月の堂
この小男、見れば存外、可愛い顔をしている。利発そうな瞳《ひとみ》を動かしながら、
「よろしゅうございます。ほかならぬ斎藤さまのことでございます。誓ってお万阿さまを探索し、ついでに悪党どもを打ちこらしめてみせましょう」
「それはありがたい」
庄九郎は運ばれてきた干し柿《がき》をむしり、口の中に入れた。
奥歯に、甘い味がしみた。にちゃにちゃと噛《か》みながら、目の前の若者のことを考えている。なるほど想像したとおり、この松永クニマツという若者は、事実上の京の警視総監であるらしい。
(世は、おもしろい)
形式上の上下でいえば、
将軍家—三好家—安田家—クニマツ
という構造なのだ。つまり、将軍家の執事が三好家、三好家の執事が安田家、安田家の執事がクニマツ、という順だが、事実上は、この才覚あふれるような若僧が、幾層も上の権力までにぎってしまっている。というより、クニマツの才覚がなければ動きのとれぬ組織になってしまっているのだ。
「おもしろいな」
庄九郎は、笑いだしてしまった。この館の玄関番のような書生が、京都の行政・警察権をにぎっているとは、中国の妖怪譚《ようかいばなし》のようで愉快きわまりないではないか。
「斎藤さま、さきにも申しましたとおり、はるかに私淑をしている者でございます。氏素《うじす》姓《じょう》のないそれがし……」
「氏素姓は、わしとて無い」
「さればそのような者が天下の風雲に志そうとする場合、同村の先輩のあなたさましか頼りになるひとがありませぬ。都と美濃とは離れているとは申せ、万一のせつにはなにかとお援《たす》けくださりますように」
「兵が必要なら、美濃からさしのぼらせますゆえ、お使いありたい」
「ありがとうございます。そのかわり、斎藤さまが京で軍勢を必要とされるならば、どうぞお命じくださいますよう」
一種の攻守同盟である。
「頼みがござる」
と、庄九郎はいった。
「それがし、妙な男でござってな、京では商人、美濃では武官、体一つでくるくる化《な》り変わる行きかたをしております」
「よく存じております。一つ身で、日本一の武将と日本一の富商を兼ねておられるひとは古来、あなたさまよりおじゃるまい」
「痛み入る。そこで貴殿に頼み参らせたいのは、京の妻、店、手代、財富のことでござる。こんどのようなことも将来おこりかねませぬゆえ、ひとつ、お力によって保護ねがえまいか」
「おやすいことでございます。山崎屋の保護は、誓ってお引きうけいたしまする」
松永は、同郷同村の後輩として、実の弟のようにいんぎんな礼をとっている。
「これで、安《あん》堵《ど》しました。そのお礼といってはどうかと思われるが、美濃には美濃紙といわれる国産がござる。これをふんだんにお送りしますゆえ、京で売られれば如何《いかが》」
「斎藤さま」
松永は、笑いだした。
「商いの道にお明るいくせに、似げもないことを申されます。紙の販売は紙《かみ》座《ざ》がもっており、左様なものを拙者が京で売れば、こんどは拙者が女房《にょうぼう》をかどわかされるようなことになりまするわ」
美濃では庄九郎が、自分の領内だけ楽市・楽座(自由経済)を断行したとはいえ、京ではまだ中世的な特権経済のなかにある。
「かどわかされる」
とは冗談で、京の権力者は、かれら神人や問丸《といまる》と陰に陽に関係が入り組んでいて、とても美濃で庄九郎が断行したようなことはできない。もしやれば、寺社に飼っている何千という神人たちが蜂《ほう》起《き》して雑人どもやあぶれ者と合流し、一《いっ》揆《き》をおこし、それに不平の武士が参加して、京に駐屯《ちゅうとん》している三好家の軍隊などは打ち破られてしまうかもわからない。
「なるほど」
庄九郎は苦笑いしてその案をひっこめた。神人どもというのは、松永のような男にも手におえぬ存在なのだ。
「団結して騒がれると、こちらが敗《ま》けてしまい、将軍をかついで阿波《あわ》へでも逃げださねばなりませぬ」
それほど、新・京都権力はよわい。
