奈良屋のお万阿《まあ》が、京にもどってふた月ほどたったある日。
東山に夏の雲が湧いていた。
朝、清水《きよみず》への物詣《ものもう》でからもどると、杉丸《すぎまる》が軒さきまでとびだしてきて、
「あの庄九郎様が」
と、絶句した。お万阿は次の言葉を待った。その松波庄九郎の行方をさがして、すでにふた月になるのである。
「庄九郎様が、どうなされたのです」
「ご自身、足をお運びなされ、ただいま奥にてお待ちあそばされておりまする」
「あ」
と、お万阿は、手にもったあやめをおとした。
「奥とは、屋《や》舗《しき》のですか」
「はい。有馬から、あのまま旅にお出ましあそばされたそうでござります」
それはうそではない。庄九郎は、有馬から江口ノ里へ出たあと、例によって摂津、河内《かわち》、大和《やまと》の形勢をさぐったあと、山城《やましろ》へ入り、京へのぼってきたのである。
「旅」
とお万阿はつぶやいた。
「——はい、旅」
「旅から旅を重ねられて、庄九郎様はいったい何がおめあてなのであろう」
「存じませぬ。それはご料人様が、庄九郎様からごじきじきお訊《き》きなされませ」
と、杉丸は、いんぎん《・・・・》な口調だが、この男なりに女主人をからかっているつもりである。
「杉丸、なぶるつもりですか」
と、お万阿はこわい顔をして、店の中へ入った。
杉丸の鼻に、残り香《が》が漂った。
お万阿は廊下をいくつか渡り、ひたひたと板を踏みながら中壺《なかつぼ》まできて、ちょっと考えた。右へ折れた。
左は庄九郎が居る客間。
(待たせてさしあげる)
それくらいの罰があってもよい。
お万阿は自室にもどり、自室で婢《ひ》女《じょ》に着更《きが》えを手伝わさせ、化粧《けわい》をなおした。
「杉丸をおよび」
言いつけて、唇《くちびる》に紅をさしている。
ほどもなく、杉丸が次室に跪《ひざまず》いた。
「御用でござりましたか」
「足を、ぬぐってください」
鏡のなかのお万阿はいそがしい。
幼女のころから、お万阿の足は杉丸がぬぐってきた。習慣《ならい》になっている。
杉丸はすぐ黒漆塗りの耳だらい《・・・》をもってきて、布をしぼった。
お万阿は、足を出した。杉丸はぬぐった。たがいに、何の感動もない。ただ杉丸がぬぐうと、指のまたのあいだまで、玉をみがくようにしてみがいてくれる。
「ごくろうさま」
お万阿は、立ちあがった。
東山に夏の雲が湧いていた。
朝、清水《きよみず》への物詣《ものもう》でからもどると、杉丸《すぎまる》が軒さきまでとびだしてきて、
「あの庄九郎様が」
と、絶句した。お万阿は次の言葉を待った。その松波庄九郎の行方をさがして、すでにふた月になるのである。
「庄九郎様が、どうなされたのです」
「ご自身、足をお運びなされ、ただいま奥にてお待ちあそばされておりまする」
「あ」
と、お万阿は、手にもったあやめをおとした。
「奥とは、屋《や》舗《しき》のですか」
「はい。有馬から、あのまま旅にお出ましあそばされたそうでござります」
それはうそではない。庄九郎は、有馬から江口ノ里へ出たあと、例によって摂津、河内《かわち》、大和《やまと》の形勢をさぐったあと、山城《やましろ》へ入り、京へのぼってきたのである。
「旅」
とお万阿はつぶやいた。
「——はい、旅」
「旅から旅を重ねられて、庄九郎様はいったい何がおめあてなのであろう」
「存じませぬ。それはご料人様が、庄九郎様からごじきじきお訊《き》きなされませ」
と、杉丸は、いんぎん《・・・・》な口調だが、この男なりに女主人をからかっているつもりである。
「杉丸、なぶるつもりですか」
と、お万阿はこわい顔をして、店の中へ入った。
杉丸の鼻に、残り香《が》が漂った。
お万阿は廊下をいくつか渡り、ひたひたと板を踏みながら中壺《なかつぼ》まできて、ちょっと考えた。右へ折れた。
左は庄九郎が居る客間。
(待たせてさしあげる)
それくらいの罰があってもよい。
