庄九郎は、扉《とぼそ》をたたき、
「頼みまする」
とよばわって、しばらく返事を待った。
陽《ひ》は、真昼からやや傾いている。
嵯峨野《さがの》の空はぬぐったように青く、眼の前の小倉山の赤松の幹の赤さが、ひさしぶりで京に帰ってきた庄九郎の眼をたのしませた。
美濃には、黒松が多い。
赤松があっても、京のそれのような品のいい代赭色《たいしゃいろ》ではないようである。
(京は、松一つでもうつくしい)
と庄九郎はおもった。王城の地というのは、樹木でさえ気品がよくなるのか。それとも、こういう雅《みや》びた山河なればこそ、王城の文化はうまれたのか。
(すくなくとも、赤松のすくない東国の坂東《ばんどう》に都がおかれたとしたならば、建物やひとびとの服装ひとつでもいまとちがっていたに相違ない)
庄九郎は、太刀のコジリを上げつつ、あたりの風景を楽しんでいる。
(いつかは、京にもどってくる)
この王城の地に、自分の家紋を染めぬいた旗を立てるのは、戦国にうまれた男子の本懐であることであった。
(将軍になる)
夢想ではない。美濃へくだってわずか七年目に、いまの姿になっているではないか。
軒に、竹の樋《とい》がかかっている。
そこにも草の穂がのぞいていた。風にゆれている。雀《すずめ》がいた。それが飛びたったとき、戸があいて、
炊《かし》ぎ女《め》が顔をだした。
「どなたでござりまする」
「美濃のな」
庄九郎はいってから矢立をとりだし、木の皮を一枚ひろいあげてその裏に、「美濃国加納住人長井新九郎藤原利政」と小さく書いて婢女にわたした。
「宮様は、おわしましょうな」
「おわしまするが、ひとにはお会いなされませぬ。どのような御用の向きでござりましょう」
「それがし、無位無官の卑《いや》しき田舎侍でござれば、ご対面もかないますまい。せめてお障子ごしなりとも、お声をお聞かせねがえまいかと思うて参上つかまつりました」
「して、ご用は?」
「恋でござるよ」
と、庄九郎はすばやく炊ぎ女の手をにぎった。銭をにぎらせている。
女は、当惑した。
恋。——
とつぶやいて女はがたがた慄《ふる》えはじめた。なんと大それた田舎侍であることか。おのれの富強にまかせ、無位無官のくせに内親王に懸《け》想《そう》して逢《あ》わせろというのである。
香子は、室内にいた。
むろん、庄九郎の声は、凛々《りんりん》と透《とお》ってきている。香子は耳を澄ませて聞いていた。——その人を、
(見たい)
とおもった。声にふしぎな力があり、その力が香子の体にかすかな作用をもたらしているようである。
香子は、経机の上の鈴をとりあげ、指さきで二度振った。
婢女が、庄九郎を待たせて、香子の部屋の障子のそとでうずくまった。
「およびでござりまするか」
「呼びました」
あとは、沈黙がつづいた。
だいぶ経《た》ってから、小さな声で、
「お客さまですね」
と、香子はいった。婢女はやむなく、障子を細目にひらいて、例の木の皮の名札を差し入れた。
香子は腕を交互に袖《そで》の中に入れ、畳の上におかれた名札を取りあげもせず、やや遠くからその文字を読みとろうとしている。決して行儀のいいすがたではない。
(美濃の長井新九郎利政か。——)
男の子のように、つぶやいた。察したとおり、一昨々日の武士であろう。
香子のまぶたは単《ひとえ》で、まつげが濃くみじかくそろっている。それがぱちぱちとよくまばたき、そのせいか、ひどく冴《さ》えざえとした光りを帯びていた。
「いかがとりはからいましょう」
「縁側へ煎茶《せんちゃ》でも出してあげなさい」
とだけいい、会うとも会わぬともいわなかった。
香子の言いつけどおり、婢女は縁側で煎茶をふるまった。
庄九郎は、腰をおろした。
