月が馳《ち》走《そう》といっていい。
するどく利《と》鎌《がま》のすがたをなし、峰の上の天に翳《かげ》ろいのない光芒《こうぼう》をはなちつつ、山をくだる道三とその将士の足もとを照らしていた。
(この浮世でみる最後の月になるだろう)
と、馬上の道三はおもった。
「のう、道空よ」
と、堀田道空にいった。
「わしの声明《しょうみょう》をきいたことがあるか」
「声明?」
道空は、山路の手綱さばきに苦心しながら法体《ほったい》の主君をふりかえった。
「そう、声明梵唄《ぼんばい》の声明よ」
仏教声楽といっていい。
道三は、京の妙覚寺本山の学生《がくしょう》であったむかし、この声楽をまなび、音量のゆたかさと肺活量の強靱《きょうじん》さのために、指導教授が、
——いっそ、将来は学問よりも唄《ばい》師《し》、声明師として進んではどうか。
と、本気ですすめたものであった。
声明とは、経文を唐代の音で諷唱《ふうしょう》する術で遠いむかし、中央アジアの大月《だいげつ》氏《し》国《こく》でおこなわれていた声楽がシナにつたわり、日本伝来後、おもに叡山《えいざん》の僧侶《そうりょ》によって伝承された。西洋音楽でいう音階として、宮《きゅう》・商《しょう》・角《かく》・徴《ち》・羽《う》の五《ご》音《いん》があり、これを基礎として、調子、曲、拍子がついてゆく。のちの謡曲、浄瑠《じょうる》璃《り》など世俗の音曲はすべてこの声明が源流になっている。
「まだ聴かせていただいたことがございませぬ」
堀田道空はいった。なるほど道三は、妙覚寺をとびだして浮世に出てからは、声明などは唄《うた》ったことがない。
いま、ふとそれを、肺いっぱいの嵐《らん》気《き》を吸いこんで唄おうという気になったのは、最後の戦場への道を照らしてくれる月への感謝という意味もあったであろう。単に青春のころをおもいだした、ということでもある。
さらに、
(声明師になっておれば、この齢になってこの山中、このような孤軍をひきいて決戦場にむかうこともなかったであろう)
という感慨もある。
自分の声量で、全軍を鼓舞したい、ということもあったかもしれない。いや、自分自身が鼓舞されたいという気持もあった。声でも張りあげていなければ、夜陰、孤軍の山をくだるざまなど、陰々滅々として堪えられなかった。
「やるぞ」
と、道三は山《さん》気《き》をしずしずと吸いこみ、ついには肺に星屑《ほしくず》まで吸いこんでしまうほどに満たしおえたかとおもうと、それをふとぶとと吐きはじめた。
声とともにである。
咆哮《ほうこう》のようなたくましさで、声が抑揚しはじめた。
ゆるやかに、春の波がうねるようにうねりはじめ、やがてそれが怒《ど》濤《とう》のような急調にかわり、かと思うと地にひそむ虫の音のように嫋々《じょうじょう》と細まってゆき、さらには消え絶え、ついで興り、興りつつ急に噴《ふ》きのぼって夜天をおどろかせ、一転、地に落ちて律動的《リズミカル》にころげまわった。
(鬼神のわざか)
と、暗い山路をおりてゆく二千あまりの将士は、魂を空に飛ばせて、道三の声が現出する世界に酔い痴《し》れた。
すでに絶望的な戦場にむかう将士には未来をもたさせていなかったが、しかし道三の声は、かれらに別な《・・》未来へのあこがれをあたえるかのようであった。法悦の世界である。
聴き惚《ほ》れてゆくうちに、なにやら死の世界こそ甘美な彼《ひ》岸《がん》であるようにおもわれ、その世界へ、いまこそ脚をあげ戦鼓をならして歩武堂々と進軍入城してゆくようにも思われた。
堀田道空——つまり、道三のそば近くにつかえてこの魅力ある策謀家の策のかんどころを知りぬいている堀田道空でさえ、道三の独唱を聴きつづけるうちにわけもない涙があふれてきて、
「ありがたや」
と、何度もつぶやくほどであった。
