父の葬儀の前日、家老の平手政秀が信長をつかまえて、
「よろしゅうござりまするな」
といった。
「あすでござりまするぞ、またうろうろとどこぞへやらお消《う》せあそばしては、爺《じい》はこんどこそ腹を切らねばなりませぬ」
「心得ている」
と言えばよいのに、信長はぷいと横をむいて、赤犬の通るのを見ていた。
平手政秀はなおも気がかりだったらしく、あとで濃姫付の侍女各務《かがみ》野《の》をよび、
「よろしいか、奥方様に申しあげておいてくだされ。あすのこと、くれぐれも頼み入りまする、と」
濃姫は、夜、信長に、
「おかしゅうございますこと」
とシンからおかしそうに笑った。
「なにがだ」
「みなが、あなた様を、鴨《かも》の子かなんぞのように水にもぐりはせぬか、飛び立ちはせぬかと案じているようでございます」
「ばかなやつらだ」
信長は、笑いもせずにいった。
「世の中は、馬鹿《ばか》で満ちている」
「まあ」
「城中、何百の人間が駈けまわって葬儀の支度ばかりしている。僧侶《そうりょ》を三百人もよぶそうだが、僧侶を何百何千人よび、供華《くげ》を山ほどにかざってもお父《でい》の生命《いのち》はよみがえらぬ。ではないか、お濃」
「はい」
と濃姫はうなずいたが、信長は誤解しているらしい、とおもった。葬儀とは死者を悼《いた》むもので、生きかえらせる術ではあるまい。
「古来、何億の人が死んだが、いかに葬式をしても一人もよみがえった者はないわ」
「でも、葬儀は、蘇生術《そせいじゅつ》ではございませぬ」
「わかっておるわ!」
信長は、大声をあげた。
「だから無駄《むだ》じゃというのじゃ。何の役にもならぬものに熱中し、寺に駈け入り、坊主をよび、経をあげさせてぽろぽろと涙をこぼしおる。世の人間ほどあほう《・・・》なものはない」
なるほど理屈である。濃姫はなだめるように、
「それはわかりますけど、しかし殿様は喪《も》主《しゅ》でございますよ」
「おれはなったつもりはない」
「そのように駄々をこねられまするな。世の慣例に従わぬと、不孝の御子よ、と人々に蔭《かげ》口《ぐち》をたたかれます」
信長は、だまった。だまると、急に冷えたような顔になる。濃姫など、そこにいるか、というような顔になるのである。
この若者は、もともと言葉がみじかい。というより座談というものができない。ほとんど終日ものをいわず、自分の気持を表現するときは、言葉でなく、いきなり行動でやった。
(どうも、そういう人らしい)
と、濃姫もみていた。
が、彼女にも信長の胸底にうずまいている始末におえぬ憤《いきどお》り、うらみ、悲しみがどういう性質のものか、まるでわからなかった。
まず、四十二の若さで死んでしまった父をこの男はひどく憎んでいた。
(お父のばかっ。——)
と、どなりたい気持だった。信長は、この男なりに自分を鍛え、教育してきた。水にもぐることも、石投げをすることも、足軽に棒試合をさせることも、すべて将来天下を取るべき自分を、そういう方法でつくりあげているつもりだった。
それがまだ数えて十八である。われながら未熟で使いものにならぬと思っているのに、父はいきなり、その死によって彼に織田軍団の指揮者であることを強《し》いたのである。
(お父め、身勝手だ)
と、ののしりたかった。もともとこの男は、自分の思っている構想どおりに事がすすまぬと、物狂おしいほどに腹が立つ性癖がある。
いまひとつの腹立たしさは、一族一門、それに家中の者がことごとくかれの器量に絶望しているなかで、父の信秀のみが、
——蔭口などは気にするな、そちのことはわしだけが知っている。
というような眼《まな》差《ざ》しでつねに見まもってくれていた。信長はそれを幼童のころから鋭敏に嗅《か》ぎ知っており、
(わしの事はお父にしかわからぬ)
と思っていた。逆にいえば父が理解してくれている、とおもえばこそ、安心して奇矯《ききょう》な行動や服装で明け暮れすることができた、ともいえる。
