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ユーモアの鎖国49

时间: 2020-04-24    进入日语论坛
核心提示:生活の中の詩あるとき組合団体の催しで、三岸節子さんと菅野圭介さんをまねいて、座談会を開いたことがあった。菅野さんはとうに
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生活の中の詩

あるとき組合団体の催しで、三岸節子さんと菅野圭介さんをまねいて、座談会を開いたことがあった。菅野さんはとうに亡くなられたから、この話はだいぶ古い。
波が記憶をさらって行ったあとに、言葉がひとつ残されていた。この言葉を物の形で表わしてみる。たとえば絵に画くとどうなるのだろう? 波間に岩がひとつ首を出している(たぶんこれは、絵にはなるまい)絵にならないとしても、私はそのイメージの岩に腰かけて釣り糸をたれることが出来る。するといつも何がしかの手応えがある。アレ、またひっかかった、というものだ。
この話を具体的に書き直すと。
丸の内に働く者たちが一夕、著名な絵かきさんを招いてその話に耳を傾けた。席上ひとりの男性がたずねた。
「しかし、何ですねえ、僕ら一流の大学を出て、知識も教養もある者が見て、わからない絵、というものの値打ち、はどういうものなんでしょう?」
「それは、絵に対する教養があなたにおありにならないのです」
答えは三岸さん。言われてみれば明解至極なことに感心した。問題は私の側にあったのかも知れない。
良い大学を出れば、絵に対しても万能であろうという発想。謙虚を裏返しにして、座ぶとんの上にあぐらをかいたような姿勢。好意的に言えば、無邪気なまでの自信。その自信を育てている環境。
けれどそのことを私が指摘するのは、まだ少し早い。学歴に対応する何かを持つまでは身をこごめ、そういう世間に向かって、つつましくしている必要がある。とにかく内面をもっと充実してからでなければまずい。これは学歴なしの私の保身? 悪くいえば長いものにはまかれる姿勢。まかれる力しかない弱者の身すぎ世すぎ。
そこではじめに戻ると、私はそういう世間から休暇をとり、気晴しにあの岩へ釣りに行く、という寸法になる。またひっかかった、という手応えは「オレにわからぬ〇〇が……」ということなのだ。ひっかかっても、この魚は食えない。
三岸さんの話と関係はないけれど、私のこんど出した詩集『表札など』の中に次のようなのがある。
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