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国盗り物語47

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:姓は斎藤「美濃の蝮《まむし》」と、戦国の諸雄からおそれられた斎藤道三《どうさん》こと庄九郎が、その、史上で名を高からしめ
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姓は斎藤

「美濃の蝮《まむし》」
と、戦国の諸雄からおそれられた斎藤道三《どうさん》こと庄九郎が、その、史上で名を高からしめた斎藤姓を名乗るようになったのは、天文五年の春である。余談だが、このころには、のちのちかれの婿《むこ》になる織田信長がすでに隣国の尾張でうまれていて、数えどし三つ。
その信長の花嫁になって才色比類なしといわれた庄九郎と小見《おみ》の方《かた》のむすめ「濃姫《のうひめ》」は当時かぞえて二歳。
まだ、赤ん坊でしかない。
ところで、庄九郎が斎藤姓を名乗ったこの天文五年の元旦《がんたん》に、おなじく隣国尾張中村のあばらやでひとりの奇男子がうまれている。のちの豊臣秀吉《とよとみひでよし》である。
道三、信長、秀吉とつづく戦国の系譜は、この年の前後に誕生したわけである。
さて、さらに余談を。
斎藤姓についてである。この日本人の姓のなかでもっとも多い苗字があらわれたのは、平安朝の初期であるらしい。
平安初期、鎮守府将軍になった藤原利仁《としひと》という人物がある。その子で叙用という人物があり、どんな男であったかはよくわからないが、この藤原叙用がこの姓の祖である。
藤原叙用が、宮仕えして伊勢の斎宮《さいぐう》の世話をする役所の長官(斎宮寮頭)になった。従《じゅ》五《ご》位上《いのじょう》。
廷臣のなかで藤原氏が多い。そのひとをよぶときまぎらわしいため、京都の屋敷の所在地の町名でよんだり(たとえば近《この》衛《え》、一条、三条といったふうに)、その子孫で地方に住んだ者はたとえば加賀なら加藤とよんだりした。
斎藤は叙用が斎宮寮頭になったため「斎藤」と略してよばれたわけである。
その子孫が諸国に散った。なにしろ鎮守府将軍利仁の血系であるために国々では威をふるい、羽《う》前《ぜん》、武蔵《むさし》、加賀、能登《のと》、越中、越後、美濃など、とくに北国、東国、坂東《ばんどう》の在所、在所で栄えた。平家物語で白《しら》髪《が》を染めて戦場におもむく平家の老侍大将斎藤別当実盛《さねもり》は、武蔵国長井の住人であったし、謡曲の「安《あ》宅《たか》」に出てくる加賀の守護斎藤富樫介《とがしのすけ》は、加賀で繁栄した一族である。
美濃の斎藤氏は、すでに足利《あしかが》時代の末期、斎藤妙椿《みょうちん》というきこえた武士がおり、美濃守護職土岐家の家老として腕をふるい、一方、歌道にたんのうで、京の公卿《くげ》を美濃へ招待したりして都にまで名を知られていた。
庄九郎の当時の美濃斎藤家は、国主の土岐家と婚姻《こんいん》をかさねて分家同然になっており、長井家とともにこの国きっての名家であることは、すでに何度かふれた。
「斎藤の家をつぐがよかろう」
と庄九郎にいったのは、国主の土岐頼芸である。庄九郎が頼芸にそういわせるように仕むけて行ったこともたしかだが、しかし斎藤の宗家がほとんど死に絶えたも同然で、
——名家の名跡が絶えるのは惜しい。
という正当な理由もあった。
が、美濃斎藤家の分家は美濃一国にちらばっており、宗家の名跡をつぐなら、赤の他人の庄九郎などよりも、そういう血縁者がつぐべきであろう。
この相続は、決して穏当なものではない。
庄九郎が「頼芸の命令」ということでむりやりにその名跡をうばってわが頭に飾った、といったほうがいい。
斎藤左《さ》近《こん》大夫《だゆう》秀竜《ひでたつ》
というのが、庄九郎の名乗りであった。