茶菓子は、ほし柿《がき》である。
「宮は、どう申されましたかな」
と、庄九郎はたずねた。
「茶を出せ、とのみおおせられました」
婢女は正直である。そのとおりのことをいった。
(垣《かい》間《ま》みる気じゃな)
むこうに、すだれがかかっている。あるいはその内側からでも庄九郎の姿を見ているのであろう。
庄九郎は、嫋《たお》やかな女を想像した。
が、当の香子は、経机に右ひじを置き、ほ《・》お《・》杖《づえ》をついて庭の垣根を見ている。
(なぜ、献上物などをして接近するのか)
それを考えている。
香子は、御所のなかでこそ自分は不遇だが下《げ》賤《せん》の世界に降りればいかに自分の価値が高いかを知っていた。
(買いに来たのか)
美濃の国主は、土岐家である。むかし足利《あしかが》の全盛時代には伊勢、尾張までを領した強大な家で、その府城のある美濃の川手は、京都、鎌倉《かまくら》、山口、川手、とならび称せられた都《と》邑《ゆう》であった。香子は、公卿《くげ》なかまのうわさで、そういう人文地理はよく頭に入っている。
ついでだが、この当時の公卿は所領をうしなって落魄《らくはく》し、縁をもとめては地方の大名のもとにゆき、厄介《やっかい》になることだけを考えていた。
「どこそこは、富強じゃ」
という噂《うわさ》ばかりが、蜘蛛《くも》の巣を張った宮廷のなかで行なわれている。
公卿の荒れ屋敷に美しい娘がいれば、都の商人が目をつけ、媒介し、その娘をつれて地方大名のもとにゆき、妾《めかけ》にする、ということが普通に行なわれていた。
むろん、そういう大名から娘の実家の公卿へ相応な金品がおくられてくる。娘が子でも生めば、それを縁に親が馳《ち》走《そう》を食いに都を落ちてくるという例が多い。
だから、香子でも知っているほどに、戦国の地理を、この社会はよく知っている。
大名のなかでもとくに公卿好きな周防《すおう》(山口県)の大内氏などは、頼ってやってくる公卿どもを気前よく受け入れたため、その府城山口は、「西ノ京」といわれたほどである。
(土岐頼芸《よりよし》も遊び好きなそうな)
そう聞いている。香子は、腕組みをしたままであった。
化粧はせず、唇《くちびる》に紅もさしていない。よほど容貌《ようぼう》に自信があるのか。というよりも、化粧などを必要とせぬほどのうつくしい肌をこの娘はもっている。
「————」
と、香子は鈴を振って、婢女をよんだ。
「なんでございます」
「炭火を」
みじかく命じ、念のため、「香を�《た》きたい」という手まねをしてみせた。その程度の炭火でよい、という意味なのである。
香子は、自分で香《こう》炉《ろ》の支度をした。
やがて炭火が運ばれてくると、香子はそれを桜灰に埋《い》け、灰のあたたまるのを待って、香を埋けた。
屋内を燻《くん》じるためである。香などは宝石を砕いて焼くような贅沢《ぜいたく》さだが、香子はいかに貧窮していようと、これだけは必需品であるという境涯《きょうがい》のなかに生《お》いそだった。
香が、燻じられてゆく。
それを待つあいだ、香子は経机に寄りかかり、うたたねをしようと思った。
が、つい、眠った。眼が覚めたときは、陽がかげりはじめている。
「頼みまする」
とよばわって、しばらく返事を待った。
陽《ひ》は、真昼からやや傾いている。
嵯峨野《さがの》の空はぬぐったように青く、眼の前の小倉山の赤松の幹の赤さが、ひさしぶりで京に帰ってきた庄九郎の眼をたのしませた。
美濃には、黒松が多い。
赤松があっても、京のそれのような品のいい代赭色《たいしゃいろ》ではないようである。
(京は、松一つでもうつくしい)
