少し雑談をしてみたい。
筆者は、浪華《なにわ》の東郊、小阪という小さい町に住んでいる。東に田園がひろがっている。田園のむこうが、生《い》駒連山《こまれんざん》である。生駒・信《し》貴《ぎ》・葛城《かつらぎ》といった峰がなだらかにつづき、そのむこうが、大和の国になる。
「小説家稼業《かぎょう》に不便でしょう」
と、はるばる東京からたずねてきてくれるひとに同情されるが、そうでもあり、そうでなくもある。元来、小説書きというものは、自分の住みやすい土地に住んでいる、つまり自分にとって人間観察のしやすい町角にすわっている、というのが自然なことだから、私はこの町がいい。
齢《とし》も、四十を一つ二つ、過ぎてしまった。若いころ、いのちをあきらめねばならぬ環境にいたから、自分がこんな齢まで生きていようとはおもわなかった。ふと思うと、この物語のいまの段階の庄九郎とよく似た齢ではあるまいか。
ぽっかり世の中に出て、つまり、戦争がおわって兵営から解放されるとき、私と仲のわるかった士官学校出の一級上の将校が、
「お前のような悪たれは、世の中に出ればきらわれて生きられんぞ」
と捨てぜりふのような悪態をついた。この将校は一見豪傑ふうであったが、ないしょう《・・・・・》はなかなか艶《えん》なところがあったらしく、ひそかに化粧品屋の娘に接近していて、帝国陸軍の解散とともにいきなり婿養子になり、転身した。なるほどこの男の言うとおり、好かれるということは、生きられる、ということのようであった。
しかしその捨てぜりふが気になって、私は戦後ずっと、ひとには嫌《きら》われまい、とおもって生きてきた。もともと憎体《にくてい》な男がにこにこ笑顔などをつくって、きょうまで生きてきた。ときどき、そういう自分がいやになり、
(この、なりそこないの、善人屋めが)
と、自分につば《・・》を吐いた。庄九郎こと斎藤道三という苛《か》烈《れつ》な「悪人屋」を書こうとしたのは、自分へのけいべつから出発しているらしい。
しかし四十を越えると、妙なことがある。他人《ひと》さまを平気できらいになってしまう。他人だけでなく、自分をふくめて、どれもこれも少しずつ峻烈《しゅんれつ》に気に入らなくなってきた。
いやな男に出会ったときなど、そのときの自分の如才ない態度などを思いあわせて、三日も四日も不愉快で、一カ月たってもなにかの拍子にそれを思いだすと、なにをするのもいやになり、あの一日だけ死ねばよかった、とおもうほどである。
むろん、憎《ぞう》悪《お》だけでなく、愛情もつよくなるようで、どうも四十を越えれば自制心のた《・》が《・》がゆるみ、愛憎ともに深くなりまさるものらしい。
「小説家稼業《かぎょう》に不便でしょう」
と、はるばる東京からたずねてきてくれるひとに同情されるが、そうでもあり、そうでなくもある。元来、小説書きというものは、自分の住みやすい土地に住んでいる、つまり自分にとって人間観察のしやすい町角にすわっている、というのが自然なことだから、私はこの町がいい。
齢《とし》も、四十を一つ二つ、過ぎてしまった。若いころ、いのちをあきらめねばならぬ環境にいたから、自分がこんな齢まで生きていようとはおもわなかった。ふと思うと、この物語のいまの段階の庄九郎とよく似た齢ではあるまいか。
ぽっかり世の中に出て、つまり、戦争がおわって兵営から解放されるとき、私と仲のわるかった士官学校出の一級上の将校が、
「お前のような悪たれは、世の中に出ればきらわれて生きられんぞ」
と捨てぜりふのような悪態をついた。この将校は一見豪傑ふうであったが、ないしょう《・・・・・》はなかなか艶《えん》なところがあったらしく、ひそかに化粧品屋の娘に接近していて、帝国陸軍の解散とともにいきなり婿養子になり、転身した。なるほどこの男の言うとおり、好かれるということは、生きられる、ということのようであった。