庄九郎が美濃にきて、満十五年の歳月が、この名を得るまでに流れている。
この改名の直後、京のお万阿に報《し》らせるためにひそかに変装して美濃をぬけ、数日、京の春をたのしんだ。
京の山崎屋に落ちついて、油屋の旦《だん》那《な》「山崎屋庄九郎」にもどるなり、
「お万阿、美濃はいますこしで奪《と》れる」
といい、言いおわると、改名そうそうの姓名をお万阿におしえた。
「さいとう・さこんだゆう・ひでたつ」
とお万阿は、紙をのべてかな《・・》でそう書き、
「覚えにくいこと」
にこにこ笑いながら、何度か、口のなかでとなえた。亭主の名前も知らぬのでは、女房《にょうぼう》としてこまるのである。
考えてみれば、お万阿ほど奇妙な亭主をもった女もないであろう。いったい、この男は何度なまえがかわったか。はじめは松波庄九郎、ついで妙覚寺本山の学生《がくしょう》になって法蓮房《ほうれんぼう》、還俗《げんぞく》して旧称にもどる。ついで奈良屋のお万阿のもとに婿入りして奈良屋庄九郎、その屋号をあらためて山崎屋庄九郎、さらに美濃の廃家西村家を継いで西村勘九郎、ほどなく長井家を継ぎ長井新九郎、とじつにめまぐるしい。
「いくつかわったか、わしもおぼえきれぬ」
と、庄九郎はわらいだした。
「名など符牒《ふちょう》さ。お万阿は、庄九郎だけをおぼえておればよい」
「いつ、将軍におなりあそばします?」
お万阿がいったのは、なにも庄九郎に将軍などになってもらいたい、というわけではない。将軍になれば京にもどる、むかしのようにお万阿と寝食をともにしてくれる、という約束を二人でとりかわしてある。
「さて、いつかな」
庄九郎は笑いだした。
「お万阿、考えてみると、将軍というものも退屈な暮らしだろうな」
「なぜでございます」
「わしが将軍になり、天下がおさまった以上、もはや、なにをすることもあるまい。わしもおそらく精気をもてあますだろう」
「旦那さま」
「なんだ」
「将軍におなりあそばさないのでございますか」
お万阿は、にわかに語気がはげしい。
「おなりあそばさぬというなら、早々に美濃から旦那さまをひきあげさせて、もとの油屋にしてしまいます」
「おいおい」
「旦那さまは、お万阿のものでございますから。なにやらうわさにきく美濃の深《み》芳《よし》野《の》さまや小見の方とやらには、ごく一時だけ、旦那さまをあずけてあるだけでございます」
「お万阿、そう申すな」
こんなやりとりで、日が暮れた。むろん、痴話のたぐいといっていい。
夜半まで、庄九郎はお万阿と床のなかで戯《たわむ》れた。年に二、三度もどってくるだけの亭主だが、戻《もど》ってきた数日というものは、世間の亭主の千夜にもあたるほどお万阿に男というものを堪能《たんのう》させてくれる。
夜半、月が出た。
枕《まくら》もとに射《さ》しこんでいる。お万阿は厠《かわや》へ立ち、そのあと庭へおりて、筧《かけい》で手をあらった。ふらり、とめまいがするほどに、体のしん《・・》がこころよく虚脱している。
寝所にもどった。
「問いわすれておりましたけれど」
と、お万阿は寝物語をはじめた。
「その斎藤左近大夫秀竜さまとやらは、どのようなご身分なのでございます」
「国主の代行者だ」
斎藤宗家は美濃の小守護(守護代)であり、土岐家の家老だが、事実上の国主といっていい。
「が、家名、家柄《いえがら》など古ぼけた世の亡霊よ。これが真っ昼間、美濃に出て美濃ではちゃんと人も怖《おそ》れるから、おかしなものだ。わしは美濃をわし好みに創《つく》りかえてやろうと思っている。その創り変えの世直しには、はじめは古い亡霊の力を借りねばならぬ。ゆえに、姓は斎藤よ」
「でも」
お万阿には、疑問がある。庄九郎が、守護職土岐頼芸の無能につけ入りその権威をかりてさまざま横道《おうどう》なことをしているが、美濃の国侍どもはおとなしくだまっているのか、ということである。
