天文三年の夏、美濃の大地が灼《や》けた。
長《なが》良《ら》川《がわ》をはじめ諸川《しょせん》が干あがり、河床がしらじらと露《あら》われて、草が枯れ、ひびが走るほどであった。
各村で雨《あま》乞《ご》いが行なわれたが験《げん》がなく、不作のまま秋に入った。
(ことしは凶作か)
と、庄九郎は秋の初頭におもった。あるいはこの穀倉地帯にもすさまじい飢《き》饉《きん》が来るかもしれない。
「赤兵衛」
と七月のある日、この便利な男をよび、京都へ使いにゆくように命じた。
「この秋、美濃は飢饉になるかもしれぬ。お万阿にそう申して、新米の季節になれば京で米を買いつけておくように」
「米を」
「そう、買いつけておけ。千石もあればよろしかろう。美濃がもし飢饉のばあい、さっそく京、大津の車借《しゃしゃく》・馬借《ばしゃく》(運輸業者)を総ざらえに傭《やと》い入れ、当方からしかるべき護衛の人数も出すゆえ、どっと当国へ運び入れるのだ」
「儲《もう》けるのでござりまするか」
「馬鹿《ばか》。世に大望をもつ者が、足もとの利をむさぼると思うか」
「施すのでござるな」
「そうだ。美濃一国の飢饉にわずか千石の米では焼け石に水であろうが、かゆ《・・》にして薄めれば一人何粒でも食える。庶人《しょにん》ははじめてわしが美濃にあることを、骨身にしみてよろこぶだろう」
「参候《さんそろ》」
赤兵衛は旅立って行った。まだまだ秋には早いが、米の買いつけなどは手間ひまのかかるものだ。京都に常駐して、京、近江《おうみ》、丹《たん》波《ば》それに摂《せっ》津《つ》などの米商人とのわたりをつけておかねばならない。
(しかしはたして飢饉が来るか)
というのは、赤兵衛の疑問である。その飢饉も、美濃だけならばよし、もし京都周辺まで凶作ならば買いつける米がないではないか。
さらに米を美濃まで運ぶ道路の近江も凶作ならばどうであろう。近江などは野伏《のぶせり》の多いところで、運ぶ米を掠奪《りゃくだつ》しはしまいか。
(たしかなことでござりますか)
と赤兵衛は、出立のさい、庄九郎に念を押してみた。庄九郎は笑い、
(天文、天象を判断して的中せしめ、それをもって行動をおこす者を英雄というのだ。もしあたらねば、わしは英雄ではない)
と大きなことをいった。
(あの人のことだ、はずれることはあるまいよ)
と赤兵衛は安心して美濃を発《た》ち、京に駐在したのだが、ところが秋立つ八月のころからほどよい雨が諸国を濡《ぬ》らしはじめたのである。
京の山崎屋で逗留《とうりゅう》しながら、赤兵衛は杉丸にこぼした。
「杉丸どの、京のまわりの田も作柄《さくがら》は持ち直したげな。美濃のことは知らず、このぶんでは凶作などはゆめおこるまい」
「おこりますまいな。あってはならぬことでございます」
「わしにとっては殿様、おぬしにとっては旦《だん》那《な》様というあの方は、妙覚寺御本山におわしたころから学は顕密《けんみつ》の奥旨をきわめ、弁は天《てん》竺《じく》の富楼那《ふるな》におとらず、といわれたほどかしこいお方じゃが、それでも百姓のことはわからぬとみえるわい」
「油のことはおくわしゅうございます」
「米よ。米はわからぬようじゃ」
美濃からは、十日に一度ぐらいは、耳次が情報をもって京にやってくる。
その情報によると、美濃の田も慈雨を得てあおあおと勢いづきはじめているということがわかり、赤兵衛は京で米商人どもと予約買いをしていることがばかばかしくなった。
「されば、帰るかい」
「いや、そのまま居よ、というおおせでござる」
と耳次は、庄九郎の意を伝えた。庄九郎によると、米などはいくら買いこんだところで無駄《むだ》になるものではなく、そのまま京で売りはたいてしまえばよい、というのである。
長《なが》良《ら》川《がわ》をはじめ諸川《しょせん》が干あがり、河床がしらじらと露《あら》われて、草が枯れ、ひびが走るほどであった。