しかしその捨てぜりふが気になって、私は戦後ずっと、ひとには嫌《きら》われまい、とおもって生きてきた。もともと憎体《にくてい》な男がにこにこ笑顔などをつくって、きょうまで生きてきた。ときどき、そういう自分がいやになり、
(この、なりそこないの、善人屋めが)
と、自分につば《・・》を吐いた。庄九郎こと斎藤道三という苛《か》烈《れつ》な「悪人屋」を書こうとしたのは、自分へのけいべつから出発しているらしい。
しかし四十を越えると、妙なことがある。他人《ひと》さまを平気できらいになってしまう。他人だけでなく、自分をふくめて、どれもこれも少しずつ峻烈《しゅんれつ》に気に入らなくなってきた。
いやな男に出会ったときなど、そのときの自分の如才ない態度などを思いあわせて、三日も四日も不愉快で、一カ月たってもなにかの拍子にそれを思いだすと、なにをするのもいやになり、あの一日だけ死ねばよかった、とおもうほどである。
むろん、憎《ぞう》悪《お》だけでなく、愛情もつよくなるようで、どうも四十を越えれば自制心のた《・》が《・》がゆるみ、愛憎ともに深くなりまさるものらしい。
庄九郎も、この齢、たが《・・》がはずれはじめている。
かれは、自分の留守中、自分に対して「反乱」をおこした守護職頼芸の嫡子小次郎頼秀を、稲葉山城の城外で打ち破って敗走させたが、以前の揖斐《いび》五郎(頼芸の庶弟)の反乱のときとはちがい、そのままでは許さず、
(攻めほろぼしてやる)
と決意した。考えてみれば、ほろぼす、と簡単にいっても、小次郎頼秀は主家の若君ではないか。国中の世論が承知するかどうか。
(我慢をする時期はすぎた)
と庄九郎はおもった。たが《・・》がはずれた、というのはそれである。筆者のような小市民のばあいは、せいぜい浮世の面倒から離れて、出来もせぬわび住いを夢に恋う程度にすぎないが、この男のばあいは、たが《・・》がパラリとはずれて、いっぴきの攻撃的生きものがうまれた。
頭のてっぺんから足のさきまで、渾身《・・》、戦闘的な男になった。
「もはや、どの者にも遠慮はせぬ」
というのは、かれが自分の周囲、美濃の国情をツラツラと打ちながめて、
「せずに済む」
と判断したからである。美濃八千騎といわれる美濃の村々に散在している地侍どもの八割は、
「いまや、小守護(庄九郎)どのこそ頼りじゃ」
と口々に言うようになっていた。
要は、力である。庄九郎には「外国勢力」を粉砕できる力がある。
美濃は、日本の衢地《くち》(辻《つじ》)といわれる。中《なか》山道《せんどう》をはじめ、北国街道、伊勢街道などが入りこんでいて、四ツ辻にも五ツ辻にもなっている。
戦国の世、このような地域は、四方八方の国々から軍隊が入ってきて、うかうかしていると土地をこまぎれに斬りとられてしまう。
西方の浅井(近江)、南方の織田(尾張)の異常な軍事的成長ぶりが、中世的眠りのなかにいた美濃の地侍たちをして、
(うかうかすると、隣国にわれらが在所を奪《と》られてしまう)
という危機感をおこさせた。
対外的な危機感こそ、その国に思わぬ指導者を生みあげるものだ。かつての中国における蒋介石《しょうかいせき》、かつてのドイツにおけるヒトラーなどが、それであろう。
旱天《かんてん》下《か》で雨を待つような気持で、英雄の出現を翹望《ぎょうぼう》する気運が、美濃一国におこりはじめた。
「かれこそは」
と美濃衆のほとんどは思う。
