赤松の梢《こずえ》に、風が吹きわたった。庄九郎は風のなかで、眼をほそめた。
膝の上で茶わんをぬぐいながら、内親王香《よし》子《こ》の「値」を考えている。
「いかほど?」
と、香子も、楽しそうにいった。
(なかなか、食えぬおなごじゃな)
庄九郎は、へきえき《・・・・》してしまった。あるいはこの女悪党、自分の手に負えなくなるのではあるまいか。
庄九郎は、即答しない。
そのうち、饗膳《きょうぜん》(料理)がはこばれてきた。
「粗《そ》餐《さん》でござりまする」
と庄九郎は謙遜《けんそん》したが、なかなかそのようなものではない。
本膳、七菜
二ノ膳、五菜二汁《じゅう》
三ノ膳、三菜一汁
で、これほどの饗膳は、いまどき京都の衰微した公卿《くげ》社会では、見ようとしても見られぬものだ。
亭主である庄九郎は、引盃《ひきさかずき》と錫《すず》の酒器をもちだし、香子の前にすすみ出た。
その挙措、典雅なものである。
香子の前に、引盃がおかれた。塗り物の盃を三枚、かさねてある。
香子は一礼し、そのいちばん上の盃を手にとった。
庄九郎が、注《つ》ぐ。
これが、初献《しょこん》である。茶席の酒は、酒客にはむかない。初献、二献、三献、と亭主が三度進み出て三度注いでそれでおわる。
ところが香子は、
「お酒は、三献だけですか」
と、庄九郎を見て笑った。たいへんな姫君である。酒が好きであるらしい。
「ご所望のままにいたしまする」
庄九郎は、いんぎんに頭をさげ、さげながら胸中、
(酔い食らわせるか)
とおもった。
いずれにせよ、たった一人の女人をもてなすための庄九郎の野《の》点《だて》は、亭主としての心づくしがすみずみにまで行きとどいていた。
たとえば、厠《かわや》である。
携帯用の厠まで持参していた。庄九郎がとくに考案したもので、小《こ》屏風《びょうぶ》をめぐらし、塗り板の台がおかれる。台の下には穴が掘られてあり、穴には、音のせぬように、杉《すぎ》のなま枝が敷かれていた。
ひとわたり膳がおわったあと、香子は小女《こおんな》に案内されて、杉木立のむこうのその厠へ入った。
香子は、身をかがめた。
眼の前に、屏風の絵がある。遠景に山が霞《かす》んでおり、近景に孤松が天にのび、その根もとの岩の上に、唐風の人物がすわって、琴をかき鳴らしている。
(おや。——)
と、香子がおどろいたのは、その人物の顔が、庄九郎そっくりなのである。
(まさか)
とおもってよくよく見つめたが、庄九郎その人が画中にあって琴を掻《か》き鳴らしているとしかおもえない。
むろん、そこまで庄九郎の智恵と細工が働いていたわけではない。偶然である。
というより、香子が、そう錯覚するほどにまで、庄九郎の醸《かも》しているこの男独特の音律、色彩のなかにとりこめられつつあった、というほうが正確であろう。
香子は、厠を出た。
眼の前の崖《がけ》の下に、泉がわいている。ひし《・・》ゃく《・・》をとって、手をあらった。
「どうぞ、お手を」
と、小女が、晒布《さらし》を用意していった。香子はだまって両掌《りょうて》を出した。小女は晒布をかぶせ、きれいに水気をぬぐいとってくれた。
羊歯《しだ》をわけて小《こ》径《みち》へ出、杉の林を通り、雑木林に入って、庄九郎の座にもどった。
もどると、模様がかわっていた。
茶の席はとり片付けられ、茶筵《ちゃえん》一枚がのべられて、簡素な酒器がおかれているにすぎない。
酒器も、先刻のものとはちがう。
銚子《ちょうし》は、青竹を切って作った素《そ》朴《ぼく》な筒であり、さかずきは、陶盃《とうはい》である。
さかなは、山菜、干魚、みそ、といったものが、一品ずつ青竹を断ち割っただけの容器に盛られている。
「どうぞ」
と、庄九郎は酒をすすめた。
香子は、酔った。
というほどには、肢《し》態《たい》の乱れないところ、育ちのせいであろう、と庄九郎はおもった。