と庄九郎はおもった。王城の地というのは、樹木でさえ気品がよくなるのか。それとも、こういう雅《みや》びた山河なればこそ、王城の文化はうまれたのか。
(すくなくとも、赤松のすくない東国の坂東《ばんどう》に都がおかれたとしたならば、建物やひとびとの服装ひとつでもいまとちがっていたに相違ない)
庄九郎は、太刀のコジリを上げつつ、あたりの風景を楽しんでいる。
(いつかは、京にもどってくる)
この王城の地に、自分の家紋を染めぬいた旗を立てるのは、戦国にうまれた男子の本懐であることであった。
(将軍になる)
夢想ではない。美濃へくだってわずか七年目に、いまの姿になっているではないか。
軒に、竹の樋《とい》がかかっている。
そこにも草の穂がのぞいていた。風にゆれている。雀《すずめ》がいた。それが飛びたったとき、戸があいて、
炊《かし》ぎ女《め》が顔をだした。
「どなたでござりまする」
「美濃のな」
庄九郎はいってから矢立をとりだし、木の皮を一枚ひろいあげてその裏に、「美濃国加納住人長井新九郎藤原利政」と小さく書いて婢女にわたした。
「宮様は、おわしましょうな」
「おわしまするが、ひとにはお会いなされませぬ。どのような御用の向きでござりましょう」
「それがし、無位無官の卑《いや》しき田舎侍でござれば、ご対面もかないますまい。せめてお障子ごしなりとも、お声をお聞かせねがえまいかと思うて参上つかまつりました」
「して、ご用は?」
「恋でござるよ」
と、庄九郎はすばやく炊ぎ女の手をにぎった。銭をにぎらせている。
女は、当惑した。
恋。——
とつぶやいて女はがたがた慄《ふる》えはじめた。なんと大それた田舎侍であることか。おのれの富強にまかせ、無位無官のくせに内親王に懸《け》想《そう》して逢《あ》わせろというのである。
香子は、室内にいた。
むろん、庄九郎の声は、凛々《りんりん》と透《とお》ってきている。香子は耳を澄ませて聞いていた。——その人を、
(見たい)
とおもった。声にふしぎな力があり、その力が香子の体にかすかな作用をもたらしているようである。
香子は、経机の上の鈴をとりあげ、指さきで二度振った。
婢女が、庄九郎を待たせて、香子の部屋の障子のそとでうずくまった。
「およびでござりまするか」
「呼びました」
あとは、沈黙がつづいた。
だいぶ経《た》ってから、小さな声で、
「お客さまですね」
と、香子はいった。婢女はやむなく、障子を細目にひらいて、例の木の皮の名札を差し入れた。
香子は腕を交互に袖《そで》の中に入れ、畳の上におかれた名札を取りあげもせず、やや遠くからその文字を読みとろうとしている。決して行儀のいいすがたではない。
(美濃の長井新九郎利政か。——)
男の子のように、つぶやいた。察したとおり、一昨々日の武士であろう。
香子のまぶたは単《ひとえ》で、まつげが濃くみじかくそろっている。それがぱちぱちとよくまばたき、そのせいか、ひどく冴《さ》えざえとした光りを帯びていた。
「いかがとりはからいましょう」
「縁側へ煎茶《せんちゃ》でも出してあげなさい」
とだけいい、会うとも会わぬともいわなかった。
香子の言いつけどおり、婢女は縁側で煎茶をふるまった。
庄九郎は、腰をおろした。
茶菓子は、ほし柿《がき》である。
「宮は、どう申されましたかな」
と、庄九郎はたずねた。
「茶を出せ、とのみおおせられました」
婢女は正直である。そのとおりのことをいった。
(垣《かい》間《ま》みる気じゃな)
むこうに、すだれがかかっている。あるいはその内側からでも庄九郎の姿を見ているのであろう。
庄九郎は、嫋《たお》やかな女を想像した。
が、当の香子は、経机に右ひじを置き、ほ《・》お《・》杖《づえ》をついて庭の垣根を見ている。
(なぜ、献上物などをして接近するのか)
