太平洋で食人のもっとも盛んであったのは、ニューギニア、ソロモン群島、ニューヘブリデス諸島、フィジー諸島などのメラネシアである。さきにのべたように人間にのりうつった超自然力に対する畏敬の念が強いこと、この地方に盛んな祖先崇拝や、秘密結社の儀礼に人間犠牲がむすびつくこと、さらには、ブタおよびイヌのほかの家畜がなく、漁撈のできる海岸民のほかは、動物性蛋白資源にとぼしいことなども原因となって、メラネシアが食人の本場となったのである。
メラネシアのなかでも、とくに人喰いの盛んであったのは、フィジー諸島である。フィジーでは、人肉に対する異常嗜好が集団的現象としておこった。儀礼や宗教的な理由のために、人肉をたべるというよりも、食うために人を殺したのである。
しかし、フィジーで人肉嗜好が盛んになったのは、フィジー人が殺伐であったというよりも、ヨーロッパ人と接触してからあとの大きな社会変動の結果である。
太平洋に探検家がのりだしたあと、続いてこの新たな海域を荒しまわったのは、捕鯨船と商船であった。いずれにしろ、海賊と大して変らないような|一攫《いつかく》千金をもくろむ連中のことである。酒と鉄の道具でもって原住民をたぶらかし、鉄砲でもっておどかす。なかには、現地の大酋長に鉄砲を多量に売りつける者もあらわれるし、脱走水兵たちが、数挺の鉄砲でもって、一つの島を乗っ取るようなこともおこる。
石器を使用していた人びとの間に、酒と鉄砲が移入されると、紛争が絶え間なく起り、しかも大量殺人が可能となる。また、紛争のかげには、利権をめあての白人のあとおしがある。ヨーロッパの国家が、部族間戦争の当事者の一方に力をかして、軍隊を送って島民をたくさん殺してしまったりする。また、抵抗力のない新たな伝染病が、白人からもたらされる。太平洋諸島のどこでも、白人と接触してから急激な人口の減少がみられる。
荒くれ男たちがさんざん悪いことをしたあとになって、宣教師がやってくる。そして、自分たちの同類が教えた酒を禁止したり、何も悪事をしているとは考えていない人びとに、「悔い改めよ」と説いてまわる。裸が恥かしいと思ってみたこともなかった原住民に、着物を着せてまわっては、結果的には、白人商人のお先棒をかつぐこととなる。おこった現地人が、もののはずみで宣教師を殺したりしたならば、さあーしめたものだ。白人の背後にある国家から、軍艦が派遣され、膨大な額の賠償金をよこせとせまってくる。貨幣経済を知らなかった島民たちには、とうてい賠償は不可能である。すると、金のかわりに土地を割譲させる。このようにして、十九世紀末までに、トンガ諸島をのぞいた全太平洋諸島が植民地とされてしまった。
フィジー諸島は、南太平洋の航海路のカナメのような場所に位置するために、白人との接触による社会変動が特にいちじるしかった。十九世紀初頭になると、かつて島を政治、宗教の両面から支配していた王制も、名目だけのものとなり、各地の大酋長が、てんでに内戦をはじめる。酋長たちの顧問役として、ならず者の白人たちがついては、鉄砲でもって加勢する。
こんな状態のもとで、十九世紀初頭に、フィジーでの人肉嗜好は頂点に達した。一八四〇年に死んだウンドリウンドリ大酋長は、同僚のワンガレブ酋長とともに、人間一人をたべたら石を一個置いて心覚えにした。酋長をたべたときは、大きな石、庶民をたべたときには小さな石を置いて、石の列をつくった。これらの石を後に白人が数えたら、八百七十二個あったそうだ。ウンドリウンドリ大酋長は、食いきれないほど死体が手に入ったときは、人間の塩漬にして保存したという。
また、ある白人の記録によると、フィジーのマティバタ王は、人間のローストが出来あがるのを待ちかねて、鼻先だけ三つ切りとらせて、焼石のうえにおいて手ずから焼きはじめたという。最初の二切れは、むちゅうでむさぼり、三切れ目に手をのばしかけたとき、筆者と目があって大いにまごつきながら、
「あなたがいらっしゃるのが目にとまりませんで、お先に失礼いたしました。でも、このほうがよく焼けていますよ」
