いつのまにか親しくなってしまうというタイプの人がいるが、野坂昭如さんはその典型的な例である。電波関係の友人から、特異な才能を持った人がいるから紹介しようか……といわれたようなことがはじまりだと思うが、野坂さんは百年の知己の如く、黒メガネをかけて、一見草履風サンダルをはいてヒタヒタ、ハタハタと編集室にやって来るのである。
そこには一瞬、|あたり《ヽヽヽ》をはらう風情があった。
そしていきなり、聴診器で隣室の秘事をきく話をする。行く年来る年の番組にでて、元旦の朝まだき、お疲れさまとスタディオをでて、正月三ガ日を絶食した話をする。
「正月というのは食いもの屋まで休むんですね」
しかし私が抱えているテーマなり疑問をもちだすと、うてばひびくように、ややどもりがちの早口言葉がかえってくる。速射砲である。速射砲は的確であり、そこには作家の眼があった。
その作家の眼はそれまで私がおつき合いを願った執筆家とはまったく発想の違った態《てい》のものであった。速射砲の照準がどうついているのか、舌を巻かせるものがあった。
マリリン・モンローの不慮の死のニュースが伝えられた次の日、草履式サンダルの主がヒタヒタ、ハタハタと編集室に現われた。野坂さんと私は世紀の女優モンローの死を嘆き悲しんだ。そしてこの嘆き悲しみを個人的なものとせず、モンローを偲《しの》ぶ特集ページを作るべきだという意見で一致した。題して�モンローのような女�……私は野坂さんに特集の扉に墓碑銘を書いてもらった。わずか二百字あまりではあったが、モンローを語りモンローを悼《いた》む名文であった。
よく銀座に飲みにでた。ある年、浅草の皮革問屋がカンガルーのなめし皮を靴にすることを思いたち、それに先立って何足か試作するから足型やサイズを知らせてくれ、といってきた。私は幾人かの友人のデーターを皮屋に送った。わずか半月程のうちに、みごとな靴が届いた。カンガルーの皮は柔かく弾力にとんでいてスポーティーなものであった。色は白、内側は赤の強いチェックの布地が張ってあった。靴を渡すと、
「いただけるんですか」
顔がパッと明るんだ。それがじつに自然でよかった。野坂さんの育ちの良さである。
その日は靴をはいている野坂さんと一緒に、銀座のクラブ「ラモール」へ行った。
「ラモール」のドアマンに、彼はいつもノーネクタイなんだよ、ゴルフ帰りの会員と思えばいいだろうと、ことわって階段を下りていった。しばらくして、フロアー主任が私の耳もとで、小さな声でお連れさんの服装が困るんですと囁《ささや》く。何をいうんだ、今日は草履式サンダルではなく、ちゃんと靴ははいているよと小声でいうと、はい、その靴下をはいていらっしゃらないのが困るんでございますと言う。大勢の美女に囲まれてご機嫌な黒メガネの旦那は素足のままカンガルーの靴をはいていたのである。
テレビのウェートがどんどん増してきて、大宅壮一氏の造語である一億総白痴化が現実問題になってきた。私は雑誌にこの問題を取り上げることにした。そして、電波関係の世界の消息通であり、実際にこの世界で仕事をしている野坂さんに意見を聞いてみた。
意外にも私と同意見であった。ではライターは誰に? と言うと、
「僕でよろしかったら」
と答えた。私に異存はないのだが、こんな文章をものしたら、テレビ局から門前払いをされるのではないかと聞きかえすと、いえ、それは大丈夫と言う。その雑誌がでて、私はどうにも落着かなかったが、やって来た野坂さんが、
「どのテレビ局でもプロデューサー達が、今のテレビの傾向は良くない、よく書いてくれた、と賛成していましたよ」
と、当然のような顔をしていうのである。
彼によれば、テレビ局の傾向はよくない、しかし自分だけは違う、と、どのプロデューサーも信じているものなのだそうだ。野坂さんは、プロデューサーがそういううけとり方をするのを、書く前から計算していたのである。
ある企業の小冊子で対談したことがある。テーマは�いかにしてリフレッシュするか?�。対談した二人の結論として人間は年齢に関係なく、いつまでもやじ馬根性の持主が、いつまでも若若しい感受性を持つことができる、つまりリフレッシュとはやじ馬根性とみつけたりということになった。そして男が、いつまでも若さを保つ決め手は女房にあることでも意気投合した。しからばリフレッシュ女房は誰か? ということになった。野坂さんは友人の青島幸男さんの夫人こそ、推挙できる女性《ひと》と言った。
青島幸男さんが八面六|臂《ぴ》の活躍ができるのも、一にかかってリフレッシュ女房のおかげであり、たとえ幾日家をあけようとも青島さんご帰館とあれば、いそいそと迎え入れ、すぐ風呂をわかし、ホッとした湯上りの顔で膳の前に坐れば、これまたホカホカとした味噌汁の食卓があり、その味噌汁の椀の中からは、必ず三葉の香りがただようのであると、激賞したから、
「今どき珍しいねェ。これぞ貞女の鑑《かがみ》、銅像でも建てたいくらいだ」
と、私が感にたえて言ったのである。このくだり、送られてきた小冊子を見ると、ト書きがついていて、「(矢口氏、思わず涙ぐむ……野坂氏つられてこれまた涙ぐむ)」とあったのは野坂さんのしわざに違いない。
その後、青島さんが参議院全国区に立候補して、見事な票数をかちえたのは、その陰に夫人の協力があったと伝えられた。そんなある日、私のところに週刊誌の記者が青島幸男夫人銅像建設委員会の趣旨を取材にきたのには、大いに驚いた。これもどうやら野坂さんの口コミではなかろうか。
ある晩銀座で野坂さんに会ったら、開口一番、歌手としての地位を不動にしたと威張った。CBSソニー|さま《ヽヽ》やグラモフォン|さま《ヽヽ》からもお誘いがあるといって、そのためにキックボクシングのジムに通って、からだを鍛えていると言った。地方都市のナイトクラブの出演も足まめに行くとも言った。
「歌う作家」と自らを戯画化する彼の皮算用は、私には彼の速射砲の照準のように到底わからない。
テレビでたまたま聞いた彼の歌は、時として声がかすれ、音程が心もちはずれるようであるが、これも計算されたものなのだろうか。