱってみたが、引き切ることのできる者は一人もいなかった。
さて、釣りあげてきた、カンバレマンバの首実検に立ちあった。なんと、グロテスクな魚なのだろう。大人の腕よりも太く、一メートル近い大きさだ。ネズミ色にぬめぬめした肌。ナマズとフグの混血みたいな顔をして、それでいてユーモラスというよりは、化物ヅラだ。サメのように鋭い歯が口の奥まで連なっている。ヒレというよりは脚に近い代物が胴体にくっついている。肺魚に似ている。前時代の生ける遺物、陸水のシーラカンスといったかっこうだ。
村人にばかり釣らせていないで、わたしたちも魚釣りに行こうではないかということになった。調査の息ぬきにもなるし、ウガリと野草のボガばかりの毎日にもあきた。何カ月ぶりかにサシミを食おうということになった。わたしたち日本人が、外国で日本の食物に郷愁をおぼえるものの筆頭が、サシミとか魚のナマスのようなものである。
その頃、マンゴーラには、京都大学アフリカ研究会から参加した学生隊員として、田中壮一さんが滞在していた。和崎さん、田中さん、わたし、家主のラシディとの四人で魚釣りに出かける相談がまとまった。釣りに行くといっても、ランドローバーを駆って、道のないサバンナを横切って行く大げさなものになってしまった。
どうせ釣るなら、村の中で一番魚の多いところへ行こうという。そこで、和崎さんの寺子屋から、約十キロ離れた泉の近くの流れに釣りに行くこととなった。
ランドローバーは、英国製の、ジープのような四輪駆動のきく車である。車体が総ジュラルミンだから、重量がすくなく、泥沼や砂にはまったときに引き出すのに容易である。道路の発達していない国へ行くと、どこでもランドローバーにお目にかかる。探検家にとっては、最もおなじみ深い自動車である。
だが、その頃わたしたちがマンゴーラで使っていたランドローバーの一台は、大変なポンコツであった。持主の変わること十回くらい。転売を重ねた代物であった。
この自動車にはスターターがついていなかった。スターターの調子が悪いのでとりはずして、工学部出身の田中さんが修理を試みたが、結局は新品と取りかえねばならないことが判明した。スターターを買うといっても二百キロ離れた町のガレージまで行かなくてはならない。また、新品のスターターを買う金もなかった。
そこで、人力で押してエンジンを始動させては使っていた。途中でエンストしたときにそなえて、運転するときには、必ず三人くらいの、いざというときの押し手を乗せていた。また、エンジンをとめるときはあとで押しやすいように坂のうえに駐車させることにしていた。
おまけにわたしたちのランドローバーのエグゾーストがこわれていた。そこで、マフラーも取りはずしてあった。エンジンがかかると、まるでプロペラ式の戦闘機のようなすさまじい音がした。
わたしたちは、サバンナのカミナリ族であった。だが、村人からやかましいという文句は聞いたことがなかった。村人といっても、あちこちに一軒、はるかかなたに一軒というふうに、散らばって家をかまえている。夜、ときたま野獣の声がするほかは、森閑として物音がしない場所である。かえって、わたしたちの自動車の騒音が、村を活気づける効果をあげていたかもしれない。
その頃、わたしたちのランドローバーのほか、村には自動車が二台しかなかった。村に三軒あるなんでも屋の商店のうち二軒が商品の仕入れ用のトラックを持っていたのだ。そのうちの一台は、これまた恐るべきトラックだった。車体で原形をたもっている所が一カ所としてない。いたる所がねじ曲り、凹んでいる。ヘッドライトが片目つくだけで、尾灯はつかない。スプリングは折れており、木を伐って副木として針金でしばりつけてある。タイヤはすりへってずんべらぼう。スペアタイヤもつるつるで、トゲの木の枝を踏みつけるごとにパンクする。ブレーキはまったくきかない。よくも地上分解せずにはしっているとあきれかえるようなトラックだった。
マンゴーラ村では、わたしたちのランドローバーは、一番上等の車であった。そこで、私達の車のエンジンがかかる音をききつけると、ヒッチハイクを頼む村人が駆けつけてくる。荷物の輸送を頼まれる。いやおうなしにわたしたちはバス会社と運送屋を兼業させられていた。