いわば、信長は信秀によってこそ、はじめて孤独でなかったのである。その唯一《ゆいいつ》の理解者をうしなったことは、声をあげて哭《な》きさけびたいほどの衝撃だった。
(それをもわからず、馬鹿な一門の者や老臣どもは葬式のことのみにうつつ《・・・》をぬかしておるわ)
だから葬式が憎い、という論法なのである。つまり万松寺の葬式というのは、自分の無理解者どもの祭典のようなものであった。葬儀が盛大であればあるほど、信長にとっては「連中」が自分とは無縁の場所で馬鹿さわぎをしているようにしかみえないのである。
「でも、御《おん》喪《も》主《しゅ》さまというのは、べつにむずかしいお役もなく、ただその場にすわっていらっしゃるだけでよいのではございませぬか。ただ御焼香だけはせねばなりませぬけど」
「お濃はよく知っているな」
「式次第を、各務野にそういって、中務《なかつかさ》(政秀)にきかせたのでございます」
「子供のくせにくだらぬ心配をするおなごだ」
「でも、心配でございますもの」
「やる」
安心しろ、という表情で信長はうなずき、「焼香だけすればよいのなら簡単なことだ」といった。
「よろしゅうござりまするな」
といった。
「あすでござりまするぞ、またうろうろとどこぞへやらお消《う》せあそばしては、爺《じい》はこんどこそ腹を切らねばなりませぬ」
「心得ている」
と言えばよいのに、信長はぷいと横をむいて、赤犬の通るのを見ていた。
平手政秀はなおも気がかりだったらしく、あとで濃姫付の侍女各務《かがみ》野《の》をよび、
「よろしいか、奥方様に申しあげておいてくだされ。あすのこと、くれぐれも頼み入りまする、と」
濃姫は、夜、信長に、
「おかしゅうございますこと」
とシンからおかしそうに笑った。
「なにがだ」
「みなが、あなた様を、鴨《かも》の子かなんぞのように水にもぐりはせぬか、飛び立ちはせぬかと案じているようでございます」
「ばかなやつらだ」
信長は、笑いもせずにいった。
「世の中は、馬鹿《ばか》で満ちている」
「まあ」
「城中、何百の人間が駈けまわって葬儀の支度ばかりしている。僧侶《そうりょ》を三百人もよぶそうだが、僧侶を何百何千人よび、供華《くげ》を山ほどにかざってもお父《でい》の生命《いのち》はよみがえらぬ。ではないか、お濃」
「はい」
と濃姫はうなずいたが、信長は誤解しているらしい、とおもった。葬儀とは死者を悼《いた》むもので、生きかえらせる術ではあるまい。
「古来、何億の人が死んだが、いかに葬式をしても一人もよみがえった者はないわ」
「でも、葬儀は、蘇生術《そせいじゅつ》ではございませぬ」
「わかっておるわ!」
信長は、大声をあげた。
「だから無駄《むだ》じゃというのじゃ。何の役にもならぬものに熱中し、寺に駈け入り、坊主をよび、経をあげさせてぽろぽろと涙をこぼしおる。世の人間ほどあほう《・・・》なものはない」
なるほど理屈である。濃姫はなだめるように、
「それはわかりますけど、しかし殿様は喪《も》主《しゅ》でございますよ」
「おれはなったつもりはない」
「そのように駄々をこねられまするな。世の慣例に従わぬと、不孝の御子よ、と人々に蔭《かげ》口《ぐち》をたたかれます」
信長は、だまった。だまると、急に冷えたような顔になる。濃姫など、そこにいるか、というような顔になるのである。
この若者は、もともと言葉がみじかい。というより座談というものができない。ほとんど終日ものをいわず、自分の気持を表現するときは、言葉でなく、いきなり行動でやった。
(どうも、そういう人らしい)
と、濃姫もみていた。
が、彼女にも信長の胸底にうずまいている始末におえぬ憤《いきどお》り、うらみ、悲しみがどういう性質のものか、まるでわからなかった。
まず、四十二の若さで死んでしまった父をこの男はひどく憎んでいた。
(お父のばかっ。——)
と、どなりたい気持だった。信長は、この男なりに自分を鍛え、教育してきた。水にもぐることも、石投げをすることも、足軽に棒試合をさせることも、すべて将来天下を取るべき自分を、そういう方法でつくりあげているつもりだった。
