西ニューギニアの山奥でのこと、二日間、湿った森のなかをあるきつづけて、宣教師のいる部落へ着いた。といっても、宣教師に用があったわけではない。宣教師のところへ定期的に物資補給にやってくるセスナ機に便乗して、海岸の町まで行こうという魂胆だった。
西ニューギニアの中央高地から、海岸に出るには、外国人宣教師の組織するセスナ機による交通網を利用するか、あるいは、一カ月以上徒歩でジャングルを突破し、ついで、イカダを組み川を下る探検行をしなくてはならない。わたしのような大探検家になると、足であるくようなはしたないまねはあまりしないので、もちろん文明の利器を使う。ニューギニア高地には、赤道直下で四〜五千メートルの氷河を持つ大雪山山脈がつらなり、セスナは、そんなに高度をとれないので、山々の谷あいをぬって飛び、スリルは満点である。
西ニューギニア高地に人間が住んでいるのが発見されたのが、一九三〇年代である。戦後になってからは、まだ世界に残された唯一の神の福音を知らぬ人びとがいる場所であるということで、世界中の教会組織がニューギニア奥地への進出をはかった。なるべく早く、奥地へ教会をたててしまい、布教の縄張りをつくろうということで教会による陣取合戦がはじまり、探検家よりもさきに、坊主どもが未探検地区に入りこんでしまった。宣教師たちが宣教よりも、教区の分捕りあいの宗教戦争に熱心になったので、ときのオランダ植民地政庁が宗教会議をひらいて、カトリック系とプロテスタント系の二つに教会を編成し、おのおのの教会連合で小型飛行機を共同利用させることとした。
サツマイモのほか、手に入るものがない場所なので、宣教師の使う日常雑貨、食品の一切が、定期的に教会連合のセスナ機で運ばれてくる。ほかに、公営、民営の航空会社がないところなので、西ニューギニアの奥地では、宣教師のセスナが唯一の交通機関となっている。
カトリック系の教会連合の運営するセスナに乗ると、オランダ人の黒い衣を着た坊主が操縦桿をにぎっているし、プロテスタント系のパイロットは、朝鮮でミグとわたりあったというヤンキーである。
さて、プロテスタントのアメリカ人宣教師のいる部落へ着いてみると、あと三日しなければ、飛行機がこないとのこと。飛行場にテントをはって待つことにした。夕方になると、ビヤ樽のように太った牧師夫人が、飛行場を横切って、わたしのテントにやってきた。飛行場を横切るというと遠そうだが、セスナが一機やっと離着陸できるように、草が刈ってあるだけの凸凹な滑走路のことだ。横切っても十メートルくらいだ。牧師夫人はディナーにこいとわたしをさそいにきたのだった。二カ月間、サツマイモとサツマイモの葉の食事でうんざりしていたところなので、二つ返事で招待に応じることとした。
西部開拓時代の丸太小屋のような牧師館のテーブルには、湯気の立つ料理がならんでいた。ついでに、牧師先生夫妻と、その子ども達もならんでいた。
この晩の献立は、インスタントの野菜スープ、飛行機で海岸から運んできたひき肉を使ってのハンバーグステーキに目玉焼きをそえたもの、レタスのサラダといった簡素なもの。しかし、日本からもってきたベーコンを宝物のようにたべたほかには肉にほとんどありつくことなく、野菜もサツマイモの葉くらいしかたべてなかったわたしには、何カ月ぶりかの御馳走だ。
席について、一寸した雑談のあと、牧師先生が、
「|さあ《レツツ》、|はじめよ《スタート》う」
といったので、待ちかねてましたとばかりに、わたしは、スープを口に運んだ。二さじ三さじ口に入れてから、はてどうもようすがおかしいぞとようやく気がついた。
みな、スプーンに手をふれないで、じっとうつむいている。牧師先生は、何やら口の中でもごもごいっている。はじめようと言ったのは、食前のお祈りをはじめようということだった。
「天にましますわれらの父よ。きょうも日々の糧をおさずけくださって、ありがとうございます」てな、ミッションスクールの女の子が申しわけにするようななまやさしいお祈りではない。
さすがに本職のこと、実に長ったらしい文句だ。おまけに、「きょう、われらのもとにおみちびきになった遠い国からの旅人に、恩寵をおさずけになり、かれの海岸の町への飛行が安全であるようにお祈りいたします……」とか、