「このところ美濃の内紛につけ入って何度か侵略してきた隣国の兵を、そのつど破った。関ケ原では浅井、朝倉の連合軍を打ちくだき、こんどの稲葉山城下では織田軍を、戦わずして走らしめた。かくなった上は、盟主として押し立てざるをえないのではないか」
そういう気運である。
潮《うしお》にたとえていい。
ひたひたと上げ潮が、満ちはじめているのである。
「一気に。——」
と、庄九郎は考えた。一気に階段をかけあがらねばならない。
気運《しお》とはおそろしい。庄九郎の信ずるところでは、「気運が来るまでのあいだ、気ながく待ち、あらゆる下準備をととのえてゆく者が智者である」といい、「その気運がくるや、それをつかんでひと息に駈けあがる者を英雄」という。
庄九郎には、その時期がきた。西美濃三人衆といわれる安藤伊賀、氏家卜全《うじいえぼくぜん》、稲葉一鉄をはじめ、正妻小見《おみ》の方《かた》の実家明《あけ》智《ち》一族など国中に影響力のつよい武将たちが、
「貴殿と運命を共にする」
という態度をみせている。がらりと国をくつがえすときであろう。
かれは、自分の留守中、自分に対して「反乱」をおこした守護職頼芸の嫡子小次郎頼秀を、稲葉山城の城外で打ち破って敗走させたが、以前の揖斐《いび》五郎(頼芸の庶弟)の反乱のときとはちがい、そのままでは許さず、
(攻めほろぼしてやる)
と決意した。考えてみれば、ほろぼす、と簡単にいっても、小次郎頼秀は主家の若君ではないか。国中の世論が承知するかどうか。
(我慢をする時期はすぎた)
と庄九郎はおもった。たが《・・》がはずれた、というのはそれである。筆者のような小市民のばあいは、せいぜい浮世の面倒から離れて、出来もせぬわび住いを夢に恋う程度にすぎないが、この男のばあいは、たが《・・》がパラリとはずれて、いっぴきの攻撃的生きものがうまれた。
頭のてっぺんから足のさきまで、渾身《・・》、戦闘的な男になった。
「もはや、どの者にも遠慮はせぬ」
というのは、かれが自分の周囲、美濃の国情をツラツラと打ちながめて、
「せずに済む」
と判断したからである。美濃八千騎といわれる美濃の村々に散在している地侍どもの八割は、
「いまや、小守護(庄九郎)どのこそ頼りじゃ」
と口々に言うようになっていた。
要は、力である。庄九郎には「外国勢力」を粉砕できる力がある。
美濃は、日本の衢地《くち》(辻《つじ》)といわれる。中《なか》山道《せんどう》をはじめ、北国街道、伊勢街道などが入りこんでいて、四ツ辻にも五ツ辻にもなっている。
戦国の世、このような地域は、四方八方の国々から軍隊が入ってきて、うかうかしていると土地をこまぎれに斬りとられてしまう。
西方の浅井(近江)、南方の織田(尾張)の異常な軍事的成長ぶりが、中世的眠りのなかにいた美濃の地侍たちをして、
(うかうかすると、隣国にわれらが在所を奪《と》られてしまう)
という危機感をおこさせた。
対外的な危機感こそ、その国に思わぬ指導者を生みあげるものだ。かつての中国における蒋介石《しょうかいせき》、かつてのドイツにおけるヒトラーなどが、それであろう。
旱天《かんてん》下《か》で雨を待つような気持で、英雄の出現を翹望《ぎょうぼう》する気運が、美濃一国におこりはじめた。
「かれこそは」
と美濃衆のほとんどは思う。
「このところ美濃の内紛につけ入って何度か侵略してきた隣国の兵を、そのつど破った。関ケ原では浅井、朝倉の連合軍を打ちくだき、こんどの稲葉山城下では織田軍を、戦わずして走らしめた。かくなった上は、盟主として押し立てざるをえないのではないか」
そういう気運である。
潮《うしお》にたとえていい。
ひたひたと上げ潮が、満ちはじめているのである。
「一気に。——」
と、庄九郎は考えた。一気に階段をかけあがらねばならない。