それがまだ数えて十八である。われながら未熟で使いものにならぬと思っているのに、父はいきなり、その死によって彼に織田軍団の指揮者であることを強《し》いたのである。
(お父め、身勝手だ)
と、ののしりたかった。もともとこの男は、自分の思っている構想どおりに事がすすまぬと、物狂おしいほどに腹が立つ性癖がある。
いまひとつの腹立たしさは、一族一門、それに家中の者がことごとくかれの器量に絶望しているなかで、父の信秀のみが、
——蔭口などは気にするな、そちのことはわしだけが知っている。
というような眼《まな》差《ざ》しでつねに見まもってくれていた。信長はそれを幼童のころから鋭敏に嗅《か》ぎ知っており、
(わしの事はお父にしかわからぬ)
と思っていた。逆にいえば父が理解してくれている、とおもえばこそ、安心して奇矯《ききょう》な行動や服装で明け暮れすることができた、ともいえる。
いわば、信長は信秀によってこそ、はじめて孤独でなかったのである。その唯一《ゆいいつ》の理解者をうしなったことは、声をあげて哭《な》きさけびたいほどの衝撃だった。
(それをもわからず、馬鹿な一門の者や老臣どもは葬式のことのみにうつつ《・・・》をぬかしておるわ)
だから葬式が憎い、という論法なのである。つまり万松寺の葬式というのは、自分の無理解者どもの祭典のようなものであった。葬儀が盛大であればあるほど、信長にとっては「連中」が自分とは無縁の場所で馬鹿さわぎをしているようにしかみえないのである。
「でも、御《おん》喪《も》主《しゅ》さまというのは、べつにむずかしいお役もなく、ただその場にすわっていらっしゃるだけでよいのではございませぬか。ただ御焼香だけはせねばなりませぬけど」
「お濃はよく知っているな」
「式次第を、各務野にそういって、中務《なかつかさ》(政秀)にきかせたのでございます」
「子供のくせにくだらぬ心配をするおなごだ」
「でも、心配でございますもの」
「やる」
安心しろ、という表情で信長はうなずき、「焼香だけすればよいのなら簡単なことだ」といった。
葬儀の日がきた。
盛大なものだった。
境内のそとには、足軽やその家族たち、城下の町人、領内の大百姓、さらには庶人ども数千人が、むれあつまり、沿道にうずくまっている。
境内には松林に黒白の幔幕《まんまく》を縦横に張りめぐらし、士分以上の者が、そこに一団ここに一群とたむろし、それに山伏衆が弓弦《ゆみづる》を鳴らして魔物の侵入をふせぎ、本堂にはすでに三百の僧が座についている。
やがて、織田家一門が参着する。つぎつぎと山門へ入ってゆく。信長の次弟勘十郎が、折目高の肩衣《かたぎぬ》、袴《はかま》という姿で馬にゆられ、下ぶくれの顔をやや伏せ気味にしてあらわれた。
その前後を、勘十郎づきの家老柴《しば》田《た》権六《ごんろく》、佐久間大学、同次右衛門などがつき従ってゆく。
沿道の者は、
「勘十郎さまよ」
と互いに袖《そで》をひきあいながら囁《ささや》いた。美男で利発で気がやさしい、という点で末森城主織田勘十郎信行は家中だけでなく領内の男女にまで人気があり、
——世はままならぬ。あのおひとが御総領であれば、織田様も御安泰であるものを。
と言う者が多い。
それに、母親の土田御前生きうつしの眼もとで、まぶたが厚ぼったくふたえ《・・・》に重なり、まつげが長く、瞳《ひとみ》が黒く、微笑すれば男でさえはっとなるほどの艶《えん》があったため、家中の女どもの騒ぎ方も尋常でない。
その眼が俯《ふし》目《め》になっている。
それを仰ぐと沿道の女どもは胸をつかれ、
——勘十郎様はお悲しみじゃ。
と、もらい泣きに泣き伏す者もいた。
そのあとが、喪主である。
信長であった。
前後に従う家老は林佐渡守通勝《みちかつ》、平手中務《なかつかさ》大輔《だゆう》政秀、青山与三右衛門などで、いずれも徒歩でしずしずとすすむ。