お万阿は自室にもどり、自室で婢《ひ》女《じょ》に着更《きが》えを手伝わさせ、化粧《けわい》をなおした。
「杉丸をおよび」
言いつけて、唇《くちびる》に紅をさしている。
ほどもなく、杉丸が次室に跪《ひざまず》いた。
「御用でござりましたか」
「足を、ぬぐってください」
鏡のなかのお万阿はいそがしい。
幼女のころから、お万阿の足は杉丸がぬぐってきた。習慣《ならい》になっている。
杉丸はすぐ黒漆塗りの耳だらい《・・・》をもってきて、布をしぼった。
お万阿は、足を出した。杉丸はぬぐった。たがいに、何の感動もない。ただ杉丸がぬぐうと、指のまたのあいだまで、玉をみがくようにしてみがいてくれる。
「ごくろうさま」
お万阿は、立ちあがった。
庄九郎は、座敷から庭のあやめを見ている。装束《しょうぞく》がすがすがしい。
突き出たひたい《・・・》、やや受け口、頑丈《がんじょう》なあご、よく光る眼、異相ながらも、それなりに秀麗な容貌《ようぼう》である。
「ああ、お万阿殿か」
庄九郎は、あやめから視線を転じただけで、表情も変えない。
この男、倨傲《きょごう》なくせに、寺育ちらしくあいさつだけは鄭重《ていちょう》である。
ひととおりの挨拶《あいさつ》をかわしたあと、
「京に宿がない」
といった。
「今夜はとめていただく」
「どうぞ」
お万阿も、奈良屋のあるじらしく、行儀はことさらに固くしている。有馬の湯で、
——狐《きつね》
に化《な》って庄九郎の前で見せた嬌態《きょうたい》は、いま片鱗《へんりん》もない。
「京の滞留は、数日になるかもしれぬ」
「幾日なりとも」
「礼をいいます」
庄九郎は、侍烏帽子《さむらいえぼし》をわずかにさげた。ひもが朱である。
「じつは有馬で御料人に変《へん》化《げ》した狐をみた」
などと野暮なことは庄九郎はいわない。ぴしっ、と音の鳴るような固い貌《かお》である。
だまっている。
中庭からの陽《ひ》ざしが、骨ばった半顔をくっきりと照らし、ひざは袴《はかま》の折り目のままに端座している。
「…………」
と、お万阿はこまった。この男と対座していると間がもてないのである。
つい、こちらが多弁になる。ならざるをえぬように松波庄九郎は仕むけているのであろうか。
「京での御用はなんでございます」
「用か」
庄九郎は、お万阿の眼を射るように見、その視線をはなさず、
「そなたを抱くためさ」
といった。
お万阿は、陽射しの中で狼狽《ろうばい》した。庄九郎はさらにいった。
「有馬の湯では、狐を抱こうとした。が、狐ではいやじゃ。抱こうなら、真正のお万阿殿をそなたの閨《ねや》にて抱きたい」
(あの)
お万阿は、自分がどんな顔をしているのかもわからない。ただ、体だけが庄九郎の眼前にさらけ出ている。その体が、すでに突き貫かれたとおなじ衝動をもった。
「今夜、閨で待つように」
「そ、そのかわり」
お万阿は、自分の唇が、もう意思の統制をはなれてとんでもないことを口走っていることに気づかない。
「そのかわり、数日逗留《とうりゅう》、などとは申して下さりますな」
「何月も?」
「いいえ」
「何年もか」
「いいえ。庄九郎様が一生、奈良屋に居てくださるというならば、お万阿は今夜、閨でお待ちいたします」
「この、あるいは天下のぬしになるかもしれぬ松波庄九郎を、奈良屋が飼おうというのか」
「ち、ちがいまする。お万阿のほうが」
「ほうが?」
「庄九郎様に飼われとうございます。今生《こんじょう》だけでなく、つぎの世までも」
「入婿《いりむこ》せよというのじゃな」
と庄九郎、顔がにがい。
「わしは」
庄九郎はいった。
「諸国を経《へ》めぐってようやくわかった。この庄九郎、いまは凡《ぼん》下《げ》にすぎねども、ゆくゆく、この国の歴史を変える男になろうかもしれぬ。それを奈良屋の婿にしてしまうのか」
「虎《とら》も」
と、お万阿はいった。
「飼いならせば猫《ねこ》のようになると申します」
「ひもじい」
庄九郎は、もうこの会話に飽いたらしく、庭前のあやめの花に眼を移している。
