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食生活を探検する27

时间: 2020-04-21    进入日语论坛
核心提示:料 理 と は たべものや料理の本を見て、わたしの気にくわないこと。「料理は芸術である」とか、「料理とは味の芸術である」と
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料 理 と は

 たべものや料理の本を見て、わたしの気にくわないこと。「料理は芸術である」とか、「料理とは味の芸術である」とかいった表現がやたらにおおいことだ。なかには、「もてなしのこころを形にあらわしたものが料理である」などといった神秘的な文章すらある。精神活動を物質を素材として表現するということであれば、これも絵画や彫刻と同様の分野に所属させようとする意見とみるべきか。夏の暑い日、お客にまずすすめるいちばんこころのこもったもてなしは、冷たい水を一杯あげることである。コップ一杯の水は料理であり、芸術なのだろうかといったようなあげ足とりは、あまりしないこととしよう。
もし、料理が芸術であるとしたならば、毎日のお惣菜をつくる奥様方、ウドン屋のオッサンも、芸術家であるということになる。世界は芸術家にみちみちている。俳句などくらべものにならないほどの芸術家人口が存在するわけだ。大衆芸術バンザイ。
だが、ほんとうに料理は芸術なのだろうか。芸術の基本的性格は、創造にある。だが、世の奥様方は、新しい味を求めて、毎日創作活動にいそしんでいらっしゃるわけではない。板前とて同じこと。料理という人間活動のほとんどは、模倣から成立している。だから、テンプラとかカレーライスとかいった料理の名称があるのだ。毎食ごとに、新しい作品が食卓に出品され、いちいちそれらの料理に命名をしなくてはならないことになったら、たまったものじゃない。
奥様が芸術家になって、サツマイモ料理の道をきわめることに骨身をすりへらすこと無慮十年、その間亭主は朝晩サツマイモを素材とした作品におつきあいさせられるとしたら。奥様がニンジンとブタ肉を前にして、「ウーム」とうなったまま、作品の構想をまとめるまで数時間も待たされるとしたら。あるいはモダンアートばりの新しい味の創作に意欲をもやす奥様に、きょうはハイヒールの底皮の酢のもの、あすは、マッチ棒を希塩酸ソースで煮こんだものといった前衛料理をたべさせられることには、一命にもかかわってくる。
一般的にいって、料理には創造的要素がすくない。料理が模倣に終始しているから、たべられるのである。
もちろん、料理においても工夫はおおいに必要である。クッキング・ブックに書いてあるとおりの材料が全部そろっていなくては、それらしい料理がつくれないというのでは困る。ありあわせのものでも、けっこうおいしいものがつくれなくてはならない。しかし、工夫と創造は別のものである。料理での工夫はお手本がさきにあり、それに近いものをつくったり、お手本を意識しながらそれに手をくわえるといった性質のものがおおい。つまり材料、手法に変化をつけるといった技術上の問題を出ない場合がおおい。
ときとしては、全く独創的な料理がないわけではない。料理が創作である可能性はある。そこで、ファッション・デザイナーを芸術家とよぶのならば、それと同じ意味でなら料理の名人を芸術家とよんでよいかもしれない。
料理が芸術であるとしても、これはまた、まことに、はかない芸術である。作品が意味をもつのは、食卓のうえにあるあいだだけ。胃袋へ入ってしまったら、それでおしまい。また、うまいのはほんのつかの間で、皿が冷えたら、もう芸術品の価値をうしなってしまう。
また作品の鑑賞のできるのは、ごくかぎられた人数である。同じ味の料理を楽しむことができるのは、せいぜい十人程度だ。いかに名コック長がいても、百人もの宴会の料理の味がおちることは、結婚式のおよばれで御承知のことであろう。
万人に共感をよぶことができず、後世に伝えることもできないとしたならば、これを芸術とよぶことができるだろうか。むしろ、「芸」とよぶにふさわしい。
どうしても芸術とよびたいのだったら、第三芸術くらいにおしこめておくべきである。第二芸術のカテゴリーに入れたら、俳句に気の毒だ。俳人だったら、日本芸術院会員になれる可能性があるが、板前では無理だ。
専門の料理人と家庭でお惣菜をつくる奥様方とのあいだで、技法や完成した料理の味についての根本的な差異はない。なにも、料理人だけが芸術家ではない。奥様方すべてが第三芸術の作家である。一方は一日二回あるいは三回の創作活動に入るのに対して、料理人は一日じゅう作品をつくりつづけているだけのはなしだ。
そして、奥様の手料理を「塩からすぎる」とか「ウマイ」といって鑑賞する旦那様方は第三芸術の評論家である。かくして人類すべてが芸術活動に従事しているということになる。
 ところで、人類にとって料理とは、いったいどんな意味をもつものであろうか。簡単にいったら、食物を洗ったり、適当な大きさに切ったり、熱処理をほどこしたり、味付けをしたりして、食物をたべやすく処理することである。つまり、人類の生存に必要な栄養摂取のための、補助手段である。
人類は料理をする唯一の動物である。ということは、とりもなおさず料理は文化の一分野であるからだ。料理の起源は、人類が火を使用しはじめたときにはじまる。その以前も肉を切ったり、食物を洗ったりする程度のことはしたであろうが、本格的な料理は、焼肉をつくることを人類が知ったときにはじまる。それから、何十万年かの間、旧石器時代には料理法の主力は食物を焼くことにあった。もしかしたら、さきにのべた太平洋でおこなわれている、容器なしで魚や野菜をむし焼きにする石むし料理の技法は、旧石器時代に開発された技法であるかもしれない。新石器時代になると土器が発明されて、食物を煮ることが可能になった。
現在では、ナイフや庖丁がけだもののキバの役を、ナベが肉食獣の強靱な胃袋のかわりをするようになった。
料理は、人類の生理的欲求を充足させるための補助手段だが、その手段の手続きは一様ではない。民族や部族、あるいは土地の自然条件や宗教などの差異によって、とりあつかう食品の種類、料理技法、味付けなどにさまざまのちがいがあらわれる。料理の多様性はだいたいにおいて、民族や部族の文化、地方文化の枠と一致する。
同じ文化集団のなかに所属する人びとのあいだでも食物に関する嗜好の差はみられる。このような個人差は、個人文化の相違とみなすことができる。うす味のすきなひと、甘いもののすきなひと、オセンベイのすきなひと、チョコレートのすきなひと、このようなちがいは、個人文化を獲得していく過程で住んでいる土地、家庭の嗜好家庭の環境、教育などさまざまの条件に個人が反応しながら、つくりあげた個人文化の|くせ《ヽヽ》である。
 文化は、学習が可能なものである。十代の嗜好が変りやすいのは、学習したことがまだかたまってなく、学習過程における試行錯誤をしめす。二十代でもふつうの人はうまいものがわからないということは、まだ学習不充分であることを示すのである。しかし、四十代でものの味がわからない人は、もはや学業をまっとうすることができないであろう。
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