「よろしゅうございます。ほかならぬ斎藤さまのことでございます。誓ってお万阿さまを探索し、ついでに悪党どもを打ちこらしめてみせましょう」
「それはありがたい」
庄九郎は運ばれてきた干し柿《がき》をむしり、口の中に入れた。
奥歯に、甘い味がしみた。にちゃにちゃと噛《か》みながら、目の前の若者のことを考えている。なるほど想像したとおり、この松永クニマツという若者は、事実上の京の警視総監であるらしい。
(世は、おもしろい)
形式上の上下でいえば、
将軍家—三好家—安田家—クニマツ
という構造なのだ。つまり、将軍家の執事が三好家、三好家の執事が安田家、安田家の執事がクニマツ、という順だが、事実上は、この才覚あふれるような若僧が、幾層も上の権力までにぎってしまっている。というより、クニマツの才覚がなければ動きのとれぬ組織になってしまっているのだ。
「おもしろいな」
庄九郎は、笑いだしてしまった。この館の玄関番のような書生が、京都の行政・警察権をにぎっているとは、中国の妖怪譚《ようかいばなし》のようで愉快きわまりないではないか。
「斎藤さま、さきにも申しましたとおり、はるかに私淑をしている者でございます。氏素《うじす》姓《じょう》のないそれがし……」
「氏素姓は、わしとて無い」
「さればそのような者が天下の風雲に志そうとする場合、同村の先輩のあなたさましか頼りになるひとがありませぬ。都と美濃とは離れているとは申せ、万一のせつにはなにかとお援《たす》けくださりますように」
「兵が必要なら、美濃からさしのぼらせますゆえ、お使いありたい」
「ありがとうございます。そのかわり、斎藤さまが京で軍勢を必要とされるならば、どうぞお命じくださいますよう」
一種の攻守同盟である。
「頼みがござる」
と、庄九郎はいった。
「それがし、妙な男でござってな、京では商人、美濃では武官、体一つでくるくる化《な》り変わる行きかたをしております」
「よく存じております。一つ身で、日本一の武将と日本一の富商を兼ねておられるひとは古来、あなたさまよりおじゃるまい」
「痛み入る。そこで貴殿に頼み参らせたいのは、京の妻、店、手代、財富のことでござる。こんどのようなことも将来おこりかねませぬゆえ、ひとつ、お力によって保護ねがえまいか」
「おやすいことでございます。山崎屋の保護は、誓ってお引きうけいたしまする」
松永は、同郷同村の後輩として、実の弟のようにいんぎんな礼をとっている。
「これで、安《あん》堵《ど》しました。そのお礼といってはどうかと思われるが、美濃には美濃紙といわれる国産がござる。これをふんだんにお送りしますゆえ、京で売られれば如何《いかが》」
「斎藤さま」
松永は、笑いだした。
「商いの道にお明るいくせに、似げもないことを申されます。紙の販売は紙《かみ》座《ざ》がもっており、左様なものを拙者が京で売れば、こんどは拙者が女房《にょうぼう》をかどわかされるようなことになりまするわ」
美濃では庄九郎が、自分の領内だけ楽市・楽座(自由経済)を断行したとはいえ、京ではまだ中世的な特権経済のなかにある。
「かどわかされる」
とは冗談で、京の権力者は、かれら神人や問丸《といまる》と陰に陽に関係が入り組んでいて、とても美濃で庄九郎が断行したようなことはできない。もしやれば、寺社に飼っている何千という神人たちが蜂《ほう》起《き》して雑人どもやあぶれ者と合流し、一《いっ》揆《き》をおこし、それに不平の武士が参加して、京に駐屯《ちゅうとん》している三好家の軍隊などは打ち破られてしまうかもわからない。
「なるほど」
庄九郎は苦笑いしてその案をひっこめた。神人どもというのは、松永のような男にも手におえぬ存在なのだ。
「団結して騒がれると、こちらが敗《ま》けてしまい、将軍をかついで阿波《あわ》へでも逃げださねばなりませぬ」
それほど、新・京都権力はよわい。