それを考えている。
香子は、御所のなかでこそ自分は不遇だが下《げ》賤《せん》の世界に降りればいかに自分の価値が高いかを知っていた。
(買いに来たのか)
美濃の国主は、土岐家である。むかし足利《あしかが》の全盛時代には伊勢、尾張までを領した強大な家で、その府城のある美濃の川手は、京都、鎌倉《かまくら》、山口、川手、とならび称せられた都《と》邑《ゆう》であった。香子は、公卿《くげ》なかまのうわさで、そういう人文地理はよく頭に入っている。
ついでだが、この当時の公卿は所領をうしなって落魄《らくはく》し、縁をもとめては地方の大名のもとにゆき、厄介《やっかい》になることだけを考えていた。
「どこそこは、富強じゃ」
という噂《うわさ》ばかりが、蜘蛛《くも》の巣を張った宮廷のなかで行なわれている。
公卿の荒れ屋敷に美しい娘がいれば、都の商人が目をつけ、媒介し、その娘をつれて地方大名のもとにゆき、妾《めかけ》にする、ということが普通に行なわれていた。
むろん、そういう大名から娘の実家の公卿へ相応な金品がおくられてくる。娘が子でも生めば、それを縁に親が馳《ち》走《そう》を食いに都を落ちてくるという例が多い。
だから、香子でも知っているほどに、戦国の地理を、この社会はよく知っている。
大名のなかでもとくに公卿好きな周防《すおう》(山口県)の大内氏などは、頼ってやってくる公卿どもを気前よく受け入れたため、その府城山口は、「西ノ京」といわれたほどである。
(土岐頼芸《よりよし》も遊び好きなそうな)
そう聞いている。香子は、腕組みをしたままであった。
化粧はせず、唇《くちびる》に紅もさしていない。よほど容貌《ようぼう》に自信があるのか。というよりも、化粧などを必要とせぬほどのうつくしい肌をこの娘はもっている。
「————」
と、香子は鈴を振って、婢女をよんだ。
「なんでございます」
「炭火を」
みじかく命じ、念のため、「香を�《た》きたい」という手まねをしてみせた。その程度の炭火でよい、という意味なのである。
香子は、自分で香《こう》炉《ろ》の支度をした。
やがて炭火が運ばれてくると、香子はそれを桜灰に埋《い》け、灰のあたたまるのを待って、香を埋けた。
屋内を燻《くん》じるためである。香などは宝石を砕いて焼くような贅沢《ぜいたく》さだが、香子はいかに貧窮していようと、これだけは必需品であるという境涯《きょうがい》のなかに生《お》いそだった。
香が、燻じられてゆく。
それを待つあいだ、香子は経机に寄りかかり、うたたねをしようと思った。
が、つい、眠った。眼が覚めたときは、陽がかげりはじめている。
庄九郎は、縁側で待った。
もともと気のながい男ではないが、根気よく待っていた。
(よほど、気位の高い女じゃな)
庄九郎はあれこれと思いめぐらしている。
貴族とは、人間の出来損ないだと庄九郎は思っていた。土岐頼芸も、貴族である。しかしたかだか田舎貴族で、そのうえ、富力と武力という背景がある点で、京の本格的な貴族とは種類を異にしている。
京の宮廷ほど、性悪《しょうわる》な人間をうむ世界はないと庄九郎は思っていた。富力、武力といった背景がないだけに、それを持つ連中をあやつったり、その連中からあやつられたりして数百年の歴史を経てきた。
——これでも人間か。
とあきれるほど、煮ても焼いても食えない人間が、公卿には多い。かれら京都貴族からみれば、土岐頼芸などは神さまのようなものだ。
(香子も、そのなかで生いそだってきたおなごだ。油断はならぬ)
庄九郎ほどの男が、きびしく肚積《はらづも》りをするようになったのは、この待たせかたが異常だったからである。
香子は、眼がさめた。
(そうそう、まだ、居るかしら)
