「エビ? だめだめ、カニもいけませんよ。トンカツもだめ。ブタ肉も、この人はたべないんだから」
ユダヤ人の学者を案内して、京の街を二日あるきまわったときのことである。学者先生は、日本料理の味がお気に召したとみえて、毎食ごとに、ジャパニーズ・ディッシュでいこうと提案する。そこで食事のたびに、くいもの屋のオカミに、わたしがダメダメづくしをしなければならない破目となった。
ユダヤ教の信者は、ブタ肉をたべてはだめ。ウロコのない魚もたべることを禁止されている。エビ、カニ、イカ、タコもウロコがないから、もちろん禁止される。ユダヤ教が日本人へ浸透しないのは無理もないことだ。まちがっても、ユダヤ教徒をスシ屋に案内してはならない。
ユダヤ人の学者を案内して、京の街を二日あるきまわったときのことである。学者先生は、日本料理の味がお気に召したとみえて、毎食ごとに、ジャパニーズ・ディッシュでいこうと提案する。そこで食事のたびに、くいもの屋のオカミに、わたしがダメダメづくしをしなければならない破目となった。
ユダヤ教の信者は、ブタ肉をたべてはだめ。ウロコのない魚もたべることを禁止されている。エビ、カニ、イカ、タコもウロコがないから、もちろん禁止される。ユダヤ教が日本人へ浸透しないのは無理もないことだ。まちがっても、ユダヤ教徒をスシ屋に案内してはならない。
イスラム教徒の聖典コーランには、何でも書いてある。お祈りのときの手や顔の清めかた、おヨメさんの見つけかたから、離婚のしかた、神学はもちろんのこと、法学、文学、教育学、家政学まで、なんでもかんでも書いてある。もちろん、食物についても記事がある。
コーランでイスラム教徒がタブーとされているのは、死んだけだものの肉、血、ブタ肉、邪教の神々にささげられた動物、打ち殺された動物、高いところから落ちて死んだ動物、角で突き殺された動物、ほかのけだもののたべた動物の肉などである。
要するに、イスラム教徒が刃物でとどめをさした動物なら、たべてもよいのである。崖から落ちた瀕死のけだものでも、息をひきとる前に、お祈りとともに、イスラム教徒が殺したものだったら、食用にしてさしつかえないのだ。
イスラム教徒が屠殺をするときは、口のなかで、もぐもぐお祈りをとなえたあとで、喉笛を切って殺す。血は、動脈から流れるに任す。鳥類も同じ方法で屠殺しなければならない。血を集めて、プディングやスープのようなものをつくったりはしない。すててしまうのである。中国人だったら、ああもったいないとよだれをたらすかもしれないが。
魚は、アラーがとどめをさしておいてくれるとして、生きている間に殺さなくてもよい。
わたしがイスラム文化と本格的に接触したのは一九六七、六八年の東アフリカの人類学調査のときである。
東アフリカの人びとは、だいたいにおいて動物性蛋白質の摂取量が少ない。野獣の王国にいながら動物を狩猟するのには、高い金を払って、めんどうきわまる手続きをして狩猟許可証を手に入れなくてはならないし、密猟の取締りはかなりきびしい。家畜を持っていても、儀礼のときのほかは、めったに屠殺することがない。
店に肉の罐詰を売っているところもあるが、ほとんどは輸入品である。東アフリカで商店からものを購入する貨幣経済の段階にまでひらけている人びとは、スワヒリと呼ばれる黒人回教徒だ。しかし、外国製の肉の罐詰はイスラム教徒によって屠殺された肉でつくってないので、スワヒリがたべるわけにはいかない。
そんななかで、一つだけたべられる罐詰がある。ケニア製のコンビーフだ。この工場の屠殺係は、イスラム教徒がやっている。この罐詰だったら、土地の人にも安心してたべてもらえる。
わたしたちが、数日間のサファリにでかけるときには、旅行の道案内の現地人と一緒に食事ができるよう、ケニアのコンビーフをさがしまわらなくてはならない。
コーランには、あまりにも、なんでも書きすぎてある。
そうかといって、わたしたちもイスラム教徒やユダヤ教徒をわらうわけにはいかない。わたしたちの先祖はつい百年くらいまえまで四つ足の動物をたべてはならないという、ムチャクチャな食物に関するタブーを守ってきたではないか。
コーランでイスラム教徒がタブーとされているのは、死んだけだものの肉、血、ブタ肉、邪教の神々にささげられた動物、打ち殺された動物、高いところから落ちて死んだ動物、角で突き殺された動物、ほかのけだもののたべた動物の肉などである。
要するに、イスラム教徒が刃物でとどめをさした動物なら、たべてもよいのである。崖から落ちた瀕死のけだものでも、息をひきとる前に、お祈りとともに、イスラム教徒が殺したものだったら、食用にしてさしつかえないのだ。
イスラム教徒が屠殺をするときは、口のなかで、もぐもぐお祈りをとなえたあとで、喉笛を切って殺す。血は、動脈から流れるに任す。鳥類も同じ方法で屠殺しなければならない。血を集めて、プディングやスープのようなものをつくったりはしない。すててしまうのである。中国人だったら、ああもったいないとよだれをたらすかもしれないが。
魚は、アラーがとどめをさしておいてくれるとして、生きている間に殺さなくてもよい。
わたしがイスラム文化と本格的に接触したのは一九六七、六八年の東アフリカの人類学調査のときである。
東アフリカの人びとは、だいたいにおいて動物性蛋白質の摂取量が少ない。野獣の王国にいながら動物を狩猟するのには、高い金を払って、めんどうきわまる手続きをして狩猟許可証を手に入れなくてはならないし、密猟の取締りはかなりきびしい。家畜を持っていても、儀礼のときのほかは、めったに屠殺することがない。
店に肉の罐詰を売っているところもあるが、ほとんどは輸入品である。東アフリカで商店からものを購入する貨幣経済の段階にまでひらけている人びとは、スワヒリと呼ばれる黒人回教徒だ。しかし、外国製の肉の罐詰はイスラム教徒によって屠殺された肉でつくってないので、スワヒリがたべるわけにはいかない。
そんななかで、一つだけたべられる罐詰がある。ケニア製のコンビーフだ。この工場の屠殺係は、イスラム教徒がやっている。この罐詰だったら、土地の人にも安心してたべてもらえる。
わたしたちが、数日間のサファリにでかけるときには、旅行の道案内の現地人と一緒に食事ができるよう、ケニアのコンビーフをさがしまわらなくてはならない。
コーランには、あまりにも、なんでも書きすぎてある。
そうかといって、わたしたちもイスラム教徒やユダヤ教徒をわらうわけにはいかない。わたしたちの先祖はつい百年くらいまえまで四つ足の動物をたべてはならないという、ムチャクチャな食物に関するタブーを守ってきたではないか。