「なに、美濃から蝮《まむし》の使者がきたと?」
と、信長はいった。
「どんなやつだ」
「堀田道空と申し、美濃の山城入道《やましろにゅうどう》さまのご重臣でござりまする。お頭《つむり》が、まるうござりまする」
「禿《はげ》か」
まだかぞえてハタチの信長は、妙なところに関心をもつらしい。取次ぎの者が、
(禿であろうとなかろうと、どちらでもよいではないか)
とおもいながら、
「いえいえ、毛を剃《そ》っておりまするゆえ、禿ではござりませぬ」
「その頭は、青いか」
「青くはござりませぬ。赤うござりまする」
「そちは馬鹿《ばか》だ」
と、家来をにらみつけた。
(馬鹿はこの殿ではないか)
と家来がおそれ入っていると、
「聞け、赤ければ、その頭は半ばは禿げておるのだ。なぜ、半ばは禿げ、半ば毛のあるところを剃っておりまする、と申さぬ」
(あっ、道理だ)
と家来は感心したが、ばかばかしくもあった。どちらでもよいことである。
「よいか、そちはいくさで偵察《ものみ》にゆく、敵のむらがっている様子をみて、そちはとんでかえってきて、『敵がおおぜいむらがっておりまする』と報告する。ただおおぜいではわからぬ。そういうときは『侍が何十人、足軽が何百人』という報告をすべきだ。頭一つをみても、ただ『禿でございます』ではわからぬ。おれはそんな不正確なおとこはきらいだ」
信長は、めずらしくながい言葉をいった。
この若者にすれば、家来を自分流に訓練しているつもりである。
平素、信長流の例の鷹《たか》狩《が》りなどに連れてゆく近習の悪童どもなら、信長にいわれなくても信長のやりかたを体で知っているから、その間の呼吸は心得ている。
が、この取次ぎの士は、信長の鷹狩りや石投げに供をしたことがなかったから、そんなことには通暁《つうぎょう》していない。
(たわけ《・・・》殿が、なにを申されることか)
というぐらいで、やや不快げなつらつきをぶらさげながら、ひきさがった。
ひとの顔色に機敏な信長は、その男のその面《つら》が気にくわなかった。
すぐ家老の青山与三右衛門を呼び、
「あの男を末森の勘十郎にやれ」
といった。分家した次弟の家来にしてしまえ、というのである。
青山与三右衛門がおどろき、その男のために弁解しようとすると、
「おれには要らぬ男だ」
と、大声を出した。青山はさらに口ごもっていると、
「言うとおりにせよ」
信長は、頭の地を掻《か》きながら、いらいらした声でいった。青山は怖《おそ》れた。それ以上抗弁すると、このたわけ《・・・》殿は、とびかかってきて頸《くび》を絞めあげてくるかもしれない。
「承知つかまつってござりまする」
と青山が平伏したときは、信長の姿は奥に消えてしまっている。
「お濃《のう》、お濃」
と廊下をよびながら歩き、濃姫の部屋に入ると、
「蝮から使いがきたぞ」
といった。
濃姫は、多少不愉快だった。女房《にょうぼう》の父をつかまえて蝮、蝮とはどういうことであろう。
「舅《しゅうと》とおおせられませ」
「蝮だ」
信長にすれば、舅殿とか道三殿とかいうよりも、蝮、というほうが響きのカラリと高い尊敬の心をこめている。
濃姫にはそれもわかるのだが、いちいち蝮といわれるのはやりきれない。
「なんという者でござりまする」
「堀田ドウクウという男だそうだ」
「ああ、それならば、わたくしが御当家に輿《こし》入《い》れして参りまするとき、道中を宰領して参った者でございます」
「わしは覚えておらぬぞ」
「はい、左様でございましょう。あなたさまは、あの婚礼の何日かはほとんど御座《おざ》にいらっしゃいませなんだ」
「愚劣だからな」
