ひろい会場に立つと、遠くから一枚の絵が手まねきします。
「こっちよ」
絵が語りかけます。
「よく来てくれたわね、私よ」
会沢さんはちょっと笑います。
私は絵を見ているのではなく、絵の中の会沢さんを見ます。絵のことはわかりません。
会沢さんは長い間、夜と、深い艶のある緑と、少しかたい線と、考えの中で精一ぱい生きていました。
来る年も来る年も、似たような絵の中にいました。
その絵、あるようでないような絵の枠の中で、何枚書いても会沢さん以外の何者でもない色や形の中からやっと手を出し、からだをのり出して脱皮をこころみる精一ぱいないとなみ。そのつらさとたのしさが私にはわかりました。
あ、やっと赤がにじみ出した。あ、白がふえた。そのほんの少しずつの変化に、全身全霊をかけている。働きながらそれをしている。なんの成算もあてにしない愚かしいまでの所業を積み重ねている。
会沢さんは何になろうとしているのでしょう? 会沢さんは絵を画こうとしているのではなく、絵になろうとしているのではないでしょうか? すくなくとも絵の中で、私にもわからない会沢さん自身の思いをとげようとしているのです。
会沢貞子さんは少女のころ私といっしょに、同じ本に物を書いていたことのある古い知り合いです。私の勤め先に会沢さんがたずねてきた時、受付の人が、きょうだいですか? と聞きました。お互い、間違われるかも知れない幾つかの要素に思いあたり、笑うことも忘れていました。