釣場の近くまでのヒッチハイクのお客さんたちに、車を押させて、エンジンをかけ、一同意気揚々と釣りに出かけた。バリバリという爆音を立ててサバンナの中を車ではしると、魚釣りというよりは、戦場へ行くような高揚した気分になる。
よどんだ流れに出る。五メートルほどの川幅。乾季のサバンナが赤茶けて、背が低いマメ科の灌木におおわれているのに対して、川辺林は、常緑で、七、八メートルはあるイチジクの仲間の樹木が発達している。サバンナが見通しのよい乾いた世界なのに対して、川辺は、かげりのある隠微なところだ。
木の枝を伐って釣竿とする。棒の先にテグスを巻きつけて鈎針をつけただけ。浮き、|錘《おもり》はなし。餌は、ラシディの用意したウガリ。ウガリをちぎって小さな団子状にして鈎針につける。
おそるおそる糸をたれる。わたしは子どものとき二度ほど釣りに連れられて行ったことがあるだけだ。一匹もつれなかったので、こんな退屈なばかげたことは、一生するまいと、子ども心に決心した。魚がたべたくなったばかりに、アフリカくんだりで、生涯三度目の釣りを試みる破目となった。
何か糸を引くではないか。わたしは、あわせかたのコツもなにも知っちゃいない。乱暴にぐいと竿をはね上げる。十五センチくらいの美しい光沢をはなつ細身の魚がおどりあがる。マンゴーラでクユと呼ばれるコイ科の魚だ。
それから釣れるわ釣れるわ、二時間足らずで、わたしは十匹くらい釣りあげた。もっとも、わたしに釣りの天分があったわけではない。魚のほうが、少々鈍い連中だったのだろう。和崎さんは、餌をつけない鈎針で、魚のエラをひっかけて釣りあげるという芸当を演じていた。
四人で三十匹くらい釣れただろうか。和崎さんの寺子屋へ引きあげて、料理にとりかかった。十センチくらいの小魚は、背ごしにする。二十センチほどのものは、三枚におろして、|あらい《ヽヽヽ》をつくった。ほかに塩焼きと、和崎家の家主夫人にたのんで、スワヒリ風の魚料理——といっても例のトマト、タマネギ、塩の味付け——もつくってもらった。
このときだけは、地酒のドブロクではなしに日本酒を、ウガリのかわりに日本風のメシが欲しかった。
活魚の|あらい《ヽヽヽ》と背ごしを、ぞんぶんに|堪能《たんのう》した翌日、わたしたちは四十キロ離れたオルデアニの郵便局へ出かけた。タンザニアでは、郵便配達の制度がない。はてしないサバンナのなかを、一通の手紙のために郵便配達夫を何十キロもはしらせるわけにはいかないだろう。手紙を受け取りたい者は、郵便局に私書箱を開設して、郵便局まで取りに出かけなければならない。そこで手紙を出すには、相手の私書箱番号を知る必要がある。タンザニア全体の私書箱番号簿が、京都市の五十音別電話帳の五分の一くらいの厚さだ。
オルデアニ郵便局のわたしたちの私書箱には、|東《あずま》 |滋《しげる》さんの手紙が待っていた。東さんは、探検部の仲間であり、通称アズマザル。現在京都大学霊長類研究所の講師。以前、ダンガニイカ湖のほとりで、チンパンジーの調査に二年間従っていた。マンゴーラにもきたことがある。
手紙には、マンゴーラのどこそこの一軒家には、すらりとして美しい目をした若い女性がいるから、訪ねてみろとか、夜あるきをしていると樹上にポッと赤い光がみえることがあるが、電池の切れかかった懐中電灯だと思ってなれなれしく近づいてはいけない。片目をつぶってウインクをする習性のヒョウがいるから気をつけろとか、忠告がしるされていた。
最後に、川魚をサシミにしてたべると危険! へんな寄生虫にたかられること受けあい。御注意!! とエクスクラメーションマークが二つもつけて書いてあった。
マンゴーラで魚をたべるのは、主としてスワヒリである。スワヒリは魚釣りのほか、ヤナもしかける。ハツァピ族も、ときには魚とりをする。ハツァピ族の漁法は、水が干上ったとき手づかみにするか、弓矢で射る。牧畜民ダトーガ族、半農半牧民イラク族では、魚をたべることはタブーになっている。
カンバレマンバの獰猛なことは、村人から聞いていた。なんでも、とてつもなく大きな魚で、釣糸なんか食いちぎってしまうから、めったに釣れやしない。釣針をはずそうとして、不用意に魚の口に手を持っていったら、たちまち指を食いちぎられてしまう。おまけに、味もまずい。まったく、しょうもない魚だと。