気運《しお》とはおそろしい。庄九郎の信ずるところでは、「気運が来るまでのあいだ、気ながく待ち、あらゆる下準備をととのえてゆく者が智者である」といい、「その気運がくるや、それをつかんでひと息に駈けあがる者を英雄」という。
庄九郎には、その時期がきた。西美濃三人衆といわれる安藤伊賀、氏家卜全《うじいえぼくぜん》、稲葉一鉄をはじめ、正妻小見《おみ》の方《かた》の実家明《あけ》智《ち》一族など国中に影響力のつよい武将たちが、
「貴殿と運命を共にする」
という態度をみせている。がらりと国をくつがえすときであろう。
運よく。
というほかない。頼芸の「若君」である小次郎頼秀は、稲葉山城下で破られたあと、現在の岐阜市から北北西七キロにある、
「鵜飼山城《うかいやまじょう》」
という城に逃げこんだ。この城の城主は村山出《で》羽守《わのかみ》という男で、小次郎頼秀の年少のころの御《お》守役《もりやく》だった人物である。
「出羽、たのむ」
と、小次郎頼秀は保護をたのみ、さらにあらためて庄九郎征伐の兵を挙げることを相談した。
「おれはあの男のために、父から廃嫡され、ただの平人《ひらびと》におとされてしまった。こうなった以上、国中に兵を募り、あの男と決戦し、破り、父頼芸をおしこめ、わしみずからが美濃の守護職に立つ以外、道はない。出羽、そうではないか」
「なるほど」
出羽も、考えこんでしまった。あの油屋はいまや旭日《きょくじつ》昇天の勢いである。国中を真二つにして戦って、はたして勝ち目があるかどうか。
「出羽、出羽」
と、小次郎頼秀は、こういう場合の彼の立場ならたれでも言うことをいった。
「おれが守護職になれば、そちを小守護にしてやるぞ」
(小守護に。——)
というのは、強烈な魅力である。現在の油屋をのぞいては、代々門閥でなければなれなかった、かがやかしい位置である。
「とにかく、どれだけの美濃衆があつまってくるか、それが問題でござる。それに、もう一度、尾張の織田信秀に応援をたのみましょう」
「出羽、それもこれも頼む」
と、小次郎頼秀はうれしさのあまり、かつての家来の村山出羽守にぺこぺこ頭をさげてしまった。その出羽は、実は、決しかねている。なんといっても、自分の生死存亡を賭《か》けた戦いになるはずであった。しかし、小次郎頼秀にたのまれた以上、それを断われば、「出羽はあれで男か」と美濃の武家社会でつまはじきにされてしまう。
起たざるをえない。
出羽は、さっそく密使を八方に出して、決戦準備をととのえはじめた。
その間、小次郎頼秀がやったことといえば自分が居候《いそうろう》している鵜飼山城を、
「御所」
という呼称にあらため、出羽の家来に、自分のことを「御屋形様」とよばせ、出羽に伽《とぎ》の女を要求したことだけである。すでに守護職を気取っていた。
「出羽も、家来に小守護様と呼ばせろ」
と無邪気に、この貴族の座から堕《お》ちた若者はいったが、さすがに村山出羽守は苦笑して、
「それは勝ってからでござるよ」
といった。出羽の心境とすれば、この美濃を真二つに割っての合戦を準備することによって、一方では一種の英雄的昂奮《こうふん》を感じていたし、一方では、えもいえぬ物哀《ものがな》しさを感じていた。若殿さえころがりこんで来なければ、自分は先祖代々の所領と城を保ち、春の花、秋の紅葉などを賞《め》でてぶじに世をおくれたはずである。
その挙兵計画をきいて、
「運やよし」
と手をうってよろこんだのは、庄九郎であった。おそらくこの決戦に、国中における自分の反対派の連中はすべて鵜飼山にあつまるであろう。
(殲滅《せんめつ》して、一挙に国を奪ってしまう)