ただ、ふたこと目には、ころころと笑う。笑い上戸なのかもしれない。相好《そうごう》が微笑で蕩《と》け、笑《え》みくずれてる微笑の翳《かげ》が酔えば酔うほど深くなってゆく。ふしぎな酔態である。
「新九郎とやら」
と、庄九郎のいまの名をよんだ。
「値の思案はつきましたか。いかほどで、わたくしを購《もと》めます」
「廉《やす》うは買いませぬ」
庄九郎も、酔っている。酒には強いつもりであったが、香子とともにさかずきをかわしているうちに、不覚にも手足が心もとないほどに酔ってしまった。
(酔わせて、どう、というどころか、こちらが逆に酔い潰《つぶ》されるわ)
夕闇《ゆうやみ》が、せまってきた。
庄九郎の下人たちは、茶筵のそばにかがり火を焚《た》き、二人の手もとを明るくした。
「いかほど?」
「はい。美濃に厚見郡高河原村という村がございます。それを一カ村、御化粧料として差しあげたく存じます」
「なりませぬ」
ゆらゆらと首をふった。酔う前とは、人がわりしたほどの濃艶《のうえん》さである。
「米、二百七十石とれまするぞ」
「なりませぬ」
「されば、本巣郡前野村はいかがでござる。ここは草高《くさだか》三百二十石でござりまする」
「なりませぬ」
と、微笑がいよいよ深い。
「なりませぬか。されば厚見郡宇佐村を進上いたしましょう。これは草高五百四十石ばかりでござりまする」
庄九郎は、ふんぱつしたつもりであった。
側室の代価《しろ》としてこんなに高く支払われるようなことは、美濃では前代未《み》聞《もん》であろう。
「なりませぬ」
「されば、大村《おおそん》を一つ、進上つかまつりましょう。いやいや、これは無理かな」
と、土岐家の土地台帳を頭にえがき、その村の風景を思いだしながら、云おうとした。その出鼻を、香子の嬌声《きょうせい》がさえぎった。
「ホホホ……、田舎侍の申すことは、きいているだけでもおもしろい。さてそれは、何郡の何村でありますか」
「それは……」
と庄九郎はだまった。からかわれていることに気づいたのである。むっと、胸につかえた。
(考えてみろ)
と思うのだ。衣《きぬ》と栄爵《えいしゃく》に覆《おお》われているにしろ、たかだか女陰一つに、武士が血で奪《と》り争う村一つを当てがうほどのことがあるか、と思うのである。
(しかしながら、頼芸《よりよし》への供御《くご》の女陰《ほと》だ)
むらむらと腹が煮えている。
「厚見郡六条村でござる。米にして千八百九十石」
「騰《あが》りましたな」
香子は、可とも不可ともいわない。
「新九郎とやら。美濃の国がわたくしを欲しいとあれば降《くだ》ってやらぬともかぎりませぬが、しかしわたくしの後見の親王、関白《かんぱく》、何某大臣といったひとびとに金穀の贈りものをせねばなりませぬぞ。御所様にも差しあげねばなりませぬ。そのようなことまで考えると、美濃一国の財富を傾けても足りますまい」
それは考えてはいる。しかしそれは、黄金数枚と絹いくばくかを当てれば済む、とおもっていた。
「美濃一国を渡せ、とおおせありまするか」
と、庄九郎は苦笑した。
「せめてそれほど頂ければ、皇室、公卿もずいぶんうるおいましょう。さればそなたに官位もくだされるはずです」
「官位など、要りませぬな」
庄九郎の気持は、急に冷えた。
「いかほど官位があったところで、この戦国の世ではなんの突っぱりにもならぬ。関白の位をもらったところで、隣国の大軍が押しよせてくればそれまでのことでござる。武士は強き弓矢こそよけれ、官爵など無用のものでござりまするな」
と、庄九郎は押され気味だった陣容を立てなおし、逆襲しはじめた。
「宮は、美濃一国の財富を、と申される。なるほど美濃一国を差しあげてもよろしゅうござる。しかし、武士にとって地所はわが五体の肉と同然。いまは差しあげられませぬ。他国を切りとってからのことでござるよ」
「隣国の尾張をとってからですか」
と、香子は、なかなか地理にあかるい。