村民の一人が、カンバレマンバが釣れたといって、和崎さんの所へもってきた。和崎さんは、日本からナイロン製の太い海釣用のテグスを持ってきていた。これを村人にわけてやったところ、その糸で釣りあげた獲物を見せにきたのだ。
猛魚カンバレマンバさえも、糸を食い切ることができなかったのだ。日本の釣糸は丈夫だという評判が村中に広がり、これをわけてくれという村人達が殺到した。あまり、希望者が多いので、手でもってこの釣糸を引きちぎることができた者にやるという懸賞を出した。皆、かわるがわる渾身の力をしぼって糸を引っぱってみたが、引き切ることのできる者は一人もいなかった。
さて、釣りあげてきた、カンバレマンバの首実検に立ちあった。なんと、グロテスクな魚なのだろう。大人の腕よりも太く、一メートル近い大きさだ。ネズミ色にぬめぬめした肌。ナマズとフグの混血みたいな顔をして、それでいてユーモラスというよりは、化物ヅラだ。サメのように鋭い歯が口の奥まで連なっている。ヒレというよりは脚に近い代物が胴体にくっついている。肺魚に似ている。前時代の生ける遺物、陸水のシーラカンスといったかっこうだ。
村人にばかり釣らせていないで、わたしたちも魚釣りに行こうではないかということになった。調査の息ぬきにもなるし、ウガリと野草のボガばかりの毎日にもあきた。何カ月ぶりかにサシミを食おうということになった。わたしたち日本人が、外国で日本の食物に郷愁をおぼえるものの筆頭が、サシミとか魚のナマスのようなものである。
その頃、マンゴーラには、京都大学アフリカ研究会から参加した学生隊員として、田中壮一さんが滞在していた。和崎さん、田中さん、わたし、家主のラシディとの四人で魚釣りに出かける相談がまとまった。釣りに行くといっても、ランドローバーを駆って、道のないサバンナを横切って行く大げさなものになってしまった。
どうせ釣るなら、村の中で一番魚の多いところへ行こうという。そこで、和崎さんの寺子屋から、約十キロ離れた泉の近くの流れに釣りに行くこととなった。
ランドローバーは、英国製の、ジープのような四輪駆動のきく車である。車体が総ジュラルミンだから、重量がすくなく、泥沼や砂にはまったときに引き出すのに容易である。道路の発達していない国へ行くと、どこでもランドローバーにお目にかかる。探検家にとっては、最もおなじみ深い自動車である。
だが、その頃わたしたちがマンゴーラで使っていたランドローバーの一台は、大変なポンコツであった。持主の変わること十回くらい。転売を重ねた代物であった。
この自動車にはスターターがついていなかった。スターターの調子が悪いのでとりはずして、工学部出身の田中さんが修理を試みたが、結局は新品と取りかえねばならないことが判明した。スターターを買うといっても二百キロ離れた町のガレージまで行かなくてはならない。また、新品のスターターを買う金もなかった。
そこで、人力で押してエンジンを始動させては使っていた。途中でエンストしたときにそなえて、運転するときには、必ず三人くらいの、いざというときの押し手を乗せていた。また、エンジンをとめるときはあとで押しやすいように坂のうえに駐車させることにしていた。
おまけにわたしたちのランドローバーのエグゾーストがこわれていた。そこで、マフラーも取りはずしてあった。エンジンがかかると、まるでプロペラ式の戦闘機のようなすさまじい音がした。
わたしたちは、サバンナのカミナリ族であった。だが、村人からやかましいという文句は聞いたことがなかった。村人といっても、あちこちに一軒、はるかかなたに一軒というふうに、散らばって家をかまえている。夜、ときたま野獣の声がするほかは、森閑として物音がしない場所である。かえって、わたしたちの自動車の騒音が、村を活気づける効果をあげていたかもしれない。
その頃、わたしたちのランドローバーのほか、村には自動車が二台しかなかった。村に三軒あるなんでも屋の商店のうち二軒が商品の仕入れ用のトラックを持っていたのだ。そのうちの一台は、これまた恐るべきトラックだった。車体で原形をたもっている所が一カ所としてない。いたる所がねじ曲り、凹んでいる。ヘッドライトが片目つくだけで、尾灯はつかない。スプリングは折れており、木を伐って副木として針金でしばりつけてある。タイヤはすりへってずんべらぼう。スペアタイヤもつるつるで、トゲの木の枝を踏みつけるごとにパンクする。ブレーキはまったくきかない。よくも地上分解せずにはしっているとあきれかえるようなトラックだった。