その好機である。こういう好機は、人間の一生で何度も訪れるものではない。
(また、おれの名がかわるぞ)
ふとお万阿《まあ》の顔を思いだした。この決戦のあとお万阿に会ったら、「こんどはなんというお名前にお変りあそばしたのでございます」とあどけなく訊《き》くであろう。そして、例によって問うにちがいない、
「将軍さまになるのはいつ?」
いい女だ、と庄九郎は思った。あの女のために早く美濃を斬り従え、京に旗をたてて将軍になってやらねばならない。……
その庄九郎は、このところ稲葉山城から動かず、城に戦旗をたて、はるかに鵜飼山城をのぞんで、毎日敵方の情報をあつめている。
むろん、庄九郎がかつて戦って鞭《むち》をくわえただけで逃がしてやった頼芸の庶弟揖斐五郎や鷲《わし》巣《ず》六郎、土岐七郎頼満《よりみつ》、それに土岐八郎頼香《よりよし》などがぞくぞくとくわわり、いわば美濃の名門をこぞるようなものであった。
が、存外、かんじんの美濃衆ではせ参じてくる者がすくなく、
「ただいまのところ、人数はざっと千人でございます」
と耳次も報告していた。
問題は、隣国の織田信秀である。これがむこうに加担すれば、形勢は庄九郎に絶対不利になろう。
鵜飼山城の小次郎頼秀のほうから、さかんに出兵懇請の使者が行っているらしい。
「美濃半国を進呈する」
という条件さえ出した、といううわさがあり、これには庄九郎も驚いた。
(半国をもらえるなら、織田もこのばくち《・・・》に乗るだろう)
と思い、この流説を庄九郎は逆用し、かれの手で美濃中にばらまかせた。
——織田が、半国とるそうじゃ。
という情報ほど、美濃衆を仰天させたものはあるまい。
ぱっと国中にひろまるや、中立を保っていた連中までが、どっと庄九郎の側に入りこんだ。人数は毎日のようにふえ、対外的問題があるだけに士気もあがり、結束もかたかった。
——が。
これだけで庄九郎が、安閑《あんかん》とかまえていたわけではない。傘《さん》下《か》にあつまってきた美濃衆に対し、
「敵は、むしろ尾張の織田信秀である。いつ夜陰に乗じ、木曾川を渡って攻め入ってくるかもわからない。そういう気配が濃い。それゆえ」
と、かれらをけしかけ、毎日、五百人ずつ交代で木曾川国境を哨戒《しょうかい》させ、夜になれば沿岸数里にわたっておびただしいカガリ火を焚《た》かせた。
謀略といっていい。内に対しては士気をたかめさせ、そと織田方に対しては、
——来るとただちに叩《たた》くぞ。
という戦備の凄《すご》味《み》をきかせた。
これには尾張側の百姓がむしろ動揺し、
——美濃から大軍が攻めてくる。
という風説がとび、当の織田信秀が閉口してしまった。
信秀は、木曾川北岸のカガリ火は、単に庄九郎の牽制《けんせい》外交だとみているが、しかし捨てておいては、国内の不安がつのるばかりである。
(あの男は、やるわ)
と感心はしたが、こちらから出兵して美濃の哨戒兵団を撃ち散らすつもりはなかった。信秀は信秀で、国内の諸城切り取りにいそがしく、いまとても外征する余力はない。
(そこまであの男は見ぬいて、木曾川北岸のカガリ火で恫喝《どうかつ》しているのにちがいない)
と信秀は見ていた。
やむなく、このさい、やや屈辱的な外交態度ではあったが、稲葉山城の庄九郎に対し、尾張のほうから使者を送ることにした。
庄九郎は、城のふもとにある居館で、その者に謁見《えっけん》した。
平手政秀という男である。
「われらが主人申しまするには」
と、政秀はいった。
「鵜飼山城の小次郎頼秀どのには、いっさい加担せぬ、ということでございます」
「結構なことだ」
庄九郎は軽くわらい、別に加担しようがしまいが当方関心なし、という大きな態度をにおわせている。