「湯漬《ゆづ》けはないか」
突き出たひたい《・・・》、やや受け口、頑丈《がんじょう》なあご、よく光る眼、異相ながらも、それなりに秀麗な容貌《ようぼう》である。
「ああ、お万阿殿か」
庄九郎は、あやめから視線を転じただけで、表情も変えない。
この男、倨傲《きょごう》なくせに、寺育ちらしくあいさつだけは鄭重《ていちょう》である。
ひととおりの挨拶《あいさつ》をかわしたあと、
「京に宿がない」
といった。
「今夜はとめていただく」
「どうぞ」
お万阿も、奈良屋のあるじらしく、行儀はことさらに固くしている。有馬の湯で、
——狐《きつね》
に化《な》って庄九郎の前で見せた嬌態《きょうたい》は、いま片鱗《へんりん》もない。
「京の滞留は、数日になるかもしれぬ」
「幾日なりとも」
「礼をいいます」
庄九郎は、侍烏帽子《さむらいえぼし》をわずかにさげた。ひもが朱である。
「じつは有馬で御料人に変《へん》化《げ》した狐をみた」
などと野暮なことは庄九郎はいわない。ぴしっ、と音の鳴るような固い貌《かお》である。
だまっている。
中庭からの陽《ひ》ざしが、骨ばった半顔をくっきりと照らし、ひざは袴《はかま》の折り目のままに端座している。
「…………」
と、お万阿はこまった。この男と対座していると間がもてないのである。
つい、こちらが多弁になる。ならざるをえぬように松波庄九郎は仕むけているのであろうか。
「京での御用はなんでございます」
「用か」
庄九郎は、お万阿の眼を射るように見、その視線をはなさず、
「そなたを抱くためさ」
といった。
お万阿は、陽射しの中で狼狽《ろうばい》した。庄九郎はさらにいった。
「有馬の湯では、狐を抱こうとした。が、狐ではいやじゃ。抱こうなら、真正のお万阿殿をそなたの閨《ねや》にて抱きたい」
(あの)
お万阿は、自分がどんな顔をしているのかもわからない。ただ、体だけが庄九郎の眼前にさらけ出ている。その体が、すでに突き貫かれたとおなじ衝動をもった。
「今夜、閨で待つように」
「そ、そのかわり」
お万阿は、自分の唇が、もう意思の統制をはなれてとんでもないことを口走っていることに気づかない。
「そのかわり、数日逗留《とうりゅう》、などとは申して下さりますな」
「何月も?」
「いいえ」
「何年もか」
「いいえ。庄九郎様が一生、奈良屋に居てくださるというならば、お万阿は今夜、閨でお待ちいたします」
「この、あるいは天下のぬしになるかもしれぬ松波庄九郎を、奈良屋が飼おうというのか」
「ち、ちがいまする。お万阿のほうが」
「ほうが?」
「庄九郎様に飼われとうございます。今生《こんじょう》だけでなく、つぎの世までも」
「入婿《いりむこ》せよというのじゃな」
と庄九郎、顔がにがい。
「わしは」
庄九郎はいった。
「諸国を経《へ》めぐってようやくわかった。この庄九郎、いまは凡《ぼん》下《げ》にすぎねども、ゆくゆく、この国の歴史を変える男になろうかもしれぬ。それを奈良屋の婿にしてしまうのか」
「虎《とら》も」
と、お万阿はいった。
「飼いならせば猫《ねこ》のようになると申します」
「ひもじい」
庄九郎は、もうこの会話に飽いたらしく、庭前のあやめの花に眼を移している。
「湯漬《ゆづ》けはないか」
その夜、月が昇った。
庄九郎は、あてがわれた自室で青江恒次の一刀に打《うち》粉《こ》をうっていた。
華《か》葱窓《そうまど》から月がさしこんで、刀身をあおあおと染めあげた。この刀は斬《き》れる。
事実、何度か、人を斬った。
(しかし、この素《す》牢人《ろうにん》の一剣をもって天下を斬りとれるものであろうか)
占えるものなら、自分の将来《すえずえ》をうらないたい。庄九郎は、素手である。素手で国が奪《と》れるものであろうか。
庄九郎は、刀身に映えている月の光をたどりながら窓を見、華頂山《かちょうざん》にたかだかとかかっている月をみた。
そのとき、浄菩提寺《じょうぼだいじ》の初更《しょこう》をつげる鐘がひびいた。
