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国盗り物語22

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:槍術《そうじゅつ》「一文銭」 庄九郎がそろそろ美濃への帰り支度をしているころ、京に、奇装の人物が入ってきた。「めずらしい
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槍術《そうじゅつ》「一文銭」

 庄九郎がそろそろ美濃への帰り支度をしているころ、京に、奇装の人物が入ってきた。
「めずらしい人物でございますよ」
と、杉丸が町のうわさを聞きこんできた。
「どんな男だ」
「修験《しゅげん》者《ざ》でございます」
「山伏《やまぶし》か。大和吉野の?」
と当然京ならば地理的にいって、修験者といえば吉野、とおもう。
「ところが出羽《でわ》の羽黒山の修験者でござるそうで。天《てん》狗《ぐ》の装束《いでたち》をしておりまする」
その男は、ひたいに兜《と》巾《きん》をいただき、鈴掛《すずかけ》、柿衣《かきごろも》という点ではふつうの山伏すがただが、その装束の上に鷹《たか》の羽をつぎあわせたものを羽織り、中国の神仙のような奇装をしている。
それが、二条室町《むろまち》の辻のそばにある廃館に小屋をたて、毎日、都の辻にあらわれては槍《やり》の芸を見せているというのだ。
「槍の芸を。——」
これには、庄九郎は魅《ひ》かれた。
当時、戦国のまっただなかで、戦場の武器がずいぶんとかわってきている。
振りまわして斬《き》る薙刀《なぎなた》は衰え、それにかわって上古、鉾《ほこ》といわれた槍が、集団戦の主要武器にかわってしまっていた。
が、そのあいだに、芸といわれるほどの技術は編みだされていない。
ちなみに、奈良興福寺二万五千石の子院で宝蔵院の住僧覚禅房胤栄《いんえい》が、槍術史上の祖とすべきである。槍術の諸流派はほとんどこの宝蔵院から出、幕末にいたるまでこの戦国中期の流祖の編んだ技術以外にさほどの新工夫も出なかった。
その宝蔵院流は、このころまだ誕生していない。庄九郎よりも一世代あとのことになる。だから庄九郎は、
(めずらしい)
と、おもったのだが、庄九郎だけではなく、都にいる足利《あしかが》家の武士、三《み》好《よし》家の家来、諸国からのぼってくる地侍、牢人《ろうにん》たちも、おそらく、
「それはめずらかな」
と思ったのであろう。
いや第一、めずらしいというよりも、この時代、これほど合戦で、騎士・歩卒が槍を用いながら、そのあつかいは、個々の器用力量にまかせられているだけで、芸にはなっていない。それをその羽黒修験者は、「芸」にまで仕立てあげたところに、非常な実力性がある。
都では、大いに人気をよんでいた。その証拠に、温和な手代の杉丸までが、興味をもったのである。
「その上」
と、杉丸がいった。
「毎日何人かが、その羽黒修験者に試合をのぞみ、槍をあわせるやいなや、高股《たかもも》を突き通され、腕のつけ根を穂先で縫われ、落命におよぶ者も多い、とききます」
「よほどの芸者じゃな」
庄九郎が感心したのは、繰り出して突くだけが能のこの変哲もない武器を、芸に仕立てあげたというその男の独創性である。
「おもしろい男だ。杉丸、——赤兵衛をこれへよんでくれぬか」
「はい」
ほどなく障子がひらき、赤兵衛の悪相がのぞいた。
膝《ひざ》でにじりながら入ってくる。
「赤兵衛。二条室町の辻の槍の芸者のはなしをきいているか」
「いや、見に参りました。名は僧名を名乗らず、大内無辺と名乗っております。それゆえ修験者じみたあの奇装は、売名のためのものでございましょう」
「そち、数日、入門してこい。様子をよくきいた上で、わしが出てゆく。場合によっては試合をしてもよい」
