その朝、杉丸《すぎまる》は、御所坊のお万阿の前でひれ伏したきり、顔があがらなかった。
「ご、御料人さま」
お万阿は、しきい《・・・》一筋をへだてた奥の間で、腹《はら》這《ば》いになっている。顔を両肘《りょうひじ》でささえていた。
「お、お腹立ちでござりますか」
と、杉丸がいった。
「うん」
お万阿の眼は、庭の高《こう》野《や》槙《まき》をぼんやり見つめていた。
「も、もうしわけございませぬ。杉丸めがついていながら、庄九郎様がこの里をお発《た》ちになるのも存じませなんだとは」
「杉丸」
お万阿は、つぶやくようにいった。
「は、はい」
「お万阿には、庄九郎様を魅《ひ》くだけの愛《かな》しさがありませぬか」
(ああ)
杉丸は泣きたいような気持であった。
(お万阿様は、恋を遊ばしている)
「ありませぬか」
と、お万阿は、力なくいった。
「と、とんでもござりませぬ。京で一といわれたご料人様でござりまする。杉丸の眼からみましても、照り輝くように見えまする」
「だめ」
お万阿は瞬《まばた》きもせずいった。
「だめなのです。庄九郎様はお万阿を美しいとも思うて下さっておりませぬ」
「そ、そんな」
といったが、杉丸も内心そう思わざるをえない。いったい、松波庄九郎というお武家は、木石でできたお人なのか。
それとも、僧房のころの意識《あたま》が抜けきれず女人をけがれと思うておわすのか。
杉丸は、六つのときに西ノ岡から奈良屋に貰《もら》われてきて飼われ育てられ、奈良屋を二なき棲《すみ》家《か》として生きてきた。
二なきといえば、家つき娘のお万阿に対しても同然である。柔肌《やわはだ》に血の通うた吉祥天女《きっしょうてんにょ》であろうかとあがめてきた。
もしお万阿が命ずるとすれば、お万阿のゆ《・》ばり《・・》でも杉丸はよろこんで飲むであろう。が杉丸は、武家でいえば、家ノ子である。
飼われ者だ。
お万阿への情念《こころ》を、恋であるとはおもったことはなかった。おもうべきではない。もしそのような不《ふ》逞《てい》のこころをおこすとすれば、
(死ね)
と、杉丸は自分に命ずるであろう。庭の樹《き》に縄《なわ》をかけて縊《くび》れ死ぬであろう。
そのかわり、お万阿の恋のためには、どのようなことでもしたい。
(しかも)
その相手の松波庄九郎は、この世にあり得《う》可《びょ》うともおもえぬほど、無慾なお方ではないか。奈良屋の身代をねらうようなおかたではない。
(いうなれば)
菩薩行《ぼさつぎょう》のひとである。吉祥天女さまの恋の相手としては、これほどのお人はない。
「杉丸、わたくしはね」
と、お万阿は天女のような無邪気さでいった。
「わたくしのののさま《・・・・》をお見せしたのです」
「ののさま?」
「ええ、ののさま」
お万阿は、うつろな眼でいった。
杉丸の悲劇は、——というよりお万阿と杉丸の喜劇は、お万阿が杉丸という人間を性をそなえた男とはおもっていないことだ。幼いころから屋《や》舗《しき》の庭にはえている庭木とおなじようなものだ、とおもっている。だからこそ杉丸の前で平気で着更《きが》えをするし、
「ののさまを見せた」
などと、白々というのである。杉丸はさすがに、息をのみ、動《どう》悸《き》をおさえている。
「御料人さま。御料人さまから進んでののさ《・・・》ま《・》をお見せあそばしたのでござりまするか」
「ちがう」
物《もの》憂《う》くくびをふった。
「庄九郎様が、見せよ、と申されたから」
「それは」
おどろきである。