信長は、馬である。沿道の者はその姿をあおぎ見て、あっと息をのんだ。
袴もはいていない。
すそみじか《・・・・・》の小袖を着、腰にはどういうわけかシメナワをぐるぐる巻きに巻き、それに大小をぶち込み、髪は茶筅《ちゃせん》に巻きたててぴんと天を指《さ》し、コトコトと馬をすすめてゆく。
(おお、評判のとおりよ)
と、沿道はざわめいた。
——やはり、たわけ《・・・》殿じゃ。
——あれではお国がもつまい。
などとささやく。
信長は山門わきでひらりと馬から降りた。そのあと、本堂までの長い石畳を一歩々々、踏みしめるような歩きかたであるいてゆく。
本堂では、すでに奏楽読経《どきょう》がはじまっていた。
「殿、こちらへ」
と、平手政秀が小声で堂内へ導こうとすると、信長は、
「香《こう》炉《ろ》はどこじゃ」
と、いった。
「あれにござりまする」
「デアルカ」
うなずくや、ツカツカとその大香炉の前に歩みより、制止する政秀を押しのけて抹香《まっこう》をわしづかみにし、その手をあげ、眼をらん《・・》と見ひらき、そのままの姿勢でしばらく正面をにらみすえていたかと思うと、
「くわっ」
と、その抹香を投げつけた。
一瞬、読経の声がとまり、奏楽がみだれ、重臣どもが狼狽《ろうばい》した。
が、信長は顔も変えず、くるりと背をかえし、いまきた参道をもどりはじめた。
「殿」
と、平手政秀が袖をとらえようとすると、信長はふりはらい、
「爺っ、見たぞ」
叫び一つを残して去り、山門わきで馬にとびのるや、びしっ、と一鞭《ひとむち》あてた。
街道を疾風のように駈け、やがて野に出、林を突ききった。そのうしろを近習《きんじゅう》の者が数騎、あわてて追おうとしたが、ついに追いつけず、日没前まで懸命に捜索した。
やっと発見したのは、城外から北東四里はなれたところにある櫟林《くぬきばやし》のなかだった。
信長は、樹間の下草の上に、あおむけざまになって寝ころんでいた。
「殿」
と声をかけても、この十八歳の若者は、天を見つめたきりであった。
この日の葬儀には、濃姫の実家《さとかた》の美濃国主斎藤道三方からも、重臣の堀田道空が参列していた。
堀田はそのあと濃姫にあいさつし、やがて美濃へかえり、鷺山《さぎやま》城に登城して道三に葬儀の日の異変をつぶさに報告した。
ところが、道三はひとわたり聴きおわっても、口をつぐんだままである。
ややあって、
「道空、信長を狂人とみたか」
「狂人としか思えませぬ」
「しかし貌《かお》はどうじゃ」
と、道三はいった。
道三のもとには、濃姫につけてやった福富平太郎や各務野からときどき密書がおくられてきているために、信長の動静はほぼわかっている。しかしまだ信長が何者であるか、すこしもわからない。
(おれの半生のうちで、あの若者と似た者にめぐりあったことがない)
類型がないために、判断しかねている。
「お貌でござりますか」
と道空はしばらく考えていたが、
「わかりませぬ。まだお若うございますゆえ、お貌がなま《・・》で、はたしてお尋常にましますのか、それとも狂人か愚人か、いっこうに外《そと》見《み》にはうかがえませぬ」
「わからぬか」
「しかし、ちょっと拝見したぶんには、すずやかなお眼と、ひきしまったお唇《くち》もとにて、暗愚どころか、非常な器量人にみえまする」
「それだ」
道三は思わず声をあげた。福富の報告も各務野の報告もそうなのである。
「そのためにわしは信長をどうみてよいか、判断にくるしんでいる」
「家中では、いや領内ことごとく、かの御《ご》仁《じん》を愚人狂人と見ておりまするようで」
「馬鹿を言え」
道三は笑った。万人がなんといおうと、見る眼をもった者が見ねば信用がならぬ、ということを道三は知りぬいている。
「考えてみよ、織田信秀ほどの男が、信長を廃嫡《はいちゃく》せずにあのまま据《す》えておいたのだ。尾張の侍どもの愚眼より、信秀一人の眼をわしは信ずる。だから、判断できずにくるしんでいる」
「廃嫡と申せば」
