「かかれっ」
松波庄九郎は、坂の上で叫ぶと、みずから牢人どもの先頭に立って、だだっ、と駈けおりはじめた。
かねて、
——夜軍《よいくさ》ゆえ、声を出すな。
——首は獲《と》るな。突きすてて、そのまま坂を駈けおりろ。
と、おしえてある。
さらに、こうも教えた。これは戦国期を通じてあたらしい集団格闘法になったが、松波庄九郎、のちの斎藤道三《どうさん》の創意である。かれは牢人には長槍《ながやり》を用意させていた。
その長槍で、相手をなぐるのだ。自然、相手は、たたかれまいとして槍をあげる。そのスキをぐさりと突く法。
坊主あがりの庄九郎の新工夫である。はたしてそれが、うまくゆくかどうか。
この右衛門坂で、実験してみたかった。
(うまくゆくはずじゃ)
道三、つまりこのころの庄九郎、この男の一生は、創意工夫のあけくれだったといっていい。かれが頼る唯一《ゆいいつ》のものは、自分自身が編みだす工夫以外にないのである。
庄九郎の牢人衆は、槍の穂をそろえ、密集して駈けおりた。
有年《うね》の兵は、駈けのぼってくる。三人に一人は松明《たいまつ》を持っているから、庄九郎のほうにとっては、目標があかるくていい。
その松明をみて、
(ばかな戦さ立てをするものよ)
庄九郎は、軽蔑《けいべつ》した。
有年家といえば、南北朝以来、武門の名家である赤松家の支族だ。いわば戦さでは玄人《くろうと》の家筋であるというのに、その幼稚さ、
(この程度のものか)
と、素人《しろうと》の庄九郎はおもった。
いや、有年家だけがこうなのではない。諸国の武将はたいていこうしたものだ。伝統的なやり方ばかりを踏襲し、それを別なものに変えようとはしない。
いい言葉がある。
西洋の軍人のことばだが、「歴史は、軍人どもが戦術を転換したがらないことを示している」というのだ。職業軍人というものは、古今東西、頑《がん》固《こ》な伝統主義であり、愚にもつかぬ経験主義者である。太平洋戦における日本軍の指揮官が、いったん負けた戦法をその後もくりかえし使って、アメリカ軍を苦笑させた。そういうことをいうのであろう。が、「しかしながら」と、この言葉はつづく。「と同時に、歴史は、戦術転換を断行した軍人が必ず勝つことを示している」
これは余談。——
いま庄九郎は、懸命に坂を駈けおりている。
(南《な》無妙法蓮華経《むみょうほうれんげきょう》、南無妙法蓮華経。……)
唱えっぱなしだ。
やはり初陣《ういじん》というものはおそろしい。
一方、有年勢はやっとそのころになって、坂の上からころげおちるような勢いでやってくる真黒い集団をみた。
「敵じゃあっ」
騒ぎはじめた。
まず、松明をふやそうとする者、兜《かぶと》を背からずりあげてかぶる者、これはまだ落ちついたほうだ。
逃げる者もある。足がすくんだのか、ぼう然と立っている者もある。
が、勇者もいた。
「何某、一番槍をつかまつる。——」
とどなりながら、駈けのぼりはじめた。このころの戦闘は、一番駈け、一番槍、をめざして先頭を切る者にひきずられながら、二番、三番とつづいてゆくやり方である。
庄九郎、
ぱっ、とその男の頭上へ長槍をふりおろした。男はその意外な出方に、
(これは。——)
とおどろいて槍を立てようとしたとき、両腕のつけ根があいた。その具足のすき《・・》間を、
「——っ」
と、無言で庄九郎の槍が突きつらぬいた。
(やった。——)
この戦さではじめての殺戮《さつりく》である。
(存外、容易な)
そうも思ったが、度をうしなってもいた。槍は突くよりも、引くほうが肝要である、槍の穂に重い死体をつけたまま、庄九郎は三、四歩、ずるずると坂をすべった。
その崩れをねらって横合いから太刀をふりかぶってきた者がある。
庄九郎は、槍と死《し》骸《がい》をすてた。
刀を引きぬくなり、真向から相手のカブトを斬《き》った。
切れはしない。
が、おそるべき膂力《りょりょく》だ。相手は、ぐわん、とカブトを叩《たた》かれた衝撃で、気絶をした。
その横を、庄九郎の牢人隊が、槍の穂をそろえて敵を押しはじめた。