「庄九郎様はそのような淫乱《ばぶれ》たことを申されたのでござりまするか」
あのかたが。——信じられぬ。
「庄九郎様のおおせられるには、有《う》年峠《ねとうげ》で何やらの姫のののさま《・・・・》に手で触れたことがあったが暗うて見なんだ、見たことがない、見せてたもれとおおせられるのです」
「それで?」
「仕方がありませぬ」
「お見せなされたのでござりまするな。庄九郎様はどうおおせでござりました」
「黙って」
「だまって?」
「おいでなされただけ。庄九郎様は僧房で稚《ち》児《ご》のみをごぞんじであったゆえ、おなごはおきらいなのであろうか」
「まさか左様な」
杉丸は、語気を荒《あらら》げた。おなごのきらいな男などあってよいものか。
諸国の武将で、なるほど稚児を愛する者は多い。しかしそれは戦陣、征旅に女人を連れてゆかぬからであろう。それが証拠に、かれらは平素、館《やかた》では女人にかしずかれている。察するところ、稚児のもつ「菊の花」(当時の隠語)は、所詮《しょせん》は女人のののさま《・・・・》の代用にすぎぬものだ、と杉丸はおもっている。
「杉丸、お万阿は」
と、眼だけをむけた。
「堪《こら》えられませぬ。想《おも》いが、この胸の。杉丸などにはわからぬであろう。わからぬゆえそのような平然《しれしれ》とした表情《かお》をしているのです」
「いいえ、そんな」
「おだまり」
お万阿は、おきあがった。
「わたくしは、恋をした。おなごにうまれてこのように胸の灼《や》ける思いをしたことがありませぬ。——杉丸」
「は、はい」
「支度しや」
お万阿は立った。
(お美しい)
杉丸は、甘酸っぱい、悲しいような気持でお万阿を見あげた。
「京へ帰ります。吉田(洛北《らくほく》)の陰陽師《おんみょうじ》に庄九郎様の行方を占ってもらうのです」
「ご、御料人さま」
お万阿は、しきい《・・・》一筋をへだてた奥の間で、腹《はら》這《ば》いになっている。顔を両肘《りょうひじ》でささえていた。
「お、お腹立ちでござりますか」
と、杉丸がいった。
「うん」
お万阿の眼は、庭の高《こう》野《や》槙《まき》をぼんやり見つめていた。
「も、もうしわけございませぬ。杉丸めがついていながら、庄九郎様がこの里をお発《た》ちになるのも存じませなんだとは」
「杉丸」
お万阿は、つぶやくようにいった。
「は、はい」
「お万阿には、庄九郎様を魅《ひ》くだけの愛《かな》しさがありませぬか」
(ああ)
杉丸は泣きたいような気持であった。
(お万阿様は、恋を遊ばしている)
「ありませぬか」
と、お万阿は、力なくいった。
「と、とんでもござりませぬ。京で一といわれたご料人様でござりまする。杉丸の眼からみましても、照り輝くように見えまする」
「だめ」
お万阿は瞬《まばた》きもせずいった。
「だめなのです。庄九郎様はお万阿を美しいとも思うて下さっておりませぬ」
「そ、そんな」
といったが、杉丸も内心そう思わざるをえない。いったい、松波庄九郎というお武家は、木石でできたお人なのか。
それとも、僧房のころの意識《あたま》が抜けきれず女人をけがれと思うておわすのか。
杉丸は、六つのときに西ノ岡から奈良屋に貰《もら》われてきて飼われ育てられ、奈良屋を二なき棲《すみ》家《か》として生きてきた。
二なきといえば、家つき娘のお万阿に対しても同然である。柔肌《やわはだ》に血の通うた吉祥天女《きっしょうてんにょ》であろうかとあがめてきた。
