「サンデー毎日」編集長の高原富保さんから、私の勤務するサン・アドの企画会議の模様をごく自然に写真にとりたい、という話があった。そしてある日、会議をしているとカメラマンがやってきた。会議のありさまはごく自然ではカメラにおさめにくいらしく、カメラマンが、
「すみませんが、開高さんと矢口さんは机の手前にきてください」
ということになって、言われるままに開高健さんと私はカメラに近い方に移ることになった。
この時、ふと軽い怖《おそ》れに似たものが心をよぎったのだが、言われるままに素直に前に行った。あとで開高さんに聞いてみたら、
「わいもそうやがな」
ということであったが、私たちは企画会議も一段落ついてホッとした時であったから、オン・ザ・ロックスを飲み始めていた。だから前にきてください、と言われた時、開高さんも私もグラスを持ったまま移動したのである。
それきり撮影のことは忘れてしまった頃、そのカラー写真がシリーズものの「ある会合」として「サンデー毎日」に掲載されたのである。たいへん美しいカラー写真であり、我が社としてもこんなにしてとりあげてくださるのだからありがたいことではあるが、瞬間、心をよぎった怖れが現実のものになったのである。
縦位置の写真であるが、ページの上半分には机を距てて、山崎隆夫社長はじめ、坂根進、柳原良平、山口瞳がつましく端然とひかえているのに対し、机のこちら側には、つまりページの下の大きなスペースに、開高健と私が誠にでっかいツラをして写っているのである。
右近の橘《たちばな》、左近の桜なら香《かぐわ》しい絵である。しかし、これはどうひいき目にみても浅草の観音さまの仁王さんの風情である。しかもオン・ザ・ロックスのグラスを持ってひかえているのだからシマラナイ。私は悲嘆にくれた。そこへ開高さんが現われた。開口《ヽヽヽ》一番はしゃれにもならぬが、
「猫の年増ぶとりが二匹おるがナ。どないしよう」
「昨夜《ゆうべ》、石川達三さんに会ったら、グラス片手に豪勢な会議だなあ、とひやかされるし、三宅艶子さんは、でっかいツラね、ときたよ」
「そうやろう。悲劇的やなあ。悲しいワー。一緒に死にまほか」
まさか死ぬわけにはいかないので、一緒に酒を飲んだ。
開高さんは、とかく悲しがる男である。オフィスに出てくると声高に国際情勢を論じ、次いで文学を語り、興にのれば談、釣に及ぶという賑《にぎ》やかさで、豊富なボキャブラリーに英、仏、独語を交えて談論風発する。そこへ電話がかかると、
「ハイハイ、あわれな開高でございます」
と応答《こた》えるのである。
ある日灯ともし頃、何か小脇にかかえてオフィスにやってきた。
「大阪の『たこ梅』の蛸《たこ》や。『たこ梅』のボンボンが日光に遊びにゆく|ついで《ヽヽヽ》いうて、わざわざ届けてきたんやけれど、これをさかなに一|献《こん》いう仕かけの場所はないもんかいな」
つまり、酒のさかなを持参しても迷惑がらず、また他の客にも不快な思いをさせないような所はないか、というのである。
そこで新富町の「酒舟」におもむいた。ムッちゃんもさそった。ムッちゃんというのは酒井睦雄といって我が社のCM作りの名人である。沖縄にはじめてテレビコマーシャルが流れた時、沖縄の人はムッちゃんの作ったテレビのCFに拍手を送ったそうである。これは柳原良平さんのアニメーションでトリスおひろめのチンドン屋が登場する。そのチンドン屋はチンチンドンドンやりながら何も言わず、最後に「世の中は乱れております」とだけ言うのである。これがうけたのである。ところがその後沖縄に政変が起こってエライ人が辞任した。記者会見でそのエライ人は、ブゼンとして「世の中は乱れております」とやった。それが翌日の朝刊に一号活字でデカデカと載って「世の中は乱れております」は、いよいようけたのである。沖縄の人たちに向けて酒井さんはもう一つ作った。「アイウエオキナワ タチツテトリス ついつい飲みすぎ手をトリス」といったものである。
蛸をさかなに私たちは酒を酌んだ。酒井さんは戦前からの生えぬきのプロ野球のファンだ。だから野球の話ばかりする。博覧強記の開高さんも、野球だけは苦手だ。だから話がコンガラかる。
その晩も開高さんは悲しがった。
その第一話——。
待ちわびた電話がきた。話しているうちに、開高さんの表現によれば「雲古」がしたくなったのである。「ちょっとお待ちください」と待ってもらって、「どうもお待たせしました」と話を続けた。その後しばらくしてその麗人に会って、あの時はどんな用件でしたと聞かれたので、正直に実は「雲古」と答えたら、その麗人は冷然と立ち去ったそうである。あるいはフン然としたのかもしれない。悲しいがな。
第二話——。
西独の出版社から独訳の開高健著『日本三文オペラ』が美しい本になって送られてきた。そして偶然にもその日、リルツと名乗る若いドイツ女性の訪問をうけた。卒論に開高健論を書いたという神戸に住む絶世の美女である。手みやげに玉露まで持ってきた。のし紙に水茎のあともうるわしく「里留津」と草書で書いてあった。その佳人は玉露を開高さんに手渡すとそのまま羽田へ行き、母国へ帰ってしまった。悲しいがな。
第三話——。
ある日、開高さんはサイゴンをあとにして、ベトコン掃討作戦に参加した。開高さんはいきなり最前線の従軍記者になったのだ。着いたその日の朝からドンパチ、ドンパチがはじまった。至近距離に迫撃砲弾がうなりをたてて土煙をあげた。やがて昼になった。兵隊たちは昼メシを食べるとその場にゴロリと横たわって、早くも寝息をたてた。大隊に三名ずつ配属されているアメリカ兵も、メシを終えるとバタン・グー。シエスタ(昼寝)の時間なのである。
「この日本の小説家だけが目をぱっちりあけておったんやけど、ドンパチもシュルシュルも、もぐらも影をひそめて——考えてみればベトコンもシエスタだったんや」
やがて三時がすぎると、兵隊さんたちは起き出して、いとも自然にドンパチをはじめると、向うでも礼儀正しくドンパチと応えたそうだ。一人眼をさましていた日本の小説家はしみじみ考えた。昼寝とは何ぞや? 戦争とは何ぞや? 悲しいがな。