わっ
といっせいに槍をふりかぶった。
びしっ、びしっ、と叩きはじめた。ちょうど、嵐に竹のはやしが吹きみだれているようなすさまじさだ。この意外な戦法に、敵は度をうしない、構えもなにも、目もあてられぬ乱調子になった。
とにかく、ふせぐ。
槍をあげる。
自然、腰が浮く。
背が、反《そ》る。
そのつど、庄九郎の牢人隊が、槍をすぐさまに沈め、ずぶっ、ずぶっ、と突いてゆく。
(戦さとは、これでよいのか)
庄九郎自身が、気味わるくなるほどの容易さである。
突きくずしながら、牢人隊は駈けおりてゆく。
その中にまじりながら、庄九郎自身も何人かの敵をその槍先で屠《ほふ》った。
いつのまにか、高声で勤行《ごんぎょう》用の「自我偈《じがげ》」を唱えてしまっている自分に気づかない。素姓はあらそえないものだ。
松波庄九郎は、坂の上で叫ぶと、みずから牢人どもの先頭に立って、だだっ、と駈けおりはじめた。
かねて、
——夜軍《よいくさ》ゆえ、声を出すな。
——首は獲《と》るな。突きすてて、そのまま坂を駈けおりろ。
と、おしえてある。
さらに、こうも教えた。これは戦国期を通じてあたらしい集団格闘法になったが、松波庄九郎、のちの斎藤道三《どうさん》の創意である。かれは牢人には長槍《ながやり》を用意させていた。
その長槍で、相手をなぐるのだ。自然、相手は、たたかれまいとして槍をあげる。そのスキをぐさりと突く法。
坊主あがりの庄九郎の新工夫である。はたしてそれが、うまくゆくかどうか。
この右衛門坂で、実験してみたかった。
(うまくゆくはずじゃ)
道三、つまりこのころの庄九郎、この男の一生は、創意工夫のあけくれだったといっていい。かれが頼る唯一《ゆいいつ》のものは、自分自身が編みだす工夫以外にないのである。
庄九郎の牢人衆は、槍の穂をそろえ、密集して駈けおりた。
有年《うね》の兵は、駈けのぼってくる。三人に一人は松明《たいまつ》を持っているから、庄九郎のほうにとっては、目標があかるくていい。
その松明をみて、
(ばかな戦さ立てをするものよ)
庄九郎は、軽蔑《けいべつ》した。
有年家といえば、南北朝以来、武門の名家である赤松家の支族だ。いわば戦さでは玄人《くろうと》の家筋であるというのに、その幼稚さ、
(この程度のものか)
と、素人《しろうと》の庄九郎はおもった。
いや、有年家だけがこうなのではない。諸国の武将はたいていこうしたものだ。伝統的なやり方ばかりを踏襲し、それを別なものに変えようとはしない。
いい言葉がある。
西洋の軍人のことばだが、「歴史は、軍人どもが戦術を転換したがらないことを示している」というのだ。職業軍人というものは、古今東西、頑《がん》固《こ》な伝統主義であり、愚にもつかぬ経験主義者である。太平洋戦における日本軍の指揮官が、いったん負けた戦法をその後もくりかえし使って、アメリカ軍を苦笑させた。そういうことをいうのであろう。が、「しかしながら」と、この言葉はつづく。「と同時に、歴史は、戦術転換を断行した軍人が必ず勝つことを示している」
これは余談。——
いま庄九郎は、懸命に坂を駈けおりている。
(南《な》無妙法蓮華経《むみょうほうれんげきょう》、南無妙法蓮華経。……)
唱えっぱなしだ。
やはり初陣《ういじん》というものはおそろしい。
一方、有年勢はやっとそのころになって、坂の上からころげおちるような勢いでやってくる真黒い集団をみた。
「敵じゃあっ」
騒ぎはじめた。
まず、松明をふやそうとする者、兜《かぶと》を背からずりあげてかぶる者、これはまだ落ちついたほうだ。
逃げる者もある。足がすくんだのか、ぼう然と立っている者もある。
が、勇者もいた。
「何某、一番槍をつかまつる。——」
とどなりながら、駈けのぼりはじめた。このころの戦闘は、一番駈け、一番槍、をめざして先頭を切る者にひきずられながら、二番、三番とつづいてゆくやり方である。
庄九郎、
ぱっ、とその男の頭上へ長槍をふりおろした。男はその意外な出方に、