(蝮《まむし》め。——)
と、政秀は、上座の男のあだな《・・・》を思いだし、その傲岸《ごうがん》さに腹が立った。
書院での正式の対面は、ほんの一、二分ですんでしまい、あと、
「茶など、ふるまおう」
と、茶道好きで有名な庄九郎は、政秀を自慢の茶室にみずから案内した。
政秀は、そのみごとさにおどろいた。庭園には稲葉山の谷川の水をひき入れて泉水をしつらえ、茶室にいたる露地には、さまざまの姿をした桜の古木を植えならべ、行くほどに茶室があるが、これも桜材一式でできあがっている。
「すべて、桜でございますな」
「桜だ」
と、庄九郎はみじかく答える。
「桜がお好きでござるのかな」
政秀は問いながら、蝮と桜とはどういう縁だ、とおかしかった。
「まあ、好きだな」
庄九郎はかるく答えたが、じつのところかれほど桜を愛した武将はいない。桜材というのは結局いや味がなくて、飽きが来ないからだ、というのが理由であった。
このとき茶室で、
「吉法《きっぽう》師《し》君《ぎみ》(信長の幼名)は、おいくつになられたかな」
とさりげなくたずねた。吉法師の御守役がこの平手政秀であることを知っているのである。
「おん年は八つでございます」
「なるほど、わしの娘(のちの濃姫《のうひめ》)とは一つちがいか」
「なるほど」
とうなずくと、
「美人だぞ」
それっきり、庄九郎は別の話題に転じた。政秀はなぜ吉法師君のことを蝮がもちだしたのか、わからなかった。
半刻《はんとき》ほどのち、政秀は居館を辞し去り、馬上、供をつれて尾張にむかったが、体が鞍壺《くらつぼ》に堪えられぬほどに疲れている。
(妙に、疲れる男だ)
政秀は、腑《ふ》のぬけたような表情《かお》をして、馬にゆられた。
「運やよし」
と手をうってよろこんだのは、庄九郎であった。おそらくこの決戦に、国中における自分の反対派の連中はすべて鵜飼山にあつまるであろう。
(殲滅《せんめつ》して、一挙に国を奪ってしまう)
その好機である。こういう好機は、人間の一生で何度も訪れるものではない。
(また、おれの名がかわるぞ)
ふとお万阿《まあ》の顔を思いだした。この決戦のあとお万阿に会ったら、「こんどはなんというお名前にお変りあそばしたのでございます」とあどけなく訊《き》くであろう。そして、例によって問うにちがいない、
「将軍さまになるのはいつ?」
いい女だ、と庄九郎は思った。あの女のために早く美濃を斬り従え、京に旗をたてて将軍になってやらねばならない。……
その庄九郎は、このところ稲葉山城から動かず、城に戦旗をたて、はるかに鵜飼山城をのぞんで、毎日敵方の情報をあつめている。
むろん、庄九郎がかつて戦って鞭《むち》をくわえただけで逃がしてやった頼芸の庶弟揖斐五郎や鷲《わし》巣《ず》六郎、土岐七郎頼満《よりみつ》、それに土岐八郎頼香《よりよし》などがぞくぞくとくわわり、いわば美濃の名門をこぞるようなものであった。
が、存外、かんじんの美濃衆ではせ参じてくる者がすくなく、
「ただいまのところ、人数はざっと千人でございます」
と耳次も報告していた。
問題は、隣国の織田信秀である。これがむこうに加担すれば、形勢は庄九郎に絶対不利になろう。
鵜飼山城の小次郎頼秀のほうから、さかんに出兵懇請の使者が行っているらしい。
「美濃半国を進呈する」
という条件さえ出した、といううわさがあり、これには庄九郎も驚いた。
(半国をもらえるなら、織田もこのばくち《・・・》に乗るだろう)
と思い、この流説を庄九郎は逆用し、かれの手で美濃中にばらまかせた。
——織田が、半国とるそうじゃ。
という情報ほど、美濃衆を仰天させたものはあるまい。