各村で雨《あま》乞《ご》いが行なわれたが験《げん》がなく、不作のまま秋に入った。
(ことしは凶作か)
と、庄九郎は秋の初頭におもった。あるいはこの穀倉地帯にもすさまじい飢《き》饉《きん》が来るかもしれない。
「赤兵衛」
と七月のある日、この便利な男をよび、京都へ使いにゆくように命じた。
「この秋、美濃は飢饉になるかもしれぬ。お万阿にそう申して、新米の季節になれば京で米を買いつけておくように」
「米を」
「そう、買いつけておけ。千石もあればよろしかろう。美濃がもし飢饉のばあい、さっそく京、大津の車借《しゃしゃく》・馬借《ばしゃく》(運輸業者)を総ざらえに傭《やと》い入れ、当方からしかるべき護衛の人数も出すゆえ、どっと当国へ運び入れるのだ」
「儲《もう》けるのでござりまするか」
「馬鹿《ばか》。世に大望をもつ者が、足もとの利をむさぼると思うか」
「施すのでござるな」
「そうだ。美濃一国の飢饉にわずか千石の米では焼け石に水であろうが、かゆ《・・》にして薄めれば一人何粒でも食える。庶人《しょにん》ははじめてわしが美濃にあることを、骨身にしみてよろこぶだろう」
「参候《さんそろ》」
赤兵衛は旅立って行った。まだまだ秋には早いが、米の買いつけなどは手間ひまのかかるものだ。京都に常駐して、京、近江《おうみ》、丹《たん》波《ば》それに摂《せっ》津《つ》などの米商人とのわたりをつけておかねばならない。
(しかしはたして飢饉が来るか)
というのは、赤兵衛の疑問である。その飢饉も、美濃だけならばよし、もし京都周辺まで凶作ならば買いつける米がないではないか。
さらに米を美濃まで運ぶ道路の近江も凶作ならばどうであろう。近江などは野伏《のぶせり》の多いところで、運ぶ米を掠奪《りゃくだつ》しはしまいか。
(たしかなことでござりますか)
と赤兵衛は、出立のさい、庄九郎に念を押してみた。庄九郎は笑い、
(天文、天象を判断して的中せしめ、それをもって行動をおこす者を英雄というのだ。もしあたらねば、わしは英雄ではない)
と大きなことをいった。
(あの人のことだ、はずれることはあるまいよ)
と赤兵衛は安心して美濃を発《た》ち、京に駐在したのだが、ところが秋立つ八月のころからほどよい雨が諸国を濡《ぬ》らしはじめたのである。
京の山崎屋で逗留《とうりゅう》しながら、赤兵衛は杉丸にこぼした。
「杉丸どの、京のまわりの田も作柄《さくがら》は持ち直したげな。美濃のことは知らず、このぶんでは凶作などはゆめおこるまい」
「おこりますまいな。あってはならぬことでございます」
「わしにとっては殿様、おぬしにとっては旦《だん》那《な》様というあの方は、妙覚寺御本山におわしたころから学は顕密《けんみつ》の奥旨をきわめ、弁は天《てん》竺《じく》の富楼那《ふるな》におとらず、といわれたほどかしこいお方じゃが、それでも百姓のことはわからぬとみえるわい」
「油のことはおくわしゅうございます」
「米よ。米はわからぬようじゃ」
美濃からは、十日に一度ぐらいは、耳次が情報をもって京にやってくる。
その情報によると、美濃の田も慈雨を得てあおあおと勢いづきはじめているということがわかり、赤兵衛は京で米商人どもと予約買いをしていることがばかばかしくなった。
「されば、帰るかい」
「いや、そのまま居よ、というおおせでござる」
と耳次は、庄九郎の意を伝えた。庄九郎によると、米などはいくら買いこんだところで無駄《むだ》になるものではなく、そのまま京で売りはたいてしまえばよい、というのである。
九月に入って、美濃の天は曇りがちであった。
庄九郎はこのころ勤勉に騎馬で領内の田園をまわっている。
べつに凶作を期待しているわけではない。それどころか、領主としての当然の利害と感情から、自領の豊作をのみ祈っているのだ。不作になればたちどころに軍事力の強弱にひびいてくるのは、この当時の経済である。