と、首をかしげた。美濃の田舎侍に自分の価値のたかさを知らしめるのは、待たせるという手以外にはない。
香子は、鈴をふり、たった一人の従者である婢女に、荘重《そうちょう》に命じた。
「その者を、南縁にまわらせ、庭にすわらせますように」
「はい」
婢女は、ひたひたと草履の音をたてて庄九郎のもとに行った。
「どうぞ」
「さてはお許しくだされるか」
庄九郎は太刀をぬぎ、土間のすみに立てかけ、南側の庭にまわって、土のうえにすわった。
眼の前に、白い障子がある。
夕陽が、赫《か》っとあたっていた。閉じたまま障子はひらかれる気配もない。
やがて、障子のむこうに、小さな咳《せき》がきこえたので、庄九郎は平伏した。
「長井新九郎利政でございます」
「なにやら」
と、声がきこえた。
「この下の村の者に親切をかけて呉れましたそうな。礼をいいます」
障子を閉めっきりなのは、御所でいえば御《み》簾《す》のつもりなのであろう。
(お顔をみたいが、どうにかならぬものか)
「新九郎とやら、何をしにきました」
「お物語をお聞かせ申しあげに。——」
「そなたは地下《じげ》人《びと》であろう」
「官位はございませぬ。しかし、美濃で五千の兵を動かす力と城を一つ持っております。また、土岐美濃守の執事として、国政をみておりまする」
「そうか」
言葉が、とぎれた。
庄九郎は夕暮の天を仰ぎ、
「もはや陽も傾きましたゆえ、あすにでもまかり出まする。これはほんのお屋根直しの御《お》料《しろ》に」
と、重い金銀の袋を、縁の上に置いた。
残照ののこった空に、一番星が出ている。
山桃の下で馬に乗り、庄九郎は庵のそばの坂を駈《か》けおりた。香子はその姿を、細目にあけた障子のすき間からみた。
(そうそう、まだ、居るかしら)
と、首をかしげた。美濃の田舎侍に自分の価値のたかさを知らしめるのは、待たせるという手以外にはない。
香子は、鈴をふり、たった一人の従者である婢女に、荘重《そうちょう》に命じた。
「その者を、南縁にまわらせ、庭にすわらせますように」
「はい」
婢女は、ひたひたと草履の音をたてて庄九郎のもとに行った。
「どうぞ」
「さてはお許しくだされるか」
庄九郎は太刀をぬぎ、土間のすみに立てかけ、南側の庭にまわって、土のうえにすわった。
眼の前に、白い障子がある。
夕陽が、赫《か》っとあたっていた。閉じたまま障子はひらかれる気配もない。
やがて、障子のむこうに、小さな咳《せき》がきこえたので、庄九郎は平伏した。
「長井新九郎利政でございます」
「なにやら」
と、声がきこえた。
「この下の村の者に親切をかけて呉れましたそうな。礼をいいます」
障子を閉めっきりなのは、御所でいえば御《み》簾《す》のつもりなのであろう。
(お顔をみたいが、どうにかならぬものか)
「新九郎とやら、何をしにきました」
「お物語をお聞かせ申しあげに。——」
「そなたは地下《じげ》人《びと》であろう」
「官位はございませぬ。しかし、美濃で五千の兵を動かす力と城を一つ持っております。また、土岐美濃守の執事として、国政をみておりまする」
「そうか」
言葉が、とぎれた。
庄九郎は夕暮の天を仰ぎ、
「もはや陽も傾きましたゆえ、あすにでもまかり出まする。これはほんのお屋根直しの御《お》料《しろ》に」
と、重い金銀の袋を、縁の上に置いた。
残照ののこった空に、一番星が出ている。
山桃の下で馬に乗り、庄九郎は庵のそばの坂を駈《か》けおりた。香子はその姿を、細目にあけた障子のすき間からみた。
翌日、庄九郎は来た。
南縁にまわって、すわった。
香子は待ちかねたように、障子の内側にすわった。
「よい日和《ひより》がつづきますな」
