スワヒリの多くは、イスラム教徒である。村のなかに、イスラム教の教会、モスクがある。
トウモロコシ畑のまんなかに、土壁草ぶき屋根の粗末な建物がぽつんと建っている。建物の入口に、水を入れるドラム罐が一つおいてある。このドラム罐の水で、手足をきよめて、人びとは建物のなかに入る。がらんとした部屋にムシロがしかれており、ここで人びとはひざまずいて礼拝する。一番奥の壁に、三日月と星をあしらったイスラムの旗がかけてある。この壁がメッカの方向であると信じられている。
中近東の都市によくあるドーム状の屋根をもつ大きな建物と、これをとりかこむ尖塔の壮麗なモスクのイメージからは、はるかに遠い代物だ。
だが、マンゴーラのモスクは信者達が、とぼしい金をよせあい、労力を出しあってつくった、まごころの建物だ。|壁龕《へきがん》に宝石をちりばめた、王侯の建てたモスクよりも、アラーはよみしたまうであろう。
ただ、マンゴーラ村のモスクに、一つだけいけないことがある。わたしが、磁石でもってはかってみたところ、人々がお祈りする奥壁の方向が、メッカをさしていないのだ。大西洋のほうを向いて、お祈りをしているのだ。
ここ数年、マンゴーラ村に、あまりいいことが起らないのは、人びとの祈りがアラーの耳にとどかぬ方向へいってしまっているからなのかもしれない。
一九六七年の十二月から、一月始めまでは、回教暦では、ラマダンと呼ばれる断食月にあたっていた。スワヒリとよばれる黒人回教徒たちは、昼間は一切飲み食いをしない。食物をとることが禁じられているほか、水を飲んでもいけない。ツバを飲み込むことさえ禁じられる。ツバがわきでたら、はきださなくてはいけない。敬虔な回教徒は、薬も飲まない。夜明けから日没までのあいだ、一切のノドを通過するものを絶つのだ。もちろん、タバコをすうこともできない。昼間性交をすることも禁じられている。ラマダンの間、病人、妊婦、子ども、旅人、軍営の兵隊のほかの、世界中の信心ぶかいイスラム教徒は、昼間のあいだ食を断ち、身をつつしむのだ。
旅人は断食を守らなくてもよいので、中近東の上層階級の回教徒になると、ヨーロッパ旅行に逃げ出す者が多いとのことだが、マンゴーラのスワヒリには、そんな不心得者はいない。まだ、断食をはじめなくてもよい小学生でさえ大人の真似をして、二、三日間だけでも自発的に断食をして、ほかの子ども達にえばってみせたりするくらいだ。
マンゴーラのスワヒリを対象として、長い間調査を続けていた和崎さんは、村民達からイディモハメディというイスラム名をもらっていた。この年のラマダンには、和崎さんもスワヒリの一員として、断食に参加した。和崎さんの経験によると、昼間の断食は、それほど苦痛ではないそうだ。だが、水を飲まないで暑い日中を過すことは大変困難である。和崎さんは、部屋の奥に水を入れた瓶をかくしておき、昼間もときどきこっそり水だけは飲んでいたようだ。回教徒になる訓練をしているわけではなく、ラマダン中でも日中も調査を続行しなくてはならないので、そのくらいのインチキをしても、さしつかえあるまい。
ラマダンがはじまると、わたしは、二日ほど断食のつきあいをしたのち、ラシディの家を出て、ハツァピ族のところへ逃げ出した。スワヒリの家に居て、わたし一人だけ昼間から飲み食いするわけにはいかない。そうかといって、断食のおつきあいをしたら、肉体的にまいってしまい、かんじんの調査の方がお手上げになってしまう。ハツァピ族には、イスラム教徒がいないので、断食月など関係なく、おおっぴらに食事が出来る。そこで、ラマダンの期間は、サバンナのただなかにあるハツァピ族の雨季のキャンプ地にとどまって、わたしは、ハツァピ族の調査をすることにした。
年末になると、和崎さんはランドローバーを駆って、エヤシ湖の西方のスクマランドの調査に出かけていった。採集植物の木の実、根茎が少なくなったので、ハツァピ族達は、獲物やハチミツを求めて山間部へ移動しはじめた。大晦日の夕方、わたしはラシディの家にもどった。