と、堀田道空は声をひそめた。
「家中の老臣のあいだには信長殿を廃し、勘十郎君をお立て申そうという陰謀があるやに聞いておりまする」
「その事は、わしもきいている」
むろん、道三も人の親である。信長が何者であるにせよ、その弟のために殺されるようなことがあっては、濃姫のために美濃軍団のすべてを動かしてでも救援せねばなるまい、と思っている。
「いちど、婿《むこ》どのに会うか」
と、道三はいった。
「ほほう、これは御妙案で。しかし、この御会見はむずかしゅうございましょうなあ」
「むずかしい」
舅《しゅうと》と婿とはいえ、戦国のならいである。会見に事よせて謀殺するという手があり、織田家もそれを疑うだろうし、こちらもそれに用心せねばならぬ。
「しかし双方、引《ひ》き具《ぐ》す人数をさだめ、場所は国境とすれば、いかがでございましょう」
「むこうが承知するかな」
と言ったあと、道三はくすくす笑って、
「わしは評判がわるいからな」
と、つぶやいた。織田家としては、蝮《まむし》の常用手段と見ておそらくは断わるだろう。
「気ながに、時期を待とう。いま信秀の死んだ直後に申し入れたりすれば、むこうが無用に疑うだろう」
堀田はそのあと濃姫にあいさつし、やがて美濃へかえり、鷺山《さぎやま》城に登城して道三に葬儀の日の異変をつぶさに報告した。
ところが、道三はひとわたり聴きおわっても、口をつぐんだままである。
ややあって、
「道空、信長を狂人とみたか」
「狂人としか思えませぬ」
「しかし貌《かお》はどうじゃ」
と、道三はいった。
道三のもとには、濃姫につけてやった福富平太郎や各務野からときどき密書がおくられてきているために、信長の動静はほぼわかっている。しかしまだ信長が何者であるか、すこしもわからない。
(おれの半生のうちで、あの若者と似た者にめぐりあったことがない)
類型がないために、判断しかねている。
「お貌でござりますか」
と道空はしばらく考えていたが、
「わかりませぬ。まだお若うございますゆえ、お貌がなま《・・》で、はたしてお尋常にましますのか、それとも狂人か愚人か、いっこうに外《そと》見《み》にはうかがえませぬ」
「わからぬか」
「しかし、ちょっと拝見したぶんには、すずやかなお眼と、ひきしまったお唇《くち》もとにて、暗愚どころか、非常な器量人にみえまする」
「それだ」
道三は思わず声をあげた。福富の報告も各務野の報告もそうなのである。
「そのためにわしは信長をどうみてよいか、判断にくるしんでいる」
「家中では、いや領内ことごとく、かの御《ご》仁《じん》を愚人狂人と見ておりまするようで」
「馬鹿を言え」
道三は笑った。万人がなんといおうと、見る眼をもった者が見ねば信用がならぬ、ということを道三は知りぬいている。
「考えてみよ、織田信秀ほどの男が、信長を廃嫡《はいちゃく》せずにあのまま据《す》えておいたのだ。尾張の侍どもの愚眼より、信秀一人の眼をわしは信ずる。だから、判断できずにくるしんでいる」
「廃嫡と申せば」
と、堀田道空は声をひそめた。
「家中の老臣のあいだには信長殿を廃し、勘十郎君をお立て申そうという陰謀があるやに聞いておりまする」
「その事は、わしもきいている」
むろん、道三も人の親である。信長が何者であるにせよ、その弟のために殺されるようなことがあっては、濃姫のために美濃軍団のすべてを動かしてでも救援せねばなるまい、と思っている。
「いちど、婿《むこ》どのに会うか」
と、道三はいった。
「ほほう、これは御妙案で。しかし、この御会見はむずかしゅうございましょうなあ」
「むずかしい」
舅《しゅうと》と婿とはいえ、戦国のならいである。会見に事よせて謀殺するという手があり、織田家もそれを疑うだろうし、こちらもそれに用心せねばならぬ。
「しかし双方、引《ひ》き具《ぐ》す人数をさだめ、場所は国境とすれば、いかがでございましょう」
「むこうが承知するかな」
と言ったあと、道三はくすくす笑って、
