バスの案内嬢が、「黒駒一家で知られる勝蔵親分は、この地に生れ……」
と話し出した時、隣りに坐っていた新潮社の麻生吉郎さんが、右の胸を押えて、
「おかしいなあ、先刻《さつき》から猛烈に痛むんだ。だけどみんなには知らせないでほしい」
と、小声で私に囁《ささや》いた。
バスは御坂峠を越えて甲府に向っている。私たちの一行は昨夜、秋色の河口湖畔、富士ビューホテルに泊った。メンバーは日本ペンクラブの会員有志と、風間完さん、朝倉摂さんなど、幾人かの画家である。
昨夜は、というより今朝方まで、私たちは痛飲した。開高健さんや風間さんのフランス語の歌が出た。阿川弘之さんの海軍の歌も出た。
しかし、歌のレパートリーの豊富さは、何といっても麻生さんである。リズムやメロディが寸づまりになったり、間遠になったりする彼の歌には、独特の味があった。私たちはそれを麻生節と呼んでいる。彼は麻生節を自ら存分に堪能して、つぎに将棋に挑戦した。
相手は強豪の高橋健二さんである。棋力からいったら麻生さんは問題ではない。ところがこの旅に特別参加した銀座のバー「眉」の麗人たちがこぞって麻生さんを応援した。奇声を発し歓声をあげるという騒ぎに、高橋プロフェッサーはとうとう頭にきて、たてつづけに二番も負けた。だから今朝バスに乗り込む麻生さんは、ひときわ颯爽《さつそう》としていた。
しかし、右の胸を押える彼の顔からは、いつもの笑みが消えていた。
「ロビーで朝刊を見たら、玉の海が死んだんだってねえ」
などとも言った。
私は何か不吉な予感がした。それでも彼は参会者と一緒に招待されたサントリーの山梨ワイナリーを見学し、色づいたぶどうの下でワインやバーベキューをたのしんでいた。誰も麻生さんが具合の悪いことに気づかなかった。
東京に帰って間もなく、麻生さんは慶応病院に入院した。不吉な予感が的中したのである。見舞いに行くと、思ったより元気であった。いや、見舞い客の誰よりも健康そうな色艶《いろつや》である。彼は粟粒《ぞくりゆう》結核だといった。先年|腎臓《じんぞう》を摘出手術したあの病気とは関係ない、粟粒結核といっても開放性ではないから、人畜には無害です、とも言った。
年が明けて、彼は自宅で療養するようになった。その頃、日本ペンクラブ主催の「日本文化研究国際会議」も本決まりになって、俄然《がぜん》忙しくなった。
「彼が元気ならなあ」
と、私たちペンの世話人は時々愚痴をこぼした。その最中《さなか》の四月十六日、川端康成先生が急逝《きゆうせい》された。私たちはしばらくの間、呆然としていた。彼が元気なら……とまた愚痴をこぼした。
五月十三日の朝、麻生さんから電話があった。体調がよいし、天気も五月晴れだし、これからちょっと行く、と言う。彼は輝子夫人の運転で、国立の私の家にやって来た。私たちは久しぶりに盃《さかずき》を交わして、四方山《よもやま》話をした。気がつくとウイスキー一本を空けていた。五時間は話しつづけていたろうか。その間、輝子夫人は彼の傍らで、終始笑顔で私たちの饒舌《じようぜつ》を聞いていた。彼が盃をいくら重ねても止めずに黙っていた。
彼は自宅療養をやめて、結核サナトリウムに入院する話をした。無論麻生さんの空想である。
その夢物語の場所は信州のさる高原。白樺《しらかば》林の中。隣りの病室には、はっと思わず声を出すほどの美しい若い女性が入院している。
彼女はいつしか麻生さんを熱烈に恋するようになる。幾人かの看護婦の中に、清楚《せいそ》な美人がいた。この美人も、彼の恋の虜《とりこ》になる。
「どうしよう……色男はつらいね」
「いい気なもんでございましょう」
と、輝子夫人が口をはさんで笑った……その笑顔につかの間|翳《かげ》りが走った。彼は新緑の中をご機嫌で帰っていった。
多忙を理由に、私はほとんど彼の家を訪れなかった。多忙には違いないが、帰宅の途中|荻窪《おぎくぼ》に寄ればいいのである。それを怠けた。怠けたというより、訪ねたいのだが、どうにも辛いのである。やりきれないのである。しかし、電話ではよく話をした。彼はなかなか電話を切ろうとしなかった。それでいて、電話が長くなると呼吸《いき》苦しそうにして咳《せ》き込んだ。
「粟粒結核というのは性質《たち》が悪いねえ」
などといった。
私は電話を掛けるのも、だんだん辛くなった。というのも、輝子夫人をはじめ、柴田錬三郎さん、阿川さん、私などごく親しい者は彼が粟粒結核などでないことを、とうに知っていたのである。
だから彼の例の明るい笑顔を見るのも、明るく振舞う姿に接するのも、どうにもやりきれないのである。
また年が明けて、彼は小康を保っているようであった。ところが、見舞い客の風邪をもらって、再び慶応病院に入院した。彼はベッドに坐って、自分で酸素吸入をしながら、
「風邪をこじらせてしまってねえ」
と言った。白髪《しらが》が増えていた。私の持参したウエストのケーキをおいしそうに食べた。軍歌集を私に見せて、
「よく|しりとり《ヽヽヽヽ》歌合戦をして帰ったものだね」
と言った。
しりとり歌合戦とは、銀座から帰る自動車《くるま》の中で、彼とよくやったゲームで、いつも私が負けた。彼は信じられぬほど歌を知っていた。麻生さんは「よく歌ったよなあ」とニッコリ笑った。そして酸素吸入をしながら、軍歌集を開いてその一つ二つを歌ってみせたりした。それが最後になった。
五月二十三日、午後三時四十六分、不世出の快男児・麻生吉郎は昇天した。腎臓のグラヴィッツ腫瘍《しゆよう》が肺に転移して、九十八%は癌《がん》に冒されていた。しかし彼は泣きごとひとつ言わず、終始あの笑顔で死んでいったのである。
通夜の晩、私は柴田さんに、彼は自分が癌であったことを知っていたのではないか、と訊いてみた。
「もし知っていたとしたら……、それは大変なことだ……、大変な……、大人物だ」
と絶句した。脇から、梶山季之さんが、
「知っていたかも知れない」
と言った。
夜が更けて、柴田、梶山、芦田伸介、黒岩重吾さんなど、数人、生前のドボン仲間が席をたって、遺骨の前でドボンをはじめた。
「芦田がトップか」
という声が聞え、手をしめる音がして、ドボンは終った。賭《か》け金は霊前に捧《ささ》げられた。水上勉、山口瞳さんや私たちも遺骨の前に坐って、みんなで麻生節を真似て合唱した。