庄九郎はがらりとくだけた。このままでは、百年、会いにきてもらち《・・》があかぬと思ったのである。
「そうですか」
「あははは、そこで障子をお立てなされていては、折角のあの空がみえますまい」
庄九郎は庄九郎流でゆくにかぎる、とおもい、縁へ片足をかけ、両手を障子の桟《さん》にかけ、
からっ、
と左右にひらいた。
「無礼な」
とは、武家の姫君のようにはいわない。香子は静かに、眼を細めて微笑《わら》っている。
「美濃には、礼というものがないと見える」
と、香子はいった。庄九郎も負けてはいない。
「空を御覧あそばすのに礼は要りますまい」
「ああ」
香子は、この応答が気に入った。
「そなたの申すとおりです」
「おそれながら、宮」
と、庄九郎は膝《ひざ》をつき、懐《ふとこ》ろに入れていた真新しい草履をとりだしてそこにそろえた。
「そとへおいであそばしませぬか。裏山の苔《こけ》のしとね《・・・》におすわりあそばして、美濃の物語などいかがなものでござりましょう」
屋内では無用の格式にさまたげられて、思うさまに話ができぬと思ったのである。
香子は、ちょっと浮かれた。
(それもおもしろいかもしれない)
と思った瞬間から、庄九郎のふんいきに乗せられてしまったといえるかもしれない。
庄九郎は、手をとって草履をはかせ、庭のすみの柴《し》折《おり》戸《ど》をひらき、裏山への小《こ》径《みち》をのぼりはじめた。
二百歩ばかりのぼると、森が深くなり、赤松の根もとに、ぬぐったように美しい苔の座がある。
「おすわりあそばすように」
と庄九郎は香子をすわらせ、自分もややさがった場所にすわった。
香子がおどろいたのは、その庄九郎の座の前に、石でかこんだ炉が切られており、炭が熾《おこ》り、茶釜《ちゃがま》がかかっていることである。
それだけではない。
この林間のどこからともなく美々しい粧《よそお》いの女、男が七、八人もあらわれ、携帯用につくったらしい水《みず》屋《や》を運び、屏風《びょうぶ》をたてめぐらし、茶道具をはこびはじめたのである。
「茶を進ぜましょう」
と、庄九郎は、さわやかな手さばきで茶をたて、香子にすすめた。
(なんという男だ)
香子が眼をまるくしているとき、庄九郎はこの男をもっとも特徴づけているそのまろやかな声で、
「茶とは、便利なものが流行《はや》ったものでござりまするな。ここに一碗《わん》の茶を置くだけで浮世の身分のちがい、無用の縟礼《じょくれい》をとりのぞくことができるとは」
といった。事実、茶の席では、亭主と客の二つの立場しかない。
庄九郎は、亭主である。
「いま一服、いかがでござる」
「足りました」
と、香子は、粗末な小《こ》袖《そで》の膝の上に落ちた松葉をつまみながら、いった。
「ところで利政」
と、庄九郎を見た。
「世から捨てられたわたくしに、そなたは何の用があるのです」
「恋でござるよ」
と、茶碗をぬぐいながら答えた。
「恋?」
「左様。待った、身分は論ぜらるな。ここではただの女と男の話が願わしゅうござる。この恋は、さてむずかしい。古《いにしえ》の詩《しい》歌《か》、物語にもない恋でござる」
「どのように?」
むずかしいのか。と香子は小首をかしげてから、やがて庄九郎のどぎもを抜くようなことをいった。
「利政、それは金銀で買いもとめる恋でありましょう。そなたのみるところ、わたくしはいかほどの値いです」
「おもしろい」
庄九郎は、この宮が好きになった。
「いかほどでなら、宮はご自分をお売りなさる」
「さあ」
むずかしい勘定である。なるほど庄九郎のいうとおり、こういう恋は、源氏物語にも古《こ》今集《きんしゅう》にもないであろう。
南縁にまわって、すわった。
香子は待ちかねたように、障子の内側にすわった。