といって、しぶしぶ三切れ目の焼肉をさしだして、たべるようたのんだという。
このころフィジーのことわざに、「どんな親友であっても、二人っきりで山のなかへ行くな。帰りは一人だけになってしまう」というのがある。一人は腹のなかへおさめられてしまうからだ。
フィジーの庶民は、昔は人肉をたべなかったという。王や酋長にしか許されなかった食物である人肉が、鉄砲を使用する内戦がさかんに行なわれるようになった十九世紀になってから、死者が沢山でて、庶民の口にも、人間の肉が入るようになった。それまでの戦争は、棍棒によるなぐり合いであった。
さて、フィジーでの人間の料理法を、少しくわしく書いてみよう。
材料の入手 中国では、市場で人肉を切り売りしていたこともあるが、商業や貨幣経済が発達していなかったフィジーのこと、買物に出かける訳にはいかなかった。
材料を入手する一番の機会は戦争であった。遠い部落へ攻めていった大きなカヌーに死体を満載してもどってきては、大宴会が開かれたという。また、捕虜として、生きたまま自分の部落へ連れてきて、しばらく太らせたのちに殺すこともあった。戦争がないときには、遠い部落と談合して、食用の人間を送らせたりしたという。
「オレは人間を数えきれないほど食ったことがあるぞ!」というのが、誇りであり、人をたべることで酋長は、近隣の部族や部下たちをおそれさせ、従わせていた。そこで、食用の人肉を常に供給できるよう酋長たちはいつも気にかけていたという。
難破船の漂着者も、料理の材料とされた。フィジーでは、よそ者が漂着してくると、かならず殺してしまう習慣があった。昔、漂着者を大事にしてやって、自分たちと同じように取りあつかって部落に住まわせたところ、図にのってよそ者たちがクーデターを起して、酋長を殺し、その妻をうばったことがあるという。また、よそ者によって伝染病がもたらされたりした。以後、よその島の者が流れついたら、殺してたべることになったそうだ。
だいたいにおいて、食用に供する人間は遠い部落の住民とか、敵にあたる者が多かった。しかし、なかには、自分の妻たちのうちから一番の悪妻を一人殺して身体の半分を食ってしまい、食い残りの部分を家の前の木からぶらさげて、他の妻たちへの見せしめにした、あっぱれな亭主もいたという。
よい肉のみわけかた 子どもの肉が一番うまい。酋長の最上のごちそうは、子どものローストである。女の肉のほうが、男よりもやわらかくておいしい。白人の肉は、塩からく、タバコのヤニくさくて、まずい。白人の船の下級船員によくやとわれていた中国人の肉は白人にくらべたらましだそうだ。一番うまいのは、フィジー人の肉である。
人体で一番うまい部分は、ヒジと肩のあいだと、腰と膝のあいだの肉である。ニワトリの手羽肉と股肉がうまいのと同じだ。
人間の肉だけは、新鮮さがたっとばれない。むしろ、くさりかかったものが好まれた。遠い戦場から何日もかかって運んできて、緑色っぽく変色して、形のくずれかかった死体も平気でたべた。腐ってくずれた人肉は、タロイモの葉に包んでむしてプディングにしてたべた。
したごしらえ フィジーの首都、ヴィティレブ島のスバの町の博物館の入口に、キリング・ストーン(殺し石)なるものが置いてある。人の肩の高さをした、ずん胴の石柱だ。この石柱のてっぺんに、人の顔面がすっぽりとうずまるくらいのくぼみがある。このくぼみのまわりには、黒ずんで古いよごれが附着している。
博物館所蔵の石器の調査に、二週間通ううちに、仲よしになった現地人の館員が、わたしの肩をおさえて、顔をくぼみにおしあて、後頭部を棍棒でなぐるまねをして、「オレの先祖は、こうやって殺したヤツを食ってしまったんだぜ」と、オーストラリアなまりの英語で教えてくれた。