ぱっと国中にひろまるや、中立を保っていた連中までが、どっと庄九郎の側に入りこんだ。人数は毎日のようにふえ、対外的問題があるだけに士気もあがり、結束もかたかった。
——が。
これだけで庄九郎が、安閑《あんかん》とかまえていたわけではない。傘《さん》下《か》にあつまってきた美濃衆に対し、
「敵は、むしろ尾張の織田信秀である。いつ夜陰に乗じ、木曾川を渡って攻め入ってくるかもわからない。そういう気配が濃い。それゆえ」
と、かれらをけしかけ、毎日、五百人ずつ交代で木曾川国境を哨戒《しょうかい》させ、夜になれば沿岸数里にわたっておびただしいカガリ火を焚《た》かせた。
謀略といっていい。内に対しては士気をたかめさせ、そと織田方に対しては、
——来るとただちに叩《たた》くぞ。
という戦備の凄《すご》味《み》をきかせた。
これには尾張側の百姓がむしろ動揺し、
——美濃から大軍が攻めてくる。
という風説がとび、当の織田信秀が閉口してしまった。
信秀は、木曾川北岸のカガリ火は、単に庄九郎の牽制《けんせい》外交だとみているが、しかし捨てておいては、国内の不安がつのるばかりである。
(あの男は、やるわ)
と感心はしたが、こちらから出兵して美濃の哨戒兵団を撃ち散らすつもりはなかった。信秀は信秀で、国内の諸城切り取りにいそがしく、いまとても外征する余力はない。
(そこまであの男は見ぬいて、木曾川北岸のカガリ火で恫喝《どうかつ》しているのにちがいない)
と信秀は見ていた。
やむなく、このさい、やや屈辱的な外交態度ではあったが、稲葉山城の庄九郎に対し、尾張のほうから使者を送ることにした。
庄九郎は、城のふもとにある居館で、その者に謁見《えっけん》した。
平手政秀という男である。
「われらが主人申しまするには」
と、政秀はいった。
「鵜飼山城の小次郎頼秀どのには、いっさい加担せぬ、ということでございます」
「結構なことだ」
庄九郎は軽くわらい、別に加担しようがしまいが当方関心なし、という大きな態度をにおわせている。
(蝮《まむし》め。——)
と、政秀は、上座の男のあだな《・・・》を思いだし、その傲岸《ごうがん》さに腹が立った。
書院での正式の対面は、ほんの一、二分ですんでしまい、あと、
「茶など、ふるまおう」
と、茶道好きで有名な庄九郎は、政秀を自慢の茶室にみずから案内した。
政秀は、そのみごとさにおどろいた。庭園には稲葉山の谷川の水をひき入れて泉水をしつらえ、茶室にいたる露地には、さまざまの姿をした桜の古木を植えならべ、行くほどに茶室があるが、これも桜材一式でできあがっている。
「すべて、桜でございますな」
「桜だ」
と、庄九郎はみじかく答える。
「桜がお好きでござるのかな」
政秀は問いながら、蝮と桜とはどういう縁だ、とおかしかった。
「まあ、好きだな」
庄九郎はかるく答えたが、じつのところかれほど桜を愛した武将はいない。桜材というのは結局いや味がなくて、飽きが来ないからだ、というのが理由であった。
このとき茶室で、
「吉法《きっぽう》師《し》君《ぎみ》(信長の幼名)は、おいくつになられたかな」
とさりげなくたずねた。吉法師の御守役がこの平手政秀であることを知っているのである。
「おん年は八つでございます」
「なるほど、わしの娘(のちの濃姫《のうひめ》)とは一つちがいか」
「なるほど」
とうなずくと、
「美人だぞ」
それっきり、庄九郎は別の話題に転じた。政秀はなぜ吉法師君のことを蝮がもちだしたのか、わからなかった。
半刻《はんとき》ほどのち、政秀は居館を辞し去り、馬上、供をつれて尾張にむかったが、体が鞍壺《くらつぼ》に堪えられぬほどに疲れている。
(妙に、疲れる男だ)
政秀は、腑《ふ》のぬけたような表情《かお》をして、馬にゆられた。