スープをたべるとき、音をさせてはいけない、というのが西洋料理のテーブルマナーでいちばん注意されることだが。
スプーンを、くちびるのはしにあてて、液体をすいこもうとするから、チューチュー、ズルズルという音がするのである。スプーンを半分ちかく口のなかにまでおしこんで、柄でもって、液体を口のなかにおしあけるようにしたら、けっして不作法な音はたてないものである。
口のなかにあけたスープを、しばらくふくんでから、のどに流しこむ。こうしたら、スープのうまさが味わえるのだ。スプーンのはしから、バキューム・カーのように吸いだしたら、そのいきおいでもって、液体は、舌の上を素通りして、食道へ直通してしまう。これでは、せっかくの味が楽しめない。
スープは吸うもの、あるいは飲むものではなく、たべるものである。ヨーロッパのことばでは、スープを飲むとはいわず、スープをたべるという。
もともと、スープは肉、野菜をごった煮にした、なかみが多くて汁が少ないものであった。つまり、ロシアのボルシチ、イタリアのミネストラのようなものだったから、スープはたべるものなのだ。そのうち、だんだん、なかみだけを、別の皿にもるようになったり、なかみをつぶして、ウラゴシにかけてなめらかなポタージュのようなものをつくることになった。汁気が多いスープが一般的になったのは、十九世紀からといわれる。
飲むのではなく、たべるつもりになって、スプーンを使ったら、音をたてることがなくなる。
スプーンにあふれるばかりに、スープをすくって、こぼれやしないかと、心配しながら、皿のうえでおじぎをしながらたべる人が多い。スプーンを胸の高さまでもっていって、こんどは、口をスプーンのところまでさげていき、液体を口にうつしたのち、重力の法則にしたがってスープがノドもとを通過するように首をもちあげる。なんのことはない、ひとすくいごとにスープ皿にむかっておじぎをしているのだ。これだけは、みられたざまではない。食事のときには、背をしゃんとのばし、スプーンやフォークを口の高さまで運ぶべきである。
太宰治の小説に、貴族出のオバサマが、スプーンを口に対して直角にもっていってスープをたべる——つまり、スプーンのワキバラではなくて、ハシから口に入れる——話があったと記憶している。スプーンを口の高さまで運んで手首をてまえに折って、スープをたべるスタイルは、いかにもレディーにふさわしいマナーである。というような話を谷さんからきいて、さっそく、グリーンピースのポタージュをつくって実験してみた。
なるほどかっこうはよいが、ときどきスプーンから、スープをこぼしては、シャツをよごした。実験場は、リビア砂漠のまんなかの調査地。イスやテーブルはなく、アラビア風に土間に敷物を置いて、そのうえにアグラを組んでの食事。ヒザの下においた、スープ皿から口まで、七十センチの高さがあるので、こぼすのもむりもないことであった。
貴婦人風のスープのたべかたは、スプーンのくぼんだ部分が円形をしているものであったら容易である。ティースプーンを大形にしたような、くぼんだ部分の先端がとがっているスプーンで試みる場合は、不器用な方には、イタリアでスパゲッティをたべるときのように、ナプキンをヨダレカケ式に、首からぶらさげることをおすすめする。もっとも、こんなかっこうでは、どんなにスープをたべる手つきがよくても紳士の食事とはいいかねるが。
なお、スープをたべるさいに、スプーンを手前からむこうへおしやって汁をすくうべきか、むこうから、こちらへ引くべきか、などという愚劣なことにこだわる必要はない。また、汁が少なくなってから、すっかりさらうためには、皿の手前をおしあげて、向側に汁をためてすくうべきか、その逆か。こんなエチケットに、こだわる必要はない。西洋人でも両方やっている。だいたい、汁を皿に盛るのがまちがっているというべきであろう。
ついでに、リビア砂漠で、わたしがよくつくった野戦料理の一つ、グリーンピースのポタージュのつくりかたを紹介しておこう。グリーンピースの罐詰は、世界のどこでも手に入る食品の一つである。リビア砂漠でも、ちょっとした商店のあるオアシスでなら売っている。
タマネギを細かくきざみ、ニンニク少々を加えて、バターあるいは、ラクダの脂肪でいためる。これをインスタント食品のうちもっとも重宝なものであるコンソメスープの素でつくった、スープのなかに入れる。一方、グリーンピースの罐を開けて、なかみをカップにうつして、懐中電灯の柄、あるいは、薬の空ビンなど手頃の突き棒になるもので、ドンドンとたたきつぶす。スープの中に、ぐちゃぐちゃになったグリーンピースをぶちこんで、一度沸騰させたらハイ出来あがり。遊牧民から、ヒツジのミルクからつくったバターオイルをわけてもらえたときには、これをとかしこむと、一層風味がよい。
