一九六九年、リビア砂漠のオアシスで谷泰さんとベドウィン系の遊牧民メガルハ族の社会人類学的調査をしていたときである。料理もできあがったのでランプの火を大きくして、さて食前の一杯をやるかと、酒ビンに手をのばしかけたとき、「お客さんがくるよ」と谷さんが声をかけた。なるほど、耳をすませるとエンジンの音がする。いったんとりだした酒ビンを、またボール箱のなかにひっこめる。
回教徒国のリビアでは、よきイスラム教徒は酒を飲まないものとされている。わたしたちが異邦人だからといって、人前で酒を飲むのは、つつしむべきであろう。このごろでは、若いインテリ階層の者や外国人の監督下に働く労働者の間では、リビア人でも酒をたしなむ者がではじめている。飲酒の歴史のなかったところなので、ざんねんながら酒を飲むときのマナーはあまりよくない。飲んだらかならず酔うまでグラスを手ばなさない。こんなお客さんに酒ビンをみつけられたらたいへんだ。たちまちにして、貴重な酒を空にされてしまう。
谷さんもわたしも、どちらかというと飲み助のほうだ。だが、このオアシスの調査地では、コップ一杯の晩酌でがまんしているのだ。なにしろ、酒がきれたら、買いに行くのが大変だ。一番近い酒屋まで、片道三百五十キロの砂漠のなかの道をドライブしなければならない。地中海から千キロ砂漠に入ったところにある酒屋なので、そこまでの輸送費が酒代に含まれているので、酒代もおそろしく高いものにつく。
いずれにしろ、現地人のお客さんの前ではわたしたちは、酒を飲まぬことにしていた。酒は、こっそりと飲むにこしたことはない。酒ビンをかくし、紙でもって料理におおいをする。ハエよけというよりは、そのままにしておくと、どこからともなく部屋のなかまでしのびこむ砂によって、せっかくの料理がだいなしになってしまうからだ。
客をむかえる仕度ができた頃、エンジンの音が大きくなってきた。自動車が村に近づいたら、わたしたちに、お客さんがやってきたと思っていたら、まちがいない。別に、わたしたちに用事がなくても、このオアシスへ入ってきた自動車は、かならずわたしたちの家へとまる。通りがかったついでに、日本人を観察してやろうというわけである。
ランドローバーから降りた人々の多くは、顔見知りだった。隣りのオアシスからやってきた一団であった。小学校の先生が数人と警察官、いずれも隣り村の顔役たちである。さっそく、家のなかに招じ入れて、まあお茶でも一杯ということになる。客に、お茶もふるまわないで帰しては、アラブ流のエチケットに反する。ただし、茶を煎じつめ、多量の砂糖をぶちこんで、泡をたてて、ウイスキーグラスのように小さな器につぐ、アラブ流の茶の湯の儀礼では、手間がかかるのと、道具だてが必要である。これはかんべんしてもらい、わたしたちは、お客さんには、紅茶のティバッグで接待することにしていた。
一時間ほどの茶のみ話が終って、一同が腰をあげた。今日は、先生の一人が転任になるための送別会とのことだ。わたしたちの住み込んだオアシスには小学校がないので、隣り村まで小学生はロバに乗って通う。そこで、わたしたちの村でも父兄が転任の先生の送別会を催して、隣り村の先生と顔役一同が招待されたのだ。
「ごちそうがあるし、一緒にたべにこないか?」とさそわれる。大きな食器に盛った料理を手づかみでたべるアラブ圏の宴会では、出席者が少しぐらい増えても困ることはない。めいめいの食べる分量がすこし減るだけで、あわてて盛りつけたり食器を用意しなくてもすむ。しかし、わたしたちの晩食の用意がすでにととのっているので、好意を謝して、ことわった。
皆が出て行っても、一人だけ先生が居残った。谷さんとわたしが一番苦手な人物であった。この先生は、英語ができることをハナにかけて、わたしたちが村人と苦心しておぼつかないアラビア語で話しているところへ、わざわざ英語で話に割り込んでは、話題をかき回してしまう。また、わたしはインテリでございという態度を露骨に出しては、村人をバカにするようなところがあるひとだ。かなり柄が悪くて、ずうずうしい。わたしたちは、この先生に、ひそかに、柄悪先生というアダナをつけていた。