と、信長はひどく濃姫に気まずそうな、照れたような顔つきをしてみせた。この若者がこんな顔つきをしてみせるのは、濃姫に対してだけである。
「道空は、たしかお父上様のお葬儀のときにも参ったはずでございます」
「そうか」
そのときも信長は抹香《まっこう》をつかんで投げただけだから、参列者の顔など覚えていない。
と、信長はいった。
「どんなやつだ」
「堀田道空と申し、美濃の山城入道《やましろにゅうどう》さまのご重臣でござりまする。お頭《つむり》が、まるうござりまする」
「禿《はげ》か」
まだかぞえてハタチの信長は、妙なところに関心をもつらしい。取次ぎの者が、
(禿であろうとなかろうと、どちらでもよいではないか)
とおもいながら、
「いえいえ、毛を剃《そ》っておりまするゆえ、禿ではござりませぬ」
「その頭は、青いか」
「青くはござりませぬ。赤うござりまする」
「そちは馬鹿《ばか》だ」
と、家来をにらみつけた。
(馬鹿はこの殿ではないか)
と家来がおそれ入っていると、
「聞け、赤ければ、その頭は半ばは禿げておるのだ。なぜ、半ばは禿げ、半ば毛のあるところを剃っておりまする、と申さぬ」
(あっ、道理だ)
と家来は感心したが、ばかばかしくもあった。どちらでもよいことである。
「よいか、そちはいくさで偵察《ものみ》にゆく、敵のむらがっている様子をみて、そちはとんでかえってきて、『敵がおおぜいむらがっておりまする』と報告する。ただおおぜいではわからぬ。そういうときは『侍が何十人、足軽が何百人』という報告をすべきだ。頭一つをみても、ただ『禿でございます』ではわからぬ。おれはそんな不正確なおとこはきらいだ」
信長は、めずらしくながい言葉をいった。
この若者にすれば、家来を自分流に訓練しているつもりである。
平素、信長流の例の鷹《たか》狩《が》りなどに連れてゆく近習の悪童どもなら、信長にいわれなくても信長のやりかたを体で知っているから、その間の呼吸は心得ている。
が、この取次ぎの士は、信長の鷹狩りや石投げに供をしたことがなかったから、そんなことには通暁《つうぎょう》していない。
(たわけ《・・・》殿が、なにを申されることか)
というぐらいで、やや不快げなつらつきをぶらさげながら、ひきさがった。
ひとの顔色に機敏な信長は、その男のその面《つら》が気にくわなかった。
すぐ家老の青山与三右衛門を呼び、
「あの男を末森の勘十郎にやれ」
といった。分家した次弟の家来にしてしまえ、というのである。
青山与三右衛門がおどろき、その男のために弁解しようとすると、
「おれには要らぬ男だ」
と、大声を出した。青山はさらに口ごもっていると、
「言うとおりにせよ」
信長は、頭の地を掻《か》きながら、いらいらした声でいった。青山は怖《おそ》れた。それ以上抗弁すると、このたわけ《・・・》殿は、とびかかってきて頸《くび》を絞めあげてくるかもしれない。
「承知つかまつってござりまする」
と青山が平伏したときは、信長の姿は奥に消えてしまっている。
「お濃《のう》、お濃」
と廊下をよびながら歩き、濃姫の部屋に入ると、
「蝮から使いがきたぞ」
といった。
濃姫は、多少不愉快だった。女房《にょうぼう》の父をつかまえて蝮、蝮とはどういうことであろう。
「舅《しゅうと》とおおせられませ」
「蝮だ」
信長にすれば、舅殿とか道三殿とかいうよりも、蝮、というほうが響きのカラリと高い尊敬の心をこめている。
濃姫にはそれもわかるのだが、いちいち蝮といわれるのはやりきれない。
「なんという者でござりまする」
「堀田ドウクウという男だそうだ」
「ああ、それならば、わたくしが御当家に輿《こし》入《い》れして参りまするとき、道中を宰領して参った者でございます」
