郵送されてきた「文學界」の目次をみると、『太陽の季節』——石原慎太郎というのが目にはいった。私の知らない名前である。私は石原慎太郎という未知の作家の小説から読みはじめた。
一気|呵成《かせい》に読むとはこのことであろう。読み終って、次の小説に移る事ができなかった。それは衝撃に近いものであった。石原さんの作品には、その題名が示すように太陽が燦々《さんさん》と輝いていた。紺碧《こんぺき》の海の上を潮風がさわやかに渡っていた。
一月くらいたってから、編集室に三笠書房・編集長の長越茂雄さんの紹介状を持った青年が訪ねてきた。スラリとした長身であった。名刺に石原慎太郎とあるので、はじめてあの石原さんということがわかった。石原さんはいきなり、
「小説を書き|ます《ヽヽ》」
と言った。私は、「文學界」の『太陽の季節』を読んだこと、そして新鮮な感動を受けたこと、また「文學界」の編集長の尾関栄さんにも読後感を電話ではあるが伝えたことを話した。しかし婦人雑誌の小説欄というのは大家主義で、いま連載中の小説は流行作家として売り出し中の井上靖さんが書いておられるし、次は川端康成さんというふうに、新人を登用することは殆どないことを話した。
石原さんは目をパチパチさせ、
「では映画評論を書きます」
と言った。そこで映画評論は婦人雑誌では、映画評というよりは、その映画に登場した人間の、とくに女性の生き方を論ずる場であり、あるいは映画にでてきた家のインテリアやヒロインのコスチュームに言及したりするもので、普通の映画評論とは違うことを話した。
石原さんはまた目をパチパチさせながら、
「それではルポルタージュを書きます」
と言った。私はややあきれながらも、そのひたむきな青年らしさに清々《すがすが》しいものを感じた。私がスポーツシャツの下に躍動する若々しい体をみながら、スポーツは得意でしょう? と聞くと、一瞬石原さんの頬が明るくなって、
「スポーツなら何でも好きです。何でもやります」
と胸を張った。私は�何でも好きです。何でもやります�というスポーツ欄を創ってもいいと思った。次の月から石原慎太郎のスポーツルポが登場した。
年が明けて、一月の終りに芥川賞の発表があり、『太陽の季節』は受賞作品になった。受賞直後、私は新橋のバー「とんこ亭」で十返肇さんに会った。十返さんは、
「これからの芥川賞は文芸欄のニュースでなく、社会欄のものになるでェ」
と言った。石原さんは果然、時の人、話題の人になった。
石原さんの一橋大学の卒業がもう間近という頃、一橋会館で芥川賞受賞の祝いの、ごく内輪の会をやるから出席してくれという誘いがあった。私は喜んで出席した。行ってみると会場には中央をあけてロの字型に机が配置されていて、石原さんの坐っている近くには浅見淵、伊藤整両氏の顔が見えた。あとは一橋大学の教授や同期の学生諸君で埋められていた。知らない顔ばかりであった。
ちょうどロの字型のメインからは、いちばん外れた端に、新潮社の新田|敞《ひろし》さんと長越茂雄さんが坐っていて、私に向って手をあげた。私は両氏の間に坐った。そのうちに水の江滝子さんがかけつけてきた。
伊藤整さんが立って、
「私はいろいろな出版関係の会に出ましたがこんな会は初めてで、とにかく編集者のいない会というのは何となくホッとして、いいもんですネ」
と発言された。
長越さんが、ここに三人おりますよと声をかけると、伊藤整さんは大いに恐縮して、
「そんな処に坐っているからわからない。まことに失礼を申し上げました。三人ぐらいの編集者がいちばんいい会です」
と言われて、みんなが爆笑した。
すると柔道部のキャプテンの学友が立上って、
「私はこの四月に日本郵船に入社するものでありますが、わが船舶業界はまことに憂うべき現状でありまして」
とやりだした。まだ新入社員にもならない身分としては、その意気たるやまことに壮である。
「私は柔道部員の石原を、いつも畳に叩きつけてきました。柔道で押えこみをされて、『参った』と言わなければそのまま|オチル《ヽヽヽ》。その|オチテイル《ヽヽヽヽヽ》ときはまことに甘美な世界を彷徨《ほうこう》するのでありますが、彼は私のお陰で甘美な学生生活を送ったといえるでありましょう。その意味でも私は彼の恩人であります。この石原は小説とかいうものを書きまして私も急遽《きゆうきよ》読んでみましたが、小説というものはまことに情けないものであると、いよいよ痛感するものであります。しかし彼はどこにも就職せず、これからも書くと言っております。われわれ友人一同寒心に堪えないのですが、まあ水商売のようなものを少しは実地にみることもいいであろうし、どうせ二、三年で尻っ尾を巻いてやめるに違いない。またやめなくてはいけない。その時われわれは実業界において雄飛していることであろうし、欣然、わが膝下《しつか》に迎えいれるものであります」
という演説になった。
それをうけて石原さんが立上り、
「柔道部キャプテンの発言はほとんど放言で、私こそ彼を何度か甘美な世界に導いてやった恩人であります。しかも彼は柔道のほかなんの才能もない。それにくらべて私は蹴球部の優秀なポイントゲッターでもあった。私の進む世界が水商売かどうか、そんなことよりも、私の書く小説によって確実に日本の文学界の水準は高められ、その結果日本の国は必ずよくなるのであります」
と言って着席した。
ふと気がつくと石原さんの横にはいつの間にか可愛らしい若い女性が坐っていた。こんどは一橋大学の教授が立上って、
「きょう私はホッとしたことがあります。と申しますのも二年前の夏、私はゼミナールの学生四人ばかりと三浦半島を尾根伝いに歩いておりました。その山深い松林の中で私たちは若い男女に出逢いました。それが石原という本校の学生であることをゼミの学生によって知らされました。そしてその石原という学生の脇にはまだ稚《おさな》い感じの女学生らしい少女がおりました。その女学生の顔を私は忘れずにおりました。そしていま石原君の隣りに坐っているご婦人こそ、その時の女学生であります。『太陽の季節』は放恣《ほうし》な男女を描いておりますが、石原君の青春はまことに真摯《しんし》なものであったのだと、私は去る年の三浦半島の山を思い浮かべながら、何となくホッとしているのであります」
この言葉に、石原さんも、隣りの結婚したばかりの石原夫人も、揃《そろ》ってうつ向いた。初々しい二人であった。