スプーンを、くちびるのはしにあてて、液体をすいこもうとするから、チューチュー、ズルズルという音がするのである。スプーンを半分ちかく口のなかにまでおしこんで、柄でもって、液体を口のなかにおしあけるようにしたら、けっして不作法な音はたてないものである。
口のなかにあけたスープを、しばらくふくんでから、のどに流しこむ。こうしたら、スープのうまさが味わえるのだ。スプーンのはしから、バキューム・カーのように吸いだしたら、そのいきおいでもって、液体は、舌の上を素通りして、食道へ直通してしまう。これでは、せっかくの味が楽しめない。
スープは吸うもの、あるいは飲むものではなく、たべるものである。ヨーロッパのことばでは、スープを飲むとはいわず、スープをたべるという。
もともと、スープは肉、野菜をごった煮にした、なかみが多くて汁が少ないものであった。つまり、ロシアのボルシチ、イタリアのミネストラのようなものだったから、スープはたべるものなのだ。そのうち、だんだん、なかみだけを、別の皿にもるようになったり、なかみをつぶして、ウラゴシにかけてなめらかなポタージュのようなものをつくることになった。汁気が多いスープが一般的になったのは、十九世紀からといわれる。
飲むのではなく、たべるつもりになって、スプーンを使ったら、音をたてることがなくなる。
スプーンにあふれるばかりに、スープをすくって、こぼれやしないかと、心配しながら、皿のうえでおじぎをしながらたべる人が多い。スプーンを胸の高さまでもっていって、こんどは、口をスプーンのところまでさげていき、液体を口にうつしたのち、重力の法則にしたがってスープがノドもとを通過するように首をもちあげる。なんのことはない、ひとすくいごとにスープ皿にむかっておじぎをしているのだ。これだけは、みられたざまではない。食事のときには、背をしゃんとのばし、スプーンやフォークを口の高さまで運ぶべきである。
太宰治の小説に、貴族出のオバサマが、スプーンを口に対して直角にもっていってスープをたべる——つまり、スプーンのワキバラではなくて、ハシから口に入れる——話があったと記憶している。スプーンを口の高さまで運んで手首をてまえに折って、スープをたべるスタイルは、いかにもレディーにふさわしいマナーである。というような話を谷さんからきいて、さっそく、グリーンピースのポタージュをつくって実験してみた。
なるほどかっこうはよいが、ときどきスプーンから、スープをこぼしては、シャツをよごした。実験場は、リビア砂漠のまんなかの調査地。イスやテーブルはなく、アラビア風に土間に敷物を置いて、そのうえにアグラを組んでの食事。ヒザの下においた、スープ皿から口まで、七十センチの高さがあるので、こぼすのもむりもないことであった。
貴婦人風のスープのたべかたは、スプーンのくぼんだ部分が円形をしているものであったら容易である。ティースプーンを大形にしたような、くぼんだ部分の先端がとがっているスプーンで試みる場合は、不器用な方には、イタリアでスパゲッティをたべるときのように、ナプキンをヨダレカケ式に、首からぶらさげることをおすすめする。もっとも、こんなかっこうでは、どんなにスープをたべる手つきがよくても紳士の食事とはいいかねるが。
なお、スープをたべるさいに、スプーンを手前からむこうへおしやって汁をすくうべきか、むこうから、こちらへ引くべきか、などという愚劣なことにこだわる必要はない。また、汁が少なくなってから、すっかりさらうためには、皿の手前をおしあげて、向側に汁をためてすくうべきか、その逆か。こんなエチケットに、こだわる必要はない。西洋人でも両方やっている。だいたい、汁を皿に盛るのがまちがっているというべきであろう。
ついでに、リビア砂漠で、わたしがよくつくった野戦料理の一つ、グリーンピースのポタージュのつくりかたを紹介しておこう。グリーンピースの罐詰は、世界のどこでも手に入る食品の一つである。リビア砂漠でも、ちょっとした商店のあるオアシスでなら売っている。
タマネギを細かくきざみ、ニンニク少々を加えて、バターあるいは、ラクダの脂肪でいためる。これをインスタント食品のうちもっとも重宝なものであるコンソメスープの素でつくった、スープのなかに入れる。一方、グリーンピースの罐を開けて、なかみをカップにうつして、懐中電灯の柄、あるいは、薬の空ビンなど手頃の突き棒になるもので、ドンドンとたたきつぶす。スープの中に、ぐちゃぐちゃになったグリーンピースをぶちこんで、一度沸騰させたらハイ出来あがり。遊牧民から、ヒツジのミルクからつくったバターオイルをわけてもらえたときには、これをとかしこむと、一層風味がよい。