たとえどなたにお支払いするのであっても、自分の財布にある紙幣の中からは、なるべくきれいなの、きれいなのから使うようにしようと決めていても、なに相手は百貨店だ、と思うとついきたないのをつまみ上げている。かと思うと、今夜はこまかいのがない、近所のお風呂屋さんへゆくのに、ちょっと折目のついてないのを出してみせようなどと、これは至ってつまらぬ見栄心をうごかせて、パリリとしたのを持参したりする。
金の使い方というのは、額の多少は勿論、同じ額面の紙幣の使い方でさえ、きれいときたないの違いが出るものである。
いつからそんなことを心がけ、気にするようになったかというと、会社での女子には仕事の外の仕事に集金というのがある。
とあるとき、私は大きな椅子の前で待たされ両手でひらいた紙幣の中から、堂々と、きたないのばかり二枚、三枚とゆっくりえり出して支払われたことがある。これは、かなり上の方へゆかないと出来ないゲイトウだ、と感心はしたけれど、されてみてはじめてわかった。自分の払いっぷりについても、である。いずれは手を離れる通貨のこと、まして同額であれば何の文句があろう。世間様にきれいなのをさし上げる気持になったらどうだ。
自分にそう言ってきかせても、つい新しいのを自分のふところへしまいたくなる。それが人情だの美しい物を愛するからだ、などと言えた代物ではない。
けれど最近、サービスをする側の人は、紙幣の中のきれいなのを心がけて相手にさし出すようになった。出納《すいとう》の窓口などでも係の人が良いのをよりわけてくれたりすると、何ともすがすがしい気持になる。
そんな日常のささいな行為の中で、まったく相手にサービスをしないでも通る立場になったら、私というけちん坊はどんな払いっぷりをするだろう。両手でひろげてきたない札をえりぬき、目下と信じる人間に、はじらいもなく支払ったりするだろうか。それならエラクならない方が身の為だなと、どうにもえらくなれない人間はつぶやく。
私も銀行員のはしくれなので、通貨の運用面に関する労苦をちょっぴり。