日暮近くになると庭にむしろをしいて、スワヒリの家族達は、日没を待っている。家のなかで主婦がごちそうづくりをしている煙が、草ぶき屋根の隙間からのぼる。ラマダンの晩は、昼間断食をしたかわりに、腕によりをかけたごちそうがでる。
エヤシ湖西岸の切りたった断層崖のうえに広がるセレンゲッティ大平原に夕日が沈むと、主人が合図をする。主婦がココヤシの殻でつくったシャモジでナベからウジをコップにつぐ。
ウジとは、モロコシ、キビ、キャッサバ、トウモロコシなどの粉を湯にといた重湯のようなものだ。これに、砂糖をたっぷり入れて飲む。野生のライムをしぼりこんだり、肉桂、コショウ、ショウガの粉などの好みの香料を入れて、さわやかな味付けをしてある。一日の断食が終ったあと、熱いウジをフウフウ吹きながら飲むのが、どこの家でもラマダンの晩の食事の最初のコースだ。いくらノドがかわいていても、ウジを飲まずに、まず水のガブ飲みをしたら、身体によくないそうだ。
ウジのあとには、フタリと呼ばれるラマダンのときのごちそうがでる。フタリは、ササゲ、クッキング・バナナ、サツマイモなどをやわらかく煮て、つぶしたものがおおい。たいていは、甘く味付けをしてある。断食のあとには、まずやわらかなものをたべないと、腹工合がおかしくなるとのことだ。
ウジとフタリがラマダンの晩の主なごちそうだが、ほかにナマズを煮たり、ニワトリをつぶしたり、コメのメシをたいたり、輸入品のナツメヤシをつけたり、主婦はなるべくごちそうをつくろうと苦心する。
夜十時頃、モスクに礼拝に行ったのち、またウガリの夜食をとる。翌日、力仕事をする者や、食いしん坊は、早朝、日の出前に食事をする。
トウモロコシ畑のまんなかに、土壁草ぶき屋根の粗末な建物がぽつんと建っている。建物の入口に、水を入れるドラム罐が一つおいてある。このドラム罐の水で、手足をきよめて、人びとは建物のなかに入る。がらんとした部屋にムシロがしかれており、ここで人びとはひざまずいて礼拝する。一番奥の壁に、三日月と星をあしらったイスラムの旗がかけてある。この壁がメッカの方向であると信じられている。
中近東の都市によくあるドーム状の屋根をもつ大きな建物と、これをとりかこむ尖塔の壮麗なモスクのイメージからは、はるかに遠い代物だ。
だが、マンゴーラのモスクは信者達が、とぼしい金をよせあい、労力を出しあってつくった、まごころの建物だ。|壁龕《へきがん》に宝石をちりばめた、王侯の建てたモスクよりも、アラーはよみしたまうであろう。
ただ、マンゴーラ村のモスクに、一つだけいけないことがある。わたしが、磁石でもってはかってみたところ、人々がお祈りする奥壁の方向が、メッカをさしていないのだ。大西洋のほうを向いて、お祈りをしているのだ。
ここ数年、マンゴーラ村に、あまりいいことが起らないのは、人びとの祈りがアラーの耳にとどかぬ方向へいってしまっているからなのかもしれない。
一九六七年の十二月から、一月始めまでは、回教暦では、ラマダンと呼ばれる断食月にあたっていた。スワヒリとよばれる黒人回教徒たちは、昼間は一切飲み食いをしない。食物をとることが禁じられているほか、水を飲んでもいけない。ツバを飲み込むことさえ禁じられる。ツバがわきでたら、はきださなくてはいけない。敬虔な回教徒は、薬も飲まない。夜明けから日没までのあいだ、一切のノドを通過するものを絶つのだ。もちろん、タバコをすうこともできない。昼間性交をすることも禁じられている。ラマダンの間、病人、妊婦、子ども、旅人、軍営の兵隊のほかの、世界中の信心ぶかいイスラム教徒は、昼間のあいだ食を断ち、身をつつしむのだ。
旅人は断食を守らなくてもよいので、中近東の上層階級の回教徒になると、ヨーロッパ旅行に逃げ出す者が多いとのことだが、マンゴーラのスワヒリには、そんな不心得者はいない。まだ、断食をはじめなくてもよい小学生でさえ大人の真似をして、二、三日間だけでも自発的に断食をして、ほかの子ども達にえばってみせたりするくらいだ。