余談だが、戦国期に京に居すわったまま大名になった三好や松永が、王城の地にいながらついに天下を取ることができなかったのは、かれらの成長をはばむ中世的な諸権威が、かえって京に根づよく生きつづけていたためであろう。庄九郎の娘むこ信長が出るにおよんで、松永を無条件降伏させて京に入り、天皇と将軍を擁して「天下布武」の旗をたてた。その瞬間から信長がやりはじめたのは、寺社などの中世権力の退治だった。かれらの利権を根だやしにしなければ、新権力は樹立できぬと信長はおもったのである。
「しかし、松永どの。これからは、昔のように米だけを作っておればよいという時代でなく、貨殖《かしょく》の時代になる。金銀あってこそ、武器武具もふんだんに買え、兵を多数養えることになる。その貨殖の利を、社寺などに独占されていては、大をなしませんぞ」
「美濃がおうらやましい」
松永は、笑った。美濃なればこそそういうこともいえるのだ、という意味である。しかし京はいわば旧時代の妖怪《ようかい》の巣窟《そうくつ》のような都市で、将軍、三好氏、松永のような男も、かれらとの妥協の上でかろうじて存在している、といっていい。
「美濃がおうらやましい」
松永は、笑った。美濃なればこそそういうこともいえるのだ、という意味である。しかし京はいわば旧時代の妖怪《ようかい》の巣窟《そうくつ》のような都市で、将軍、三好氏、松永のような男も、かれらとの妥協の上でかろうじて存在している、といっていい。
さて、お万阿さがしのことである。
庄九郎は、松永からきいた市政の現状や、耳次が、橋下のあぶれ者からききこんできた情報などを取捨して頭のなかでの京の暗黒街の地図をつくり、それらのなかで、とくに、
「どうも鷹《たか》ケ峰《みね》がくさい」
とみた。山賊、野伏《のぶせり》、剽盗《おいはぎ》、乱《らっ》破《ぱ》、牢人《ろうにん》の巣窟なのである。
真偽はさだかでないが、耳次があぶれ者のうわさを耳にしたところでは、
——さる分《ぶ》限者《げんしゃ》の妻が、鷹ケ峰に取り籠《こ》められている。
ということであった。
「耳次、山伏《やまぶし》の装束をせい。わしのもととのえておけ。今夜からでも出立しよう」
「われら主従ふたりだけでゆくのでございますか」
「そうよ。小人数がよい。松永の軍勢などをかりると、かえって相手を刺《し》戟《げき》してお万阿を殺されてしまう」
「せめて、後ろ巻きの兵でも、松永さまからお借りあそばしては?」
「松永には報《し》らさぬ。ああいう男のことだ、京のあぶれ者どもとどんな繋《つなが》りがあって、そっとわしらの行く一件を告げてしまうかもしれぬ。耳次、京は、こわいところよ」
庄九郎と耳次は、出かけた。
鷹ケ峰は、京の西北にあたり、王城の地からわずか二十数町というのに、人の住むことのまれな山麓《さんろく》の野である。
王朝のころから、賊といえばここに棲《す》み、市中へ出てゆく。この時代よりややくだるが、家康が大坂夏ノ陣で勝ちをおさめて京に入ったとき、
「本《ほん》阿弥《あみ》光悦《こうえつ》は、何としたるぞ」
と、その消息を京都所《しょ》司《し》代《だい》にきいた。家康は、かねてひいきにしているこの高名な刀剣鑑定家で市中きっての名士にも、戦勝のよろこびを分けてやりたかったのである。所司代板倉伊賀守は答え、
「光悦は達者にまかりありまするが、なにぶん風変りな人物のこととて、ちかごろは京住いにも飽いたによってどこぞ辺《へん》鄙《ぴ》な土地に移りたい、と申しております」
「鷹ケ峰を与えてとらせ」
と、家康はいった。そのころまで鷹ケ峰といえば盗賊の巣で、京の治安上、数百年来問題の土地であることを家康は知っている。光悦ほどの名望家にここを与えて住まわせれば、かれの名を慕う連中が多く移住するようになり、土地もひらけ、盗賊も棲まなくなるであろう、とみたのである。やがて光悦は、東西二百間、南北七町の地をもらい、間口六十間の屋敷をかまえて移住した。家康のもくろみどおり、光悦の一門眷族《けんぞく》、友人、およびかれの影響下にある茶人、蒔《まき》絵師《えし》、筆師、紙すき、陶工などがあらそって移住を希望してきたから、光悦はかれらに土地を分けあたえてやり、屋敷をつくらせた。たちまち五十七軒の屋敷が軒をならべることになり、一種の芸術村ができあがった。