「わしは覚えておらぬぞ」
「はい、左様でございましょう。あなたさまは、あの婚礼の何日かはほとんど御座《おざ》にいらっしゃいませなんだ」
「愚劣だからな」
と、信長はひどく濃姫に気まずそうな、照れたような顔つきをしてみせた。この若者がこんな顔つきをしてみせるのは、濃姫に対してだけである。
「道空は、たしかお父上様のお葬儀のときにも参ったはずでございます」
「そうか」
そのときも信長は抹香《まっこう》をつかんで投げただけだから、参列者の顔など覚えていない。
信長は、廊下を渡り、小書院に出た。
太刀《たち》持ちの小姓を従え、ごく大ざっぱな平装のまま上段にあらわれ、むっつりとすわった。
背はやや高く痩《や》せがたで、鼻筋が通り、色がめだつほどに白い。表情はない。
視線はほかを見ている。
そこに平伏している美濃の使者堀田道空はまるで無視されたかっこうだった。およそ不愛想なつらつきだった。
堀田道空は、やや顔をあげ、
(相変らずのたわけ《・・・》殿だな)
とおもった。
道空はまず、三方《さんぽう》にのせた桜の老木を一《いっ》枝《し》信長の左右にまで進め、
「舅殿におわす手前主人山城入道が、鷺山《さぎやま》の庭で愛《いつくし》んでおりまする桜でござりまする。婿《むこ》殿のご見参《げんざん》に入れよ、ということでござりましたので」
「ふむ」
といった顔で信長はうなずいた。ありがとうとも忝《かたじけ》ないとも言わない。
その癖、内心、
(かねがね聞き及んでいる。蝮は桜がすきなそうな)
とおもっていた。(蝮にしてはやさしげな趣味だ)ともおもっている。しかし、顔にも言葉にも出さない。
ただ、左右を見て、
「活《い》けよ」
とのみ、高い声で、一声、叫ぶようにいった。道空はあやうく噴《ふ》きだすところだった。
さらに道空はながながと口上をのべ、「舅の道三が、娘婿である殿に会いたがっている、いかがでありましょうか」という旨《むね》のことを言った。
「ナニ?」
信長には、道空の言うことがわからないらしい。道空の言葉や態度が、修辞、装飾、礼譲にみちてまわりくどいため、かんじんの用件がなんであるか、わからないらしいのである。信長は、そばにいる老臣青山与三右衛門を膝《ひざ》もとにまでよびよせ、
「あの禿は何をいっている」
と、小声できいた。
青山は、手みじかにこれこれしかじかと解釈すると、やっとわかったらしく、
「心得た」
と、道空にむかって叫んだ。
道空はそのあと、ふたたび修辞をつらねつつ「場所はどこがよいか」という意味のことを言いだしたが、信長はめんどうになってきたらしく、
「あとの事は、与三右衛門と相談《はか》れ」
と言って立ちあがり、立ったときにはもう歩きだしていて、美濃からきた多弁で無意味な禿頭からのがれ去った。
太刀《たち》持ちの小姓を従え、ごく大ざっぱな平装のまま上段にあらわれ、むっつりとすわった。
背はやや高く痩《や》せがたで、鼻筋が通り、色がめだつほどに白い。表情はない。
視線はほかを見ている。
そこに平伏している美濃の使者堀田道空はまるで無視されたかっこうだった。およそ不愛想なつらつきだった。
堀田道空は、やや顔をあげ、
(相変らずのたわけ《・・・》殿だな)
とおもった。
道空はまず、三方《さんぽう》にのせた桜の老木を一《いっ》枝《し》信長の左右にまで進め、
「舅殿におわす手前主人山城入道が、鷺山《さぎやま》の庭で愛《いつくし》んでおりまする桜でござりまする。婿《むこ》殿のご見参《げんざん》に入れよ、ということでござりましたので」
「ふむ」
