味をことばで表現するのは、大変むずかしいことだ。食事の描写がうまく書きこなせるようになったら、一人前の小説家であるという話をきいたことがある。食物を的確に表現するのは、なんでもないようでいて、そのじつ大変教養のいることである。
とくに、味を表現することは、なかなかむずかしい。味を表現する基本的な語彙は、「あまい」「しおからい」「すっぱい」「にがい」「からい」くらいしかない。そこでたいていは、どのような味であるかを表現するのがめんどうになって、「うまい」あるいは「まずい」のひとことで料理を批評して、それでおしまいになってしまう。
だが、いかにうまいか、どういうふうにまずいかを表現できないようでは、料理の上達はのぞめない。食物に関する教養が深ければ味についての正確な表現ができるはずである。とくにあなたが不幸にして、奥様の料理に満足していなかったならば、味の表現能力をゆたかにすることが一生の大事である。
「まずい!」のひとことで、かたづけたら、事態の改善ははかどらない。いかにしてまずいか、あるいは御亭主の嗜好はどういう味であるかを、具体的につまびらかにいうことである。味噌汁ひとつをとりあげても、ダシの味がどうであるか、具が煮すぎであるか、生煮えであるか、具の材料が適当であるか、味噌の種類が嗜好にあうものであるか、濃すぎるか、薄すぎるか、味噌を煮すぎてかおりが失われてはいないかどうか、汁がさめてしまっていてうまくないのか等々、なぜ、どのようにまずいかを表現することである。
あなたは、昨日一日にたべたものを順にすべて思いだすことができるだろうか。試みてください。まちがいなく、朝食から晩食までの献立を思いうかべることができたとしたならば、あなたは合格である。食物に関して批評家になれる素質があるとみとめてよろしい。食いしん坊であり、たべることに情熱をもやす者であって、はじめて料理上手になれ、味の的確な批評ができるのである。案外、昨日のことでも、おぼえていない人がおおい。ふだんの食事は人間活動のうちもっとも日常的なものの一つなので、日常性のなかに埋没してしまい、あまり記憶にとどまらない性質のものである。
さて、いま昨日の食事を思いうかべたとき献立のひとつひとつの味をあなたは感じただろうか。昨日の味噌汁はシジミだったと思いかえしたときに、あなたの舌のうえをシジミの味噌汁の味がチラリと横切ったかどうかが問題である。
料理人にとって、技術よりもたいせつなのは舌である。味を知っていること、一度たべた味を再現できる舌をもつことである。舌の記憶がさだかでなかったら、自信のある料理をつくることができない。自分のたべたことのあるものは、イマジネーションの世界で再現できること、舌のうえに味をいつでも呼びおこすことができることが料理上手になる秘訣である。料理とは経験主義のカタマリのような技術である。ある日、さとりを開いてそのとたんから料理がうまくなったというようなことはあり得ない。すこしずつ、味を記憶していくほか手はない。
舌はやしなうことができる。ものをたべるとき、その味があますぎるか、醤油の使いすぎであるか、材料の味がおたがいになれているかどうかというふうに批判しながら味わうくせをつけたら、自然に舌は上等になり微妙な味わいかたをすることができるようになる。わからないものをたべたときは、それがなんでつくってあり、どんな味付けをしたものであるかを遠慮なく聞くことだ。なんだかしらないけどうまいものをたべたというのでは、味の再現は不可能である。分析的に味わうことだ。そのうち舌が上等になり、それだけ人生の楽しみが増すのである。そして、舌にものの味が定着し、料理の名を聞いただけで、味を舌のうえに再現できるようになる。
味が舌のうえで再現できれば、つぎは舌におぼえこんだ味を材料を使って再現することである。
もし、あなたに女房という名の専属コックがいたら、奥さんをうまいものをたべに連れていくことである。そして、コックの舌をトレーニングすることだ。うまいものをたべに連れていってもらうばかりで、家庭でうまさの再現を試みようとする努力をしない奥さんだったら、職務怠慢のかどで解雇することだ。
舌の経験がつみ重なってくると、味のイマジネーションが確立してくる。すると、料理の特徴が舌のうえで類型的に分類されてくる。味に関する図書分類目録のようなものが、できあがるのだ。すると、こんどは逆に、舌に残された記憶をたよりに、材料をどのような味の料理にも仕立てあげることが可能になる。
同じ材料を使っても、調味料にオリーブ油、ニンニク、トマトを使ったらイタリア料理風になるし、ゴマ油と八角を使って中華料理にすることもできる。イタリア料理とはこんな系統の味であるとか、中華料理の味が他の料理と区別される点を類型的に舌に記憶しておくことが可能な段階になったら、しめたものである。そうなると自由自在の境地に達する。コンニャクを材料としても、フランス料理らしき味をつくることができるようになるのだ。
味のイマジネーションができないひとは、まったく試行錯誤で料理をつくることとなる。味のイマジネーションが確立していないひとは、料理の途中で、さらに塩を加えたらどんな味になるか、この材料を入れたら全体の味がどう変わるかが、実際に手をくわえるまえに予言できないのである。わたしの知る例で、山で正月をむかえたとき、雑煮に大量のニンニクを入れて煮たひとがいる。雑煮の味とニンニクがあわさったとき、どんな味になるかということについて、かれはイマジネーションがはたらかなかったのである。
