「おばあさん」という呼び名は、どういうときに使われるのでしょう。
年とった女の人の総称のようでもあり、四十歳であっても、孫があればおばあさんです。孫のない、五十なかばの私の友人は公園で、子ども連れの婦人に「おばあちゃま」と言われショックを受けた、と言います。
孫があっても、詩人の英美子さんはおばあさんという呼び名を拒否し、ヨシコと呼ばせているそうです。ある時、私が英さんのお孫さんの背にちょっと手を添えた、その手に心がとまった、と言って、「いつか自分がいなくなったとき、その成長に目をとめて欲しい」という便りをよこされ、人間というものの持つかなしみの深さに、からだをあつくした覚えがあります。
先日、町を歩いていて、働く女性の大先輩と思われる人を見かけ、ハッといたしました。六十歳よりはかなり上に思われる、体格のよいからだに、仕立の良い服を着こなし、帽子をかむり、私の前をつっ切って行くとき、胸打たれたのはすっかりこごんだ背の丸さで、それだけがその婦人の持つ全体の感じに不釣合でした。
肉体がどんなに年をとっても、仕事のほうがまだまだ若い精神を必要としているのだろう、と想像しました。もし声をかけなければならなかったとしたら、私は何と呼んだでしょうか。当然名前で。それを知らない場合にもせいぜい「オクサン」と言うだろうと思います。
おばあさんという呼び名が、老い、と無関係でないなら、同性として、よほど相手のことを考えた上で使います。要注意、それが礼儀だと心得ます。
「おばあさんになったら、おばあさんでいいじゃないの?」若い人は文句を言いますか? 若い人でなくても「私はおばあちゃんで結構よ」。自足し、周囲に不満を抱かないでいる模範的お年寄りからも、物言いがつきそうです。
わかりました。そういう人たちは手をあげて下さい。二つに別れましょう。問題のない人にしばらく黙っていてもらうために。
戦後、いろんな呼び名が変更されました。芸人が芸術家になり、文士が作家になり、大工が建築士になり、女中がお手伝いになる、といったことを、私はつまらないことだと考えました。名前を変えてどうする、その仕事に自信と誇りを持つことのほうが先ではないか、と。女中が女中と言われるままで十分立派に扱ってもらえるような世の中にしたほうがいい、と。
そのデンでゆくと、おばあさんはおばあさんでよいことになるはずですが、少し違うと思うのは身勝手というものでしょうか。
孫は可愛い、けれどオバアチャンと呼ばれるのはイヤだという場合、これからは呼んでもらいたい名を孫に教えたらどんなものでしょう。雰囲気として新鮮になると思います。
最近、年をとった独身女性がふえて来ています。そのひとりである私も、あと何年かすると五十四歳で死んだ祖母の年齢になるのですが。この中には戦争犠牲者が多く、もし平和だったら八〇%から九〇%の人が独身で老年を迎えることはなかったろう、と思われます。家庭があって、はじめておばあちゃんの領分、というような区画も主張できるのでしょうが、その土台のない人たちです。
そこで戦前と戦後が、私の年齢を真っ二つにした形で比較されます。つまり、二十五歳ぐらいまでに知っていた老人と、それ以後の老人です。たとえば、ふるさとの南伊豆で一生を送った大伯母など、遠くから見ただけの感想ですが、ごく自然に年をとり、いのちを全うして、祖父の言葉を借りれば「目をネムリました」そんな表現をするほどおだやかな死に方をしました。それならしあわせだったかというと、早くから寡婦となり、ひとりむすこには自殺され、家族に頼るというアテのない人でした。ただ自分の手仕事を持ち、こころこめて生きるというささやかな願いを、前もって辞世の歌などにして、近隣、村人との連帯の中でおだやかに老けていました。そこには孤独の影がなく、にぎわいさえ感じられました。
自然が、私共の周囲から減ってゆくのと同じ歩調で、いままであった老境、という自然も乏しくなり、ススキの穂のように白髪を光らせながら一歩退いた場所で世の中の背景をなす、というわけには行かなくなったことを感じます。