(ああ、お万阿か)
庄九郎は思いだしたように刀をおさめて立ちあがった。
「いざ寝《い》なむ」
と、庄九郎は、いまはやりの今様《いまよう》を口ずさみ、舞の足ぶりで部屋を出た。
いざ寝なむ
夜も明けがたになりにけり
鐘も打つ
とん、と足を廊下に踏んで、
宵《よい》より寐《い》ねたるだにも
飽かぬ心をいかにせむ
(はて、おなごとはさほどに佳《よ》きものか)
江口の尼《あま》には、伝授のみ受け、伝授されることに気をとられて、夢中になれなかった。
庄九郎は、お万阿の閨のふすまをひらき、十分に月の光を入れてから、ツト閉めた。香が�《た》きしめられているのを知った。
「わしだ」
といったとき、鐘が鳴りおわっている。
庄九郎は、刀を床の間に置き、するすると装束をぬいだ。
お万阿は、その影を見つめている。おもわず眼をつぶったときに、体が浮いた。庄九郎のたくましい腕が、お万阿を抱きとっている。奈良屋を抱きとっている、といってよかった。
「お万阿、よいか」
「なぜ御念をお入れ遊ばします」
(身代のことだ)
と、庄九郎は念を押したつもりである。
庄九郎の指が、京の男という男が垂涎《すいぜん》する奈良屋の御料人の小《こ》袖《そで》の帯をといた。下は素《す》肌《はだ》である。
「では契《ちぎ》るぞ」
と、庄九郎はお万阿のからだをひらかせ、
「ののさまはこれじゃな」
と、ばかな念を押した。武骨さ、おもわず出たのは、庄九郎の正直なところであろう。
「あっ」
とお万阿がうめいたとき、奈良屋の身代は松波庄九郎のものになっていた。
お万阿は、体が一時に灼《や》けた。恋うてはいたが、この瞬間がおそろしくもあった。そのおそろしいものが、お万阿の体に入った。入っただけではない。お万阿の五臓をひきちぎるかとおもわれるほどに荒れた。
「お万阿」
庄九郎は、ささやいた。
「はい」
とお万阿はうつろ《・・・》に答えている。
「わしは、今夜おなごをはじめて知ったことになる」
「うそ」
と、お万阿が答えたのは、それから半刻《いちじかん》も経《た》ってからであった。解放された。
「うそでございましょう」
「いや、じつは」
と、有《う》年峠《ねとうげ》でのこと、江口での伝授などを正直に話し、
「そなたを恋うていたがためじゃ。今夜のためにそれだけのことをわしはした」
といった。
余人がいえばふざけた理屈だが、庄九郎の口から出ると、もうそれだけでお万阿を感動させた。
「でも」
不審がある。
「それならばなぜ、庄九郎さまは、いままで奈良屋に近づこうとなさいませんでした」
「お万阿は、そういう男ならいいのか」
「そういう男とは?」
「そなたの色香に想《おも》いこがれて、夜も日も奈良屋の軒下に尾をたれて通うてくる男がよいのかというのじゃ」
「いいえ」
そんな男なら、いままで幾人もあった。
「この庄九郎、お万阿に不《ふ》憫《びん》ながら、お万阿のことのみ思うてはおらぬ」
「ほかに?」
「いや、女はおらぬ。野望がある」
「公《く》方《ぼう》様にでもおなりあそばすか」
と、いくぶんからかい気味で、庄九郎の広い胸をなでた。まさか成れはすまい、という安心がある。素牢人の身でなにができるであろう。
「お万阿、そなたは微笑《わら》っている。しかしおれより以前に、こういう男が一人いた。伊勢新九郎という男じゃ」
「そのおひとが?」
「いま東の都といわれる小田原の都城をきずき、関東一円の覇《は》王《おう》となった北条早雲《ほうじょうそううん》じゃよ。この男がやったことを、この庄九郎ができぬと思うか」
「さあ」
お万阿はそういう知識にうとい。が、関東の北条といえば、天下にそれほど強勢な大名がいない、ということぐらいは知っている。
「でも庄九郎様。お万阿とこうなった以上はそういうおそろしい夢を捨ててくださいますでしょうね」
「奈良屋の身代をまもれ、というのか」
「ええ」
これだけはお万阿、断固といった。