捕虜を殺すまえには、食物を沢山つめこませて、肉をつけてから料理する。タロイモ、ヤムイモなどのデンプン質で太りやすい食品が主食の島のことだ。閉じこめて、運動をさせずに、ブロイラーのように食えるだけ食わして太らせる。捕虜のなかから、今日はどいつをたべてやろうと選択するとき、クシャミをした者はたべない。クシャミをするのは、臆病者のしるしであり、臆病者の肉は、たべなかったのだそうだ。
また、病死した者の肉もたべない。食用に供するのは、殺した者に限る。
死体として運んできた肉、あるいは料理寸前に殺した材料を使うのがふつうである。ときには、捕虜に日本でいう正座の姿勢をとらせたまま、がんじがらめにしばりつけ、生きたままバーベキューにする場合もあった。この場合には、下ごしらえは不要である。
「七人が殺されて、七頭のブタと化した」という表現からもうかがわれるように、人間は殺された瞬間から、食肉とみなされた。
さて、料理の下ごしらえは、毛焼きからはじまる。焚火のうえに死体をかざして、前後にずらし、うらがえしをして、体毛をすっかり焼きとる。そのあと、鋭い貝殻の腹縁部でもって、体の表面をこそいで、つるつるにしてしまう。ときには、皮つきのままでは料理せず、皮膚をすっかり剥いで、下ごしらえとする。
表面をきれいにととのえたのち、腹を裂いて、ワタぬきをする。頭部も切り落すことが多い。ふつう臓物、頭はたべずに捨ててしまう。ただ心臓、肝臓は、土中に埋めて保存食としておき、掘りおこしてたべた。
土ガメで煮る場合には、手足をばらして、カメのなかにおさまるようにする。竹のナイフあるいは貝殻でもって関節部から切りはなして、上膊、下膊、上腿、下腿と胴体の五つの部分にばらばらにして、下ごしらえはおしまいとなる。手首、足首から先の部分はちょん切ってしまう。
料理法 人間の料理技法には、三種類ある。ボイル(煮ること)、グリル(焼肉)、ロースト(むし焼き)であり、フィジーでは生食はしなかったようである。
フィジー諸島では、金属製のナベを使いだすまえは、土器の壺、カメで食物を煮ていた。フィジーの土器は素焼きであるが、さまざまの器形に富み、装飾も豊かで、メラネシアの土器文化のもっとも発達した段階をしめしている。焼きあがった土器に余熱の残っているうちに、樹脂の塊りで土器の表面をこすると、熱で溶けた樹脂が、ラッカーをぬったように器体の表面をおおう。そこで、土器は赤褐色に光沢をはなち、まるで|釉薬《うわぐすり》をかけたような効果をしめす。
炊事用具として土器を使用するときには、砲弾状の形をした厚手の素焼きの台を三つ、五徳のようにならべ、このうえに土器の底をのせ、したから火をたく。フィジーの博物館には、高さが一メートルはある大形の煮沸用の壺やカメがならんでいるが、このような土器で、人間も料理したことであろう。
人間料理にかかせないそえものとして、ボコラ、マラワシ、ボラディナの三種類の木の葉がある。始めの二種は野生の木であるが、ボラディナは栽培植物であり、ボラディナの植えてある場所で、よく人間が料理されたという。人間の肉を、そのままたべると、むかつきをおぼえたり、食後二、三日間便秘をするという。この三種の木の葉をそえて料理をしたら、消化がよいそうだ。
さて、人肉をボイルするときは、これらの野菜と解体した身体を土器のなかに長時間入れて煮る。土器のフタには、タロイモなどの大きな葉をかぶせて、しばっておく。煮えたぎって土器から湯気の音がしてくると、「亡霊がナベのなかで口笛をふいてやがる」と表現したそうだ。肉がよく煮えて縮みあがって、バラバラにした手足のはしの骨がぬけるまで火にかける。こうすると、肉から骨を容易にはずすことができるのは、かしわの水たきでも、御承知のことだろう。
グリルは、焚火のうえにかざす、あるいは焼石のうえに置いてつくる。人間のバーベキューだ。
「オレは生焼き」「メディアムにしてくれ」とかいろいろ好みによって、うるさい注文がでたことであろう。
