昭和四十八年は暖冬異変であった。二月はじめから、庭にはクロッカスの花が咲き始めた。チューリップの芽も異常に伸び、驚いたことにスズランの芽まですでに五センチ程になっていた。
二月十四日の朝、起きぬけに庭に出て、今年は少しおかしいのではないかと考えながら、郵便受けから朝刊を取り出した。
いつもの年の朝なら足早に部屋に帰って、朝刊を拡げるのであるが、私はもう一度庭に戻って、庭で新聞を拡げた。そして池島信平さんの急逝を知って、がく然とした。
文京区の緬羊《めんよう》会館で六時半頃倒れ、七時すぎにはすでに亡くなられたという。文藝春秋社の人たちもちょうど会社が退《ひ》けて、巷《ちまた》に散りはじめた時間であるから、池島さんの急の知らせを果たして何人の人がうけることができたろうか?
私は文藝春秋の親しくしている先輩や友人の顔を思い泛《うか》べた。私は文藝春秋社とは直接関係はないが、ジャーナリストの後輩として随分池島さんにはお世話になった。いろいろ教えていただいた。
私はつい先頃、アメリカの「ライフ」が噂《うわさ》どおりついに廃刊になった時、大きなショックを受けた。私は雑誌記者時代「ライフ」をテキストにしていた。素晴しい写真をふんだんに使ったグラフィカルな雑誌の「ライフ」は、視覚的に読者に訴える好個の教本であった。
そして、もう一つの私の雑誌つくりの支えは池島さんであった。総合雑誌でありながら、池島さんの作る雑誌には|こむずかしい《ヽヽヽヽヽヽ》理屈もなければ、肩ひじをいからすところもない。読みやすくて面白かった。読者の身になって雑誌を作る姿勢がうかがわれ、それでいて格調の高さがあった。
「座談会」というのは今日では、活字ジャーナリズムではものめずらしくないものである。この形式は電波のラジオやテレビにも盛んに使われるが、これは文藝春秋の創始者である菊池寛の創案だそうだ。
池島さんは菊池寛の座談会と同じように、「談話筆記」を創案した。数奇な人生体験をしたり、各界各層で活躍する人にとって、自分の思想や体験を文章にすることは必ずしも容易な業ではない。だからそういう人々から編集者が話を聞いて、文章にまとめあげる。この「談話筆記」がどれほど「文藝春秋」をおもしろくしたことか。
二月十七日、午後一時。私は読経の聞えるロビーに立っていた。ロビーはすでに池島さんを惜しんで集まった人たちで埋っていた。私たち葬儀参列者は葬儀の部屋の模様を、スピーカーから流れる音だけで知ることができた。読経があり、永井竜男さんの言葉が流れ、そして最後に沢村三木男氏の挨拶の声になった。
沢村さんは二月十三日の知らせを聞いて、その夜もそして次の日も、池島さんの柩《ひつぎ》のそばで、ただボウ然としてすごしたと言っていた。
そして昨日、出社し、社長室と隣り合った自分の部屋で幾時間かを過して、はじめて池島さんのいないことの淋しさと、ぽっかり空いた大きな穴を噛《か》みしめたという。沢村さんは「ライフ」の廃刊のことにも触れておられた。
その頃、献花の白菊がロビーの前方に立つ人たちに、いち早く手渡された。白菊を持った人々はうつむきながら沢村さんの話を聞いた。そして、いちように時々白菊を顔に近づけて、その香りをきくような動作《しぐさ》をした。
献花の列が移動して葬儀の部屋に入ると、いきなり池島信平さんの大きな写真が目に入った。例の笑顔を満面にたたえて、意気|軒昂《けんこう》とした池島さんである。
「おい不景気な顔《つら》するなよ」
と話しかけそうな池島さんである。
思えば池島さんほどいつもご機嫌な人はいなかった。しょぼくれたことや泣きごとをおよそ聞いたことがなかった。せいぜい、
「イヤだねェ、いい加減にしてもらいてえよ」
くらいしか言わなかった。しかしその心底には、厳しい批判精神と闘志が燃えているようであった。
それにしても野次馬精神旺盛の人であった。何かの会合で一緒になったり、小さな旅などした時、少しの閑《ひま》にもその日の夕刊を全部持ってこさせて、片っ端から目を通すのである。
「これ見てみろ、銀行の若いエリート社員が、直属の係長を殺しちまったとよ。この殺された係長は、ゆくゆくは若い部下のエリート社員にとって代られる。それで辛く当ってた。それが殺人の原因か。わかるねえ、哀しいねェ。どこの職場にもありそうなことだよナ……。ま、一杯飲みに行こうじゃない」
あれはもう十年も前のことだろうか、橋爪克巳さんから電話があった。
「避暑から帰ってきました。避暑といっても鹿内君(フジテレビ・サンケイ新聞社長、鹿内信隆氏)とアラスカのエスキモー部落に行ってきたんだよ。その帰朝演説をするから、今晩『エスポ』に来ないか。信平さんも今ちゃんもオーケーだそうだ」
「エスポ」に行くと、すでに池島信平さんや今日出海さんも見えていて、橋爪さんはアラスカ灼《や》けなのか(?)よく陽に灼けて健康そのものの顔であった。テカテカ光っていた。頭の方まで光っていた。
「その帰朝演説とやらを早くやれ」
と今さんが言った。橋爪さんはソファーから立ち上り、もったいぶった顔をして、
「本日帰ってまいりました。アラスカのエスキモーはどういう訳か、はげがおりません。この点はなはだ不愉快であった。帰朝の途次ハワイに立ち寄ると、どういう訳かここにははげが非常に多かった。ハワイには好感が持てた所以《ゆえん》であります。おわり」
「どうでもいいけど、人を招《よ》んでそんなことが言いてえのか」
と自分の頭を撫《な》でて池島さんが言った。
「信平、気にするな。悪気はねえんだ」
「いや、これは許す訳にはいかぬ」
「橋爪だってはげてるんだからいいじゃァねえか。お互いさまだ。そんなに気にするな。オレなんか片目が見えねえんだ。それでも心眼でさわやかにやっている。なんならこのオレの悪い目と、お前の頭と交換するか」
「いや、断るね」
橋爪さんがすかさず、
「では、|現状のまま《ヽヽヽヽヽ》乾杯といきましょう」
その池島さんも、もうおられない。しかし私たちの眼のとどかない彼岸の新しい店で、相変わらず忙しく愉快にやっておられるように思えてならない。