雨が降る。
庄九郎はその日も、笠《かさ》、蓑《みの》に身をつつみ、従者数騎を従えたまま、領内の大百姓、中百姓の家々を訪ね、かつ田のあぜ道に立ち、小《あら》作人《しこ》にまで声をかけた。
美濃にはそういう領主などかつていなかったから、村々はよろこんだ。それに、村々をまわっているうち、眼の動きの利発そうな者や、身動きの軽そうな者、膂力《りょりょく》の満ちあふれている者などをみつけては、
「わしに仕えよ」
といって、小姓にしてしまう。譜代の家来をつくりたかったのである。
その日、城北の村に立ち寄ると、あぜ道に老百姓が立ち、北のほう飛騨《ひだ》の天を仰いでひとりごとをいっているのをきいた。
「どうした」
と馬上から声をかけると、老百姓は土下座するのもわすれ、眼が定まらない。
「飛騨の空にかかる雲が妖《あや》しい」
というだけである。なぜ妖しいか、とたたみかけて訊《き》いたが、やっと百姓は相手が庄九郎であると気づき、地にひざまずき、それ以上は何をきいても答えなかった。妖言《ようげん》をなす、といって罰せられるのを怖《おそ》れたのであろう。
(飛騨の雲。——)
城にもどって物《もの》識《し》りらしい家来どもにきいても、たれも知らない。
(なにやらわからぬが、なにかがおこる)
この年の夏から庄九郎の胸を騒がしている不安である。それがなにか、ということはわからない。
九月二日、雨が降った。雨勢はいよいよ強まり、夜に入って暴風をともなった。
(さては、洪水《こうずい》か)
しかし、翌朝には風がやんだ。雨気はなお美濃平野を煙でつつみ、降るともなく降らぬともない霖《りん》雨《う》が美濃四百方里の森、藪《やぶ》、里、堤、城を濡らしている。
三、四、五の三日にわたって雨はふりつづいたが、五日の夜半にいたって、天象は一変した。地軸が動くかとおもわれるほどの暴風がおこり、闇《やみ》にどよめき、野を裂き、森を倒しはじめたのである。
「律兵衛はあるや」
と、庄九郎はかねて物頭《ものがしら》に取り立ててある林律兵衛をよんで、城を風からまもる指揮をさせた。
「殿は、いずれへ参られまする」
「枝広よ」
庄九郎は、すでに笠をかぶり、蓑ですっぽりと体をつつんでいる。
枝広は、庄九郎が美濃守護職土岐頼芸のために建てた別荘のある地だ。
「この風雨のなかを?」
と律兵衛はおどろいた。見舞にゆく、というような天候ではない。
このときの庄九郎は、動機は儀礼でもなく慾得でもなかった。この愛憎の強い男は、正直なところ、頼芸の身の上が心配になっていた。
枝広の里は、長良川の支流津保《つぼ》川《がわ》のほとりにあり、頼芸の新城は、石垣を水面に映して建っている。
(堤が崩れるかもしれぬ)
庄九郎は、不安になった。矢もたて《・・》もたまらず、加納城の城門を馬でとびだした。庄九郎にはそういう熱っぽい誠実さがある。
城門を出るなり、どっと風のかたまりがぶちあたってきて、庄九郎の菅笠《すげがさ》をあごからひきちぎり、天空高く吹きとばした。
(笠め、飛騨の山上へでも飛ぶつもりか)
むち《・・》をあげて駈《か》けた。
が、馬の脚が撓《しな》い、ときに動かなくなる。
「怖れたか」
とむち《・・》を加えると、馬は悲鳴のような嘶《いなな》きをあげるばかりで、意のごとく動かない。
それを、なだめ、叱《しか》り、時には大樹のかげで風を避けてやり、風の切れ間、切れ間をみては走らせた。
庄九郎の人生四十年のあいだ、これほどの風に出遭ったことがない。
(馬さえおそれるのか)
馬は風のなかで、もがくように行く。馬上の庄九郎の蓑は、とっくに吹きとんでしまい、むち《・・》さえ手から奪われそうだった。
真暗のなかで方角をさぐりあて、馬の眼のみを頼りに二時間ばかりあがき進むと、目の前の闇に、にわかに水声が湧《わ》きあがった。川だ、と思った。めざす津保川であろう。