もしお万阿が命ずるとすれば、お万阿のゆ《・》ばり《・・》でも杉丸はよろこんで飲むであろう。が杉丸は、武家でいえば、家ノ子である。
飼われ者だ。
お万阿への情念《こころ》を、恋であるとはおもったことはなかった。おもうべきではない。もしそのような不《ふ》逞《てい》のこころをおこすとすれば、
(死ね)
と、杉丸は自分に命ずるであろう。庭の樹《き》に縄《なわ》をかけて縊《くび》れ死ぬであろう。
そのかわり、お万阿の恋のためには、どのようなことでもしたい。
(しかも)
その相手の松波庄九郎は、この世にあり得《う》可《びょ》うともおもえぬほど、無慾なお方ではないか。奈良屋の身代をねらうようなおかたではない。
(いうなれば)
菩薩行《ぼさつぎょう》のひとである。吉祥天女さまの恋の相手としては、これほどのお人はない。
「杉丸、わたくしはね」
と、お万阿は天女のような無邪気さでいった。
「わたくしのののさま《・・・・》をお見せしたのです」
「ののさま?」
「ええ、ののさま」
お万阿は、うつろな眼でいった。
杉丸の悲劇は、——というよりお万阿と杉丸の喜劇は、お万阿が杉丸という人間を性をそなえた男とはおもっていないことだ。幼いころから屋《や》舗《しき》の庭にはえている庭木とおなじようなものだ、とおもっている。だからこそ杉丸の前で平気で着更《きが》えをするし、
「ののさまを見せた」
などと、白々というのである。杉丸はさすがに、息をのみ、動《どう》悸《き》をおさえている。
「御料人さま。御料人さまから進んでののさ《・・・》ま《・》をお見せあそばしたのでござりまするか」
「ちがう」
物《もの》憂《う》くくびをふった。
「庄九郎様が、見せよ、と申されたから」
「それは」
おどろきである。
「庄九郎様はそのような淫乱《ばぶれ》たことを申されたのでござりまするか」
あのかたが。——信じられぬ。
「庄九郎様のおおせられるには、有《う》年峠《ねとうげ》で何やらの姫のののさま《・・・・》に手で触れたことがあったが暗うて見なんだ、見たことがない、見せてたもれとおおせられるのです」
「それで?」
「仕方がありませぬ」
「お見せなされたのでござりまするな。庄九郎様はどうおおせでござりました」
「黙って」
「だまって?」
「おいでなされただけ。庄九郎様は僧房で稚《ち》児《ご》のみをごぞんじであったゆえ、おなごはおきらいなのであろうか」
「まさか左様な」
杉丸は、語気を荒《あらら》げた。おなごのきらいな男などあってよいものか。
諸国の武将で、なるほど稚児を愛する者は多い。しかしそれは戦陣、征旅に女人を連れてゆかぬからであろう。それが証拠に、かれらは平素、館《やかた》では女人にかしずかれている。察するところ、稚児のもつ「菊の花」(当時の隠語)は、所詮《しょせん》は女人のののさま《・・・・》の代用にすぎぬものだ、と杉丸はおもっている。
「杉丸、お万阿は」
と、眼だけをむけた。
「堪《こら》えられませぬ。想《おも》いが、この胸の。杉丸などにはわからぬであろう。わからぬゆえそのような平然《しれしれ》とした表情《かお》をしているのです」
「いいえ、そんな」
「おだまり」
お万阿は、おきあがった。
「わたくしは、恋をした。おなごにうまれてこのように胸の灼《や》ける思いをしたことがありませぬ。——杉丸」
「は、はい」
「支度しや」
お万阿は立った。
(お美しい)
杉丸は、甘酸っぱい、悲しいような気持でお万阿を見あげた。
「京へ帰ります。吉田(洛北《らくほく》)の陰陽師《おんみょうじ》に庄九郎様の行方を占ってもらうのです」