といった顔で信長はうなずいた。ありがとうとも忝《かたじけ》ないとも言わない。
その癖、内心、
(かねがね聞き及んでいる。蝮は桜がすきなそうな)
とおもっていた。(蝮にしてはやさしげな趣味だ)ともおもっている。しかし、顔にも言葉にも出さない。
ただ、左右を見て、
「活《い》けよ」
とのみ、高い声で、一声、叫ぶようにいった。道空はあやうく噴《ふ》きだすところだった。
さらに道空はながながと口上をのべ、「舅の道三が、娘婿である殿に会いたがっている、いかがでありましょうか」という旨《むね》のことを言った。
「ナニ?」
信長には、道空の言うことがわからないらしい。道空の言葉や態度が、修辞、装飾、礼譲にみちてまわりくどいため、かんじんの用件がなんであるか、わからないらしいのである。信長は、そばにいる老臣青山与三右衛門を膝《ひざ》もとにまでよびよせ、
「あの禿は何をいっている」
と、小声できいた。
青山は、手みじかにこれこれしかじかと解釈すると、やっとわかったらしく、
「心得た」
と、道空にむかって叫んだ。
道空はそのあと、ふたたび修辞をつらねつつ「場所はどこがよいか」という意味のことを言いだしたが、信長はめんどうになってきたらしく、
「あとの事は、与三右衛門と相談《はか》れ」
と言って立ちあがり、立ったときにはもう歩きだしていて、美濃からきた多弁で無意味な禿頭からのがれ去った。
会見の場所は、美濃と尾張の中間がいい、ということで、
富《とみ》田《た》の聖徳寺《しょうとくじ》
ということに、両国の重臣のあいだできまった。
妙案である。
これほどの場所はちょっとないであろう。
美濃と尾張の国境に木曾川が流れている。
信長の尾張なごや《・・・》城から北西へ四里半。
道三の美濃鷺山城から南西へ四里。
「富田」
という土地は、地理的には尾張寄りだが、この戦国の世における中立地帯なのである。
そんな土地が、どこの国にもある。
どの大名の行政権にも屈せず、どの大名もそこでは軍事行動ができない。
要するに、門前町であった。
この富田庄《とみたのしょう》に聖徳寺という一向宗《いっこうしゅう》(浄土真宗つまり本願寺)の大寺がある。近隣におびただしく小寺や門徒をもつ別院級の寺で、住職は摂津生玉庄《いくたまのしょう》 (いまの大阪)の本願寺からじきじき派遣されることになっていた。
自然、参詣人《さんけいにん》がたえない。
その参詣人のための宿屋、法具店などができ、さらに「守護不入《しゅごふにゅう》」(治外法権)ということで美濃・尾張の両国からさまざまな商人がさまざまな商品をもちこんでここで自由に販売するため、商業都市の性格をもっている。
戸数七百軒。
この当時としては、中都会である。
余談だが。——
いまは富田庄は、木曾川の流れがかわったために河底に沈んでいる。この信長にとっても道三にとっても記念すべき聖徳寺はこんにち名古屋市内に移されている。
使者の道空が織田家を辞したあと、信長の重臣のなかで異を立てる者があり、
「ご無用かと存じまする。道三殿は、なにぶん権《けん》詐《さ》の多きお方であり、おそれながら殿のお命をお縮めするこんたんかと存じまする」
といった。
信長は、けろりとしている。
勘十郎派の家老林佐渡守まで、末森城から駈《か》けつけてきて、そのようなことをいった。
「相手は、蝮でござるぞ」
と、佐渡守はいった。信長は笑って、
「その蝮にわしが噛《か》まれたほうが、そこもとの都合がよいのではないか」
といったため、林佐渡守は興ざめて末森城に帰ってしまった。夜、濃姫に、
「お濃よ、会見の日は四月二十日ときまったぞ」
といった。
「それはよろしゅうございました」