さらには、「飛行機の出る日が晴れますように」、はては、妊娠中である「パイロットの奥さんが安産するように」と思いつくほどに、お祈りの文句はとどまることを知らない。
口にしたスプーンをあわてて皿にもどし、バツの悪い思いでしたをむいていたわたしには、冷汗の出る実に長い時間であった。
お祈りのおわったときには、スープはさめていた。
西ニューギニア高地に人間が住んでいるのが発見されたのが、一九三〇年代である。戦後になってからは、まだ世界に残された唯一の神の福音を知らぬ人びとがいる場所であるということで、世界中の教会組織がニューギニア奥地への進出をはかった。なるべく早く、奥地へ教会をたててしまい、布教の縄張りをつくろうということで教会による陣取合戦がはじまり、探検家よりもさきに、坊主どもが未探検地区に入りこんでしまった。宣教師たちが宣教よりも、教区の分捕りあいの宗教戦争に熱心になったので、ときのオランダ植民地政庁が宗教会議をひらいて、カトリック系とプロテスタント系の二つに教会を編成し、おのおのの教会連合で小型飛行機を共同利用させることとした。
サツマイモのほか、手に入るものがない場所なので、宣教師の使う日常雑貨、食品の一切が、定期的に教会連合のセスナ機で運ばれてくる。ほかに、公営、民営の航空会社がないところなので、西ニューギニアの奥地では、宣教師のセスナが唯一の交通機関となっている。
カトリック系の教会連合の運営するセスナに乗ると、オランダ人の黒い衣を着た坊主が操縦桿をにぎっているし、プロテスタント系のパイロットは、朝鮮でミグとわたりあったというヤンキーである。
さて、プロテスタントのアメリカ人宣教師のいる部落へ着いてみると、あと三日しなければ、飛行機がこないとのこと。飛行場にテントをはって待つことにした。夕方になると、ビヤ樽のように太った牧師夫人が、飛行場を横切って、わたしのテントにやってきた。飛行場を横切るというと遠そうだが、セスナが一機やっと離着陸できるように、草が刈ってあるだけの凸凹な滑走路のことだ。横切っても十メートルくらいだ。牧師夫人はディナーにこいとわたしをさそいにきたのだった。二カ月間、サツマイモとサツマイモの葉の食事でうんざりしていたところなので、二つ返事で招待に応じることとした。
西部開拓時代の丸太小屋のような牧師館のテーブルには、湯気の立つ料理がならんでいた。ついでに、牧師先生夫妻と、その子ども達もならんでいた。
この晩の献立は、インスタントの野菜スープ、飛行機で海岸から運んできたひき肉を使ってのハンバーグステーキに目玉焼きをそえたもの、レタスのサラダといった簡素なもの。しかし、日本からもってきたベーコンを宝物のようにたべたほかには肉にほとんどありつくことなく、野菜もサツマイモの葉くらいしかたべてなかったわたしには、何カ月ぶりかの御馳走だ。
席について、一寸した雑談のあと、牧師先生が、
「|さあ《レツツ》、|はじめよ《スタート》う」
といったので、待ちかねてましたとばかりに、わたしは、スープを口に運んだ。二さじ三さじ口に入れてから、はてどうもようすがおかしいぞとようやく気がついた。
みな、スプーンに手をふれないで、じっとうつむいている。牧師先生は、何やら口の中でもごもごいっている。はじめようと言ったのは、食前のお祈りをはじめようということだった。
「天にましますわれらの父よ。きょうも日々の糧をおさずけくださって、ありがとうございます」てな、ミッションスクールの女の子が申しわけにするようななまやさしいお祈りではない。
さすがに本職のこと、実に長ったらしい文句だ。おまけに、「きょう、われらのもとにおみちびきになった遠い国からの旅人に、恩寵をおさずけになり、かれの海岸の町への飛行が安全であるようにお祈りいたします……」とか、
さらには、「飛行機の出る日が晴れますように」、はては、妊娠中である「パイロットの奥さんが安産するように」と思いつくほどに、お祈りの文句はとどまることを知らない。
口にしたスプーンをあわてて皿にもどし、バツの悪い思いでしたをむいていたわたしには、冷汗の出る実に長い時間であった。
お祈りのおわったときには、スープはさめていた。