(これは。——)
とおどろいて槍を立てようとしたとき、両腕のつけ根があいた。その具足のすき《・・》間を、
「——っ」
と、無言で庄九郎の槍が突きつらぬいた。
(やった。——)
この戦さではじめての殺戮《さつりく》である。
(存外、容易な)
そうも思ったが、度をうしなってもいた。槍は突くよりも、引くほうが肝要である、槍の穂に重い死体をつけたまま、庄九郎は三、四歩、ずるずると坂をすべった。
その崩れをねらって横合いから太刀をふりかぶってきた者がある。
庄九郎は、槍と死《し》骸《がい》をすてた。
刀を引きぬくなり、真向から相手のカブトを斬《き》った。
切れはしない。
が、おそるべき膂力《りょりょく》だ。相手は、ぐわん、とカブトを叩《たた》かれた衝撃で、気絶をした。
その横を、庄九郎の牢人隊が、槍の穂をそろえて敵を押しはじめた。
わっ
といっせいに槍をふりかぶった。
びしっ、びしっ、と叩きはじめた。ちょうど、嵐に竹のはやしが吹きみだれているようなすさまじさだ。この意外な戦法に、敵は度をうしない、構えもなにも、目もあてられぬ乱調子になった。
とにかく、ふせぐ。
槍をあげる。
自然、腰が浮く。
背が、反《そ》る。
そのつど、庄九郎の牢人隊が、槍をすぐさまに沈め、ずぶっ、ずぶっ、と突いてゆく。
(戦さとは、これでよいのか)
庄九郎自身が、気味わるくなるほどの容易さである。
突きくずしながら、牢人隊は駈けおりてゆく。
その中にまじりながら、庄九郎自身も何人かの敵をその槍先で屠《ほふ》った。
いつのまにか、高声で勤行《ごんぎょう》用の「自我偈《じがげ》」を唱えてしまっている自分に気づかない。素姓はあらそえないものだ。
我此土《がしど》安穏《あんのん》 天人常充満《てんにんじょうじゅうまん》 園林諸堂閣《おんりんしょどうかく》
種種宝荘厳《しゅじゅほうしょうごん》 宝樹《ほうじゅ》多華果《たけか》 衆生所遊楽《しゅじょうしょゆらく》
諸天撃天鼓《しょてんぎゃくてんく》 常作衆《じょうさしゅ》伎《ぎ》楽《がく》 雨《う》曼《まん》陀羅華《だらけ》
散仏及大衆《さんぶつぎゅだいしゅ》 我浄《がじょう》土不毀《どふき》 而衆見焼尽《にしゅけんしょうじん》
種種宝荘厳《しゅじゅほうしょうごん》 宝樹《ほうじゅ》多華果《たけか》 衆生所遊楽《しゅじょうしょゆらく》
諸天撃天鼓《しょてんぎゃくてんく》 常作衆《じょうさしゅ》伎《ぎ》楽《がく》 雨《う》曼《まん》陀羅華《だらけ》
散仏及大衆《さんぶつぎゅだいしゅ》 我浄《がじょう》土不毀《どふき》 而衆見焼尽《にしゅけんしょうじん》
「諸天が、天鼓を撃っている」
経文にそんな文句がある。庄九郎は、敵を突き殺しながら、天鼓を撃つ諸天のような、ひどくリズミカルな気持になっていた。
(おれは、やれる)
自信が、庄九郎の心をはずませた。
誦経《ずきょう》の声が、いちだんと高くなった。
経文にそんな文句がある。庄九郎は、敵を突き殺しながら、天鼓を撃つ諸天のような、ひどくリズミカルな気持になっていた。
(おれは、やれる)
自信が、庄九郎の心をはずませた。
誦経《ずきょう》の声が、いちだんと高くなった。
路上では、赤兵衛が待っていた。
「赤兵衛、荷駄《にだ》はぶじだったか」
崖下《がけした》の泉で、槍の血を洗いおとしながら、庄九郎はきいた。
「へい、無事で。いったん散った人夫も、すでにあつまっております。しかし」
「ふむ?」
と庄九郎は、赤兵衛を見あげた。
「なにかね」
「いいえ、その」
赤兵衛の顔が、畏《おそ》れと驚きをまじえて、異様にゆがんでいた。
「庄九郎様、あなたさまは戦さがお上手でござりまするなあ」
「ただの坊主くずれではあるまい」
「赤兵衛は、今夜こそ、あなた様につき従うてよかった、と思いました。やはり、わしも妙覚寺本山の寺男していた冥加《みょうが》があり、毎夕、耳にしていた法華経の功《く》力《りき》が、しらずしらず身に降りつもったのでござりましょう」
「ばかばかしい」