と、濃姫は信長に抱かれながら、しれしれ《・・・・》と言った。
「お濃は、平気でおるな」
「なぜでございます」
「蝮との会見の日が、わしの最《さい》期《ご》になるかもしれぬぞ」
びくっ、と濃姫は体をふるわせた。
「どうして?」
「蝮がわしを殺すさ」
「では、わたくしも殺されるではありませぬか」
「ほう、知っておるな」
と、信長は、薄く笑った。
濃姫は織田家の嫁である。が、同時に人質でもあった。信長が富田の聖徳寺で殺されれば、ただちに織田家の家来は濃姫をとらえ、その命を断ってしまう。
「しかしお濃よ。蝮めはわが娘のひとりやふたり、殺されても野望を遂げる男だ」
「ちがいます」
「なにがちがう」
「娘はひとりでございます。わたくしが父にとってただひとりの娘でございます」
「お濃、わしは数をいっているのではない」
「わかっています。殿は物事の不正確なことがおきらいでございますから、一人だ、と申したのでございます。父は、わたくしの身があぶなくなるようなことは決して致しませぬ」
濃姫には自信があった。ひとにさまざまな蔭口《かげぐち》をたたかれる父だが、自分を可愛《かわい》がってくれることだけは、ゆるぎもないことだった。濃姫は、父の自分に対する愛情を神仏以上にたしかなものとして信じている。
「父も老いております。その娘の婿殿をひと目でも見て、今生《こんじょう》の愉悦にしたいのでございましょう。それだけでございます」
信長は笑い、濃姫をからかうようにして、そのからだの露《あらわ》な部分をくすぐった。いつもの濃姫なら咽喉《のど》を鳴らしてくすぐったがるところだが、
「厭《い》やっ」
と、信長の手をおさえた。
「わかってくださらねば、そのようなことはいやでございます」
「これは許せ」
信長は、濃姫の唇《くちびる》を吸った。石投げも水あそびも面白《おもしろ》いが、これほどおもしろいおもちゃが世にあろうとは、じつのところ思わなかった。
「わかっておればこそ、おれは富田の聖徳寺へゆくのだ。おれは蝮がすきだ」
「まあ」
「おれには、うまれながら肉親や一門や老臣どもがついてまわっている。そういうやつらよりも、蝮のほうがはるかにすきだ」
かもしれない、と濃姫はおもった。うまく言えないが、父の道三とこの信長とは、どこか相響きあうところをもっていそうにおもうのである。
「ご無用かと存じまする。道三殿は、なにぶん権《けん》詐《さ》の多きお方であり、おそれながら殿のお命をお縮めするこんたんかと存じまする」
といった。
信長は、けろりとしている。
勘十郎派の家老林佐渡守まで、末森城から駈《か》けつけてきて、そのようなことをいった。
「相手は、蝮でござるぞ」
と、佐渡守はいった。信長は笑って、
「その蝮にわしが噛《か》まれたほうが、そこもとの都合がよいのではないか」
といったため、林佐渡守は興ざめて末森城に帰ってしまった。夜、濃姫に、
「お濃よ、会見の日は四月二十日ときまったぞ」
といった。
「それはよろしゅうございました」
と、濃姫は信長に抱かれながら、しれしれ《・・・・》と言った。
「お濃は、平気でおるな」
「なぜでございます」
「蝮との会見の日が、わしの最《さい》期《ご》になるかもしれぬぞ」
びくっ、と濃姫は体をふるわせた。
「どうして?」
「蝮がわしを殺すさ」
「では、わたくしも殺されるではありませぬか」
「ほう、知っておるな」
と、信長は、薄く笑った。
濃姫は織田家の嫁である。が、同時に人質でもあった。信長が富田の聖徳寺で殺されれば、ただちに織田家の家来は濃姫をとらえ、その命を断ってしまう。
「しかしお濃よ。蝮めはわが娘のひとりやふたり、殺されても野望を遂げる男だ」
