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ユーモアの鎖国53

时间: 2020-04-24    进入日语论坛
核心提示:詩を書くことと、生きること   2私はごく自然に、家族の者が扇子に書いた俳句を見て、自分もこしらえたり。本でみた短歌とい
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詩を書くことと、生きること
   2

私はごく自然に、家族の者が扇子に書いた俳句を見て、自分もこしらえたり。本でみた短歌というものが、いくつの字で成り立っているか指でかぞえて、三十一文字に自分も言葉を組立ててみたり。それから、も少し長い詩など書きはじめ、とにかく、そういうことがしたくて、したくて。
そのわがままを通すからには、人にたよらないで暮してゆく道をえらばなければダメだと思って。
学校もいいけれど、きらいな学科も勉強しなければならないし、それに親にたくさんお金を出させなければならないし、といった、わずかないたわりのようなものもあって、働きに出たのですが。
物を書くためには、どれほど修練をつまなければならないか。
また、それとは別に、世の中を渡ってゆくには、どれほど資格というものが大切か。日を追って、イヤというほど味あわされる羽目に陥ります。
毛並みとか、学校とか、財産などが、大きく物を言う社会で、その、どれひとつも持たない者が、どのように隅へ、隅へ、と片寄せられて行くか。身につまされて、わかったように思います。
働いて三十年余りになるのですが、年をとったのは劣等感、してきたのは仕事ではなくて、がまんだった。などというのは、私のニクマレグチです。
自覚らしい自覚も、選択もなく、向こうが採ってくれた職場で。これもたいそう思いがけない、受け身なかたちで、戦争の渦の中に巻き込まれて行くのでした。
働きながら物を書くのぞみは、十代の終りに同人誌を出すような打ち込みかたをしていましたけれど。十二月八日、宣戦の詔勅をあおいだのが二十一歳でしたか。
物を書くといっても、職場とも社会とも結びつかない、別の場所で精を出していたので、いきおい一人の感情を出なかったのでしょう。日本は神の国、あらひとがみ様のしろしめす不思議の国、そしていくさには負けない国だ、と、教えられたことを、二十歳になっても信じておりました。勝った、勝った、という戦捷《せんしよう》報告のかげで死んでゆく兵隊さんの悲惨より、勇ましさにうたれる、といった単純さでした。同じ書く仲間の中から「病院船」というような看護手記が出されたりしましたけれど。
弟に召集令状が届けられたとき、私は両手をついて「おめでとうございます」と挨拶しました。そういう精神状態だったのです。
話が横みちにはいりますが、出征する弟と二人で田舎の叔母に暇乞《いとまご》いに行ったとき、叔母が弟に「おまえ、決死隊は前へ出ろ、と言われて、はい、なんて、まっ先に出るのではないど」と申しました。私はその言葉の珍しさに驚きました。当時のものさしではかれば非国民の言葉となるのですが、私が聞き捨てたはずのことばを耳が大切にしまっていて、今日でも、何かの暗示のようにとり出して見せるのは、それが、ほんとのひびきを持っていたからだと思われます。私は、権力とか常識のとりこになり、そういう真実の言葉を、いつも持ち得ないで生きているのではないのか? と時々心配いたします。
東京が空襲され、それが次第に激しくなってきたとき、近づいてくる爆弾の音をはかりながら。世界の中にはスイスという中立国があって、そこでは戦争など行われていないのだという事実を、どれほどうらやましく思ったかわかりません。
現在、なお、その戦争というものにさらされている国があることを考えると、そこには若い日の私のような女性がひとりいて、爆弾の恐怖にさらされながら。日本という国は平和で、とても栄えているのだ、ということを、どう思っているだろう、と考えます。
終戦の年の五月二十五日、東京山の手が空襲され、私の町も家も焼かれてしまいましたが、私は、それを築き上げた父たちが力を落しているそばで、財産などというものがなくなって身軽になったことで、へんに生き生きしていたのを思い出します。若さとは、残酷なものだと思います。
それでも最後には、死ぬよりほかないらしい、と自分に覚悟を強《し》いていた。今から考えられない素直さで、国の指導者のいう通りになっていたことを、忘れるわけにまいりません。人間というものが、とひとくちに言っては申しわけないので、私というものが、どのくらい愚か者であるか。
終戦を境にして、すっかり目をさましたように思ったのも、アテにはならないようです。現在、違った状況のもとで、私はやはり、同じように愚かだろう、と思うからです。
次に、戦後二十年たったとき、職場の新聞が、同じ職場から出た犠牲者の名を掲げ、戦争追悼号をこしらえました。それに載せた私の詩を読みます。
  弔詞
職場新聞に掲載された一〇五名の戦没者名簿に寄せて
 ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。
 ああ あなたでしたね。
あなたも死んだのでしたね。
 活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとじられたひとりの人生。
 たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間。
 あなたはいま、
どのような眠りを、
眠っているだろうか。
そして私はどのように、さめているというのか?
 死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私たちに近づく。
戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。
 死者は静かに立ちあがる。
さみしい笑顔で
この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発《た》とうとしている。
 私は呼びかける。
西脇さん、
水町さん、
みんな、ここへ戻って下さい。
どのようにして戦争にまきこまれ、
どのようにして
死なねばならなかったか。
語って
下さい。
 戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私たちに近づく。
そうでなければ良い。
 八月十五日。
眠っているのは私たち。
苦しみにさめているのは
あなたたち。
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。
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