庄九郎は、手の滴《しずく》をきって立ちあがった。
「おれのような悪人の家来になれたことが法華経の功力か」
「左様。なにごともこの経は現《げん》世利《ぜり》益《やく》」
「あっははは。南無妙法蓮華経」
どうもこの主従《しゅじゅう》は抹香《まっこう》くさい。
やがて、荷駄隊の隊列がそろい、護衛の牢人隊の人数もそろって、総勢八百人は、車のわだち《・・・》の音も高く、有年峠をくだりはじめた。
「有年の人数は追ってきませぬか」
「来まい」
庄九郎に、自信がある。
あの敵の人数のなかに、たしかに有年備中《びっちゅう》守《のかみ》とおもわれる装束《いでたち》の人物がいたが、いちはやく谷へころがって逃げてしまった。追うにも、指揮《げち》をとる大将がいない。
備前に入った。
この国の
「福岡」
という在所に、国中きっての市《いち》がある。
福岡村は、現在《いま》でいえば岡山市から国道二号線を東へ二十キロほどいった南がわにある小部落で、無名の農村にすぎなくなっているが、当時は備前では福岡といえば大そうな商業地であった。いまの岡山市などはなきにひとしかったといってよかろう。
隣村が、刀鍛《かたなか》冶《じ》で有名な、
「長船村《おさふねむら》」
である。庄九郎のころから刀鍛冶の大部落として天下にきこえており、諸国から刀を買い入れにくる者が多い。こうした旅人は、たいてい「福岡」でとまる。
余談だが、庄九郎よりもやや後年に出た黒田官兵衛如水《じょすい》の先祖は、一時、この備前福岡の市《いち》に居ついていた。黒田家が筑前一国に封ぜられ、博《はか》多《た》の西方に築城したとき、先祖にゆかりの備前福岡の地名をとって、城下の地を福岡と名づけた。いまの福岡市がそれである。
この国の
「福岡」
という在所に、国中きっての市《いち》がある。
福岡村は、現在《いま》でいえば岡山市から国道二号線を東へ二十キロほどいった南がわにある小部落で、無名の農村にすぎなくなっているが、当時は備前では福岡といえば大そうな商業地であった。いまの岡山市などはなきにひとしかったといってよかろう。
隣村が、刀鍛《かたなか》冶《じ》で有名な、
「長船村《おさふねむら》」
である。庄九郎のころから刀鍛冶の大部落として天下にきこえており、諸国から刀を買い入れにくる者が多い。こうした旅人は、たいてい「福岡」でとまる。
余談だが、庄九郎よりもやや後年に出た黒田官兵衛如水《じょすい》の先祖は、一時、この備前福岡の市《いち》に居ついていた。黒田家が筑前一国に封ぜられ、博《はか》多《た》の西方に築城したとき、先祖にゆかりの備前福岡の地名をとって、城下の地を福岡と名づけた。いまの福岡市がそれである。
庄九郎の一行は、この福岡を中心に分宿して、荏胡麻《えごま》の買いあつめにとりかかった。
庄九郎は、この近郷をおさえている福岡肥《ひ》前介《ぜんのすけ》という地侍の屋敷を宿所にした。肥前介は下にもおかぬもてなしようである。
当然なことだ。
庄九郎の一行は、当時の油商人の慣習《ならわし》として、
「大山崎八幡宮《はちまんぐう》神《じ》人《にん》」
という肩書きできている。この資格のあるかぎり、諸国の関所は一も二もなく通過させてくれるし、諸国の大名、豪族は、その旅行の安全を保障することになっている。
庄九郎は、この近郷をおさえている福岡肥《ひ》前介《ぜんのすけ》という地侍の屋敷を宿所にした。肥前介は下にもおかぬもてなしようである。
当然なことだ。
庄九郎の一行は、当時の油商人の慣習《ならわし》として、
「大山崎八幡宮《はちまんぐう》神《じ》人《にん》」
という肩書きできている。この資格のあるかぎり、諸国の関所は一も二もなく通過させてくれるし、諸国の大名、豪族は、その旅行の安全を保障することになっている。