「そうしていただきます。そのかわり、奈良屋としては、庄九郎様を御婿に迎えたということを、大山崎八幡宮《はちまんぐう》にもおとどけ申し、むろんそうするのみか、世間にも知らせるために、にぎやかな式をあげとうございます」
「ふむ」
庄九郎は、だまった。ここで異存を唱えたところで、どうにもならない。一国一天下などといくら唱えたところで、夢のまた夢である。いま庄九郎には、現実、奈良屋の巨富がころがりこんでいる。これだけでも天下の野望児を羨望《せんぼう》させるに足りるものであろう。
「わかっている」
と、庄九郎は不覚にも本心でいった。夢を追っても、自分に運がなければどうにもならぬことだ。
「商人《あきゅうど》になっていただきます」
「性根者じゃな、お万阿は」
「そりゃ、奈良屋庄九郎様の御料人さまでございますもの」
「奈良屋庄九郎か」
「あきゅうど」
と、お万阿はいった。
「きっと日本一のいいあきゅうどにおなりあそばすとお万阿は思っております。そうなれば、あのお刀も捨てていただかねばなりませぬな。妙覚寺本山の学問僧から還俗《げんぞく》なされて武士におなりあそばしましたが、こんどはあきゅうどにおなりあそばす。松波庄九郎様も、おいそがしいこと」
「負けた」
お万阿の微笑にはかなわない。
「どうやら、猫にされた」
「うれしい」
と、お万阿は顔を庄九郎の胸にうずめてきた。
(勝った)
とお万阿はおもっている。
「商売《あきない》のことは、手代がたくさんおりますゆえ、庄九郎様は、お好きな舞、学問などをなさって遊び暮らして頂ければいいのです」
「いや」
庄九郎は真顔になった。
「奈良屋庄九郎になるかぎりは、この店の身代を三倍にしてみせよう」
「三倍に」
といったことが、お万阿にうれしかったのではない。庄九郎がその気になってくれたことがうれしかった。
「庄九郎様。もうお万阿は、一生、庄九郎様に抱かれて暮らすことだけを考えていればいいのでございますね」
「しかしいつ虎にもどるかわからぬぞ」
「お万阿がしっかりつかまえてもどしませぬ」
といったが、ふとあご《・・》をあげて、
「お万阿が可愛い?」
最後に、もっとも大事なことをきいた。たがいにそのことだけは忘れている。
「可愛い」
これも庄九郎の本心だった。お万阿、というより、女とはこれほど可愛いものかということを、今夜はじめて知ったような思いがする。
「お万阿、それでは奈良屋庄九郎として、はじめてわたしが内儀を抱こう」
「うれしい」
お万阿は、庄九郎の下にからだをにじらせた。
「お万阿、よいか」
「なぜ御念をお入れ遊ばします」
(身代のことだ)
と、庄九郎は念を押したつもりである。
庄九郎の指が、京の男という男が垂涎《すいぜん》する奈良屋の御料人の小《こ》袖《そで》の帯をといた。下は素《す》肌《はだ》である。
「では契《ちぎ》るぞ」
と、庄九郎はお万阿のからだをひらかせ、
「ののさまはこれじゃな」
と、ばかな念を押した。武骨さ、おもわず出たのは、庄九郎の正直なところであろう。
「あっ」
とお万阿がうめいたとき、奈良屋の身代は松波庄九郎のものになっていた。
お万阿は、体が一時に灼《や》けた。恋うてはいたが、この瞬間がおそろしくもあった。そのおそろしいものが、お万阿の体に入った。入っただけではない。お万阿の五臓をひきちぎるかとおもわれるほどに荒れた。
「お万阿」
庄九郎は、ささやいた。
「はい」
とお万阿はうつろ《・・・》に答えている。
「わしは、今夜おなごをはじめて知ったことになる」
「うそ」
と、お万阿が答えたのは、それから半刻《いちじかん》も経《た》ってからであった。解放された。
「うそでございましょう」
「いや、じつは」
と、有《う》年峠《ねとうげ》でのこと、江口での伝授などを正直に話し、
「そなたを恋うていたがためじゃ。今夜のためにそれだけのことをわしはした」
といった。
余人がいえばふざけた理屈だが、庄九郎の口から出ると、もうそれだけでお万阿を感動させた。
「でも」
不審がある。