「ちがいます」
「なにがちがう」
「娘はひとりでございます。わたくしが父にとってただひとりの娘でございます」
「お濃、わしは数をいっているのではない」
「わかっています。殿は物事の不正確なことがおきらいでございますから、一人だ、と申したのでございます。父は、わたくしの身があぶなくなるようなことは決して致しませぬ」
濃姫には自信があった。ひとにさまざまな蔭口《かげぐち》をたたかれる父だが、自分を可愛《かわい》がってくれることだけは、ゆるぎもないことだった。濃姫は、父の自分に対する愛情を神仏以上にたしかなものとして信じている。
「父も老いております。その娘の婿殿をひと目でも見て、今生《こんじょう》の愉悦にしたいのでございましょう。それだけでございます」
信長は笑い、濃姫をからかうようにして、そのからだの露《あらわ》な部分をくすぐった。いつもの濃姫なら咽喉《のど》を鳴らしてくすぐったがるところだが、
「厭《い》やっ」
と、信長の手をおさえた。
「わかってくださらねば、そのようなことはいやでございます」
「これは許せ」
信長は、濃姫の唇《くちびる》を吸った。石投げも水あそびも面白《おもしろ》いが、これほどおもしろいおもちゃが世にあろうとは、じつのところ思わなかった。
「わかっておればこそ、おれは富田の聖徳寺へゆくのだ。おれは蝮がすきだ」
「まあ」
「おれには、うまれながら肉親や一門や老臣どもがついてまわっている。そういうやつらよりも、蝮のほうがはるかにすきだ」
かもしれない、と濃姫はおもった。うまく言えないが、父の道三とこの信長とは、どこか相響きあうところをもっていそうにおもうのである。
道三は鷺山城で、尾張から帰ってきた堀田道空を引見《いんけん》していた。
「信長は会うと申したか」
「左様で」
「どう申した。信長が申した言葉を、口うつしに申してみよ」
それによって信長の賢愚をうらなうつもりであった。
が、堀田道空は苦笑して、
「心得た——とのみで、そのほかの言葉はなにも吐かれませなんだ」
「そうか」
依然として、見当がつかない。
「帰蝶《きちょう》は元気にしておったか」
と、道三は、ひどく痴愚な顔になった。
「はい。おすこやかにお見受け申しました」
道空は信長に拝謁《はいえつ》したあと、濃姫にもあいさつのために会ったのである。
「なにか、申しておったか」
自分の健康や起居のことなどいろいろと訊《たず》ねてくれたかという意味である。
「否《いな》」
と首をふるしか、道空は話題をもちあわせていなかった。濃姫に拝謁しはしたが、濃姫はニコニコ笑っているばかりで、おそろしく口数がすくなかったのである。
「あの娘、信長めに似て来おったな」
道三は舌打ちしたくなるほどに腹だたしかった。さびしくもあった。
「道空、娘は嫁にやればしまいだな」
「御《ぎょ》意《い》のとおりで」
と、道空はうなずいた。道空も娘をひとり、おなじ斎藤家の家士のもとにやっている。しかしこれは、同じ家中だから会おうと思えば会えた。道三よりも恵まれているのである。
「おれはすこし、帰蝶を可愛がりすぎた」
と、道三はひとりごとのようにいった。たしかに可愛がりすぎた。
この時代の大名の子は、父親とは隔離されて育ってゆく。別の城で育てたり、家来の屋敷で育てたり、時に同じ城内で育てるにしても別棟《べつむね》で養育する。自然、情はうつらないかわり、それを婿や嫁や人質にやるときに思いきりよくやれたし、たとえ、大名間の確執のために他郷で殺されても悲しみは通りいっぺんで済む、というぐあいになっている。そういう、いわば仕組みなのである。
