女のひとが年を取るにつれ、ハンドバッグも大きいのを持つようになる、という。たぶんそのことは、家庭にいる人より、外で働く人の場合にあてはまる。
めったに更新しないけれど、ハンドバッグを買うとき、私は、たくさんはいること、軽いこと(同時に値段の高すぎないこと)に気を配る。袋物店の店先で、いくつかの品を手秤《てばか》りにかけて、重さに首をかたむけている人がいたら、それは私だ。または私によく似た人に違いない。遠い道を行くのに、荷が重いのは禁物である。
買ったバッグに入れるのは、日常最小限の必需品であるから、手放すとたちまち不自由になる。病院へ入院する時も、これを持参した覚えがある。寝ている枕もとのハンドバッグは少しくたびれていて、とどのつまりこれにて用の足りる女の暮らしのさびしさがあった。
食品会社の社長をしていた親類のオバアサンが、老衰して身体の自由をなくしてしまったとき、見舞いに行ったら、かたわらにワニ皮のハンドバッグを置いて眠っていた。上等のワニ皮であることがわずかに社長の面目《めんぼく》を保っていたけれど、広い屋敷のすみで、最後に手もとに置いたのがやはりハンドバッグだったのか、と私は鼻を熱くした。
朝、ラッシュアワーの東京駅を降りると、出勤する女の人のすべて、と言ってよいほどが、ハンドバッグを持っている。それは会社における彼女たちが、自分の時間に自分の物を取りに行く、ちいさなちいさな家。
宿借りは貝殻を背負って暮らす。働く女性は、ハンドバッグの口をあけたり締めたりして、そこから鏡を出して顔をのぞかせたり、手をひっこめたりする。月給を入れるのもバッグなら、月給が足を出すのもバッグの口である。自分の生活を窮屈にその中におし込んで、彼女たちがどんなにけなげに働くか。バッグバッグバッグ。青い空の底を、おびただしい宿借り族が行列しているようで、それを見る私の目は自然に水のかげりをおびてしまう。