戦争が末期に近付いたころ。町は灯火管制がしかれ、警報が鳴ればマッチの火ひとつもれてもならなかった。心覚えをたよりにおもてを歩く。そんなとき、どれほど家並にあかりのともる日を待ち望んだろう。
生まれてから二十四歳になるまで住んでいた赤坂は、敗戦の年の五月に空襲で焼け落ち、はじめて立ち去ることを余儀なくされたけれど。引越した先の仮住居は、傾いた軒と同じように生活の中身をも傾けていった。食糧が不足して、義母が盛り分ける飯の量にいさかうことも度々であった。祖父の病気。商売の根底を失った父もやがて半身不随となる。そんな時期に書いた詩の中に、待つ、という言葉がひとつあった。
犬のいる露地のはずれ[#「犬のいる露地のはずれ」はゴシック体]
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私の家の露地の出はずれに芋屋がある、
そこにずんぐりふとった沖縄芋のような
のそりと大きい老犬がいる。
私の家の露地の出はずれに芋屋がある、
そこにずんぐりふとった沖縄芋のような
のそりと大きい老犬がいる。
人を見てやたらに尻っぽを振るほど
期待も持たず、愛嬌も示さない、
何やら怠惰に眼をあげて蠅を追ったり
主人に向かってたまに力のない声で吠える。
期待も持たず、愛嬌も示さない、
何やら怠惰に眼をあげて蠅を追ったり
主人に向かってたまに力のない声で吠える。
犬は芋屋の釜のそばに寝ていたり
芋袋を解いた荒縄で頸をゆわかれたりしている。
芋袋を解いた荒縄で頸をゆわかれたりしている。
その犬
不思議に犬の顔をしているこの人間の仲間に、
私はなぜか心をひかれる。
ことに夜更け
誰もいなくなった露地のまん中に
犬はきまってごろり、と横になっている。
そのそばを風呂の道具を片手に十一時頃
かならず通るのだが、
不思議に犬の顔をしているこの人間の仲間に、
私はなぜか心をひかれる。
ことに夜更け
誰もいなくなった露地のまん中に
犬はきまってごろり、と横になっている。
そのそばを風呂の道具を片手に十一時頃
かならず通るのだが、
今日という日がもう遠ざかっていった道のはずれ
ながながと寝そべる犬のかたわらに
私はそっとかがみこむ。
ながながと寝そべる犬のかたわらに
私はそっとかがみこむ。
私は犬の鼻先に顔をよせて時々話しかける、
もとより何の意味もない
犬の体温と私の息のあたたかさが通い合う近さでじっと向き合っている
犬の眼が私をとらえる
露地の上に星の光る夜もあれば
真暗闇の晩もある。
もとより何の意味もない
犬の体温と私の息のあたたかさが通い合う近さでじっと向き合っている
犬の眼が私をとらえる
露地の上に星の光る夜もあれば
真暗闇の晩もある。
私は犬に向かって少しの愛情も表現しない
犬も黙って私を見ている
そしてしばらくたつと、私が立ちあがる
犬が身動きする、かすかに、それがわかる
私の心もうごく。
犬も黙って私を見ている
そしてしばらくたつと、私が立ちあがる
犬が身動きする、かすかに、それがわかる
私の心もうごく。
この露地につらなる軒の下に
日毎繰り返される凡俗の、半獣の、争いの
そのはずれに犬が一匹いて私の足をとめさせる
ここは墓地のように、屋根がない
屋根のある私の家にはもう何のいこいもなくて。
日毎繰り返される凡俗の、半獣の、争いの
そのはずれに犬が一匹いて私の足をとめさせる
ここは墓地のように、屋根がない
屋根のある私の家にはもう何のいこいもなくて。
露地のはずれに犬がいる
それだけの期待が 夜更けの
今日と明日との間に私を待っている。
[#ここで字下げ終わり]
それだけの期待が 夜更けの
今日と明日との間に私を待っている。
[#ここで字下げ終わり]
終戦というけれど、八月十五日に片付いたものはごくわずかであったろう。私の友だちは夫の戦死の通知を受けとるまでに、それから二十年近く待たなければならなかった。待って受け取ったのは、骨のはいっていない骨箱だったという。