大山崎八幡宮は、油の専売権を足利《あしかが》幕府からあたえられていたことは、前にのべた。おそらく、没落同然の足利将軍家は、こういう許可権をあたえることで、八幡宮から金をとっていたのであろう。奈良屋のような問屋は、その八幡宮へ一年ごとに金をおさめて、一年かぎりの「神人」の資格を得る。そういう仕組みである。庄九郎らが、備前の原料買いつけ地で大いにもてなされたのは、幕府のお声がかりがあるというよりも、地侍や百姓どもに大いに金を撒《ま》くからであろう。
庄九郎は、福岡屋敷にとまりながら、備前一国の形勢をしらべた。
もともと綿密な男なのだ。
下心がある。奈良屋を乗っとったあと、その巨富をもって、どこかの国をねらって大名になるということだ。
それには条件がある。
国の守護大名、豪族などの家政がみだれ、仲間で相争っているという国がいい。
そのうえ、英傑の人物がおらぬ、ということ。
(おれがその国を興して英雄になるのだから)
だからこそ、自分の野望をはばむような土着の英雄がいてくれては都合がわるいのである。
宿主《やどぬし》の福岡肥前介というのは、愚にもつかぬ好人物で、庄九郎のことをかげでは、
「永楽銭様」
と称してあがめている。庄九郎が、奈良屋から運んできた永楽銭を、気前よく分けあたえてくれるからである。
「いやもう備前などは」
と、肥前介は、泣きごとをいった。
備前一国の実力者は、かつて赤松家の家老にすぎなかった浦上氏である。現在《いま》セメント工業のさかんな「三石《みついし》」に城をきずいて、美《みま》作《さか》にまで威をふるっている。
その浦上氏が播州《ばんしゅう》の旧本家である赤松の支族の諸豪族から攻められたり、攻めこんだりしている一方、浦上氏の家老である宇喜多《うきた》氏がちかごろ頭をもたげてきて、主家をとりかねまじき気配がある。
こういう入り組んだ国情だから、むかしは播州赤松家の保護をうけていた福岡家などは播州の赤松諸豪にもよしみ《・・・》を通ずる一方、表面は浦上氏に属し、その陣触れがあると合戦に出ねばならず、浦上氏の家来である宇喜多氏の機《き》嫌《げん》もとっておかねばならない。ずいぶん気苦労の要ることだ。
「大変ですな」
「われわれ小領主《こやけ》は、苦労なことです。それにくらべると、あなたのようなあきんどがうらやましい」
「いやいや」
庄九郎はほどほどにあしらいつつ、備前一国の人物をきいた。
挿《そう》話《わ》をきくのだ。
こぼればなしなどをききつつ、備前一国の人物群の重さをはかるのである。
それによると、
(わりあい、人物がいるらしい)
という実感だった。
なぜならば、備前は、足利幕府によって封ぜられた守護大名がすでに衰え、下剋上《げこくじょう》につぐ下剋上で、つぎつぎと新興勢力があたまをもたげ、国中がたぎっている。
こういう国には、人物が出る。足軽から身をおこしても、大名になれる可能性があるからだ。
(備前は、むりだな)
庄九郎は、そうおもった。後年、「蝮《まむし》の道三」といわれた庄九郎から見放された《・・・・・》備前こそ、幸いだったというべきだろう。
もともと綿密な男なのだ。
下心がある。奈良屋を乗っとったあと、その巨富をもって、どこかの国をねらって大名になるということだ。
それには条件がある。
国の守護大名、豪族などの家政がみだれ、仲間で相争っているという国がいい。
そのうえ、英傑の人物がおらぬ、ということ。
(おれがその国を興して英雄になるのだから)
だからこそ、自分の野望をはばむような土着の英雄がいてくれては都合がわるいのである。
宿主《やどぬし》の福岡肥前介というのは、愚にもつかぬ好人物で、庄九郎のことをかげでは、
「永楽銭様」
と称してあがめている。庄九郎が、奈良屋から運んできた永楽銭を、気前よく分けあたえてくれるからである。
「いやもう備前などは」
と、肥前介は、泣きごとをいった。
備前一国の実力者は、かつて赤松家の家老にすぎなかった浦上氏である。現在《いま》セメント工業のさかんな「三石《みついし》」に城をきずいて、美《みま》作《さか》にまで威をふるっている。
その浦上氏が播州《ばんしゅう》の旧本家である赤松の支族の諸豪族から攻められたり、攻めこんだりしている一方、浦上氏の家老である宇喜多《うきた》氏がちかごろ頭をもたげてきて、主家をとりかねまじき気配がある。