「いやいや、たかが尾張一国をとっただけで美濃を差しあげようものなら、他の隣国から攻めほろぼされます」
「では、近江《おうみ》も?」
「なんの、天下六十四州を切り従え、四海に仇波《あだなみ》をたてさせなくしてから、ようやく御料として一国を差しあげられるか、というほどのものでございます。そうたやすくは、神仏いじりばかりなされておる皇室、公卿衆に利益はまわりませぬよ。一国とはそれほど重いものでござりまする」
「だから一村?」
「それも、肉を削る思いで差しあげます」
「よします」
と香子はいった。
庄九郎は、にわかに笑った。巣ごもりの山《やま》鳩《ばと》がおどろいて飛び立ったほどのけたたましい笑い声である。笑いおさめると、
「よした。それがしも。——」
といった。
「まず、一献」
と、庄九郎は青竹の酒器をとりあげ、香子のさかずきに注いだ。
「お干《ほ》しくだされ。それがしも頂戴《ちょうだい》する。もう、この一件、思いあきらめた。禅家では一《いち》期《ご》一《いち》会《え》と申す。普《ふ》天《てん》の下《もと》、人間は億千万人居りましょうとも、こうして言葉をかわしあうほどの縁を結ぶ相手は生涯《しょうがい》でわずかなものでござる。よほど前世の因縁が浅くなかったのでありましょう」
ぐっと干し、唇《くちびる》の滴《しずく》をぬぐってから、
「そうではござらぬか、宮。あなた様のおん前にいるのは、仏縁によってここに湧出《ゆうしゅつ》したるただの男」
と言葉を切り、さらに酒を満たし、
「わが前にいるあなた様は、これまた逢《あ》いがたきみほとけの縁によりてこの山に湧出したるただのおんな」
ぐらっと体がゆれた。
「そのただの女と男とが、ふしぎな縁で酒を汲《く》みかわした、ということでこのたびはお別れしましょう。されば縁の尊きを思うべし、思うなれば、歓をつくすべし」
酔っぱらってはいる。しかし庄九郎の酔態というのは、わるいものではない。土岐頼芸が庄九郎に魅了されたのも、ひとつはこの酔態であった。声に涼やかな風韻があり、酔語は巧まずして詞華を織り、ときに唄《うた》いときに舞えば都の名流といえども及ばぬような芸をみせる。
「舞いましょう」
と、庄九郎は、よろりと立ちあがった。
「されば、敦盛《あつもり》を。——」
ゆったりと舞いはじめた。
うた《・・》は、ない、鳴物もない。
が、どこかからそれらが聞こえてくるような舞いかたである。
香子はつい惹《ひ》きこまれて、庄九郎のためにうたった。はじめは低くかすかに口ずさんでいたが、やがて興が憑《の》ってきたのか、鈴が高鳴るようにうたいはじめた。
庄九郎は舞う。羽毛が風に乗るような軽やかな手ぶりである。
すでに、あたりは暗い。
かがり火は、林の上の星空を焦《こ》がさんばかりにして火の粉をふきあげて燃えている。
庄九郎の下人たちは、すでに、二人消え、三人消え、して、いまは一団の火炎とふたりしかこの山にはいない。
舞いおわって、庄九郎は茶筵に崩れた。
「酔うた」
と、星を見あげた。
「宮も舞われよ。それがしが歌おうず」
「それならば、わたくしは羽衣をつかまつりましょう」
と香子はするすると立ち、これもみごとに舞いはじめた。
曲舞《くせまい》である。
地に堕《お》ちた天女が、ふたたびとはもどれぬ天をなつかしみ、「天《あま》の原ふりさけみれば霞《かずみ》立《た》つ」とはるかな天を見あげる風情は、尋常な様子ではない。
——住みなれし空にいつしか行く雲の。
と、香子は雲をもうらやむふり《・・》をみせ、みずからを羽衣をとられて天に帰れぬ三保の松原の天人になぞらえている様子である。
(ほう、これは)
うたいながら、庄九郎は思った。
(美濃にくだる、という謎《なぞ》か)
やがて舞いおさめて席にもどろうとしたとき、庄九郎は立った。
「ワキをつとめましょう」
と、羽衣を奪った漁夫の役をつとめはじめた。香子はさらに舞う。
ときに、おどけた。存外、おどけごころのある娘らしい。
