「おじさん、そのはまぐりをください」「高いよ」じろりと私を振り返って言いました。
「じゃ、半分ください」おじさんはマスの中から半分よこしました。高いのは承知でした。戦争末期、東京山の手の大空襲で私の町は焼失しました。何十年ぶりかで小学校の同窓会があり、訪れたその町で、少女のころいつも売りに来ていたアサリ売りのおじさんに会ったのです。私を覚えているはずはありません。値段に関係なく買うつもりでした。でも私には買いきれない品とふんだのでしょう。はまぐりとともにおじさんの思いやりも買わなければなりません。見たところおじさんの商売もあまり高度成長していなくて、昔、テンビンに振り分けた竹籠に貝を入れ、かついできたのが、大型のリヤカーに変わっただけでした。私の胸にかかえた新聞紙包みはみるみるぬれてしまいました。