以後、こんにちまで発展している。
が、庄九郎のころの鷹ケ峰はそうではない。
京から丹《たん》波《ば》へゆく道にあたり、背後に峰々を背負って高原の形状をなし、南はひろがって京の町を一望に見おろすことができる。
「道はこのさき、丹波街道さ」
と、庄九郎はてくてく歩いてゆく。ひと足ごとに、背後の京の灯が遠ざかっている。
月が、あかるい。
「二十町で、鷹ケ峰だ。耳次、ひとっぱしり様子を見てきてくれ。京見峠《きょうみとうげ》の妙見岩の上で待ちあわせしよう」
「かしこまりました」
耳次の影が、消えた。
庄九郎も、鷹ケ峰の怪しげな家々が見えはじめたころには、街道から消えた。あぜ道や沼のわき、森の中などを通って、姿を見られまいとした。
盗賊は、過敏である。京から来た、となれば警戒するであろう。まわり道して村を通りすごし、京見峠に出、あらためて逆に坂を降りてゆく、そうすれば、
丹波からきた山伏
ということで、相手に敵意や警戒心をあたえずにすむ。
やがて庄九郎は京見峠にのぼり、その崖上《がけうえ》の妙見岩に腰をおろした。
松が、ちょうど天蓋《てんがい》のように庄九郎を覆《おお》い、顔を、天風が吹きなでてゆく。
月は、背にあった。
(お万阿め、命は無事だろうな)
庄九郎は、さすがに祈る気持になった。命は無事としても、操は無事ではあるまい。その点、庄九郎は、
(操なんざ、犯されても洗えばすむことだ)
けろりとしていた。
夜半になって、耳次が崖の下から這《は》いあがってきた。
「どうだった」
と、手を貸してひきあげてやった。
一軒、一軒、忍びこんで人の密《みそ》か語まで聴きとったという。名代の地獄耳なのである。
「居そうにはないか」
「いいえ、たしかにいらっしゃいます」
「どこに?」
庄九郎は、乗り出した。
聞けば、北山の霊巌寺《りょうがんじ》の隠居庵が、朽ちたままで残っている。そこが何者とも知れぬ者の巣になっていて、耳次が床下へ忍びこんだところ、お万阿に似た声が、本堂のあたりから洩《も》れた、という。
「人数は」
「さて、五人も居ましたろうか」
「油断をしてやがる。まさかこのわしが美濃から出てきて蚤《のみ》取《と》り眼《まなこ》でさがしているとは、やつらも思うまい」
そういったとき、庄九郎は左腕をつかんで声もなく岩からころげ落ち、崖で一転し、そのあと、ざざざ、と砂けむりをあげて崖をずり落ちはじめた。
どん、と崖の根にころがったとき、
「木下闇《このしたやみ》よ」
という声が、頭上できこえた。庄九郎は、閉口した。うまく草むらにもぐりこんだつもりでも、相手の眼には、庄九郎のざまがみえるらしい。
左腕から血が流れている。岩の上にいたとき、半弓のようなもので、擦《かす》られた。あっと思って、みずから落ちたのである。
「木下闇、もうよいかげんにやめろ。金がほしくば呉れてやる。さもないと、京に軍勢をのぼらせて、うぬらが巣という巣は、残らずに焼いてしまうぞ」
ぶすっと、短い矢が、足もとの土に刺さった。それが返答だ、というのだろう。
(相手は化生《けしょう》だ、まともには戦えぬ)
庄九郎は、一気に本拠の寺を衝《つ》いてやろうと思い、ころがるように坂を駈けおりた。
背後から、ひたひたと足音が追ってくる。
「耳次か」
「はい、耳次でございます」
「おれは斬《き》りこむ、お前は寺に、火をかけろ」
「いやでござる」
相手が笑ったとき、庄九郎は気づき、ふりむきざまに刀を横にはらった。
相手は、すっと跳ねあがって右手の崖にとりついた。木下闇である。どこで耳次の声を聞きおぼえたのか、じつにうまい。
「木下闇、お万阿をかえせ」
「いいや、返さぬ。それよりお前様のお命を頂戴《ちょうだい》しとうござる」
「百年たてば、呉れてやる」
と、庄九郎は、われながら自分のせりふが気に入って、路上に立って笑いだした。