「美濃とは武強の国で、美濃衆といえば天下にひびいた強いお侍衆がいるというではございませぬか。斎藤家をお継ぎあそばされたことについても、その方々がおとなしくだまっているというのが、ふしぎでなりませぬ」
「よう見た」
庄九郎は、枕もとの酒器をひきよせた。杯に白《しろ》酒《き》を注ぎ、柏《かしわ》の葉にのせた味噌《みそ》を左手の小指でなめてから、右手で杯をもちあげて唇にふくみ、ぐっと干した。
「帰国すれば、大戦《おおいく》さがあるさ」
と、この蝮は、事もなげにいった。眼を、半眼に閉じている。
合戦の手だてを、ふと考えているらしい。

美濃では庄九郎の敵が、ひそかに戦備をととのえている。
その反庄九郎派の顔ぶれは、
国主頼芸の三人の弟——揖斐《いび》五郎光親《みつちか》、鷲《わし》巣《ず》六郎光敦《みつあつ》、土岐八郎頼香《よりよし》。
それに、斎藤一族のひとり斎藤彦九郎宗雄《むねかつ》。
らで、かれらの動員しうる国衆は、美濃八千騎の村落貴族どものうち、三百騎はまちがいなく、その動員兵力は、一騎に郎党五人ずつとみて千五百人はかたいであろう。
庄九郎は、自分の手勢、頼芸の命令に従順な国侍をふくめると、まず五千騎一万五千人はまちがいない。
あとは、中立ということになるであろう。
そこで反庄九郎派は、北方の隣国である越前王ともいうべき朝倉孝景《たかかげ》、西方の隣国の近江の六角定頼《ろっかくさだより》らにひそかに連絡し、
——蝮《・》が美濃をうばいとろうとしております。ねがわくは、わが美濃に出兵して、われらとともにかの者をお討ち取りねがいたい。
と要請した。朝倉、六角の両氏とも、
「お気の毒である」
色よく返事したのもむりはない。あわよくばこの内紛につけ入って美濃に乱入し、領地を分けどりしようとした。
越前朝倉、近江六角は、かれら同士のあいだで協議した。
ただちに美濃を分け取りできぬまでも、美濃の庄九郎を討ち倒すということは大いに意義があった。
かれらは、庄九郎によって美濃の態勢が一変し、国が富み、兵が強くなることをおそれていた。隣国の富強ほど、その国にとって不幸なことはない。
美濃を通って越前や近江へくる山伏《やまぶし》、行人《ぎょうにん》などのうちでは、庄九郎のことを、
「出頭人(にわかに立身をとげた者)ではありまするが、百年にひとり、出るか出ぬかの英傑」
とほめたたえる者もある。美濃の内紛をさいわい、出兵してうちほろぼしてしまう必要があった。
何度か、軍議がかさねられた。その情報は庄九郎の側にも入っている。
庄九郎は、斎藤左近大夫になってから、以前の軽海城《かるみじょう》、加納城のほかに、稲葉山城、別府城を所有し、かつ府城の川手城をあずかっているほか、頼芸のいる大《おお》桑《が》城にも伺《し》候《こう》して、いったいどこにいるかわからない。
「所在が転々としている男だ。いったいどの城に最も多くいるか、つきとめねばならぬ」
と、反庄九郎派は、情報あつめをはじめていた。
そのころ、庄九郎は京にゆき、京から帰ってきた。かれがひそかに京を往復しているなどは、腹心の者でも数人しか知らない。その点、平素、居所が転々としているだけに、一カ所から居なくなっても、
「では、あの城か」
と、家来さえそう思ってしまう。数カ城の城主をかねているくせに、けむりのような男であった。
庄九郎は本心、稲葉山(金華山城、のちの岐阜城)の峻嶮《しゅんけん》を大々的に修復してここを根拠地にしたいと思っていたが、ここしばらくは時期ではないとみて、ひかえていた。
京から美濃へ帰るなり、まずやったことは、
「別府城を本城にする」
ということであった。むろん本心ではなく国内の敵をあざむく手段である。
そのため、味方をもあざむき、とくに小見の方や深芳野をもあざむき、彼女らをさっさと別府城に住まわせた。
これには赤兵衛さえおどろき、
「正気でござるか」
といった。別府城は、いまの穂《ほ》積《づみ》町(岐阜市から西南二キロ)にあった城で、堀をうがち、土をかきあげて土塁をつくり、塀《へい》を一重にめぐらせただけの粗末な城館で、攻防の役にはたたない。