ローストは、南太平洋独自の石むし料理方法でなされる。地面に大きな穴を掘る。穴のなかに焚火のなかで真赤に焼けた石ころをしきつめて、このうえをバナナ、タロイモなどの葉でおおう。このうえに人間をのせて、葉をまた何重にもかぶせて、焼石をのせ、そのうえに土をかぶせて、熱が逃げないようにする。いってみたならば、地面と焼石を利用して、巨大なオーブンをつくり、このなかで人間の包み焼きをするのだ。
ブタの丸焼きでも、早くて三時間はかかるのだから、人間のローストは半日はたっぷりかかるであろう。一日かかってローストをつくり、翌日になってから、人間をコールドミートにしてたべているのをみたという記録もある。また人間が生焼けのまま、ハーフローストでとりあげると保存用によいとされたそうだ。
人間の姿焼きも、ローストの方法でつくられた。これは五体そろったまま、ワタぬきだけをして、からっぽになった腹のなかに焼石をつめて、ローストにする。こんがり焼けた人体をとりだしたら、これに衣裳をつけ、頭にはカツラをのせ、顔は赤く顔料でぬりたくり、手には棍棒を持たせ、生ける戦士のようなかっこうをさせる。このようにした人間の姿焼きは、特に友人へのプレゼントとして用いられた。姿焼きにした人間をかついで通るときなどは、生きている人間と見間違うほどであったという。
たべかた 宗教的意味をもって人間をたべた昔の習慣が尾を引いて、十九世紀になっても、人間を口にするまえには、司祭の長ったらしいお祈りを聞かねばならないこともあったようだ。ほかの食物は手づかみなのに、人間を食べるときだけは、三叉あるいは四叉のフォークを使用した。フォークは木または人骨でつくられる。人肉を手づかみでたべると、皮膚病にかかると信じられていた。フィジーの博物館には、人喰用のフォークが飾ってある。
南太平洋の宴会の常として、ごちそうのまえにまず坐るのは、酋長クラスの者で、かれらが一番うまい部分をたべてしまう。一番えらい人びとが退席したあとに、次の位の高い者たちが座についてたべる。そこで、庶民は、あとで人間の骨をしゃぶることが多かったようだ。もう食うところがなくなった骨は、木の枝からぶらさげられたという。
人肉の味は、ブタに似て、もっとうまいといわれた。「人の肉のようにやわらかい」というのは、フィジー人にとって、よく料理された食物への最大の賛辞とされていた。なお、使われた調味料は塩だけである。
メラネシアのなかでも、とくに人喰いの盛んであったのは、フィジー諸島である。フィジーでは、人肉に対する異常嗜好が集団的現象としておこった。儀礼や宗教的な理由のために、人肉をたべるというよりも、食うために人を殺したのである。
しかし、フィジーで人肉嗜好が盛んになったのは、フィジー人が殺伐であったというよりも、ヨーロッパ人と接触してからあとの大きな社会変動の結果である。
太平洋に探検家がのりだしたあと、続いてこの新たな海域を荒しまわったのは、捕鯨船と商船であった。いずれにしろ、海賊と大して変らないような|一攫《いつかく》千金をもくろむ連中のことである。酒と鉄の道具でもって原住民をたぶらかし、鉄砲でもっておどかす。なかには、現地の大酋長に鉄砲を多量に売りつける者もあらわれるし、脱走水兵たちが、数挺の鉄砲でもって、一つの島を乗っ取るようなこともおこる。
石器を使用していた人びとの間に、酒と鉄砲が移入されると、紛争が絶え間なく起り、しかも大量殺人が可能となる。また、紛争のかげには、利権をめあての白人のあとおしがある。ヨーロッパの国家が、部族間戦争の当事者の一方に力をかして、軍隊を送って島民をたくさん殺してしまったりする。また、抵抗力のない新たな伝染病が、白人からもたらされる。太平洋諸島のどこでも、白人と接触してから急激な人口の減少がみられる。