トン、と香子が拍子をとったとき、庄九郎は不意に抱きすくめた。
「それがしに羽衣を渡されよ」
と、香子の耳もとでささやいた。羽衣とは庄九郎のいう女陰のことであろう。
「いやです」
とは香子はいわなかった。庄九郎のふんい気のなかに酔ってしまっている。唇を、おのずとひらいた。
庄九郎は、それを吸った。香子は、さらに迎えた。歯の内側に唾《つば》が満ち、庄九郎の唇に移り、やがて庄九郎の血を熱くさせた。
(この女、すでに男を知っている)
庄九郎は思った。気が楽になった、といえぬことはない。
倒した。
あとは、内親王ではなく、ただの女になった。男としての庄九郎は、ただの田舎侍ではない。このことも武芸同様に芸と心得ているほどの雅士《みやびお》である。
そのことが、香子から緊張をうばった。香子の眼は、星を見、カガリ火を見た。やがて眼の前が、何度も真暗になった。
なお、庄九郎は離さない。かれが理想としている大聖歓喜天《だいしょうかんぎてん》の尊像のように、女神を組み敷き、組み伏せ、まろばせ、すすり泣かせ叫喚させ、なおやめない。
香子は、魔王に犯されている自分を思った。体をおさえつけている巨像は、草を薙《な》ぐようなはげしい息吹《いぶ》きをもらしている。
その息吹きが、やがて朗々たる法華経の文句になり、香子をさらに奇妙な陶酔のなかに誘いこんだ。
膝の上で茶わんをぬぐいながら、内親王香《よし》子《こ》の「値」を考えている。
「いかほど?」
と、香子も、楽しそうにいった。
(なかなか、食えぬおなごじゃな)
庄九郎は、へきえき《・・・・》してしまった。あるいはこの女悪党、自分の手に負えなくなるのではあるまいか。
庄九郎は、即答しない。
そのうち、饗膳《きょうぜん》(料理)がはこばれてきた。
「粗《そ》餐《さん》でござりまする」
と庄九郎は謙遜《けんそん》したが、なかなかそのようなものではない。
本膳、七菜
二ノ膳、五菜二汁《じゅう》
三ノ膳、三菜一汁
で、これほどの饗膳は、いまどき京都の衰微した公卿《くげ》社会では、見ようとしても見られぬものだ。
亭主である庄九郎は、引盃《ひきさかずき》と錫《すず》の酒器をもちだし、香子の前にすすみ出た。
その挙措、典雅なものである。
香子の前に、引盃がおかれた。塗り物の盃を三枚、かさねてある。
香子は一礼し、そのいちばん上の盃を手にとった。
庄九郎が、注《つ》ぐ。
これが、初献《しょこん》である。茶席の酒は、酒客にはむかない。初献、二献、三献、と亭主が三度進み出て三度注いでそれでおわる。
ところが香子は、
「お酒は、三献だけですか」
と、庄九郎を見て笑った。たいへんな姫君である。酒が好きであるらしい。
「ご所望のままにいたしまする」
庄九郎は、いんぎんに頭をさげ、さげながら胸中、
(酔い食らわせるか)
とおもった。
いずれにせよ、たった一人の女人をもてなすための庄九郎の野《の》点《だて》は、亭主としての心づくしがすみずみにまで行きとどいていた。
たとえば、厠《かわや》である。
携帯用の厠まで持参していた。庄九郎がとくに考案したもので、小《こ》屏風《びょうぶ》をめぐらし、塗り板の台がおかれる。台の下には穴が掘られてあり、穴には、音のせぬように、杉《すぎ》のなま枝が敷かれていた。
ひとわたり膳がおわったあと、香子は小女《こおんな》に案内されて、杉木立のむこうのその厠へ入った。
香子は、身をかがめた。
眼の前に、屏風の絵がある。遠景に山が霞《かす》んでおり、近景に孤松が天にのび、その根もとの岩の上に、唐風の人物がすわって、琴をかき鳴らしている。
(おや。——)
と、香子がおどろいたのは、その人物の顔が、庄九郎そっくりなのである。
(まさか)
とおもってよくよく見つめたが、庄九郎その人が画中にあって琴を掻《か》き鳴らしているとしかおもえない。
むろん、そこまで庄九郎の智恵と細工が働いていたわけではない。偶然である。