庄九郎は、京にむかって歩いている。
(われながら、細工のこまかいことよ)
とおもうのだ。
(お万阿は手に入れることはできる)
とまでは、自信はついた。
しかしながら、ただ単にお万阿の女体を手に入れるだけではつまるまい。
ほしいのは、奈良屋の財産《しんだい》だ。
あの有馬の湯でお万阿のののさま《・・・・》を見ながら、なおお万阿を放ちやったのは、庄九郎なりの手《て》管《くだ》である。
あのときは、お万阿は抱けた。お万阿はよろこんで庄九郎に身をまかせたであろう。
(しかしながら)
それだけのことだ、と庄九郎は思う。お万阿を得るだけのことである。
お万阿をして、身も世もなく庄九郎に惚《ほ》れさせねばならぬ。悩乱して、ついには命よりも大事な奈良屋の身代をなげだすまでにお万阿の心を灼きあげてゆかねばならぬ。
(そのためには)
辛抱が肝腎《かんじん》。
庄九郎は、颯々《さっさっ》と歩いてゆく。一あし一あしが、地を踏みしめるような歩き方だ。
庄九郎には、あらたな自分への自信ができた。自分への発見といっていい。
(おれは稀有《けう》の男だ)
という自信である。考えてもみよ、と庄九郎は北摂《ほくせつ》の天を見あげるのだ。
お万阿は、京随一の美女という。京随一の美女といえば、天下随一の美女ということでもある。
(天よ、おれを賞《ほ》めよ)
この松波庄九郎は、その美女を裸形にし、その体を開かせ、しかも抱かなかったではないか。
あの場にのぞんでその事に堪えうる者は、本朝唐天竺《ほんちょうからてんじく》ひろしといえどもこの松波庄九郎のほかはあるまい。
(野望があるためだ)
と、庄九郎は思うのである。男の男たるゆえんは、野望の有無だ、と庄九郎はおもっている。庄九郎の満足は、自分の野望が女色をさえしりぞけられるほどに強い、ということであった。
(いやいやこの庄九郎、いままで男であると思っていたが、これほどの男であろうとははじめて知った。一国一天下を望むも、もはや夢ではないであろう)
鳶《とび》が、舞っている。
庄九郎は、北摂の山峡《やまかい》を、黙々と京にむかって歩いてゆく。
(京での用事は)
お万阿を抱くことだ。あの想いにじれているだろうお万阿のからだを、こんどこそは抱く。抱く。
(どう抱くべきか)
残念なことに、学は古今に通じているはずの法蓮房《ほうれんぼう》松波庄九郎は、天地万物の事理のなかでたったひとつ、女を抱くすべ《・・》を知らない。
(いやさ、知ってはおる。男女《なんにょ》の合歓は自《じ》然《ねん》の道だ。教えられずともわかるものであるが、ただそれではお万阿の心は蕩《と》かせるわけにいかぬ。芸がいる。芸が。——)
芸が。——これが、庄九郎のやり方である。歩一歩、芸でかためつつ、階段をのぼってゆく。
庄九郎。
京へ入るまえに、その芸《・》をみがくために、高名な江《え》口《ぐち》ノ里へ足をとめた。
王朝のころからの遊里で、京から公卿《くげ》、諸《しょ》大《だい》夫《ぶ》なども淀川《よどがわ》に船をうかべてこの里へあそびにきたものだ。
自然、遊女の多くは文雅の道にあかるく、歌人西行法師《さいぎょうほうし》がこの江口で泊まり、遊女妙《たえ》とやりとりした贈答の歌が、勅選の「新古今和歌集」に採録されているほどである。
むろん、松波庄九郎は、この里の遊女と文雅な閑話をするつもりではない。
おなごを、どう為《な》せばよいか。
為す、だけではない。その法を用いればおなごの体は蕩《と》けるものか、その教授を乞《こ》うつもりであった。