とくに、味を表現することは、なかなかむずかしい。味を表現する基本的な語彙は、「あまい」「しおからい」「すっぱい」「にがい」「からい」くらいしかない。そこでたいていは、どのような味であるかを表現するのがめんどうになって、「うまい」あるいは「まずい」のひとことで料理を批評して、それでおしまいになってしまう。
だが、いかにうまいか、どういうふうにまずいかを表現できないようでは、料理の上達はのぞめない。食物に関する教養が深ければ味についての正確な表現ができるはずである。とくにあなたが不幸にして、奥様の料理に満足していなかったならば、味の表現能力をゆたかにすることが一生の大事である。
「まずい!」のひとことで、かたづけたら、事態の改善ははかどらない。いかにしてまずいか、あるいは御亭主の嗜好はどういう味であるかを、具体的につまびらかにいうことである。味噌汁ひとつをとりあげても、ダシの味がどうであるか、具が煮すぎであるか、生煮えであるか、具の材料が適当であるか、味噌の種類が嗜好にあうものであるか、濃すぎるか、薄すぎるか、味噌を煮すぎてかおりが失われてはいないかどうか、汁がさめてしまっていてうまくないのか等々、なぜ、どのようにまずいかを表現することである。
あなたは、昨日一日にたべたものを順にすべて思いだすことができるだろうか。試みてください。まちがいなく、朝食から晩食までの献立を思いうかべることができたとしたならば、あなたは合格である。食物に関して批評家になれる素質があるとみとめてよろしい。食いしん坊であり、たべることに情熱をもやす者であって、はじめて料理上手になれ、味の的確な批評ができるのである。案外、昨日のことでも、おぼえていない人がおおい。ふだんの食事は人間活動のうちもっとも日常的なものの一つなので、日常性のなかに埋没してしまい、あまり記憶にとどまらない性質のものである。
さて、いま昨日の食事を思いうかべたとき献立のひとつひとつの味をあなたは感じただろうか。昨日の味噌汁はシジミだったと思いかえしたときに、あなたの舌のうえをシジミの味噌汁の味がチラリと横切ったかどうかが問題である。
料理人にとって、技術よりもたいせつなのは舌である。味を知っていること、一度たべた味を再現できる舌をもつことである。舌の記憶がさだかでなかったら、自信のある料理をつくることができない。自分のたべたことのあるものは、イマジネーションの世界で再現できること、舌のうえに味をいつでも呼びおこすことができることが料理上手になる秘訣である。料理とは経験主義のカタマリのような技術である。ある日、さとりを開いてそのとたんから料理がうまくなったというようなことはあり得ない。すこしずつ、味を記憶していくほか手はない。
舌はやしなうことができる。ものをたべるとき、その味があますぎるか、醤油の使いすぎであるか、材料の味がおたがいになれているかどうかというふうに批判しながら味わうくせをつけたら、自然に舌は上等になり微妙な味わいかたをすることができるようになる。わからないものをたべたときは、それがなんでつくってあり、どんな味付けをしたものであるかを遠慮なく聞くことだ。なんだかしらないけどうまいものをたべたというのでは、味の再現は不可能である。分析的に味わうことだ。そのうち舌が上等になり、それだけ人生の楽しみが増すのである。そして、舌にものの味が定着し、料理の名を聞いただけで、味を舌のうえに再現できるようになる。
味が舌のうえで再現できれば、つぎは舌におぼえこんだ味を材料を使って再現することである。
もし、あなたに女房という名の専属コックがいたら、奥さんをうまいものをたべに連れていくことである。そして、コックの舌をトレーニングすることだ。うまいものをたべに連れていってもらうばかりで、家庭でうまさの再現を試みようとする努力をしない奥さんだったら、職務怠慢のかどで解雇することだ。
舌の経験がつみ重なってくると、味のイマジネーションが確立してくる。すると、料理の特徴が舌のうえで類型的に分類されてくる。味に関する図書分類目録のようなものが、できあがるのだ。すると、こんどは逆に、舌に残された記憶をたよりに、材料をどのような味の料理にも仕立てあげることが可能になる。
同じ材料を使っても、調味料にオリーブ油、ニンニク、トマトを使ったらイタリア料理風になるし、ゴマ油と八角を使って中華料理にすることもできる。イタリア料理とはこんな系統の味であるとか、中華料理の味が他の料理と区別される点を類型的に舌に記憶しておくことが可能な段階になったら、しめたものである。そうなると自由自在の境地に達する。コンニャクを材料としても、フランス料理らしき味をつくることができるようになるのだ。
味のイマジネーションができないひとは、まったく試行錯誤で料理をつくることとなる。味のイマジネーションが確立していないひとは、料理の途中で、さらに塩を加えたらどんな味になるか、この材料を入れたら全体の味がどう変わるかが、実際に手をくわえるまえに予言できないのである。わたしの知る例で、山で正月をむかえたとき、雑煮に大量のニンニクを入れて煮たひとがいる。雑煮の味とニンニクがあわさったとき、どんな味になるかということについて、かれはイマジネーションがはたらかなかったのである。