というより、香子が、そう錯覚するほどにまで、庄九郎の醸《かも》しているこの男独特の音律、色彩のなかにとりこめられつつあった、というほうが正確であろう。
香子は、厠を出た。
眼の前の崖《がけ》の下に、泉がわいている。ひし《・・》ゃく《・・》をとって、手をあらった。
「どうぞ、お手を」
と、小女が、晒布《さらし》を用意していった。香子はだまって両掌《りょうて》を出した。小女は晒布をかぶせ、きれいに水気をぬぐいとってくれた。
羊歯《しだ》をわけて小《こ》径《みち》へ出、杉の林を通り、雑木林に入って、庄九郎の座にもどった。
もどると、模様がかわっていた。
茶の席はとり片付けられ、茶筵《ちゃえん》一枚がのべられて、簡素な酒器がおかれているにすぎない。
酒器も、先刻のものとはちがう。
銚子《ちょうし》は、青竹を切って作った素《そ》朴《ぼく》な筒であり、さかずきは、陶盃《とうはい》である。
さかなは、山菜、干魚、みそ、といったものが、一品ずつ青竹を断ち割っただけの容器に盛られている。
「どうぞ」
と、庄九郎は酒をすすめた。
香子は、酔った。
というほどには、肢《し》態《たい》の乱れないところ、育ちのせいであろう、と庄九郎はおもった。
ただ、ふたこと目には、ころころと笑う。笑い上戸なのかもしれない。相好《そうごう》が微笑で蕩《と》け、笑《え》みくずれてる微笑の翳《かげ》が酔えば酔うほど深くなってゆく。ふしぎな酔態である。
「新九郎とやら」
と、庄九郎のいまの名をよんだ。
「値の思案はつきましたか。いかほどで、わたくしを購《もと》めます」
「廉《やす》うは買いませぬ」
庄九郎も、酔っている。酒には強いつもりであったが、香子とともにさかずきをかわしているうちに、不覚にも手足が心もとないほどに酔ってしまった。
(酔わせて、どう、というどころか、こちらが逆に酔い潰《つぶ》されるわ)
夕闇《ゆうやみ》が、せまってきた。
庄九郎の下人たちは、茶筵のそばにかがり火を焚《た》き、二人の手もとを明るくした。
「いかほど?」
「はい。美濃に厚見郡高河原村という村がございます。それを一カ村、御化粧料として差しあげたく存じます」
「なりませぬ」
ゆらゆらと首をふった。酔う前とは、人がわりしたほどの濃艶《のうえん》さである。
「米、二百七十石とれまするぞ」
「なりませぬ」
「されば、本巣郡前野村はいかがでござる。ここは草高《くさだか》三百二十石でござりまする」
「なりませぬ」
と、微笑がいよいよ深い。
「なりませぬか。されば厚見郡宇佐村を進上いたしましょう。これは草高五百四十石ばかりでござりまする」
庄九郎は、ふんぱつしたつもりであった。
側室の代価《しろ》としてこんなに高く支払われるようなことは、美濃では前代未《み》聞《もん》であろう。
「なりませぬ」
「されば、大村《おおそん》を一つ、進上つかまつりましょう。いやいや、これは無理かな」
と、土岐家の土地台帳を頭にえがき、その村の風景を思いだしながら、云おうとした。その出鼻を、香子の嬌声《きょうせい》がさえぎった。
「ホホホ……、田舎侍の申すことは、きいているだけでもおもしろい。さてそれは、何郡の何村でありますか」
「それは……」
と庄九郎はだまった。からかわれていることに気づいたのである。むっと、胸につかえた。
(考えてみろ)
と思うのだ。衣《きぬ》と栄爵《えいしゃく》に覆《おお》われているにしろ、たかだか女陰一つに、武士が血で奪《と》り争う村一つを当てがうほどのことがあるか、と思うのである。
(しかしながら、頼芸《よりよし》への供御《くご》の女陰《ほと》だ)
むらむらと腹が煮えている。
「厚見郡六条村でござる。米にして千八百九十石」
「騰《あが》りましたな」
香子は、可とも不可ともいわない。