「あっ、それは」
およしなされ、と云《い》うのだ。せっかくここまで出世したものを、たかだか乞食《こじき》芸人のために命を落すこともあるまい。
「まあよい、行ってこい」
庄九郎には、血の気がある。計算ずくめで生きているだけではないのだ。
(そもそも)
と、庄九郎は思うのである。その二条室町の辻で、
槍術日本開創
などという旗をあげている大内無辺が何者であろうと、槍術を日本で開創したのはこの庄九郎である、と庄九郎は思っている。
(小癪《こしゃく》である。くじいてくれよう)
とおもうのだ。
話は、庄九郎のむかしへ戻《もど》る。——
かれは、京の妙覚寺本山の少年(喝食《かっしき》)のころから、独得の槍の稽《けい》古《こ》法をあみ出し、法《ほう》蓮房《れんぼう》時代もそれをつづけ、いまなおひまさえあるとこの鍛練をしている。
まず樫《かし》の二間柄《え》のさきに、口輪をはめ、五寸釘《くぎ》を差しこんで穂先とする。それが庄九郎の稽古槍である。
竹藪《たけやぶ》が稽古場だ。
なぜといえば、乱軍のなかではまわりに敵味方の人馬がいる。それが群生している竹どもである。竹藪で稽古すれば、おのずから槍のさばきに周囲への配慮のコツが会《え》得《とく》できるというものである。
つぎが、眼目だ。
一本の竹をえらび、枝から糸で永楽銭をつりさげるのである。
その穴を突くのだ。
はじめのほどは手のうち定まらず、突き通すことも能《あた》はざりしかども、極《ごく》意《い》も業《わざ》も一心にありと兵書にいへるごとく、つひには百度《ももたび》、千《ち》度《たび》、突くといへども一つもはづすことなし。
 と旧記にある。
庄九郎の妙技は、永楽銭に関係がふかい。油をマスのふちから糸のごとく垂らして永楽銭で受け、みごと穴へ通す妙技ももっておれば、槍の修行まで永楽銭でやった。いかにも商人あがりらしい武芸の習得法である。
さてその槍術。
ついには糸でつるした永楽銭を振り子のごとく動かせても自在につけたし、二十間三十間のむこうから駈《か》けてきて、ぴたりと突くことができたし、ついには、竹藪のあちこちに七夕《たなばた》の飾りのごとく永楽銭をつるし、
「これは乱軍」
と心得つつ、自在に槍をふりまわしながら眼もとまらずに突き、さらに突いて進退してゆくこともできるようになった。
おそらく日本の槍術の開創の名誉、松波庄九郎、いや後の斎藤道三《どうさん》にこそ与えられるべきであろう。
 ところで、出羽のひと大内無辺のことだが生国《しょうごく》は出羽のうちでも羽後《うご》である。横手の出であるという。身分は農夫か、あるいは漁夫、ひょっとすると、この辺は秋田氏の家来戸村十太夫という大身の武士の領地だ、だから、その郎党でもあったか。
横手は、現在《いま》秋田県横手市である。盆地のなかにあり、海からは遠い。
が、羽後第一の大河雄《お》物川《ものがわ》なども、その支流の源はこの横手のあたりから出ている。
わざわざこういう地理的説明をしたのは、秋から早春にかけての鮭《さけ》の産卵期には、雄物川一面が鮭の肌《はだ》の山毛欅《ぶな》色《いろ》になってしまうというほどにさかのぼってくるからだ。それが雄物川河口から二十里も奥のこの横手までやってくる。
大内無辺は、その季節になると河中に船をうかべ、庄九郎と偶然おなじ工夫の二間柄の樫棒《かしぼう》に大釘をつけ、鮭を突いては跳ねあげ、船中へほうりこむ。
そういう作業をしているうちに、ふと、
(この手で槍術が編めるのではないか)
と思いつき、工夫をかさねているうちについに妙技を得た。もっとも鮭突きで会得した、といえば面白《おもしろ》味《み》がないから、この時代の諸芸の流祖と同様、神威を借り、羽州仙北《せんぽく》の真弓山の神明に祈って霊夢を見、それによって編みだした、とこの流ではいっている。