荒くれ男たちがさんざん悪いことをしたあとになって、宣教師がやってくる。そして、自分たちの同類が教えた酒を禁止したり、何も悪事をしているとは考えていない人びとに、「悔い改めよ」と説いてまわる。裸が恥かしいと思ってみたこともなかった原住民に、着物を着せてまわっては、結果的には、白人商人のお先棒をかつぐこととなる。おこった現地人が、もののはずみで宣教師を殺したりしたならば、さあーしめたものだ。白人の背後にある国家から、軍艦が派遣され、膨大な額の賠償金をよこせとせまってくる。貨幣経済を知らなかった島民たちには、とうてい賠償は不可能である。すると、金のかわりに土地を割譲させる。このようにして、十九世紀末までに、トンガ諸島をのぞいた全太平洋諸島が植民地とされてしまった。
フィジー諸島は、南太平洋の航海路のカナメのような場所に位置するために、白人との接触による社会変動が特にいちじるしかった。十九世紀初頭になると、かつて島を政治、宗教の両面から支配していた王制も、名目だけのものとなり、各地の大酋長が、てんでに内戦をはじめる。酋長たちの顧問役として、ならず者の白人たちがついては、鉄砲でもって加勢する。
こんな状態のもとで、十九世紀初頭に、フィジーでの人肉嗜好は頂点に達した。一八四〇年に死んだウンドリウンドリ大酋長は、同僚のワンガレブ酋長とともに、人間一人をたべたら石を一個置いて心覚えにした。酋長をたべたときは、大きな石、庶民をたべたときには小さな石を置いて、石の列をつくった。これらの石を後に白人が数えたら、八百七十二個あったそうだ。ウンドリウンドリ大酋長は、食いきれないほど死体が手に入ったときは、人間の塩漬にして保存したという。
また、ある白人の記録によると、フィジーのマティバタ王は、人間のローストが出来あがるのを待ちかねて、鼻先だけ三つ切りとらせて、焼石のうえにおいて手ずから焼きはじめたという。最初の二切れは、むちゅうでむさぼり、三切れ目に手をのばしかけたとき、筆者と目があって大いにまごつきながら、
「あなたがいらっしゃるのが目にとまりませんで、お先に失礼いたしました。でも、このほうがよく焼けていますよ」
といって、しぶしぶ三切れ目の焼肉をさしだして、たべるようたのんだという。
このころフィジーのことわざに、「どんな親友であっても、二人っきりで山のなかへ行くな。帰りは一人だけになってしまう」というのがある。一人は腹のなかへおさめられてしまうからだ。
フィジーの庶民は、昔は人肉をたべなかったという。王や酋長にしか許されなかった食物である人肉が、鉄砲を使用する内戦がさかんに行なわれるようになった十九世紀になってから、死者が沢山でて、庶民の口にも、人間の肉が入るようになった。それまでの戦争は、棍棒によるなぐり合いであった。
さて、フィジーでの人間の料理法を、少しくわしく書いてみよう。
材料の入手 中国では、市場で人肉を切り売りしていたこともあるが、商業や貨幣経済が発達していなかったフィジーのこと、買物に出かける訳にはいかなかった。
材料を入手する一番の機会は戦争であった。遠い部落へ攻めていった大きなカヌーに死体を満載してもどってきては、大宴会が開かれたという。また、捕虜として、生きたまま自分の部落へ連れてきて、しばらく太らせたのちに殺すこともあった。戦争がないときには、遠い部落と談合して、食用の人間を送らせたりしたという。
「オレは人間を数えきれないほど食ったことがあるぞ!」というのが、誇りであり、人をたべることで酋長は、近隣の部族や部下たちをおそれさせ、従わせていた。そこで、食用の人肉を常に供給できるよう酋長たちはいつも気にかけていたという。
難破船の漂着者も、料理の材料とされた。フィジーでは、よそ者が漂着してくると、かならず殺してしまう習慣があった。昔、漂着者を大事にしてやって、自分たちと同じように取りあつかって部落に住まわせたところ、図にのってよそ者たちがクーデターを起して、酋長を殺し、その妻をうばったことがあるという。また、よそ者によって伝染病がもたらされたりした。以後、よその島の者が流れついたら、殺してたべることになったそうだ。
だいたいにおいて、食用に供する人間は遠い部落の住民とか、敵にあたる者が多かった。しかし、なかには、自分の妻たちのうちから一番の悪妻を一人殺して身体の半分を食ってしまい、食い残りの部分を家の前の木からぶらさげて、他の妻たちへの見せしめにした、あっぱれな亭主もいたという。