「新九郎とやら。美濃の国がわたくしを欲しいとあれば降《くだ》ってやらぬともかぎりませぬが、しかしわたくしの後見の親王、関白《かんぱく》、何某大臣といったひとびとに金穀の贈りものをせねばなりませぬぞ。御所様にも差しあげねばなりませぬ。そのようなことまで考えると、美濃一国の財富を傾けても足りますまい」
それは考えてはいる。しかしそれは、黄金数枚と絹いくばくかを当てれば済む、とおもっていた。
「美濃一国を渡せ、とおおせありまするか」
と、庄九郎は苦笑した。
「せめてそれほど頂ければ、皇室、公卿もずいぶんうるおいましょう。さればそなたに官位もくだされるはずです」
「官位など、要りませぬな」
庄九郎の気持は、急に冷えた。
「いかほど官位があったところで、この戦国の世ではなんの突っぱりにもならぬ。関白の位をもらったところで、隣国の大軍が押しよせてくればそれまでのことでござる。武士は強き弓矢こそよけれ、官爵など無用のものでござりまするな」
と、庄九郎は押され気味だった陣容を立てなおし、逆襲しはじめた。
「宮は、美濃一国の財富を、と申される。なるほど美濃一国を差しあげてもよろしゅうござる。しかし、武士にとって地所はわが五体の肉と同然。いまは差しあげられませぬ。他国を切りとってからのことでござるよ」
「隣国の尾張をとってからですか」
と、香子は、なかなか地理にあかるい。
「いやいや、たかが尾張一国をとっただけで美濃を差しあげようものなら、他の隣国から攻めほろぼされます」
「では、近江《おうみ》も?」
「なんの、天下六十四州を切り従え、四海に仇波《あだなみ》をたてさせなくしてから、ようやく御料として一国を差しあげられるか、というほどのものでございます。そうたやすくは、神仏いじりばかりなされておる皇室、公卿衆に利益はまわりませぬよ。一国とはそれほど重いものでござりまする」
「だから一村?」
「それも、肉を削る思いで差しあげます」
「よします」
と香子はいった。
庄九郎は、にわかに笑った。巣ごもりの山《やま》鳩《ばと》がおどろいて飛び立ったほどのけたたましい笑い声である。笑いおさめると、
「よした。それがしも。——」
といった。
「まず、一献」
と、庄九郎は青竹の酒器をとりあげ、香子のさかずきに注いだ。
「お干《ほ》しくだされ。それがしも頂戴《ちょうだい》する。もう、この一件、思いあきらめた。禅家では一《いち》期《ご》一《いち》会《え》と申す。普《ふ》天《てん》の下《もと》、人間は億千万人居りましょうとも、こうして言葉をかわしあうほどの縁を結ぶ相手は生涯《しょうがい》でわずかなものでござる。よほど前世の因縁が浅くなかったのでありましょう」
ぐっと干し、唇《くちびる》の滴《しずく》をぬぐってから、
「そうではござらぬか、宮。あなた様のおん前にいるのは、仏縁によってここに湧出《ゆうしゅつ》したるただの男」
と言葉を切り、さらに酒を満たし、
「わが前にいるあなた様は、これまた逢《あ》いがたきみほとけの縁によりてこの山に湧出したるただのおんな」
ぐらっと体がゆれた。
「そのただの女と男とが、ふしぎな縁で酒を汲《く》みかわした、ということでこのたびはお別れしましょう。されば縁の尊きを思うべし、思うなれば、歓をつくすべし」
酔っぱらってはいる。しかし庄九郎の酔態というのは、わるいものではない。土岐頼芸が庄九郎に魅了されたのも、ひとつはこの酔態であった。声に涼やかな風韻があり、酔語は巧まずして詞華を織り、ときに唄《うた》いときに舞えば都の名流といえども及ばぬような芸をみせる。
「舞いましょう」
と、庄九郎は、よろりと立ちあがった。
「されば、敦盛《あつもり》を。——」
ゆったりと舞いはじめた。
うた《・・》は、ない、鳴物もない。
が、どこかからそれらが聞こえてくるような舞いかたである。
香子はつい惹《ひ》きこまれて、庄九郎のためにうたった。はじめは低くかすかに口ずさんでいたが、やがて興が憑《の》ってきたのか、鈴が高鳴るようにうたいはじめた。
庄九郎は舞う。羽毛が風に乗るような軽やかな手ぶりである。
すでに、あたりは暗い。