柄悪先生は、一人だけどっかりと腰をおちつけて、しつこく話をしかけてくる。「おまえたちは、日本じゃ大学の先生だそうだが、いったい給料はいくらもらっているのか?」「ふーん、それじゃ、オレのほうがずーっと給料がいいぞ」といったぐあいに、際限なしに一人で話をおしつけて、とどまるところをしらない。
ふつうの村人だったら、わたしたちが、食事をする気配を知ったら、遠慮して帰るのだが、柄悪先生は、わたしたちよりも、アラブのエチケットを御存知ないらしい。谷さんもわたしも内心いらいらしてきた。いったい、何時になったら、メシにありつけるのだろう。早く柄悪先生が帰ってくれて、食前の一杯をやりたいんだが。ああ、腹がへった。
こんなふうに腹の底では考えながらも、そこは人類学者のことである。こちらから、追い出すようなことはせず、相手のふるまうがままに、まかせている。
冷えたスープをあたためはじめて、「さあオレたちはメシを食うぞ」という意思表示をしたが、相手はちっとも動じない。仕方なしに、
「わたしたちは食事をするが、先生もいっしょにおあがりになりますか? ただ、わたしたちの料理には、イスラム教徒の口にはあわない食物があるかもしれないので、あまりおすすめできませんが……」とたずねたところ、
「もちろん食うとも。オレは西洋人の食物もよく知っているし、ブタ肉などイスラム教徒の食ってならぬ食物は、見たらいっぺんにわかるから大丈夫だ」と主張する。
そこで、料理の皿をならべはじめた。オードブルの皿には、ウマゴヤシのゴマあえのわきに、サラミソーセージが輪切りのレモンにはさまって並んでいた。これをサカナに一杯やろうと楽しみにしていたのだが、柄悪先生のおかげで、食前酒を飲みそこねることになってしまった。おまけに、二人前の食事を、三人で食わなくてはならぬ破目となった。そんなうらみつらみがこうじていたので、谷さんもわたしも、オードブルの皿をだまって出した。すると、柄悪先生は知ったかぶりをして、
「ウン、以前オレは、これをたべたことがある」といって、イスラム教徒のもっともいみ嫌うブタからつくったソーセージをたべはじめた。もちろん、わたしたちはそれをみて、くすくす笑ったりするような不作法はしない。和気あいあいと食事をすませた。柄悪先生のずうずうしさに対しては、知ったかぶりのむくいでブタを食べてしまったせいで、すべてを見そなわす全能のアラーが、いつの日か、裁きをつけてくださることを、わたしたちは知っていたから。
回教徒国のリビアでは、よきイスラム教徒は酒を飲まないものとされている。わたしたちが異邦人だからといって、人前で酒を飲むのは、つつしむべきであろう。このごろでは、若いインテリ階層の者や外国人の監督下に働く労働者の間では、リビア人でも酒をたしなむ者がではじめている。飲酒の歴史のなかったところなので、ざんねんながら酒を飲むときのマナーはあまりよくない。飲んだらかならず酔うまでグラスを手ばなさない。こんなお客さんに酒ビンをみつけられたらたいへんだ。たちまちにして、貴重な酒を空にされてしまう。
谷さんもわたしも、どちらかというと飲み助のほうだ。だが、このオアシスの調査地では、コップ一杯の晩酌でがまんしているのだ。なにしろ、酒がきれたら、買いに行くのが大変だ。一番近い酒屋まで、片道三百五十キロの砂漠のなかの道をドライブしなければならない。地中海から千キロ砂漠に入ったところにある酒屋なので、そこまでの輸送費が酒代に含まれているので、酒代もおそろしく高いものにつく。
いずれにしろ、現地人のお客さんの前ではわたしたちは、酒を飲まぬことにしていた。酒は、こっそりと飲むにこしたことはない。酒ビンをかくし、紙でもって料理におおいをする。ハエよけというよりは、そのままにしておくと、どこからともなく部屋のなかまでしのびこむ砂によって、せっかくの料理がだいなしになってしまうからだ。
客をむかえる仕度ができた頃、エンジンの音が大きくなってきた。自動車が村に近づいたら、わたしたちに、お客さんがやってきたと思っていたら、まちがいない。別に、わたしたちに用事がなくても、このオアシスへ入ってきた自動車は、かならずわたしたちの家へとまる。通りがかったついでに、日本人を観察してやろうというわけである。