こういう入り組んだ国情だから、むかしは播州赤松家の保護をうけていた福岡家などは播州の赤松諸豪にもよしみ《・・・》を通ずる一方、表面は浦上氏に属し、その陣触れがあると合戦に出ねばならず、浦上氏の家来である宇喜多氏の機《き》嫌《げん》もとっておかねばならない。ずいぶん気苦労の要ることだ。
「大変ですな」
「われわれ小領主《こやけ》は、苦労なことです。それにくらべると、あなたのようなあきんどがうらやましい」
「いやいや」
庄九郎はほどほどにあしらいつつ、備前一国の人物をきいた。
挿《そう》話《わ》をきくのだ。
こぼればなしなどをききつつ、備前一国の人物群の重さをはかるのである。
それによると、
(わりあい、人物がいるらしい)
という実感だった。
なぜならば、備前は、足利幕府によって封ぜられた守護大名がすでに衰え、下剋上《げこくじょう》につぐ下剋上で、つぎつぎと新興勢力があたまをもたげ、国中がたぎっている。
こういう国には、人物が出る。足軽から身をおこしても、大名になれる可能性があるからだ。
(備前は、むりだな)
庄九郎は、そうおもった。後年、「蝮《まむし》の道三」といわれた庄九郎から見放された《・・・・・》備前こそ、幸いだったというべきだろう。
荏胡麻の買いつけをおわって、庄九郎らは京へもどった。
奈良屋の手代杉丸《すぎまる》が、伏見まで出むかえにきていた。
「道中、ご苦労さまでございました」
杉丸は、すでに庄九郎の手紙で、有年峠でおこった事件、福岡庄《ふくおかのしょう》での買いつけのぐあいなどは、すべて知っている。
「杉丸、お万阿《まあ》殿は達者か」
それが、ききたい。
「へえ、お達者でございますとも。庄九郎様の御安否を気づかって、毎日のようにお噂《うわさ》をなさっておりました」
「うまいことをいう。お万阿殿は、おれの身より、おれが護衛している荷やぜに《・・》のほうが気づかいだったのであろう」
「いえいえ」
と人のいい杉丸はあわてて首をふったが、じつは、庄九郎のいうとおりである。
若後家の身で奈良屋の大身代をきりまわしているお万阿にはただの小娘が殿御のうわさをするようなところはない。
庄九郎よりも荷、むろんそれが心配だったのである。護衛隊長の身代りなどは、いくらでも募ればやってくるのである。
伏見から三里。
市に入った。
このころの京は、公卿《くげ》文化の雅《みや》びこそ衰えたが、人口の多さはやはり天下第一の殷賑《いんしん》の府で、戦国中期にやってきた耶蘇《やそ》会《かい》士《し》の日本通信天文十八年十一月五日発の報告書にも、
「キョートの戸数九万以上」とあり、「この町を見たポルトガル人たちはみなリスボン市よりも大きい、といった」とある。
そのなかでの最大の商家の一つが、奈良屋であった。
お万阿は、この朝、化粧《けわい》をこらして待っていた。
やがて荷駄隊が、奈良屋の店さきに到着したとき、お万阿は、広い土間へおりた。
「庄九郎様は?」
と、杉丸にきいた。
「それが」
杉丸は口ごもった。
「それが、どうしたのです」
「東《とう》寺《じ》まで参りましたとき、庄九郎様が、ここから先は京の街じゃ。もはや護衛も要るまいゆえこれにて別れる、と申され」
「申され?」
「ふりきっていずこへともなく、消《う》せられましてござりまする」
「杉丸」
お万阿の指が、杉丸の痩《や》せた頬《ほお》にそろそろとのびた。
「あっ、御料人さまおゆるしなされませ」
杉丸は、もがいた。
頬がひきつっている。杉丸の足が、つまさき立ちになった。お万阿が、頬を力まかせにつねりあげているのである。
「なぜ、お引きとめせなんだのかえ。これくらいの折檻《せっかん》では済みませぬぞ」
「さ、察するところ」
「何かえ」
「庄九郎様は、ああいう無慾なご気象のお方でございますゆえ、この奈良屋にもどって礼《れい》物《もつ》を受けとるのが、おいやなのでございましょう」