「それならばなぜ、庄九郎さまは、いままで奈良屋に近づこうとなさいませんでした」
「お万阿は、そういう男ならいいのか」
「そういう男とは?」
「そなたの色香に想《おも》いこがれて、夜も日も奈良屋の軒下に尾をたれて通うてくる男がよいのかというのじゃ」
「いいえ」
そんな男なら、いままで幾人もあった。
「この庄九郎、お万阿に不《ふ》憫《びん》ながら、お万阿のことのみ思うてはおらぬ」
「ほかに?」
「いや、女はおらぬ。野望がある」
「公《く》方《ぼう》様にでもおなりあそばすか」
と、いくぶんからかい気味で、庄九郎の広い胸をなでた。まさか成れはすまい、という安心がある。素牢人の身でなにができるであろう。
「お万阿、そなたは微笑《わら》っている。しかしおれより以前に、こういう男が一人いた。伊勢新九郎という男じゃ」
「そのおひとが?」
「いま東の都といわれる小田原の都城をきずき、関東一円の覇《は》王《おう》となった北条早雲《ほうじょうそううん》じゃよ。この男がやったことを、この庄九郎ができぬと思うか」
「さあ」
お万阿はそういう知識にうとい。が、関東の北条といえば、天下にそれほど強勢な大名がいない、ということぐらいは知っている。
「でも庄九郎様。お万阿とこうなった以上はそういうおそろしい夢を捨ててくださいますでしょうね」
「奈良屋の身代をまもれ、というのか」
「ええ」
これだけはお万阿、断固といった。
「そうしていただきます。そのかわり、奈良屋としては、庄九郎様を御婿に迎えたということを、大山崎八幡宮《はちまんぐう》にもおとどけ申し、むろんそうするのみか、世間にも知らせるために、にぎやかな式をあげとうございます」
「ふむ」
庄九郎は、だまった。ここで異存を唱えたところで、どうにもならない。一国一天下などといくら唱えたところで、夢のまた夢である。いま庄九郎には、現実、奈良屋の巨富がころがりこんでいる。これだけでも天下の野望児を羨望《せんぼう》させるに足りるものであろう。
「わかっている」
と、庄九郎は不覚にも本心でいった。夢を追っても、自分に運がなければどうにもならぬことだ。
「商人《あきゅうど》になっていただきます」
「性根者じゃな、お万阿は」
「そりゃ、奈良屋庄九郎様の御料人さまでございますもの」
「奈良屋庄九郎か」
「あきゅうど」
と、お万阿はいった。
「きっと日本一のいいあきゅうどにおなりあそばすとお万阿は思っております。そうなれば、あのお刀も捨てていただかねばなりませぬな。妙覚寺本山の学問僧から還俗《げんぞく》なされて武士におなりあそばしましたが、こんどはあきゅうどにおなりあそばす。松波庄九郎様も、おいそがしいこと」
「負けた」
お万阿の微笑にはかなわない。
「どうやら、猫にされた」
「うれしい」
と、お万阿は顔を庄九郎の胸にうずめてきた。
(勝った)
とお万阿はおもっている。
「商売《あきない》のことは、手代がたくさんおりますゆえ、庄九郎様は、お好きな舞、学問などをなさって遊び暮らして頂ければいいのです」
「いや」
庄九郎は真顔になった。
「奈良屋庄九郎になるかぎりは、この店の身代を三倍にしてみせよう」
「三倍に」
といったことが、お万阿にうれしかったのではない。庄九郎がその気になってくれたことがうれしかった。
「庄九郎様。もうお万阿は、一生、庄九郎様に抱かれて暮らすことだけを考えていればいいのでございますね」
「しかしいつ虎にもどるかわからぬぞ」
「お万阿がしっかりつかまえてもどしませぬ」
といったが、ふとあご《・・》をあげて、
「お万阿が可愛い?」
最後に、もっとも大事なことをきいた。たがいにそのことだけは忘れている。
「可愛い」
これも庄九郎の本心だった。お万阿、というより、女とはこれほど可愛いものかということを、今夜はじめて知ったような思いがする。
「お万阿、それでは奈良屋庄九郎として、はじめてわたしが内儀を抱こう」
「うれしい」
お万阿は、庄九郎の下にからだをにじらせた。