「どうだ、わしを百年だけは生かしておけ。わしがこの国に生きたがために後世の歴史がかわる。なんと、楽しみではないか」
すさまじい自信である。頭上の木下闇も、うまれてこうまでの自信家に出遭ったことはないであろう。
「おもしろい仁じゃな」
木下闇は、低い声でいった。
「それほどの仁なら、わしも殺し甲斐《がい》があるというものだ」
「なるほど、そうも言える。お前も容易なやつではなさそうだな」
庄九郎は、説得をあきらめて、月下の坂道をすたすた歩きはじめた。
背後に、足音がする。ときどきふりむくのだが、姿は見えない。
庄九郎は、崩れた築《つい》地《じ》塀《べい》の前にきた。これが、北山の霊巌寺の隠居寺なのであろう。いやいや、そうではないかもしれぬ。
(ちがうかな)
と庄九郎はおもったが、なにか一計がうかんだのであろう。
小さな門がある。その門に近づくなり、
ぐわぁん
と蹴《け》破《やぶ》った。
「お万阿、迎えにきたぞ」
凛々《りんりん》と数丁むこうまで聞こえそうな戦場鍛えの音声《おんじょう》である。
門の破れからぱっと跳びこむと、その前は庫裡《くり》。わらぶきである。紙障子がしらじらと月光の中に浮かんでいる。
庄九郎の背後に、どうしたわけか、木下闇の気配が消えていた。それに気づいて、
(うまい。わが策はあたりそうじゃ)
庄九郎は草むらにしゃがんで大きな石をかかえあげた。
「曲者《くせもの》ども」
と庄九郎はわめいた。
「なぜ出迎えぬ。出迎えねばこちらから踏みこむぞ」
言いながら、その石を頭上に持ちあげ、ぶん、と投げた。
石は大音響をたてて庫裡の障子をつきやぶり、なかの土間にころがった。聞く者があれば、庄九郎が庫裡へ踏みこんだと思うであろう。
その瞬間には庄九郎は突風のように草の上を走り、築地塀をとび越え、路上にとびおり、さらにそのあたりを駈けまわって、右の寺と似た荒れ寺を見つけるや、
(さてはこれか)
と、塀をかきのぼり、内側へとびこんだ。
やはり、庫裡がある。横に、持仏堂ほどの小さな本堂がある。
なかに人の気配がする。庄九郎は本堂にむかって足音を消して忍び寄った。
ばかなやつだ、橡《とち》ノ庵《あん》にあばれこんだらしい。
と、内部で声がした。ばかなやつ、というのは庄九郎のことであろう。内部では、五、六人がざわざわ歩きまわっている気配だったが、一人がそとの様子を知りたくなったらしく、蔀戸《しとみど》のさん《・・》をはずしている音がした。
庄九郎は、
ふわり、
と、濡《ぬ》れ縁にとびあがった。その足もとでぎいっと蔀戸が持ちあがり、首が一つ、ぬっと覗《のぞ》くようにして、せり出てきた。
庄九郎は太刀をしずかにあげ、その足もとの首を、すぽりと斬った。
ころり、と濡れ縁にころがって、首が、不審そうに庄九郎を見ている。突然なことで、まだ自分が死んだとは思っていないのかもしれない。
胴だけが、堂内に残った。内部の者も、この異変には気づかないのであろう。
庄九郎は蔀を持ちあげ、ごくさりげなく堂内に入った。
「どうだ、そとの様子は」
と、人影が、鼻さきまで寄ってきた。
「変わったこともない」
庄九郎は答えるや、無言で、その人影を車斬りに斬って放った。
にぶい、骨を断つ音がきこえたが、男は声も発せず、あたりの闇に血を撒《ま》きちらして倒れた。
(数珠《じゅず》丸《まる》の斬れることよ。——)
庄九郎は、舌を巻いてわが刀に感心している。
王朝のころから、賊といえばここに棲《す》み、市中へ出てゆく。この時代よりややくだるが、家康が大坂夏ノ陣で勝ちをおさめて京に入ったとき、
「本《ほん》阿弥《あみ》光悦《こうえつ》は、何としたるぞ」
と、その消息を京都所《しょ》司《し》代《だい》にきいた。家康は、かねてひいきにしているこの高名な刀剣鑑定家で市中きっての名士にも、戦勝のよろこびを分けてやりたかったのである。所司代板倉伊賀守は答え、
「光悦は達者にまかりありまするが、なにぶん風変りな人物のこととて、ちかごろは京住いにも飽いたによってどこぞ辺《へん》鄙《ぴ》な土地に移りたい、と申しております」