実利ばかり追い求めた社会の、行きつくハテのような所に、現在と、これからの老人がちょうど行き合わせたかたちになりました。
結婚もせず、家庭というものを持たなかった私には、子に対する悩みも失望も、まして希望もありませんが。ただ、いままで誰にもたよれなかったから、これからも甘えたり、助けてもらえるアテはありません。そこに重大な不安が発生します。会社で定年が来たら、これまで働いてきたように、その先も職を求めて働くしかない。どんなに収入が少なくても、生きて行くためにはそうする以外にない。
そこで戦前と戦後が、私の年齢を真っ二つにした形で比較されます。つまり、二十五歳ぐらいまでに知っていた老人と、それ以後の老人です。たとえば、ふるさとの南伊豆で一生を送った大伯母など、遠くから見ただけの感想ですが、ごく自然に年をとり、いのちを全うして、祖父の言葉を借りれば「目をネムリました」そんな表現をするほどおだやかな死に方をしました。それならしあわせだったかというと、早くから寡婦となり、ひとりむすこには自殺され、家族に頼るというアテのない人でした。ただ自分の手仕事を持ち、こころこめて生きるというささやかな願いを、前もって辞世の歌などにして、近隣、村人との連帯の中でおだやかに老けていました。そこには孤独の影がなく、にぎわいさえ感じられました。
自然が、私共の周囲から減ってゆくのと同じ歩調で、いままであった老境、という自然も乏しくなり、ススキの穂のように白髪を光らせながら一歩退いた場所で世の中の背景をなす、というわけには行かなくなったことを感じます。
実利ばかり追い求めた社会の、行きつくハテのような所に、現在と、これからの老人がちょうど行き合わせたかたちになりました。
結婚もせず、家庭というものを持たなかった私には、子に対する悩みも失望も、まして希望もありませんが。ただ、いままで誰にもたよれなかったから、これからも甘えたり、助けてもらえるアテはありません。そこに重大な不安が発生します。会社で定年が来たら、これまで働いてきたように、その先も職を求めて働くしかない。どんなに収入が少なくても、生きて行くためにはそうする以外にない。
話は違いますが、深沢七郎さんの『楢山節考』が発表になったとき、読後ふとんの中で声を殺して泣いた、その感動を忘れませんが、あれから何年たつでしょう。
最近になって、姨捨《うばすて》が物語の中だけのことでもなければ、伝説でもなく、近い将来をも暗示しているのではないか、と思いはじめています。必要度の減った人間が、自分から死にに行かずにはいられない社会。上手にそれを仕組んだ掟のようなもの。そのムゴサを現在に当てはめてみることは、経済の高度成長と呼ばれているもの、ひとつとって見ても明白に思われます。老人の自殺が、ごく日常的なものにならなければ良いと案じます。
さしあたっての希望は、欲しがらない人間になりたい、ということ。誰が何をしてくれなくても。さみしかったら、どのくらいさみしいか耐えてみて、さみしくゆたかになろうと——。
それができるか、できないか。不安は不安として、とにかく覚悟を決めたら。新しい連帯をこばむことなく、隣りの老人と茶のみ話でもはじめたいと思います。
「私たち、いちど個人の殻をぬいでみましょう」
最近になって、姨捨《うばすて》が物語の中だけのことでもなければ、伝説でもなく、近い将来をも暗示しているのではないか、と思いはじめています。必要度の減った人間が、自分から死にに行かずにはいられない社会。上手にそれを仕組んだ掟のようなもの。そのムゴサを現在に当てはめてみることは、経済の高度成長と呼ばれているもの、ひとつとって見ても明白に思われます。老人の自殺が、ごく日常的なものにならなければ良いと案じます。
さしあたっての希望は、欲しがらない人間になりたい、ということ。誰が何をしてくれなくても。さみしかったら、どのくらいさみしいか耐えてみて、さみしくゆたかになろうと——。
それができるか、できないか。不安は不安として、とにかく覚悟を決めたら。新しい連帯をこばむことなく、隣りの老人と茶のみ話でもはじめたいと思います。
「私たち、いちど個人の殻をぬいでみましょう」