庄九郎は、橋をさがした。枝広城をつくるとき、仮橋を架《か》けたはずである。
やっと、さがしあてた。が、川の水嵩《みずかさ》がふえ、いまにも橋桁《はしげた》のひくいこの板橋を押し流しそうであった。
(渡るべきか)
馬は怖れて、足をすくませている。橋がゆれている。もし人馬がこの板橋の上に乗ればその重みで撓い、水面に触れ、あっというまに橋はこなごなの木片《きぎ》れになって流れ去るであろう。
(どうする、庄九郎)
と、馬上で自問した。
幸い、風雨は小やみになっている。水声のみが、すさまじい。
(ままよ)
庄九郎はむち《・・》をあげ、馬腹を力まかせに蹴《け》り、突風のように橋上を駈けた。
向う堤に乗りあげたとき、背後で轟然《ごうぜん》たる響きが湧きあがって、ふりむいたときには橋がすでになかった。
(冥利《みょうり》なるかな。——)
城内に駈け入った。
人馬ともずぶぬれになってやってきた庄九郎を見て、頼芸はすがりつかんばかりにしてよろこんだ。
「よくぞ、命があったな」
頼芸は、人の誠はこういう異変のときにこそ知られるものだ、とおもった。庄九郎が世にいう阿諛《おべっか》の徒ならば、百に一つの命冥加《いのちみょうが》を頼みにここまでやって来はしまい。
「ありがたい」
「お屋形様、舟のご用意をなされませ。それがしが下知いたしまする」
「舟で、どこへ行くのか」
頼芸がけげんな顔をした。
「まさか」
庄九郎は笑った。この奔流に舟をうかべたならば、たちまち木っ端微《み》塵《じん》になるだろう。
万一、洪水になったときの支度である。
城は、やや小高い丘を根にしている。よほどのことがないかぎり安心なのだが、用意だけはしておく必要があった。
夜明けまで、城内の男女は一睡もしなかった。その刻限、ふと頼芸はおびえたように、
「なんの音だ」
と顔をあげた。
「雨でござるよ」
また雨が降りはじめた。城の屋根を叩《たた》き割るようにしぶき、その勢いはもはや雨というようなものではなかった。滝であった。
「天が覆《くつがえ》りましたかな」
と庄九郎がつぶやいた直後に、天文三年九月六日の記録的な大洪水が美濃平野一帯を襲ったのである。
ごうっ、と地鳴りがした。
「地震か」
「ではござるまい」
庄九郎が、六尺棒をかかえて飛び出し、石垣の上に仁王立ちに突っ立ったとき、さすがにこの男も身ぶるいがした。
美濃が、湖《うみ》になっていた。
その湖が、すさまじい勢いで西へ奔《はし》っている。家も森も村も押し流されてしまっていた。
(地の終りがきた。……)
正直、そうおもった。東天が白み、やがて明けはなってからよくよく見ると、このあたり一里四方で浮かんでいるのは、この枝広城だけである。それも石垣わずか三尺を水面上に残すのみで、おそらくこの城を遠望すれば枯葉一枚がやっと漂うほどに心もとない光景であったろう。
その後数百年間、この土地では、
「中屋切れ」
という呼称で記録されつづけたほどの大氾《はん》濫《らん》であった。長良川の堤が、稲葉郡の中屋村(現在各務原《かがみはら》市)で決潰《けっかい》したのである。決潰はその一カ所にとどまらなかった。
長良川という巨大な河を竜にたとえると、中屋村の地点で大運動をおこし、竜尾が二里にわたってすさまじくふるった。
川が移動したのである。
二里のあいだを横断して、枝広城の前の津保川に流れこんだ。
このため津保川が湖になった。庄九郎らが轟《ごう》という地鳴りをきいたのは、この川の堤が全域にわたって一挙に決潰した音であった。
ちなみに、この氾濫いらい、長良川はそのまま津保川に合流して腰をすえてしまい、現在の河川様態となった。庄九郎のこの時期までは、長良川は、現在の岐阜市の北方七キロのあたりを半円状に迂《う》回《かい》して、伊自良《いじら》川《がわ》と合流していた。