「わしは評判がわるいからな」
と、つぶやいた。織田家としては、蝮《まむし》の常用手段と見ておそらくは断わるだろう。
「気ながに、時期を待とう。いま信秀の死んだ直後に申し入れたりすれば、むこうが無用に疑うだろう」
その後も、信長の狂躁《きょうそう》はおさまらず、家中の人気はいよいよ冷えはじめ、次弟勘十郎を擁立しようとする動きが、なかば公然のものになっている。
信長の唯一の味方といっていい平手政秀の耳にさえその噂《うわさ》が入っていた。
いや、噂どころではない。生母の土田御前は葬儀のあと、政秀をよび、
「信長殿では国が保てますまい」
と露骨にいったのである。
暗に、勘十郎を立てる動きに参加せよ、といわんばかりであった。現に、土田御前は一番家老の林佐《さ》渡守《どのかみ》を信長のもとから離し、末森城の勘十郎付の老臣にしてしまっている。
(工作は、よほど進んでいるのではないか)
と、政秀は戦慄《せんりつ》する思いであった。なるほど政秀は信長を、
「たわけ《・・・》殿」
だとみていたし、織田家の重臣という立場から思えばこれを廃して勘十郎を立てるほうが、よいということもわかっている。
が、この老人に出来るはなしではなかった。政秀と信長のあいだには、すでに父子《おやこ》に似た感情が流れている。幼童のころから育ててきた信長を、鶏を絞めるように殺して、その弟をたてるなどは、政秀にできる芸ではない。
その後、政秀は事ごとに信長の袖をとらえ、
「殿っ、おやめなされ」
とか、
「左様なことは下《げ》賤《せん》の者でも致しませぬぞ」
などと以前にも増し、ほとんど狂気のような口やかましさで諫《いさ》めた。信長の没落が、老人の目にはありありと見えていたからである。
信長は政秀のいうことだけは、十に一つぐらいはきくようであったが、葬儀のあと政秀のうるささが狂気じみてくるようになってから、ついに不快になり、やがて疎《うと》んずるようになった。そのうち、小さな事件がおこった。
政秀の長男の五郎右衛門という者が、一頭の駿馬《しゅんめ》をもっていた。あるとき信長がそれをみて、
「五《ご》郎《ろう》右《え》、おれにくれ」
と詰め寄った。欲しい、となれば矢もたてもたまらなくなるのが、この男の性癖である。
が、五郎右衛門は、
「いやでござる」
と、にべもなくことわった。「某《それがし》、武道を心掛けております。御諚《ごじょう》とは申せ、馬だけは、お譲りできませぬ」というのが、五郎右衛門の理由であった。
このため信長は父親の政秀までを憎々しく思うようになり、政秀が目通りを申し出てもきらって会おうとしなくなった。
政秀は、窮した。
この老人は、天文二十二年の春、信長への忠諫状《ちゅうかんじょう》を書き残して自殺してしまっている。
信長は、衝撃を受けた。
父の死のときには人前で泣きはしなかったが、このときは異様だった。政秀の死体を掻《か》い抱き、
「爺《じい》っ、爺っ」
と、身をもむようにして泣いた。
その後、信長は寝所にいても、道を歩いていても、ふと政秀のことを思いだすと、突如声を放って泣いた。
急に河原へ駈けおり、瀬をぱっと蹴《け》あげて、
「爺っ、この水を飲め」
と叫ぶときもある。
あるとき、鷹《たか》狩《が》りの帰路、馬にゆられながら突如悲しみが襲ったらしく、獲《と》った雉《きじ》を両手でべりべりと裂き、
「爺っ、これを食えっ」
と、泣きながら虚《こ》空《くう》に投げ上げるときもあった。
奇妙な男だった。
これほど慟哭《どうこく》し、政秀の忠諫状も読み、それを諳誦《あんしょう》し、泣くときは一文一句まちがいなく咆《ほ》えわめきながら、そのくせ政秀がそのために死んだ素行をあらためようともしなかったのである。
相変らず、狂人のように城外にとび出しては村童をかきあつめて喧《けん》嘩《か》をし、腹が減れば畑の大根をぬいて齧《かじ》り、気に入らねば家来ののどを絞めあげて打擲《ちょうちゃく》し、野のどこで寝るか、しばしば城に帰らない夜もあった。