「鷹ケ峰を与えてとらせ」
と、家康はいった。そのころまで鷹ケ峰といえば盗賊の巣で、京の治安上、数百年来問題の土地であることを家康は知っている。光悦ほどの名望家にここを与えて住まわせれば、かれの名を慕う連中が多く移住するようになり、土地もひらけ、盗賊も棲まなくなるであろう、とみたのである。やがて光悦は、東西二百間、南北七町の地をもらい、間口六十間の屋敷をかまえて移住した。家康のもくろみどおり、光悦の一門眷族《けんぞく》、友人、およびかれの影響下にある茶人、蒔《まき》絵師《えし》、筆師、紙すき、陶工などがあらそって移住を希望してきたから、光悦はかれらに土地を分けあたえてやり、屋敷をつくらせた。たちまち五十七軒の屋敷が軒をならべることになり、一種の芸術村ができあがった。
以後、こんにちまで発展している。
が、庄九郎のころの鷹ケ峰はそうではない。
京から丹《たん》波《ば》へゆく道にあたり、背後に峰々を背負って高原の形状をなし、南はひろがって京の町を一望に見おろすことができる。
「道はこのさき、丹波街道さ」
と、庄九郎はてくてく歩いてゆく。ひと足ごとに、背後の京の灯が遠ざかっている。
月が、あかるい。
「二十町で、鷹ケ峰だ。耳次、ひとっぱしり様子を見てきてくれ。京見峠《きょうみとうげ》の妙見岩の上で待ちあわせしよう」
「かしこまりました」
耳次の影が、消えた。
庄九郎も、鷹ケ峰の怪しげな家々が見えはじめたころには、街道から消えた。あぜ道や沼のわき、森の中などを通って、姿を見られまいとした。
盗賊は、過敏である。京から来た、となれば警戒するであろう。まわり道して村を通りすごし、京見峠に出、あらためて逆に坂を降りてゆく、そうすれば、
丹波からきた山伏
ということで、相手に敵意や警戒心をあたえずにすむ。
やがて庄九郎は京見峠にのぼり、その崖上《がけうえ》の妙見岩に腰をおろした。
松が、ちょうど天蓋《てんがい》のように庄九郎を覆《おお》い、顔を、天風が吹きなでてゆく。
月は、背にあった。
(お万阿め、命は無事だろうな)
庄九郎は、さすがに祈る気持になった。命は無事としても、操は無事ではあるまい。その点、庄九郎は、
(操なんざ、犯されても洗えばすむことだ)
けろりとしていた。
夜半になって、耳次が崖の下から這《は》いあがってきた。
「どうだった」
と、手を貸してひきあげてやった。
一軒、一軒、忍びこんで人の密《みそ》か語まで聴きとったという。名代の地獄耳なのである。
「居そうにはないか」
「いいえ、たしかにいらっしゃいます」
「どこに?」
庄九郎は、乗り出した。
聞けば、北山の霊巌寺《りょうがんじ》の隠居庵が、朽ちたままで残っている。そこが何者とも知れぬ者の巣になっていて、耳次が床下へ忍びこんだところ、お万阿に似た声が、本堂のあたりから洩《も》れた、という。
「人数は」
「さて、五人も居ましたろうか」
「油断をしてやがる。まさかこのわしが美濃から出てきて蚤《のみ》取《と》り眼《まなこ》でさがしているとは、やつらも思うまい」
そういったとき、庄九郎は左腕をつかんで声もなく岩からころげ落ち、崖で一転し、そのあと、ざざざ、と砂けむりをあげて崖をずり落ちはじめた。
どん、と崖の根にころがったとき、
「木下闇《このしたやみ》よ」
という声が、頭上できこえた。庄九郎は、閉口した。うまく草むらにもぐりこんだつもりでも、相手の眼には、庄九郎のざまがみえるらしい。
左腕から血が流れている。岩の上にいたとき、半弓のようなもので、擦《かす》られた。あっと思って、みずから落ちたのである。
「木下闇、もうよいかげんにやめろ。金がほしくば呉れてやる。さもないと、京に軍勢をのぼらせて、うぬらが巣という巣は、残らずに焼いてしまうぞ」
ぶすっと、短い矢が、足もとの土に刺さった。それが返答だ、というのだろう。
(相手は化生《けしょう》だ、まともには戦えぬ)
庄九郎は、一気に本拠の寺を衝《つ》いてやろうと思い、ころがるように坂を駈けおりた。
背後から、ひたひたと足音が追ってくる。