「はるばる備前まで荷頭《にがしら》をして頂いたゆえ、荷頭としての礼物を受けとっていただくのが当然ではありませぬか」
「そ、それが、庄九郎様には通じませぬ。庄九郎様にすれば荷頭をひきうけたのは身すぎ世すぎのためではない。退屈しのぎに請《う》けたまでのことで、もし礼物をもらえば、松波庄九郎ともあろう者が、一商人《あきびと》の荷頭にすぎなくなる、ということで、身をかくされたのでございましょう」
お万阿は、手をはなした。
ぼう然としている。
(ふしぎなお人もあったもの)
松波庄九郎という牢人が、いよいよ神秘的な人物としてお万阿の心に映じてきた。
(なんと無慾な。……)
いまどき、世に在るとはおもえないほどの無慾さではないか。
奈良屋の手代杉丸《すぎまる》が、伏見まで出むかえにきていた。
「道中、ご苦労さまでございました」
杉丸は、すでに庄九郎の手紙で、有年峠でおこった事件、福岡庄《ふくおかのしょう》での買いつけのぐあいなどは、すべて知っている。
「杉丸、お万阿《まあ》殿は達者か」
それが、ききたい。
「へえ、お達者でございますとも。庄九郎様の御安否を気づかって、毎日のようにお噂《うわさ》をなさっておりました」
「うまいことをいう。お万阿殿は、おれの身より、おれが護衛している荷やぜに《・・》のほうが気づかいだったのであろう」
「いえいえ」
と人のいい杉丸はあわてて首をふったが、じつは、庄九郎のいうとおりである。
若後家の身で奈良屋の大身代をきりまわしているお万阿にはただの小娘が殿御のうわさをするようなところはない。
庄九郎よりも荷、むろんそれが心配だったのである。護衛隊長の身代りなどは、いくらでも募ればやってくるのである。
伏見から三里。
市に入った。
このころの京は、公卿《くげ》文化の雅《みや》びこそ衰えたが、人口の多さはやはり天下第一の殷賑《いんしん》の府で、戦国中期にやってきた耶蘇《やそ》会《かい》士《し》の日本通信天文十八年十一月五日発の報告書にも、
「キョートの戸数九万以上」とあり、「この町を見たポルトガル人たちはみなリスボン市よりも大きい、といった」とある。
そのなかでの最大の商家の一つが、奈良屋であった。
お万阿は、この朝、化粧《けわい》をこらして待っていた。
やがて荷駄隊が、奈良屋の店さきに到着したとき、お万阿は、広い土間へおりた。
「庄九郎様は?」
と、杉丸にきいた。
「それが」
杉丸は口ごもった。
「それが、どうしたのです」
「東《とう》寺《じ》まで参りましたとき、庄九郎様が、ここから先は京の街じゃ。もはや護衛も要るまいゆえこれにて別れる、と申され」
「申され?」
「ふりきっていずこへともなく、消《う》せられましてござりまする」
「杉丸」
お万阿の指が、杉丸の痩《や》せた頬《ほお》にそろそろとのびた。
「あっ、御料人さまおゆるしなされませ」
杉丸は、もがいた。
頬がひきつっている。杉丸の足が、つまさき立ちになった。お万阿が、頬を力まかせにつねりあげているのである。
「なぜ、お引きとめせなんだのかえ。これくらいの折檻《せっかん》では済みませぬぞ」
「さ、察するところ」
「何かえ」
「庄九郎様は、ああいう無慾なご気象のお方でございますゆえ、この奈良屋にもどって礼《れい》物《もつ》を受けとるのが、おいやなのでございましょう」
「はるばる備前まで荷頭《にがしら》をして頂いたゆえ、荷頭としての礼物を受けとっていただくのが当然ではありませぬか」
「そ、それが、庄九郎様には通じませぬ。庄九郎様にすれば荷頭をひきうけたのは身すぎ世すぎのためではない。退屈しのぎに請《う》けたまでのことで、もし礼物をもらえば、松波庄九郎ともあろう者が、一商人《あきびと》の荷頭にすぎなくなる、ということで、身をかくされたのでございましょう」
お万阿は、手をはなした。
ぼう然としている。
(ふしぎなお人もあったもの)
松波庄九郎という牢人が、いよいよ神秘的な人物としてお万阿の心に映じてきた。
(なんと無慾な。……)
いまどき、世に在るとはおもえないほどの無慾さではないか。