マンゴーラのスワヒリを対象として、長い間調査を続けていた和崎さんは、村民達からイディモハメディというイスラム名をもらっていた。この年のラマダンには、和崎さんもスワヒリの一員として、断食に参加した。和崎さんの経験によると、昼間の断食は、それほど苦痛ではないそうだ。だが、水を飲まないで暑い日中を過すことは大変困難である。和崎さんは、部屋の奥に水を入れた瓶をかくしておき、昼間もときどきこっそり水だけは飲んでいたようだ。回教徒になる訓練をしているわけではなく、ラマダン中でも日中も調査を続行しなくてはならないので、そのくらいのインチキをしても、さしつかえあるまい。
ラマダンがはじまると、わたしは、二日ほど断食のつきあいをしたのち、ラシディの家を出て、ハツァピ族のところへ逃げ出した。スワヒリの家に居て、わたし一人だけ昼間から飲み食いするわけにはいかない。そうかといって、断食のおつきあいをしたら、肉体的にまいってしまい、かんじんの調査の方がお手上げになってしまう。ハツァピ族には、イスラム教徒がいないので、断食月など関係なく、おおっぴらに食事が出来る。そこで、ラマダンの期間は、サバンナのただなかにあるハツァピ族の雨季のキャンプ地にとどまって、わたしは、ハツァピ族の調査をすることにした。
年末になると、和崎さんはランドローバーを駆って、エヤシ湖の西方のスクマランドの調査に出かけていった。採集植物の木の実、根茎が少なくなったので、ハツァピ族達は、獲物やハチミツを求めて山間部へ移動しはじめた。大晦日の夕方、わたしはラシディの家にもどった。
日暮近くになると庭にむしろをしいて、スワヒリの家族達は、日没を待っている。家のなかで主婦がごちそうづくりをしている煙が、草ぶき屋根の隙間からのぼる。ラマダンの晩は、昼間断食をしたかわりに、腕によりをかけたごちそうがでる。
エヤシ湖西岸の切りたった断層崖のうえに広がるセレンゲッティ大平原に夕日が沈むと、主人が合図をする。主婦がココヤシの殻でつくったシャモジでナベからウジをコップにつぐ。
ウジとは、モロコシ、キビ、キャッサバ、トウモロコシなどの粉を湯にといた重湯のようなものだ。これに、砂糖をたっぷり入れて飲む。野生のライムをしぼりこんだり、肉桂、コショウ、ショウガの粉などの好みの香料を入れて、さわやかな味付けをしてある。一日の断食が終ったあと、熱いウジをフウフウ吹きながら飲むのが、どこの家でもラマダンの晩の食事の最初のコースだ。いくらノドがかわいていても、ウジを飲まずに、まず水のガブ飲みをしたら、身体によくないそうだ。
ウジのあとには、フタリと呼ばれるラマダンのときのごちそうがでる。フタリは、ササゲ、クッキング・バナナ、サツマイモなどをやわらかく煮て、つぶしたものがおおい。たいていは、甘く味付けをしてある。断食のあとには、まずやわらかなものをたべないと、腹工合がおかしくなるとのことだ。
ウジとフタリがラマダンの晩の主なごちそうだが、ほかにナマズを煮たり、ニワトリをつぶしたり、コメのメシをたいたり、輸入品のナツメヤシをつけたり、主婦はなるべくごちそうをつくろうと苦心する。
夜十時頃、モスクに礼拝に行ったのち、またウガリの夜食をとる。翌日、力仕事をする者や、食いしん坊は、早朝、日の出前に食事をする。
一九六七年の元旦、わたしは、白のワイシャツ、白い半ズボン、白いストッキングといういでたちでマンゴーラ村のなかをあるいた。
「ジャンボ! イシゲ、今日はどうしたんだ。まるでイギリス人のダンナみたいなかっこうをしているじゃないか」
「ウン、今日は、ジャパニの国で一番大きなお祝いの日なんだ。この日は、いいかっこうをして、友達の家へあいさつをしてまわるのがしきたりなのさ。そこで、あんたの家へもよったのさ」
「ふーん。それで、お前の国のお祭りのときは、ウシかヒツジでも殺すのかね」
「ウシやヒツジはたべないけど、ほかのごちそうをうんとたべて、お酒を飲むさ」
「ジャパニのごちそうって、どんなものだい?」
「今晩、オレのところへきたら食わせてやるよ」