川べりに、宏壮《こうそう》な娼家《しょうか》がならんでいる。檜《ひ》皮《わだ》ぶき寝殿造り、といった、公卿の屋敷と見まがうような、優雅な建物ばかりである。
(その道に堪能《たんのう》なおなごと寝たい)
と庄九郎はおもうのだが、さて、
「そのような妓《おんな》がおるか」
などとは、一軒々々、軒下に入って訊《き》くわけにはいかない。
そこは利口で堅実な男だ。
釣《つ》り竿《ざお》を一本、購《あがな》い、娼家の町を背にして釣り糸を垂れた。
宿所も、手まわしよくきめてある。この里の寺で、寂光院《じゃっこういん》という坊だ。宗旨こそちがうが、
「かつて京の妙覚寺本山におった者だ」
といえば、ありがたいことにちゃんと泊めてくれる。
数日、釣りをした。
いっぴきもかからない。かかるはずがなかった。糸は垂れていても、はり《・・》はつけていない。
それが里の評判になった。
「かわったお武家様じゃ、衣裳《いしょう》、容貌《ようぼう》からみれば由緒《ゆいしょ》ありげなご身分のお方じゃが、どういうおつもりであろう」
ひまな里人が、話しかけてくる。
庄九郎はそれがねらいだ。釣り糸一つ垂れておれば、妙なもので人は警戒を解き、なんとはなく里のうわさをする。
「この里では、どのおなごが上手じゃ」
と、庄九郎も、さりげなく訊ける。
漁人、船頭、娼家の小者、さまざまな男ども二、三十人ほどには、庄九郎はきいたであろう。
白《しら》根《ね》
月《つき》御前《ごぜ》
桔梗《ききょう》
と、三人をいう者が最も多い。しかしながら最後に老漁夫がいった。
「いまでこそ庵《いお》を結んで尼《あま》御前《ごぜ》になっておわすが、むかしの名は白妙《しろたえ》、憂婆夷《うばい》(尼)になっての御名は妙善と申されるおひとが、いちばんの物知りにおじゃりまする」
「齢《とし》いくつじゃ」
「四十二、三」
「それはよい、その尼御前に物を訊きたいゆえ、この手紙を持って使いに行ってくれまいか」
庄九郎は、名文家である。
とくに漢文に長じていたが、このばあいは流麗な和文を用い、しかも今様の俗語も入れて諧謔《おかしみ》もくわえ、自分がかつて僧籍にあったためおなごを知らぬこと、しかしいまは知りたいこと、さらに知る以上は最上の巧技を学びたいこと、などを書いた。
老漁夫は、文字が読めない。
かしこまって、それを、江口の西、涙池のほとりの松林に埋れて建つ妙善尼の庵まで持って行った。
やがて戻《もど》ってきて、
「いらせられませ、とのお言づけでおじゃりましたわい」
と、返事した。
「そうか」
立ちあがったときは、釣り竿は庄九郎の手から離れて西へ流れはじめている。
涙池のほとり、庵室《あんしつ》の前に立った。庵をめぐって姫椿《ひめつばき》が垣《かき》根《ね》がわりになっている。姫椿はその葉を茶に製すると香気があり、女どもはそれを袋に入れてふところに忍ばせ、香袋《においぶくろ》にするものだ。いかにもこの庵のぬしの前身をおもわせて婉《えん》である。
眼の前は、真白な紙障子。
背後の西《にし》陽《び》が、庄九郎の影を、隈《くま》もあざやかに紙障子に映した。
障子は、ひらかない。
ただ、ひどく澄んだ声が、
「お入りくださいますように」
と、洩《も》れてきた。
庄九郎、革《かわ》足袋《たび》をぬぎ、足を、涙池へ流れこんでいる小川で洗い、
「ご免」
と、障子をあけた。
香《こう》が、部屋にたきしめられている。ひとかげはない。