地が、一変したといえる。
流失家屋は数千戸、死傷二万余におよび、この平野の水害としては、前後これほどのものはない。
庄九郎は、舟を浮かべた。
頼芸とその家来、妻妾《さいしょう》などをのせ、総数二十数艘《そう》が濁流のなかにあてどもなくただよった。
天はなお満々たる雨気を孕《はら》み、晦冥《かいめい》し、女どもは生きた色もない。
「どこへゆく。川手城、加納城はだいじょうぶだろうか」
と頼芸はきいた。が、その二城とても平地にある以上、どうなっているかはわからない。
「わからぬものだ」
庄九郎はつぶやきながら、雨雲の天を仰いでいる。洪水で美濃は潰《つぶ》れた。営々とこの地で築いてきたものが、一瞬に押し流された。
「夫《それ》、洪水の前」
というのは、聖書馬太《マタイ》伝《でん》二十四章にある。
「ノア方舟《はこぶね》に入る日までは、人々飲み食い、娶《めと》り嫁《とつ》がせなどして、洪水の来《きた》りてことごとくほろぼすまでは知らざりき」
庄九郎はむろん、そういう遠い国の神話などは知らない。しかしかれの感じている主観的情況は、まったくそれに似ている。
ともかく。
一日濁流と泥土のなかを漕《こ》ぎまわってやっと庄九郎の持城の加納城に入った。この城もやっと土塁が水面に顔を出している程度だったが、それでも枝広よりは危険がすくなそうであった。
「ひとまずこれにてご休息くださいますように」
と頼芸一行をここに避難させた。
数日して晴天がよみがえった。が、美濃一帯の田園は泥土に化して、ことしの収穫などは期待できたものではなかった。
庄九郎は、京に耳次を走らせて赤兵衛に米の運送方を命ずる一方、連日、泥《どろ》にまみれて自分の領地と頼芸の直轄領《ちょっかつりょう》の村々の復旧の指揮をしてまわった。
一方、三《み》河《かわ》、尾張《おわり》、駿河《するが》、伊勢《いせ》あたりまで頼芸の手紙をもって救援方を乞いに歩いた。
麦、味噌《みそ》などが、どんどん美濃に入りこみ、それらは、国内の地侍の所領までうるおしはじめた。
古来、領主というものは百姓から年《ねん》貢《ぐ》を収奪するばかりでこういう政治をする者はまれであった。庄九郎が下層の出身であり、かつ商人の出であったればこそ、そういう感覚も能力も豊かだったのであろう。
この結果、自領、他領をとわず、庄九郎の人気は百姓のあいだで圧倒的なものとなった。
「美濃の救い神じゃ」
という声が、村々にあふれた。そのころ赤兵衛の手で京から米が運ばれてきた。それをかゆにして村々で炊《た》き出させたから、人気はいよいよあがった。
庄九郎は、洪水を生かした。
どころではない。この洪水を、捨てるところがないほどに利用した。
「枝広はもはや、あぶのうござる」
と頼芸に説き、頼芸も賛成し、かれを川手城・加納城(いずれも現在岐阜市)から北へ五里も入った山地に移すことにしたのである。
大桑城《おおがじょう》という。
はるかに飛騨の山々につづく大桑山の山上にある古城で、庄九郎がみずから監督してみちがえるほど壮麗な姿に仕立てかえた。なるほどこの山上なら、もはや洪水からの不安はない。
もともと洪水ぎらいの頼芸は、
「なぜ早くここに移らなんだか」
とよろこんだ。
追いやられた、とは頼芸は気づかなかったのであろう。
むろん庄九郎は大桑城などの僻《へき》地《ち》へは行かず、美濃平野の加納城と川手城の間を往《ゆ》き来して頼芸の政務を代行した。
が。——
この二つの平城《ひらじろ》がしだいに気に食わなくなってきた。政務をとるには便利はいいが、合戦、洪水などにこれほどもろい城はないであろう。
(そろそろ金華山—稲葉山—に三国一の巨城を築くことにするか)
とおもい立ったのは、この洪水以後のことである。
金華山築城は、庄九郎が美濃にきて以来、年ごとに思いつのってきている夢である。