昼すぎから、わたしは|御節《おせち》料理のしたくにとりかかった。といっても、今回は現地食主義のつもりできたので、日本食品はほとんど持っていない。かつて食料品がつまっていた箱の底に残っていたのは、醤油とダシ昆布だけ。小さなニワトリを一匹百五十円近くで買って、羽根をむしってもらった。ニワトリを解体して、ガラは雑煮のダシとする。モチのかわりに、米をたいて、洗面器のなかで空瓶をキネとしてつきくだいてから、まるめて炉のうえで焼くと、モチとオニギリのあいのこのようなものができあがった。まあ、これでがまんしておこう。雑煮に入れる野菜は、家主の第一夫人がつんできた野草を使うこととした。
一方、ニワトリの肉は砂糖をたっぷり使って、飴炊きにする。そえものはサヤエンドウ。甘い料理は、スワヒリによろこばれる。水につけておいたダシ昆布で、村の川でとれた鮒に似た小魚の干物を巻いて昆布巻をつくる。
夕日が沈む頃、アフリカ人の友人達が数人集まってきた。居候している家の庭にゴザをしき、日が沈むのを待って、日本料理の夕べがはじまった。まず、家主夫人のつくったウジを飲んでから、雑煮をたべはじめる。一同、木の枝をけずってつくってやったハシをおぼつかなげに使いながら一口たべては首をひねる。雑煮や昆布巻の味は、あまり舌にあわないようだった。砂糖が糸をひくほど甘く煮つけたニワトリは、好評ですぐなくなってしまった。それにもまして、皆によろこばれたのは、お屠蘇用のためにと、何カ月も前から誘惑をおしのけてとっておいた、三本の罐入りの日本酒であった。
「ジャンボ! イシゲ、今日はどうしたんだ。まるでイギリス人のダンナみたいなかっこうをしているじゃないか」
「ウン、今日は、ジャパニの国で一番大きなお祝いの日なんだ。この日は、いいかっこうをして、友達の家へあいさつをしてまわるのがしきたりなのさ。そこで、あんたの家へもよったのさ」
「ふーん。それで、お前の国のお祭りのときは、ウシかヒツジでも殺すのかね」
「ウシやヒツジはたべないけど、ほかのごちそうをうんとたべて、お酒を飲むさ」
「ジャパニのごちそうって、どんなものだい?」
「今晩、オレのところへきたら食わせてやるよ」
昼すぎから、わたしは|御節《おせち》料理のしたくにとりかかった。といっても、今回は現地食主義のつもりできたので、日本食品はほとんど持っていない。かつて食料品がつまっていた箱の底に残っていたのは、醤油とダシ昆布だけ。小さなニワトリを一匹百五十円近くで買って、羽根をむしってもらった。ニワトリを解体して、ガラは雑煮のダシとする。モチのかわりに、米をたいて、洗面器のなかで空瓶をキネとしてつきくだいてから、まるめて炉のうえで焼くと、モチとオニギリのあいのこのようなものができあがった。まあ、これでがまんしておこう。雑煮に入れる野菜は、家主の第一夫人がつんできた野草を使うこととした。
一方、ニワトリの肉は砂糖をたっぷり使って、飴炊きにする。そえものはサヤエンドウ。甘い料理は、スワヒリによろこばれる。水につけておいたダシ昆布で、村の川でとれた鮒に似た小魚の干物を巻いて昆布巻をつくる。
夕日が沈む頃、アフリカ人の友人達が数人集まってきた。居候している家の庭にゴザをしき、日が沈むのを待って、日本料理の夕べがはじまった。まず、家主夫人のつくったウジを飲んでから、雑煮をたべはじめる。一同、木の枝をけずってつくってやったハシをおぼつかなげに使いながら一口たべては首をひねる。雑煮や昆布巻の味は、あまり舌にあわないようだった。砂糖が糸をひくほど甘く煮つけたニワトリは、好評ですぐなくなってしまった。それにもまして、皆によろこばれたのは、お屠蘇用のためにと、何カ月も前から誘惑をおしのけてとっておいた、三本の罐入りの日本酒であった。
その翌年の元旦、わたしは、谷さんと一緒に、チュニジアとリビアの国境を越えるバスにゆられていた。塩づけの数の子をぽりぽりかじりながら、アルジェリア産のワインをラッパ飲みしているうちに、行手の砂漠のきれるあたり、地中海から大きな太陽がのぼりはじめた。