尾張のたわけ《・・・》殿の評判がいよいよ高くなったある日、木曾《きそ》川《がわ》をこえて、桜の老木の枝一《いっ》枝《し》を携えた使者がやってきた。
道三の使者である。
信長の唯一の味方といっていい平手政秀の耳にさえその噂《うわさ》が入っていた。
いや、噂どころではない。生母の土田御前は葬儀のあと、政秀をよび、
「信長殿では国が保てますまい」
と露骨にいったのである。
暗に、勘十郎を立てる動きに参加せよ、といわんばかりであった。現に、土田御前は一番家老の林佐《さ》渡守《どのかみ》を信長のもとから離し、末森城の勘十郎付の老臣にしてしまっている。
(工作は、よほど進んでいるのではないか)
と、政秀は戦慄《せんりつ》する思いであった。なるほど政秀は信長を、
「たわけ《・・・》殿」
だとみていたし、織田家の重臣という立場から思えばこれを廃して勘十郎を立てるほうが、よいということもわかっている。
が、この老人に出来るはなしではなかった。政秀と信長のあいだには、すでに父子《おやこ》に似た感情が流れている。幼童のころから育ててきた信長を、鶏を絞めるように殺して、その弟をたてるなどは、政秀にできる芸ではない。
その後、政秀は事ごとに信長の袖をとらえ、
「殿っ、おやめなされ」
とか、
「左様なことは下《げ》賤《せん》の者でも致しませぬぞ」
などと以前にも増し、ほとんど狂気のような口やかましさで諫《いさ》めた。信長の没落が、老人の目にはありありと見えていたからである。
信長は政秀のいうことだけは、十に一つぐらいはきくようであったが、葬儀のあと政秀のうるささが狂気じみてくるようになってから、ついに不快になり、やがて疎《うと》んずるようになった。そのうち、小さな事件がおこった。
政秀の長男の五郎右衛門という者が、一頭の駿馬《しゅんめ》をもっていた。あるとき信長がそれをみて、
「五《ご》郎《ろう》右《え》、おれにくれ」
と詰め寄った。欲しい、となれば矢もたてもたまらなくなるのが、この男の性癖である。
が、五郎右衛門は、
「いやでござる」
と、にべもなくことわった。「某《それがし》、武道を心掛けております。御諚《ごじょう》とは申せ、馬だけは、お譲りできませぬ」というのが、五郎右衛門の理由であった。
このため信長は父親の政秀までを憎々しく思うようになり、政秀が目通りを申し出てもきらって会おうとしなくなった。
政秀は、窮した。
この老人は、天文二十二年の春、信長への忠諫状《ちゅうかんじょう》を書き残して自殺してしまっている。
信長は、衝撃を受けた。
父の死のときには人前で泣きはしなかったが、このときは異様だった。政秀の死体を掻《か》い抱き、
「爺《じい》っ、爺っ」
と、身をもむようにして泣いた。
その後、信長は寝所にいても、道を歩いていても、ふと政秀のことを思いだすと、突如声を放って泣いた。
急に河原へ駈けおり、瀬をぱっと蹴《け》あげて、
「爺っ、この水を飲め」
と叫ぶときもある。
あるとき、鷹《たか》狩《が》りの帰路、馬にゆられながら突如悲しみが襲ったらしく、獲《と》った雉《きじ》を両手でべりべりと裂き、
「爺っ、これを食えっ」
と、泣きながら虚《こ》空《くう》に投げ上げるときもあった。
奇妙な男だった。
これほど慟哭《どうこく》し、政秀の忠諫状も読み、それを諳誦《あんしょう》し、泣くときは一文一句まちがいなく咆《ほ》えわめきながら、そのくせ政秀がそのために死んだ素行をあらためようともしなかったのである。
相変らず、狂人のように城外にとび出しては村童をかきあつめて喧《けん》嘩《か》をし、腹が減れば畑の大根をぬいて齧《かじ》り、気に入らねば家来ののどを絞めあげて打擲《ちょうちゃく》し、野のどこで寝るか、しばしば城に帰らない夜もあった。
尾張のたわけ《・・・》殿の評判がいよいよ高くなったある日、木曾《きそ》川《がわ》をこえて、桜の老木の枝一《いっ》枝《し》を携えた使者がやってきた。
道三の使者である。