かがり火は、林の上の星空を焦《こ》がさんばかりにして火の粉をふきあげて燃えている。
庄九郎の下人たちは、すでに、二人消え、三人消え、して、いまは一団の火炎とふたりしかこの山にはいない。
舞いおわって、庄九郎は茶筵に崩れた。
「酔うた」
と、星を見あげた。
「宮も舞われよ。それがしが歌おうず」
「それならば、わたくしは羽衣をつかまつりましょう」
と香子はするすると立ち、これもみごとに舞いはじめた。
曲舞《くせまい》である。
地に堕《お》ちた天女が、ふたたびとはもどれぬ天をなつかしみ、「天《あま》の原ふりさけみれば霞《かずみ》立《た》つ」とはるかな天を見あげる風情は、尋常な様子ではない。
——住みなれし空にいつしか行く雲の。
と、香子は雲をもうらやむふり《・・》をみせ、みずからを羽衣をとられて天に帰れぬ三保の松原の天人になぞらえている様子である。
(ほう、これは)
うたいながら、庄九郎は思った。
(美濃にくだる、という謎《なぞ》か)
やがて舞いおさめて席にもどろうとしたとき、庄九郎は立った。
「ワキをつとめましょう」
と、羽衣を奪った漁夫の役をつとめはじめた。香子はさらに舞う。
ときに、おどけた。存外、おどけごころのある娘らしい。
トン、と香子が拍子をとったとき、庄九郎は不意に抱きすくめた。
「それがしに羽衣を渡されよ」
と、香子の耳もとでささやいた。羽衣とは庄九郎のいう女陰のことであろう。
「いやです」
とは香子はいわなかった。庄九郎のふんい気のなかに酔ってしまっている。唇を、おのずとひらいた。
庄九郎は、それを吸った。香子は、さらに迎えた。歯の内側に唾《つば》が満ち、庄九郎の唇に移り、やがて庄九郎の血を熱くさせた。
(この女、すでに男を知っている)
庄九郎は思った。気が楽になった、といえぬことはない。
倒した。
あとは、内親王ではなく、ただの女になった。男としての庄九郎は、ただの田舎侍ではない。このことも武芸同様に芸と心得ているほどの雅士《みやびお》である。
そのことが、香子から緊張をうばった。香子の眼は、星を見、カガリ火を見た。やがて眼の前が、何度も真暗になった。
なお、庄九郎は離さない。かれが理想としている大聖歓喜天《だいしょうかんぎてん》の尊像のように、女神を組み敷き、組み伏せ、まろばせ、すすり泣かせ叫喚させ、なおやめない。
香子は、魔王に犯されている自分を思った。体をおさえつけている巨像は、草を薙《な》ぐようなはげしい息吹《いぶ》きをもらしている。
その息吹きが、やがて朗々たる法華経の文句になり、香子をさらに奇妙な陶酔のなかに誘いこんだ。
爾時《にじ》仏告諸《ぶつごうしょ》菩《ぼ》薩《さつ》 及一切大衆《ぎゅういっさいだいしゅ》 諸善男《しょぜんなん》子《し》 汝《にょ》等当信《とうとうしん》解《げ》 如来誠諦《にょらいじょうたい》之語《しご》 復《ぶ》告大衆《ごうだいしゅ》 汝等当《にょとうとう》信《しん》解《げ》 如来誠諦《にょらいじょうたい》之語《しご》 又復《うぶ》告諸大衆《ごうしょだいしゅ》 汝等当《にょとうとう》信《しん》解《げ》 如来誠諦《にょらいじょうたい》之語《しご》
香子は、ついに気をうしなった。
眼がさめたときは、山の端《は》に団々たる十五日の月があがっていた。
「極楽のような」
と、香子はつぶやいた。
「宮。あの月は嵯峨野ばかりを照らすのではござりませぬ。美濃の名勝長《なが》良《ら》川《がわ》の畔《ほとり》をも照らしまする。都を捨てられよ」
香子は、童女のような素直さで、こっくりとうなずいた。
眼がさめたときは、山の端《は》に団々たる十五日の月があがっていた。
「極楽のような」
と、香子はつぶやいた。
「宮。あの月は嵯峨野ばかりを照らすのではござりませぬ。美濃の名勝長《なが》良《ら》川《がわ》の畔《ほとり》をも照らしまする。都を捨てられよ」
香子は、童女のような素直さで、こっくりとうなずいた。