よい肉のみわけかた 子どもの肉が一番うまい。酋長の最上のごちそうは、子どものローストである。女の肉のほうが、男よりもやわらかくておいしい。白人の肉は、塩からく、タバコのヤニくさくて、まずい。白人の船の下級船員によくやとわれていた中国人の肉は白人にくらべたらましだそうだ。一番うまいのは、フィジー人の肉である。
人体で一番うまい部分は、ヒジと肩のあいだと、腰と膝のあいだの肉である。ニワトリの手羽肉と股肉がうまいのと同じだ。
人間の肉だけは、新鮮さがたっとばれない。むしろ、くさりかかったものが好まれた。遠い戦場から何日もかかって運んできて、緑色っぽく変色して、形のくずれかかった死体も平気でたべた。腐ってくずれた人肉は、タロイモの葉に包んでむしてプディングにしてたべた。
したごしらえ フィジーの首都、ヴィティレブ島のスバの町の博物館の入口に、キリング・ストーン(殺し石)なるものが置いてある。人の肩の高さをした、ずん胴の石柱だ。この石柱のてっぺんに、人の顔面がすっぽりとうずまるくらいのくぼみがある。このくぼみのまわりには、黒ずんで古いよごれが附着している。
博物館所蔵の石器の調査に、二週間通ううちに、仲よしになった現地人の館員が、わたしの肩をおさえて、顔をくぼみにおしあて、後頭部を棍棒でなぐるまねをして、「オレの先祖は、こうやって殺したヤツを食ってしまったんだぜ」と、オーストラリアなまりの英語で教えてくれた。
捕虜を殺すまえには、食物を沢山つめこませて、肉をつけてから料理する。タロイモ、ヤムイモなどのデンプン質で太りやすい食品が主食の島のことだ。閉じこめて、運動をさせずに、ブロイラーのように食えるだけ食わして太らせる。捕虜のなかから、今日はどいつをたべてやろうと選択するとき、クシャミをした者はたべない。クシャミをするのは、臆病者のしるしであり、臆病者の肉は、たべなかったのだそうだ。
また、病死した者の肉もたべない。食用に供するのは、殺した者に限る。
死体として運んできた肉、あるいは料理寸前に殺した材料を使うのがふつうである。ときには、捕虜に日本でいう正座の姿勢をとらせたまま、がんじがらめにしばりつけ、生きたままバーベキューにする場合もあった。この場合には、下ごしらえは不要である。
「七人が殺されて、七頭のブタと化した」という表現からもうかがわれるように、人間は殺された瞬間から、食肉とみなされた。
さて、料理の下ごしらえは、毛焼きからはじまる。焚火のうえに死体をかざして、前後にずらし、うらがえしをして、体毛をすっかり焼きとる。そのあと、鋭い貝殻の腹縁部でもって、体の表面をこそいで、つるつるにしてしまう。ときには、皮つきのままでは料理せず、皮膚をすっかり剥いで、下ごしらえとする。
表面をきれいにととのえたのち、腹を裂いて、ワタぬきをする。頭部も切り落すことが多い。ふつう臓物、頭はたべずに捨ててしまう。ただ心臓、肝臓は、土中に埋めて保存食としておき、掘りおこしてたべた。
土ガメで煮る場合には、手足をばらして、カメのなかにおさまるようにする。竹のナイフあるいは貝殻でもって関節部から切りはなして、上膊、下膊、上腿、下腿と胴体の五つの部分にばらばらにして、下ごしらえはおしまいとなる。手首、足首から先の部分はちょん切ってしまう。
料理法 人間の料理技法には、三種類ある。ボイル(煮ること)、グリル(焼肉)、ロースト(むし焼き)であり、フィジーでは生食はしなかったようである。
フィジー諸島では、金属製のナベを使いだすまえは、土器の壺、カメで食物を煮ていた。フィジーの土器は素焼きであるが、さまざまの器形に富み、装飾も豊かで、メラネシアの土器文化のもっとも発達した段階をしめしている。焼きあがった土器に余熱の残っているうちに、樹脂の塊りで土器の表面をこすると、熱で溶けた樹脂が、ラッカーをぬったように器体の表面をおおう。そこで、土器は赤褐色に光沢をはなち、まるで|釉薬《うわぐすり》をかけたような効果をしめす。