そこで流名を無辺流と名づけ、諸国を歩いて一度も負けをとったことがない。ついに流名を天下にひろめるために京にのぼってきた、というのであろう。
当時、京は、日本中の噂《うわさ》の市である。ここで芸名をあげれば、天下一ということになる。
ややくだった時代、宮本武蔵《むさし》が、執拗《しつよう》に京都第一の兵法所《ひょうほうしょ》吉岡憲法の一族一門に試合を挑《いど》んだのもそれである。吉岡を倒し京で剣名をあげれば天下の名士になれるのである。
山中鹿《しか》之《の》助《すけ》もそうである。庄九郎よりもややあとの戦国中期、主家尼《あま》子《こ》家を復興するためにその生涯《しょうがい》を費やした人物だが、かれが天下の豪傑として、関東、九州にまで聞こえ、かつ後世にまで名を残したのは、京都で牢人ぐらしをし、公卿や諸名家に出入りし、時には市中で武勇を発揮したために、こんにちまで著名な名になって残っている。
繰りかえしていうが、戦国当時、京は噂《・》の生産、集散都市である。
大内無辺もそれを心得たうえで、二条室町の辻で、
槍術
という新奇な芸をみせていたのだ。
「旦《だん》那《な》さま、やはりおよしなされ」
と、赤兵衛が帰ってきていった。顔色を変えている。
「やはり天狗でござる」
といった。
無理はない。人間のわざのなかで「芸」というものほどふしぎなものはない。赤兵衛にすれば槍術をうまれてはじめて見た。その槍さばきの変幻さ、神わざとしか思えなかったのであろう。
庄九郎は、赤兵衛に物語らせた。
だけでなく、槍をもたせて、そのとおりの真似《まね》をさせてみた。
「いや不思議の術にて、繰り出してこう引けば、二間の槍が、一尺ほどに縮んだかと思えまする」
「それがすべて芸というものだ。驚くにはあたらぬ」
その翌日、庄九郎は、屋敷の裏で槍を持ち、しきりと工夫していたが、夕暮になってやめ、手紙を書き、赤兵衛をよんで、
「この手紙を大内無辺にとどけろ」
と、渡した。
差し出しの名は、京の油問屋山崎屋庄九郎ではなく、美濃土岐《とき》家の家来西村勘九郎正利《まさとし》ということになっている。ただし、京での宿はわざと書いていない。
赤兵衛は日没後駈《か》けもどってきて、
「承知した、ということでございます」
と復命した。
明後日、人の出の多い巳《み》ノ刻《こく》(午前十時)三条加茂川の河原で落ちあい槍の優劣をきめよう、というのである。
「大丈夫でございますか」
と、赤兵衛も杉丸も不安であった。浮浪人のころから付き随ってきた赤兵衛でさえ、庄九郎の槍を知らないのである。
「なんの、案ずることはない」
庄九郎は、不敵に笑っている。
かれは、京で槍の名をあげることによってその噂が西村勘九郎としての住国である美濃にとどくことを期待していた。さもなければ気位の高い庄九郎のことだ、武芸者づれと腕を競おうなどという愚はしない。
その夜、庄九郎は、美濃からつれてきた西《・》村勘九郎《・・・・》の家来どもに、
「明後日、巳ノ刻前に京を発《た》って美濃へかえる。その支度をするように」
とにわかに言いわたした。
その旅立ちの仕方も、芸がこまかい。
供の家来どもには三条橋をわたって粟《あわ》田《た》口《ぐち》まで先行させ、そこで待っておれ、というのである。
むろん庄九郎は試合には一人で出る。しかしもし勝ったあと、大内無辺の門人が庄九郎を追って来ぬともかぎらぬのだ。
「えっ、明後日にはお発ちでございますか」
と、あとで知ったのは、お万阿である。
「ああ、旅立つ。また山崎屋庄九郎になるために戻《もど》ってくるゆえ、機《き》嫌《げん》よく送ってくれ」
「この山崎屋の」
と、お万阿がいった。
「庇《ひさし》を一歩出れば、もう美濃の御住人西村勘九郎様でござりまするな。お万阿は留守居は厭《いと》いませぬけれども、別人におなりあそばすというのが悲しゅうございます」
「いずれ、将軍《くぼう》になって戻ってくるわさ」
