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食生活を探検する36

时间: 2020-04-21    进入日语论坛
核心提示:不作法のすすめ 外交官のタマゴに、テーブルマナーを教えるときの課目のひとつ。フォークでオレンジをつきさして宙にもちあげた
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不作法のすすめ

 外交官のタマゴに、テーブルマナーを教えるときの課目のひとつ。フォークでオレンジをつきさして宙にもちあげたまま、ナイフでもって皮をむく。指でオレンジに直接ふれてはいけない。こんな曲芸を聞いたので、一度ためしてみた。どうも、うまくいかない。ナイフに力をこめると、オレンジがストンと落ちてしまう。さればとて、フォークをぎゅっとさしこんだら、オレンジの身がくずれてしまう。
こんなむずかしい芸当をして、デザートをたべている外国人を、わたしは見たことがない。もっとも、わたしの外国人の友達は、素性いやしい連中ばかりであり、わたしの入った西洋人の食堂は、安飯屋ばかりであるからかもしれないが、友人の谷さんによると、イタリアの大学食堂では、まれには気取って、ナイフとフォークだけで、これ見よがしに、オレンジの皮むきをする学生もいるそうだが。
オレンジの皮は、手でむくべし。将来、大使になって、エリゼー宮の晩餐会に招待されるくらいの大人物になる自信がある人だったら、オレンジの皮むきの練習に、せっせとはげむのもよいでしょう。もっとも「オレンジはきらいじゃ」といって、手をつけずにすます手もある。
 ミッション・スクールのオールドミスのように、テーブルマナーを頭の底に意識しながら食事をしたらば、せっかくの味に没頭することができなくなってしまう。食事作法の大原則は、ものの味を楽しめるようにたべることにある。いかに、エチケット読本のマナーどおりにたべていても、それが身についたものでなかったら、ギクシャクして、かえって見ぐるしい。自己流のたべかたでも、ほんとうに身についているものだったら、けっしておかしなことはない。
もっとも、あまりにも自己流に徹底するのは、どうかと思う。
たべかたのくせで、うまいものからさきにたべる人と、うまいものを最後までとっておいてたべる人がある。どちらにしても、これが極端になると、幼児の食事をみているようで、はらはらしなくてはならない。「あの人は、いつになったら、あのオカズをたべるのだろうか」とか、「あの人は、オカズを全部さきにたべてしまって、メシを食うときどうするんだろう」と一緒にたべている者としても、気がかりでならない。
友人で、メシだけさきにたべてしまい、コメツブがなくなってから、ようやくオカズに手をつけるくせの人がいる。
かれが、カツ丼をたべるときにはどうするか。丼のうえにならんだカツのすきまから、したのメシだけをほじくりだしてたべ、最後に丼の底までずり落ちたトンカツを、さもうまそうにたべるのである。
意地悪をして、かれにカレーライスを注文して、さあどう処理するだろうと、悪友一同見守っているのをつゆ知らず、スプーンでメシのうえにかかっているカレー汁と肉を皿のすみによせて、やっぱりメシからはじめたので、一同おそれいったことであった。
 食事の作法というと、まず頭にうかぶのは西洋料理のたべかたらしい。「どうも、洋食は肩がこっていけませんや」といってしりごみをする。刃物や熊手のたぐいが、何本もものものしくならんでいるので、一種の強迫感にとらわれるらしい。だが、パーティーではなしに、ふつうの西洋人の家庭での食事のときは、たいていナイフとフォーク一本ずつで、すましているようだ。
わたしたちは、スープは音をさせないでたべろとか、ナイフ、フォークは外側から順々に使ったらよいとか、ある程度の西洋料理のたべかたの作法を聞きかじっている。だが、外国人で日本料理の作法を知っている者がどれだけいるだろう。日本人と中国人は、棒切れで、食物をつまみあげるそうだってなことくらいしか知らない。
わたしたちは外国人が日本料理をたべるとき、わざわざナイフとフォークをそえてやるくらいの寛容さをしめしてやっているのだ。逆に外国旅行に出るときは、銀のハシでも持ってゆき、ビーフステーキをハシでたべるくらいのことをしてもよい。笑うヤツがいたならば、「オマエは日本へ来たらば、日本流に日本料理をたべられるか」と、どやしつけたらよい。
スキヤキとかテンプラなどの一品料理しかたべたことのない外国人を、家庭のお惣菜が数皿ならんだ食卓のまえにすわらせたら、いったいどうやってたべたらいいのか、とほうにくれて、絶望的な顔をされる。こんなとき、わたしはハシの使い方を示し、料理をつまむ順序は無視してもよいこと、酒が出ている場合だったら、食事中のタバコは自由であることを教えて、あとは勝手にたべさせることにしている。
わたし自身のたべかたがそうなのである。日本の食事作法では、迷い箸、さぐり箸、さし箸、もぎ箸、移り箸、とかいって、ハシの使い方だけでも、いろいろな作法がある。オカズからオカズへ、すぐハシを移したり、どれをたべようかと、ハシを食膳のうえでまよわせるようなたべかたは、古風なひとにとっては、たいへんに不作法にみえるかもしれない。
膳や盆のうえに、調理ずみの料理を一度に何種類ものせてもってくる会席風になった料理屋の日本料理や、食卓に何種類もの皿を一度にならべる家庭での料理に、むかしながらのコースをまもって、一皿ずつ順番に空にしていく必要はないと、わたしはおもうのである、あっち、こっち、つつきちらしながら、サカズキを口にはこぶ。これが、わたしの日本料理の楽しみかただ。
正式の日本料理を作法にかなってたべようとしたらば、その手続きのやっかいさは、洋食の比ではない。膳の置きかた、膳のうえへの皿のならべかた、食事の進行の順序、酒をのむタイミングなど、実に複雑なきまりがあるうえに、小笠原流などというエチケットがつけくわえられる。三汁七菜などという、膳を五つならべる正式料理の作法にいたっては、聞いても気の遠くなるような話である。
江戸時代から、料理屋での会食には、芸者がつきものとなってくる。室町時代、足利幕府のもとで形式化した日本料理の配膳が町人の世界まで入りこむようになったのはいいが、あまりにも、食事の手続きがめんどうになったので、食卓の進行係として、芸者を連れてこなくてはならぬようになったのではないかと、わたしはにらんでいる。
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