円座が一つ。
客を待ちげに、置かれている。
庄九郎は、青江恒次の大刀を置き、円座にすわった。
眼の前に青磁の香炉が一つ息づき、そのむこうに老梅の枝が一《いっ》枝《し》、立《りっ》華《か》されているほかは、なんの飾りもない。
ほぼ半刻《いちじかん》、そこにすわっていた。その間、陽はしだいに傾き、やがて闇《やみ》がきた。
庄九郎は、闇の中に端座している。
そのとき、はじめてふすまがひらき、物音もなく匂《にお》いがちかづいてきた。
眼にはみえない。
匂いのみで、女体を嗅《か》ぐことができる。
「教えて進ぜまする」
と、その匂いの影はいった。
やがて匂いの影は、庄九郎の手をとり、舞うような仕草で、ふわりと立たせた。
「こちらへ」
部屋を一つ、過ぎた。
次の部屋は、畳になっている。屏風《びょうぶ》がめぐらされている様子であったが、闇に馴《な》れぬ庄九郎にはみえない。
匂いの影はうずくまって庄九郎の袴《はかま》を解き、小《こ》袖《そで》をぬがせた。
ただそれだけの仕草のあいだに、ときどきさわさわと肌《はだ》に触れる指のかぼそさ、しなやかさ、それが単に庄九郎の肌に触れるというようなものではない。肌で、妙音を聴くような感触である。
「やがて」
と、匂いの影はいった。その声は、澄んだなかにも湿りがある。
「やがて、月が昇りましょう。燭《しょく》は用いませぬ」
庄九郎は、臥《ふし》床《ど》に横たわった。
やがて、その横に影も添《そい》臥《ぶ》せた。
庄九郎はやにわに抱きよせようとしたが、匂いの影はそっと庄九郎の手をはずし、
「それはまだ早うございます」
と、微笑を含んだ声でささやき、ささやいた口で、庄九郎の耳を小さく噛《か》んだ。
「ああ」
われにもなく庄九郎は声をあげ、まだ女体を知らぬ庄九郎の男《・》が、勃然《ぼつぜん》とした。
「あれ、すさまじや」
と、匂いの影は、庄九郎の男《・》の雄偉さに、静かな驚きをもらした。
「庄九郎さま。さきほどからのあなた様の身のこなしから察して、おそらく舞をなされたであろうと思いましたが、いかがでございましょう」
「乱《らん》舞《ぶ》、曲舞《くせまい》、ひととおりのことは学びはしたが、それがどうしたか」
「それも舞の上手」
と匂いの影はささやき、
「舞もこのみちも、かわりはありませぬ。笛は遊ばされまするか」
「まずひととおりは」
「ああ、それならば、ご上達が早うございましょう。音曲、歌舞、おなごを為《・》す道も極意《こころ》はかわりませぬ」
と、匂いの影は庄九郎の左手の指をかるくつまみ、やがて自分のからだに触れさせた。指がしめやかに濡《ぬ》れてゆく。
「庄九郎様」
と、声が低くなった。すでに匂いの影《・》ではなく、女という実体に化《な》りつつあり、やがて血があつくなり、肌が動いた。庄九郎の指は、もはや影に触れていない。
そこに女《・》がいる。
(これが、女か)
やがて、月が枕辺《まくらべ》に射《さ》した。
庄九郎は、女に誘われるままに、女のいう舞を演じはじめた。優雅に。
しかし、ときにはげしく。
(これも一国一天下に事をなさんがため)
庄九郎の情事は、あくまでも生真面目《きまじめ》である。
京へ入るまえに、その芸《・》をみがくために、高名な江《え》口《ぐち》ノ里へ足をとめた。
王朝のころからの遊里で、京から公卿《くげ》、諸《しょ》大《だい》夫《ぶ》なども淀川《よどがわ》に船をうかべてこの里へあそびにきたものだ。