マンゴーラ村では、わたしたちのランドローバーは、一番上等の車であった。そこで、私達の車のエンジンがかかる音をききつけると、ヒッチハイクを頼む村人が駆けつけてくる。荷物の輸送を頼まれる。いやおうなしにわたしたちはバス会社と運送屋を兼業させられていた。
釣場の近くまでのヒッチハイクのお客さんたちに、車を押させて、エンジンをかけ、一同意気揚々と釣りに出かけた。バリバリという爆音を立ててサバンナの中を車ではしると、魚釣りというよりは、戦場へ行くような高揚した気分になる。
よどんだ流れに出る。五メートルほどの川幅。乾季のサバンナが赤茶けて、背が低いマメ科の灌木におおわれているのに対して、川辺林は、常緑で、七、八メートルはあるイチジクの仲間の樹木が発達している。サバンナが見通しのよい乾いた世界なのに対して、川辺は、かげりのある隠微なところだ。
木の枝を伐って釣竿とする。棒の先にテグスを巻きつけて鈎針をつけただけ。浮き、|錘《おもり》はなし。餌は、ラシディの用意したウガリ。ウガリをちぎって小さな団子状にして鈎針につける。
おそるおそる糸をたれる。わたしは子どものとき二度ほど釣りに連れられて行ったことがあるだけだ。一匹もつれなかったので、こんな退屈なばかげたことは、一生するまいと、子ども心に決心した。魚がたべたくなったばかりに、アフリカくんだりで、生涯三度目の釣りを試みる破目となった。
何か糸を引くではないか。わたしは、あわせかたのコツもなにも知っちゃいない。乱暴にぐいと竿をはね上げる。十五センチくらいの美しい光沢をはなつ細身の魚がおどりあがる。マンゴーラでクユと呼ばれるコイ科の魚だ。
それから釣れるわ釣れるわ、二時間足らずで、わたしは十匹くらい釣りあげた。もっとも、わたしに釣りの天分があったわけではない。魚のほうが、少々鈍い連中だったのだろう。和崎さんは、餌をつけない鈎針で、魚のエラをひっかけて釣りあげるという芸当を演じていた。
四人で三十匹くらい釣れただろうか。和崎さんの寺子屋へ引きあげて、料理にとりかかった。十センチくらいの小魚は、背ごしにする。二十センチほどのものは、三枚におろして、|あらい《ヽヽヽ》をつくった。ほかに塩焼きと、和崎家の家主夫人にたのんで、スワヒリ風の魚料理——といっても例のトマト、タマネギ、塩の味付け——もつくってもらった。
このときだけは、地酒のドブロクではなしに日本酒を、ウガリのかわりに日本風のメシが欲しかった。
活魚の|あらい《ヽヽヽ》と背ごしを、ぞんぶんに|堪能《たんのう》した翌日、わたしたちは四十キロ離れたオルデアニの郵便局へ出かけた。タンザニアでは、郵便配達の制度がない。はてしないサバンナのなかを、一通の手紙のために郵便配達夫を何十キロもはしらせるわけにはいかないだろう。手紙を受け取りたい者は、郵便局に私書箱を開設して、郵便局まで取りに出かけなければならない。そこで手紙を出すには、相手の私書箱番号を知る必要がある。タンザニア全体の私書箱番号簿が、京都市の五十音別電話帳の五分の一くらいの厚さだ。
オルデアニ郵便局のわたしたちの私書箱には、|東《あずま》 |滋《しげる》さんの手紙が待っていた。東さんは、探検部の仲間であり、通称アズマザル。現在京都大学霊長類研究所の講師。以前、ダンガニイカ湖のほとりで、チンパンジーの調査に二年間従っていた。マンゴーラにもきたことがある。
手紙には、マンゴーラのどこそこの一軒家には、すらりとして美しい目をした若い女性がいるから、訪ねてみろとか、夜あるきをしていると樹上にポッと赤い光がみえることがあるが、電池の切れかかった懐中電灯だと思ってなれなれしく近づいてはいけない。片目をつぶってウインクをする習性のヒョウがいるから気をつけろとか、忠告がしるされていた。
最後に、川魚をサシミにしてたべると危険! へんな寄生虫にたかられること受けあい。御注意!! とエクスクラメーションマークが二つもつけて書いてあった。
マンゴーラで魚をたべるのは、主としてスワヒリである。スワヒリは魚釣りのほか、ヤナもしかける。ハツァピ族も、ときには魚とりをする。ハツァピ族の漁法は、水が干上ったとき手づかみにするか、弓矢で射る。牧畜民ダトーガ族、半農半牧民イラク族では、魚をたべることはタブーになっている。