「それがいつのことか」
こまった男を亭主にもったものである。
「なんの、一年、二年の将来《さき》かもしれぬ。楽しみで待っていてくれ」
「将軍におなりあそばしても、油屋の山崎屋をお営みになるのでございますか」
「それは面白い」
庄九郎は膝をたたいた。
「お万阿、そなたのお喋《しゃべ》りをきいていると思わぬ工夫にありつく。わしは将軍になって都に御所を作っても、昼は征《せい》夷《い》大将軍、夜は山崎屋庄九郎、これはおもしろいわい」
「…………」
と、お万阿にはちっとも面白くない。しかしこんな亭主をもったのが数奇、とあきらめざるをえない。
「旦那様、ね」
とお万阿はわざと陽気にせがむのである。
「なんだ」
「将軍の御台所《みだいどころ》はきっとお万阿でございますよ。このこと、おわすれになってはいけませぬ」
「すると、油屋の山崎屋庄九郎の内儀の席が空《あ》くな。たれがなるのだ」
「どうぞ美濃からでもお連れ遊ばしませ」
と冗談でもそんなことをいったところをみると、お万阿は、庄九郎の説得どおり、美濃妻を置くことを承知したらしい。というよりその件については諦《あきら》めてしまった、といったほうが彼女の心境に近い。
 当日、巳ノ刻よりすこし前、庄九郎は供一人に槍を持たせて、侍装束で山崎屋の庇を出た。
東への旅は粟田口まで見送るというのが京のならわしだが、庄九郎はそれをきらった。
お万阿をはじめ、店の者には、
「送らずともよい」
と言ってある。侍装束の西村勘九郎を、油屋の店の連中が「お店の旦那」として見送るというのも妙なものであろう。
「では堅固に」
と、庄九郎は店の前でお万阿の眼へうなずいた。
旅立ちに涙は不吉という俗信があるため、お万阿は、懸命に涙をこらえていた。眼もとが必死に微笑《わら》っている。いずれ自室に戻ったあと、
(思うざまに泣こう)
と思っていた。
庄九郎の姿が、小さくなった。
お万阿はまだ佇《たたず》んでいる。幸いなことなのかどうか、あと四《し》半刻《はんとき》もたたぬまに庄九郎が三条の河原で槍の試合をするという、最も懸《け》念《ねん》なことをお万阿は知らなかった。
——お万阿にはきかせるな。
と、庄九郎が赤兵衛に口どめしてあるのだ。
庄九郎は、加茂川の西岸へ出た。
当時は、土手などはない。河幅は現今《こんにち》の京都の加茂川よりもはるかに広く、洪水《こうずい》のたびごとに湖のような観を呈するが、平素はほとんどが草茫々《ぼうぼう》の洲《す》である。
三条通も京極寺から東は、草原であった。むろん河床だから、ところどころに、水が溜《た》まっている。
庄九郎は、ぴょんぴょん跳びつつ、それを避けながら、歩いた。
「槍」
と、供の者から受けとり、その男には橋むこうの東岸で待っておれ、と命じた。
このところ、雨がない。
川が、枯れている。三条の付近は、洲を割って三筋ほどの細流が瀬をつくっているにすぎなかった。
大内無辺が、中洲で待っていた。門人五人ばかりを背後に屯《たむ》ろさせている。
「…………」
庄九郎は、川の上《かみ》手《て》をみた。そこに欄干のない貧弱な板橋がかかっている。
三条橋である。
橋の上に、橋脚が折れまいかと気づかわれるほど多くの見物衆が、こちらを見ていた。
(無辺が、呼びあつめたか)
町人もいる。
僧侶《そうりょ》、旅芸人、武士、公卿の青侍、粟田口あたりの鍛冶《かじ》の下職、あらゆる階層の者がこの試合を見ようとしていた。
庄九郎にとっても、大事な客である。かれらがしゃべる実見譚《じっけんたん》は一日のうちに市中のうわさとなり、一ト月を出ぬうちに東海から山陽、山陰にかけての話題としてひろまるであろう。
話題としての価値は大きい。
槍術という芸そのものが、めずらしいのである。
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