自然、遊女の多くは文雅の道にあかるく、歌人西行法師《さいぎょうほうし》がこの江口で泊まり、遊女妙《たえ》とやりとりした贈答の歌が、勅選の「新古今和歌集」に採録されているほどである。
むろん、松波庄九郎は、この里の遊女と文雅な閑話をするつもりではない。
おなごを、どう為《な》せばよいか。
為す、だけではない。その法を用いればおなごの体は蕩《と》けるものか、その教授を乞《こ》うつもりであった。
川べりに、宏壮《こうそう》な娼家《しょうか》がならんでいる。檜《ひ》皮《わだ》ぶき寝殿造り、といった、公卿の屋敷と見まがうような、優雅な建物ばかりである。
(その道に堪能《たんのう》なおなごと寝たい)
と庄九郎はおもうのだが、さて、
「そのような妓《おんな》がおるか」
などとは、一軒々々、軒下に入って訊《き》くわけにはいかない。
そこは利口で堅実な男だ。
釣《つ》り竿《ざお》を一本、購《あがな》い、娼家の町を背にして釣り糸を垂れた。
宿所も、手まわしよくきめてある。この里の寺で、寂光院《じゃっこういん》という坊だ。宗旨こそちがうが、
「かつて京の妙覚寺本山におった者だ」
といえば、ありがたいことにちゃんと泊めてくれる。
数日、釣りをした。
いっぴきもかからない。かかるはずがなかった。糸は垂れていても、はり《・・》はつけていない。
それが里の評判になった。
「かわったお武家様じゃ、衣裳《いしょう》、容貌《ようぼう》からみれば由緒《ゆいしょ》ありげなご身分のお方じゃが、どういうおつもりであろう」
ひまな里人が、話しかけてくる。
庄九郎はそれがねらいだ。釣り糸一つ垂れておれば、妙なもので人は警戒を解き、なんとはなく里のうわさをする。
「この里では、どのおなごが上手じゃ」
と、庄九郎も、さりげなく訊ける。
漁人、船頭、娼家の小者、さまざまな男ども二、三十人ほどには、庄九郎はきいたであろう。
白《しら》根《ね》
月《つき》御前《ごぜ》
桔梗《ききょう》
と、三人をいう者が最も多い。しかしながら最後に老漁夫がいった。
「いまでこそ庵《いお》を結んで尼《あま》御前《ごぜ》になっておわすが、むかしの名は白妙《しろたえ》、憂婆夷《うばい》(尼)になっての御名は妙善と申されるおひとが、いちばんの物知りにおじゃりまする」
「齢《とし》いくつじゃ」
「四十二、三」
「それはよい、その尼御前に物を訊きたいゆえ、この手紙を持って使いに行ってくれまいか」
庄九郎は、名文家である。
とくに漢文に長じていたが、このばあいは流麗な和文を用い、しかも今様の俗語も入れて諧謔《おかしみ》もくわえ、自分がかつて僧籍にあったためおなごを知らぬこと、しかしいまは知りたいこと、さらに知る以上は最上の巧技を学びたいこと、などを書いた。
老漁夫は、文字が読めない。
かしこまって、それを、江口の西、涙池のほとりの松林に埋れて建つ妙善尼の庵まで持って行った。
やがて戻《もど》ってきて、
「いらせられませ、とのお言づけでおじゃりましたわい」
と、返事した。
「そうか」
立ちあがったときは、釣り竿は庄九郎の手から離れて西へ流れはじめている。
涙池のほとり、庵室《あんしつ》の前に立った。庵をめぐって姫椿《ひめつばき》が垣《かき》根《ね》がわりになっている。姫椿はその葉を茶に製すると香気があり、女どもはそれを袋に入れてふところに忍ばせ、香袋《においぶくろ》にするものだ。いかにもこの庵のぬしの前身をおもわせて婉《えん》である。
眼の前は、真白な紙障子。
背後の西《にし》陽《び》が、庄九郎の影を、隈《くま》もあざやかに紙障子に映した。