炊事用具として土器を使用するときには、砲弾状の形をした厚手の素焼きの台を三つ、五徳のようにならべ、このうえに土器の底をのせ、したから火をたく。フィジーの博物館には、高さが一メートルはある大形の煮沸用の壺やカメがならんでいるが、このような土器で、人間も料理したことであろう。
人間料理にかかせないそえものとして、ボコラ、マラワシ、ボラディナの三種類の木の葉がある。始めの二種は野生の木であるが、ボラディナは栽培植物であり、ボラディナの植えてある場所で、よく人間が料理されたという。人間の肉を、そのままたべると、むかつきをおぼえたり、食後二、三日間便秘をするという。この三種の木の葉をそえて料理をしたら、消化がよいそうだ。
さて、人肉をボイルするときは、これらの野菜と解体した身体を土器のなかに長時間入れて煮る。土器のフタには、タロイモなどの大きな葉をかぶせて、しばっておく。煮えたぎって土器から湯気の音がしてくると、「亡霊がナベのなかで口笛をふいてやがる」と表現したそうだ。肉がよく煮えて縮みあがって、バラバラにした手足のはしの骨がぬけるまで火にかける。こうすると、肉から骨を容易にはずすことができるのは、かしわの水たきでも、御承知のことだろう。
グリルは、焚火のうえにかざす、あるいは焼石のうえに置いてつくる。人間のバーベキューだ。
「オレは生焼き」「メディアムにしてくれ」とかいろいろ好みによって、うるさい注文がでたことであろう。
ローストは、南太平洋独自の石むし料理方法でなされる。地面に大きな穴を掘る。穴のなかに焚火のなかで真赤に焼けた石ころをしきつめて、このうえをバナナ、タロイモなどの葉でおおう。このうえに人間をのせて、葉をまた何重にもかぶせて、焼石をのせ、そのうえに土をかぶせて、熱が逃げないようにする。いってみたならば、地面と焼石を利用して、巨大なオーブンをつくり、このなかで人間の包み焼きをするのだ。
ブタの丸焼きでも、早くて三時間はかかるのだから、人間のローストは半日はたっぷりかかるであろう。一日かかってローストをつくり、翌日になってから、人間をコールドミートにしてたべているのをみたという記録もある。また人間が生焼けのまま、ハーフローストでとりあげると保存用によいとされたそうだ。
人間の姿焼きも、ローストの方法でつくられた。これは五体そろったまま、ワタぬきだけをして、からっぽになった腹のなかに焼石をつめて、ローストにする。こんがり焼けた人体をとりだしたら、これに衣裳をつけ、頭にはカツラをのせ、顔は赤く顔料でぬりたくり、手には棍棒を持たせ、生ける戦士のようなかっこうをさせる。このようにした人間の姿焼きは、特に友人へのプレゼントとして用いられた。姿焼きにした人間をかついで通るときなどは、生きている人間と見間違うほどであったという。
たべかた 宗教的意味をもって人間をたべた昔の習慣が尾を引いて、十九世紀になっても、人間を口にするまえには、司祭の長ったらしいお祈りを聞かねばならないこともあったようだ。ほかの食物は手づかみなのに、人間を食べるときだけは、三叉あるいは四叉のフォークを使用した。フォークは木または人骨でつくられる。人肉を手づかみでたべると、皮膚病にかかると信じられていた。フィジーの博物館には、人喰用のフォークが飾ってある。
南太平洋の宴会の常として、ごちそうのまえにまず坐るのは、酋長クラスの者で、かれらが一番うまい部分をたべてしまう。一番えらい人びとが退席したあとに、次の位の高い者たちが座についてたべる。そこで、庶民は、あとで人間の骨をしゃぶることが多かったようだ。もう食うところがなくなった骨は、木の枝からぶらさげられたという。
人肉の味は、ブタに似て、もっとうまいといわれた。「人の肉のようにやわらかい」というのは、フィジー人にとって、よく料理された食物への最大の賛辞とされていた。なお、使われた調味料は塩だけである。