「よい日和《ひより》がつづきますな」
庄九郎はがらりとくだけた。このままでは、百年、会いにきてもらち《・・》があかぬと思ったのである。
「そうですか」
「あははは、そこで障子をお立てなされていては、折角のあの空がみえますまい」
庄九郎は庄九郎流でゆくにかぎる、とおもい、縁へ片足をかけ、両手を障子の桟《さん》にかけ、
からっ、
と左右にひらいた。
「無礼な」
とは、武家の姫君のようにはいわない。香子は静かに、眼を細めて微笑《わら》っている。
「美濃には、礼というものがないと見える」
と、香子はいった。庄九郎も負けてはいない。
「空を御覧あそばすのに礼は要りますまい」
「ああ」
香子は、この応答が気に入った。
「そなたの申すとおりです」
「おそれながら、宮」
と、庄九郎は膝《ひざ》をつき、懐《ふとこ》ろに入れていた真新しい草履をとりだしてそこにそろえた。
「そとへおいであそばしませぬか。裏山の苔《こけ》のしとね《・・・》におすわりあそばして、美濃の物語などいかがなものでござりましょう」
屋内では無用の格式にさまたげられて、思うさまに話ができぬと思ったのである。
香子は、ちょっと浮かれた。
(それもおもしろいかもしれない)
と思った瞬間から、庄九郎のふんいきに乗せられてしまったといえるかもしれない。
庄九郎は、手をとって草履をはかせ、庭のすみの柴《し》折《おり》戸《ど》をひらき、裏山への小《こ》径《みち》をのぼりはじめた。
二百歩ばかりのぼると、森が深くなり、赤松の根もとに、ぬぐったように美しい苔の座がある。
「おすわりあそばすように」
と庄九郎は香子をすわらせ、自分もややさがった場所にすわった。
香子がおどろいたのは、その庄九郎の座の前に、石でかこんだ炉が切られており、炭が熾《おこ》り、茶釜《ちゃがま》がかかっていることである。
それだけではない。
この林間のどこからともなく美々しい粧《よそお》いの女、男が七、八人もあらわれ、携帯用につくったらしい水《みず》屋《や》を運び、屏風《びょうぶ》をたてめぐらし、茶道具をはこびはじめたのである。
「茶を進ぜましょう」
と、庄九郎は、さわやかな手さばきで茶をたて、香子にすすめた。
(なんという男だ)
香子が眼をまるくしているとき、庄九郎はこの男をもっとも特徴づけているそのまろやかな声で、
「茶とは、便利なものが流行《はや》ったものでござりまするな。ここに一碗《わん》の茶を置くだけで浮世の身分のちがい、無用の縟礼《じょくれい》をとりのぞくことができるとは」
といった。事実、茶の席では、亭主と客の二つの立場しかない。
庄九郎は、亭主である。
「いま一服、いかがでござる」
「足りました」
と、香子は、粗末な小《こ》袖《そで》の膝の上に落ちた松葉をつまみながら、いった。
「ところで利政」
と、庄九郎を見た。
「世から捨てられたわたくしに、そなたは何の用があるのです」
「恋でござるよ」
と、茶碗をぬぐいながら答えた。
「恋?」
「左様。待った、身分は論ぜらるな。ここではただの女と男の話が願わしゅうござる。この恋は、さてむずかしい。古《いにしえ》の詩《しい》歌《か》、物語にもない恋でござる」
「どのように?」
むずかしいのか。と香子は小首をかしげてから、やがて庄九郎のどぎもを抜くようなことをいった。
「利政、それは金銀で買いもとめる恋でありましょう。そなたのみるところ、わたくしはいかほどの値いです」
「おもしろい」
庄九郎は、この宮が好きになった。
「いかほどでなら、宮はご自分をお売りなさる」
「さあ」
むずかしい勘定である。なるほど庄九郎のいうとおり、こういう恋は、源氏物語にも古《こ》今集《きんしゅう》にもないであろう。