それに、一望見わたすかぎりの美濃平野のまんなかにあり、山城でないだけに大軍にかこまれれば半日で落ちるであろう。
敵が、包囲しやすい。
「卵のような城じゃ、敵に割られるのを待つつもりでござるか」
赤兵衛は反対し、「ぜひ山城の稲葉山城を本城とされますように」といった。
「ばかめ」
庄九郎は、笑っている。
かれの作戦計画では、別府城を囮《おとり》に、できるだけ大量の敵軍をひきつけておき、平々坦《たん》々《たん》たる野において大決戦をおこない、国外国内の敵を一挙に殲滅《せんめつ》することであった。
(好機だ)
とおもっている。
まず、募兵しなければならなかった。すぐ大桑城の頼芸のもとへゆき、
「揖斐五郎様、鷲巣六郎様、斎藤宗雄殿が、ご謀《む》反《ほん》でござりまする」
とかれらの計画を告げた。頼芸はおどろき蒼白《そうはく》になり、
「どうする」
というのみで、方策がうかばない。頭脳は庄九郎にまかせっきりというかっこうである。
「美濃一国の心ある衆にひそかに軍令をおくだしくださりませ」
と庄九郎は秘密動員を要求した。頼芸はさっそく自署の軍令状をかいた。
つぎに、いざ召集のとき、かれらが美濃平野の村々からできるだけ短時間に駈けつけてこられるように、国内二十カ所に烽火《のろし》設備をつくった。
それらの準備をおわると、庄九郎はあとは敵をまつだけの状態で別府城に入り、この城に毎日近在の地侍をよんでは、にぎやかに酒宴を催した。
「斎藤左近大夫は、別府城にあり」
ということを、内外に知らせておくためであった。庄九郎みずからが、城とともに囮になったわけである。
この年、九月。
庄九郎は京から連歌師を別府によぶことにし、すでにふた月前から国中にも布令《ふれ》ておき、
「当日、文雅の士は参集されよ」
と勧誘した。
このことは当然、揖斐五郎、鷲巣六郎らの耳に入った。
(素破《すわ》、その日は彼《か》の者、かならず別府城におるわ)
と見、越前と近江へそれぞれ密使を走らせて出兵の準備をさせた。
九月に入った。連歌興行の日は、十日である。
庄九郎は、その日を待った。
やがて、日が近づくにつれ、越前、近江に兵が動いているという諜報《ちょうほう》を得、ほどもない九日、越前兵は北国街道を南下し、近江兵は美濃街道を東進して、両街道の合する美濃関ケ原に集結した。
庄九郎はその報をきいても、別府城内でゆうゆうと碁を打っていた。
物見の報告はしきりと来るが、庄九郎は動ぜず、
「なにかの間違いだろう」
とつっぱね、なんの戦備もせず、かつ、
「五郎様、六郎様が、いかに政道に不満ありとはいえ、他国の兵を導きよせてくるような不忠はなさるまい」
と大声でいい、城内にまぎれ入っている敵方の間者の耳に入るようにした。自然、こうした庄九郎の言動は敵方につつぬけになり、
——さてはうつけ《・・・》者、油断をして籠城《ろうじょう》の支度すらせぬとみえる。
と五郎、六郎たちをよろこばせた。
いよいよ連歌興行という当日、庄九郎は城内を駈けまわってひとり支度の指揮をしていたが、はじまる寸前になって姿を掻《か》き消してしまった。
城外に出ている。
茶染めの麻衣《あさごろも》といった小百姓の姿に変え、東南へ走って稲葉山城に入り、兜《かぶと》をかぶり、具足をつけた。
が、なお烽火をあげない。
やがて、美濃、越前、近江の連合軍二万が関ケ原から移動して、別府城を押しかこんだとき、はじめて烽火をあげた。
たちまち烽火の逓伝《ていでん》は美濃平野を走り、在所々々から武者、小者がおどり出、予定どおり金華山のふもとに集結した。
庄九郎、馬上。
それらの人数のなかを駈けまわって部署し、人数がふえるごとに包囲線をのばして、ついに、別府城をかこんでいる連合軍をしずかに、しかも機敏に逆包囲してしまった。
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