ランドローバーから降りた人々の多くは、顔見知りだった。隣りのオアシスからやってきた一団であった。小学校の先生が数人と警察官、いずれも隣り村の顔役たちである。さっそく、家のなかに招じ入れて、まあお茶でも一杯ということになる。客に、お茶もふるまわないで帰しては、アラブ流のエチケットに反する。ただし、茶を煎じつめ、多量の砂糖をぶちこんで、泡をたてて、ウイスキーグラスのように小さな器につぐ、アラブ流の茶の湯の儀礼では、手間がかかるのと、道具だてが必要である。これはかんべんしてもらい、わたしたちは、お客さんには、紅茶のティバッグで接待することにしていた。
一時間ほどの茶のみ話が終って、一同が腰をあげた。今日は、先生の一人が転任になるための送別会とのことだ。わたしたちの住み込んだオアシスには小学校がないので、隣り村まで小学生はロバに乗って通う。そこで、わたしたちの村でも父兄が転任の先生の送別会を催して、隣り村の先生と顔役一同が招待されたのだ。
「ごちそうがあるし、一緒にたべにこないか?」とさそわれる。大きな食器に盛った料理を手づかみでたべるアラブ圏の宴会では、出席者が少しぐらい増えても困ることはない。めいめいの食べる分量がすこし減るだけで、あわてて盛りつけたり食器を用意しなくてもすむ。しかし、わたしたちの晩食の用意がすでにととのっているので、好意を謝して、ことわった。
皆が出て行っても、一人だけ先生が居残った。谷さんとわたしが一番苦手な人物であった。この先生は、英語ができることをハナにかけて、わたしたちが村人と苦心しておぼつかないアラビア語で話しているところへ、わざわざ英語で話に割り込んでは、話題をかき回してしまう。また、わたしはインテリでございという態度を露骨に出しては、村人をバカにするようなところがあるひとだ。かなり柄が悪くて、ずうずうしい。わたしたちは、この先生に、ひそかに、柄悪先生というアダナをつけていた。
柄悪先生は、一人だけどっかりと腰をおちつけて、しつこく話をしかけてくる。「おまえたちは、日本じゃ大学の先生だそうだが、いったい給料はいくらもらっているのか?」「ふーん、それじゃ、オレのほうがずーっと給料がいいぞ」といったぐあいに、際限なしに一人で話をおしつけて、とどまるところをしらない。
ふつうの村人だったら、わたしたちが、食事をする気配を知ったら、遠慮して帰るのだが、柄悪先生は、わたしたちよりも、アラブのエチケットを御存知ないらしい。谷さんもわたしも内心いらいらしてきた。いったい、何時になったら、メシにありつけるのだろう。早く柄悪先生が帰ってくれて、食前の一杯をやりたいんだが。ああ、腹がへった。
こんなふうに腹の底では考えながらも、そこは人類学者のことである。こちらから、追い出すようなことはせず、相手のふるまうがままに、まかせている。
冷えたスープをあたためはじめて、「さあオレたちはメシを食うぞ」という意思表示をしたが、相手はちっとも動じない。仕方なしに、
「わたしたちは食事をするが、先生もいっしょにおあがりになりますか? ただ、わたしたちの料理には、イスラム教徒の口にはあわない食物があるかもしれないので、あまりおすすめできませんが……」とたずねたところ、
「もちろん食うとも。オレは西洋人の食物もよく知っているし、ブタ肉などイスラム教徒の食ってならぬ食物は、見たらいっぺんにわかるから大丈夫だ」と主張する。
そこで、料理の皿をならべはじめた。オードブルの皿には、ウマゴヤシのゴマあえのわきに、サラミソーセージが輪切りのレモンにはさまって並んでいた。これをサカナに一杯やろうと楽しみにしていたのだが、柄悪先生のおかげで、食前酒を飲みそこねることになってしまった。おまけに、二人前の食事を、三人で食わなくてはならぬ破目となった。そんなうらみつらみがこうじていたので、谷さんもわたしも、オードブルの皿をだまって出した。すると、柄悪先生は知ったかぶりをして、
「ウン、以前オレは、これをたべたことがある」といって、イスラム教徒のもっともいみ嫌うブタからつくったソーセージをたべはじめた。もちろん、わたしたちはそれをみて、くすくす笑ったりするような不作法はしない。和気あいあいと食事をすませた。柄悪先生のずうずうしさに対しては、知ったかぶりのむくいでブタを食べてしまったせいで、すべてを見そなわす全能のアラーが、いつの日か、裁きをつけてくださることを、わたしたちは知っていたから。