「耳次か」
「はい、耳次でございます」
「おれは斬《き》りこむ、お前は寺に、火をかけろ」
「いやでござる」
相手が笑ったとき、庄九郎は気づき、ふりむきざまに刀を横にはらった。
相手は、すっと跳ねあがって右手の崖にとりついた。木下闇である。どこで耳次の声を聞きおぼえたのか、じつにうまい。
「木下闇、お万阿をかえせ」
「いいや、返さぬ。それよりお前様のお命を頂戴《ちょうだい》しとうござる」
「百年たてば、呉れてやる」
と、庄九郎は、われながら自分のせりふが気に入って、路上に立って笑いだした。
「どうだ、わしを百年だけは生かしておけ。わしがこの国に生きたがために後世の歴史がかわる。なんと、楽しみではないか」
すさまじい自信である。頭上の木下闇も、うまれてこうまでの自信家に出遭ったことはないであろう。
「おもしろい仁じゃな」
木下闇は、低い声でいった。
「それほどの仁なら、わしも殺し甲斐《がい》があるというものだ」
「なるほど、そうも言える。お前も容易なやつではなさそうだな」
庄九郎は、説得をあきらめて、月下の坂道をすたすた歩きはじめた。
背後に、足音がする。ときどきふりむくのだが、姿は見えない。
庄九郎は、崩れた築《つい》地《じ》塀《べい》の前にきた。これが、北山の霊巌寺の隠居寺なのであろう。いやいや、そうではないかもしれぬ。
(ちがうかな)
と庄九郎はおもったが、なにか一計がうかんだのであろう。
小さな門がある。その門に近づくなり、
ぐわぁん
と蹴《け》破《やぶ》った。
「お万阿、迎えにきたぞ」
凛々《りんりん》と数丁むこうまで聞こえそうな戦場鍛えの音声《おんじょう》である。
門の破れからぱっと跳びこむと、その前は庫裡《くり》。わらぶきである。紙障子がしらじらと月光の中に浮かんでいる。
庄九郎の背後に、どうしたわけか、木下闇の気配が消えていた。それに気づいて、
(うまい。わが策はあたりそうじゃ)
庄九郎は草むらにしゃがんで大きな石をかかえあげた。
「曲者《くせもの》ども」
と庄九郎はわめいた。
「なぜ出迎えぬ。出迎えねばこちらから踏みこむぞ」
言いながら、その石を頭上に持ちあげ、ぶん、と投げた。
石は大音響をたてて庫裡の障子をつきやぶり、なかの土間にころがった。聞く者があれば、庄九郎が庫裡へ踏みこんだと思うであろう。
その瞬間には庄九郎は突風のように草の上を走り、築地塀をとび越え、路上にとびおり、さらにそのあたりを駈けまわって、右の寺と似た荒れ寺を見つけるや、
(さてはこれか)
と、塀をかきのぼり、内側へとびこんだ。
やはり、庫裡がある。横に、持仏堂ほどの小さな本堂がある。
なかに人の気配がする。庄九郎は本堂にむかって足音を消して忍び寄った。
ばかなやつだ、橡《とち》ノ庵《あん》にあばれこんだらしい。
と、内部で声がした。ばかなやつ、というのは庄九郎のことであろう。内部では、五、六人がざわざわ歩きまわっている気配だったが、一人がそとの様子を知りたくなったらしく、蔀戸《しとみど》のさん《・・》をはずしている音がした。
庄九郎は、
ふわり、
と、濡《ぬ》れ縁にとびあがった。その足もとでぎいっと蔀戸が持ちあがり、首が一つ、ぬっと覗《のぞ》くようにして、せり出てきた。
庄九郎は太刀をしずかにあげ、その足もとの首を、すぽりと斬った。
ころり、と濡れ縁にころがって、首が、不審そうに庄九郎を見ている。突然なことで、まだ自分が死んだとは思っていないのかもしれない。
胴だけが、堂内に残った。内部の者も、この異変には気づかないのであろう。
庄九郎は蔀を持ちあげ、ごくさりげなく堂内に入った。
「どうだ、そとの様子は」
と、人影が、鼻さきまで寄ってきた。
「変わったこともない」
庄九郎は答えるや、無言で、その人影を車斬りに斬って放った。
にぶい、骨を断つ音がきこえたが、男は声も発せず、あたりの闇に血を撒《ま》きちらして倒れた。
(数珠《じゅず》丸《まる》の斬れることよ。——)
庄九郎は、舌を巻いてわが刀に感心している。