(帰蝶のばあいだけは、おれは膝《ひざ》の上でそだてた)
それが、思えばよくなかった。愛憐《あいれん》がいよいよつのるばかりになっている。
「こまったことだ」
と、道三は苦っぽく笑った。
「聖徳寺で、婿殿をどうなされます」
「わからん」
道三は、視線を庭の桜へむけた。
「養《よう》花《か》天《てん》」
と名づけている桜の老樹がある。その幹のなかほどのあたり、一点、なまなましい切《き》り痕《あと》があり、そこに伸びていた枝が、木曾川をこえて信長のもとに行った。
(あの枝のごとく信長を斬《き》るか)
ちらりと思ったが、すぐ、
「道空」
といった。
「なんでございましょう」
と道空に問いかえされてから、道三は、言いだしたものの、なんの話題もないことに気がついた。
(おれはどうかしている)
顔をつるりと撫《な》で、
「いや、なんでもないことだ」
と、笑った。
「信長は会うと申したか」
「左様で」
「どう申した。信長が申した言葉を、口うつしに申してみよ」
それによって信長の賢愚をうらなうつもりであった。
が、堀田道空は苦笑して、
「心得た——とのみで、そのほかの言葉はなにも吐かれませなんだ」
「そうか」
依然として、見当がつかない。
「帰蝶《きちょう》は元気にしておったか」
と、道三は、ひどく痴愚な顔になった。
「はい。おすこやかにお見受け申しました」
道空は信長に拝謁《はいえつ》したあと、濃姫にもあいさつのために会ったのである。
「なにか、申しておったか」
自分の健康や起居のことなどいろいろと訊《たず》ねてくれたかという意味である。
「否《いな》」
と首をふるしか、道空は話題をもちあわせていなかった。濃姫に拝謁しはしたが、濃姫はニコニコ笑っているばかりで、おそろしく口数がすくなかったのである。
「あの娘、信長めに似て来おったな」
道三は舌打ちしたくなるほどに腹だたしかった。さびしくもあった。
「道空、娘は嫁にやればしまいだな」
「御《ぎょ》意《い》のとおりで」
と、道空はうなずいた。道空も娘をひとり、おなじ斎藤家の家士のもとにやっている。しかしこれは、同じ家中だから会おうと思えば会えた。道三よりも恵まれているのである。
「おれはすこし、帰蝶を可愛がりすぎた」
と、道三はひとりごとのようにいった。たしかに可愛がりすぎた。
この時代の大名の子は、父親とは隔離されて育ってゆく。別の城で育てたり、家来の屋敷で育てたり、時に同じ城内で育てるにしても別棟《べつむね》で養育する。自然、情はうつらないかわり、それを婿や嫁や人質にやるときに思いきりよくやれたし、たとえ、大名間の確執のために他郷で殺されても悲しみは通りいっぺんで済む、というぐあいになっている。そういう、いわば仕組みなのである。
(帰蝶のばあいだけは、おれは膝《ひざ》の上でそだてた)
それが、思えばよくなかった。愛憐《あいれん》がいよいよつのるばかりになっている。
「こまったことだ」
と、道三は苦っぽく笑った。
「聖徳寺で、婿殿をどうなされます」
「わからん」
道三は、視線を庭の桜へむけた。
「養《よう》花《か》天《てん》」
と名づけている桜の老樹がある。その幹のなかほどのあたり、一点、なまなましい切《き》り痕《あと》があり、そこに伸びていた枝が、木曾川をこえて信長のもとに行った。
(あの枝のごとく信長を斬《き》るか)
ちらりと思ったが、すぐ、
「道空」
といった。
「なんでございましょう」
と道空に問いかえされてから、道三は、言いだしたものの、なんの話題もないことに気がついた。
(おれはどうかしている)
顔をつるりと撫《な》で、
「いや、なんでもないことだ」
と、笑った。