障子は、ひらかない。
ただ、ひどく澄んだ声が、
「お入りくださいますように」
と、洩《も》れてきた。
庄九郎、革《かわ》足袋《たび》をぬぎ、足を、涙池へ流れこんでいる小川で洗い、
「ご免」
と、障子をあけた。
香《こう》が、部屋にたきしめられている。ひとかげはない。
円座が一つ。
客を待ちげに、置かれている。
庄九郎は、青江恒次の大刀を置き、円座にすわった。
眼の前に青磁の香炉が一つ息づき、そのむこうに老梅の枝が一《いっ》枝《し》、立《りっ》華《か》されているほかは、なんの飾りもない。
ほぼ半刻《いちじかん》、そこにすわっていた。その間、陽はしだいに傾き、やがて闇《やみ》がきた。
庄九郎は、闇の中に端座している。
そのとき、はじめてふすまがひらき、物音もなく匂《にお》いがちかづいてきた。
眼にはみえない。
匂いのみで、女体を嗅《か》ぐことができる。
「教えて進ぜまする」
と、その匂いの影はいった。
やがて匂いの影は、庄九郎の手をとり、舞うような仕草で、ふわりと立たせた。
「こちらへ」
部屋を一つ、過ぎた。
次の部屋は、畳になっている。屏風《びょうぶ》がめぐらされている様子であったが、闇に馴《な》れぬ庄九郎にはみえない。
匂いの影はうずくまって庄九郎の袴《はかま》を解き、小《こ》袖《そで》をぬがせた。
ただそれだけの仕草のあいだに、ときどきさわさわと肌《はだ》に触れる指のかぼそさ、しなやかさ、それが単に庄九郎の肌に触れるというようなものではない。肌で、妙音を聴くような感触である。
「やがて」
と、匂いの影はいった。その声は、澄んだなかにも湿りがある。
「やがて、月が昇りましょう。燭《しょく》は用いませぬ」
庄九郎は、臥《ふし》床《ど》に横たわった。
やがて、その横に影も添《そい》臥《ぶ》せた。
庄九郎はやにわに抱きよせようとしたが、匂いの影はそっと庄九郎の手をはずし、
「それはまだ早うございます」
と、微笑を含んだ声でささやき、ささやいた口で、庄九郎の耳を小さく噛《か》んだ。
「ああ」
われにもなく庄九郎は声をあげ、まだ女体を知らぬ庄九郎の男《・》が、勃然《ぼつぜん》とした。
「あれ、すさまじや」
と、匂いの影は、庄九郎の男《・》の雄偉さに、静かな驚きをもらした。
「庄九郎さま。さきほどからのあなた様の身のこなしから察して、おそらく舞をなされたであろうと思いましたが、いかがでございましょう」
「乱《らん》舞《ぶ》、曲舞《くせまい》、ひととおりのことは学びはしたが、それがどうしたか」
「それも舞の上手」
と匂いの影はささやき、
「舞もこのみちも、かわりはありませぬ。笛は遊ばされまするか」
「まずひととおりは」
「ああ、それならば、ご上達が早うございましょう。音曲、歌舞、おなごを為《・》す道も極意《こころ》はかわりませぬ」
と、匂いの影は庄九郎の左手の指をかるくつまみ、やがて自分のからだに触れさせた。指がしめやかに濡《ぬ》れてゆく。
「庄九郎様」
と、声が低くなった。すでに匂いの影《・》ではなく、女という実体に化《な》りつつあり、やがて血があつくなり、肌が動いた。庄九郎の指は、もはや影に触れていない。
そこに女《・》がいる。
(これが、女か)
やがて、月が枕辺《まくらべ》に射《さ》した。
庄九郎は、女に誘われるままに、女のいう舞を演じはじめた。優雅に。
しかし、ときにはげしく。
(これも一国一天下に事をなさんがため)
庄九郎の情事は、あくまでも生真面目《きまじめ》である。