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人の一生というような物差ではかると、私もかなり長い間、時をすごしてきたことになりますが、ふり返ってみると、精神はその日暮し、毎日毎日にピッタリ向き合うことで思いを満たし、口を養って来たような気がします。
若い日に感じた自分への問いかけ、それを書いた詩に、次のようなのがあります。
人間という 不可思議なものの
まことに何であるかも知らず
すべての生きものにならい 母になる
それでよいのか、と心に問えど
答えのあろうはずもなく
日毎夜毎 子守唄のごと
りすはりすを生み
蛇は蛇を生む とくちずさむ
さらばよし 母にならむか
おろそかならず こころにいらえもなくて——。
まことに何であるかも知らず
すべての生きものにならい 母になる
それでよいのか、と心に問えど
答えのあろうはずもなく
日毎夜毎 子守唄のごと
りすはりすを生み
蛇は蛇を生む とくちずさむ
さらばよし 母にならむか
おろそかならず こころにいらえもなくて——。
そんなつまらないことを言っているから、ダメなんだ、と友達が匙《さじ》を投げたように笑いましたけど、ほんとに、私もおかしく思います。これはいつまでたったって、答えが出てくることではありません。
結婚もしないで、上級学校へも行かないで、肩上げのとれない時に就職した銀行で、じっと居据《いすわ》ったまま、うかうかしていると、やがて定年ということになってまいります。
横道にそれますが、私が丸の内の銀行にはいったのが昭和九年。そのころは通勤電車に乗っても、女性がいまほど数多く乗ってはいなくて、職業を持つ婦人の地位は、今よりももっと低く、働くことがひとつの引け目になりかねないような、風向きさえありました。
最近、同じ丸の内を歩くと、昼休み時など、髪の毛の白くなりかかっているような、働く婦人とすれ違うことが、こころなしか多くなりました。すると、その婦人ひとりが年をとった、というふうには見えないで、ああ職業婦人の歴史が年をとって来た、と思います。
私が就職したとき、象牙の印鑑を一本九十銭で、親に買ってもらいましたが、毎日出勤簿に判を捺《お》している間に、白い象牙がすっかり朱色に染まりました。この間、印鑑入れを買いに行きましたら、これも年配の古い店員さんが「ずいぶん働いたハンコですね」と、やさしく笑いました。お互にネ、という風に私には聞こえました。
それにしても、一本のハンコが朱に染まるまで、何をしていたのかときかれても、人前に、これといって差し出すものは何ひとつありません。
一生の貯えというようなものも、地位も、まして美しさも、ありません。わずかに書いた詩集が、いまのところ二冊あるだけです。綴り方のような詩です。
ほんとに、見かけはあたりまえに近く、その実、私は白痴なのではないかとさえ、思うことがあります。ただ生きて、働いて、物を少し書きました。それっきりです。
そのせいか、働かないと、書くことも思い浮かばない、といった習性のようなものが、私の身についたのではないか、と案じられます。そして、物を考えているのは私の場合、頭だろうか? 手だの足だので感じたり、考えたりしているのではないのだろうか?
たずねても、手や足は黙っているからわかりません。
そしてとにかく詩は、私の内面のリズムであり、思いの行列であり、生活に対する創意工夫であり、祈りのかたちであり、私の方法による、もうひとつの日常語。唖《おし》の子が言い難いことを言おうとする、もどかしさにも似た、精いっぱいのつたない伝達方式でもあります。
そういうものではありますが。詩を求めて、詩のために、詩を書いているのではないので、明日、たとえ書かなくとも、あるいはまったく違うかたちに生まれ変ろうと、かまわない筈だと、思っています。
家庭には家庭のしがらみ、職場には職場の忍従。たくさんのがまんで成り立っている日々の暮しの中で、たったひとつ、どうしてもしたかったこと。もとより、わがままな所業でありました。詩でさえ、それが制約であるなら、とらわれないようにしたいものだ、と思っています。
ただ、長いあいだ言葉の中で生きてきて、このごろ驚くのは、その素晴しさです。うまく言えませんけれど、これはひとつの富だと思います。人を限りないゆたかさへさそう力を持つもので、いいあんばいに言葉は、私有財産ではありません——。権利金を払わなければ、私が「私」という言葉を使えない。といったことのない、とてもいいものだと思います。
また、領土のようだ、とも思います。いつか詩を書く人々四、五人で話していたとき、日本は生活がたいへんだけど、南のどことかへ行くと、バリカン一丁使いこなせれば食べてゆけるそうだ、という話になり、話していた人が、突然私に向き直って、「ね、いっしょに行こうじゃないですか」と笑いました。私はさそわれたうれしさで、「ええ行きましょう」と答えました。
あとで、生活が食べることだけだったらそれですむけれど、心の中にある口、そのひもじさはどうやって満たすのだろう、言葉の違う場所で、と考えました。私はそこで、それから習いおぼえる貧しい言葉で、生きてゆくことは出来ないだろうと思いました。
私のふるさとは、戦争の道具になったり、利権の対象になる土地ではなく、日本の言葉だと、はっきり言うつもりです。
そして人生、はじめに申し上げましたように、いまだにわからない、そのことについて語るとなれば、私の言葉、私の語りかけとしての詩を聞いていただくほか、思いつくことは何もありません。