道三は、さらに咆哮をつづけた。
咆哮しつつ、道三自身の体腔《みのうち》も、酸度のつよい感動で濡《ぬ》れはじめていた。
法悦というべきか。
いや、もっと激しいものだった。道三は自分の生涯《しょうがい》に別れをつげるための挽《ばん》歌《か》をうたっている。が、この挽歌は咆哮をつづけているうちに道三の心をゆさぶり、震盪《しんとう》させ、泡《あわ》立《だ》たせ、ついにはふつふつと闘志をわきたたせた。挽歌は同時に戦闘歌の作用をも持った。
するどく利《と》鎌《がま》のすがたをなし、峰の上の天に翳《かげ》ろいのない光芒《こうぼう》をはなちつつ、山をくだる道三とその将士の足もとを照らしていた。
(この浮世でみる最後の月になるだろう)
と、馬上の道三はおもった。
「のう、道空よ」
と、堀田道空にいった。
「わしの声明《しょうみょう》をきいたことがあるか」
「声明?」
道空は、山路の手綱さばきに苦心しながら法体《ほったい》の主君をふりかえった。
「そう、声明梵唄《ぼんばい》の声明よ」
仏教声楽といっていい。
道三は、京の妙覚寺本山の学生《がくしょう》であったむかし、この声楽をまなび、音量のゆたかさと肺活量の強靱《きょうじん》さのために、指導教授が、
——いっそ、将来は学問よりも唄《ばい》師《し》、声明師として進んではどうか。
と、本気ですすめたものであった。
声明とは、経文を唐代の音で諷唱《ふうしょう》する術で遠いむかし、中央アジアの大月《だいげつ》氏《し》国《こく》でおこなわれていた声楽がシナにつたわり、日本伝来後、おもに叡山《えいざん》の僧侶《そうりょ》によって伝承された。西洋音楽でいう音階として、宮《きゅう》・商《しょう》・角《かく》・徴《ち》・羽《う》の五《ご》音《いん》があり、これを基礎として、調子、曲、拍子がついてゆく。のちの謡曲、浄瑠《じょうる》璃《り》など世俗の音曲はすべてこの声明が源流になっている。
「まだ聴かせていただいたことがございませぬ」
堀田道空はいった。なるほど道三は、妙覚寺をとびだして浮世に出てからは、声明などは唄《うた》ったことがない。
いま、ふとそれを、肺いっぱいの嵐《らん》気《き》を吸いこんで唄おうという気になったのは、最後の戦場への道を照らしてくれる月への感謝という意味もあったであろう。単に青春のころをおもいだした、ということでもある。
さらに、
(声明師になっておれば、この齢になってこの山中、このような孤軍をひきいて決戦場にむかうこともなかったであろう)
という感慨もある。
自分の声量で、全軍を鼓舞したい、ということもあったかもしれない。いや、自分自身が鼓舞されたいという気持もあった。声でも張りあげていなければ、夜陰、孤軍の山をくだるざまなど、陰々滅々として堪えられなかった。
「やるぞ」
と、道三は山《さん》気《き》をしずしずと吸いこみ、ついには肺に星屑《ほしくず》まで吸いこんでしまうほどに満たしおえたかとおもうと、それをふとぶとと吐きはじめた。
声とともにである。
咆哮《ほうこう》のようなたくましさで、声が抑揚しはじめた。
ゆるやかに、春の波がうねるようにうねりはじめ、やがてそれが怒《ど》濤《とう》のような急調にかわり、かと思うと地にひそむ虫の音のように嫋々《じょうじょう》と細まってゆき、さらには消え絶え、ついで興り、興りつつ急に噴《ふ》きのぼって夜天をおどろかせ、一転、地に落ちて律動的《リズミカル》にころげまわった。
(鬼神のわざか)
と、暗い山路をおりてゆく二千あまりの将士は、魂を空に飛ばせて、道三の声が現出する世界に酔い痴《し》れた。
すでに絶望的な戦場にむかう将士には未来をもたさせていなかったが、しかし道三の声は、かれらに別な《・・》未来へのあこがれをあたえるかのようであった。法悦の世界である。
聴き惚《ほ》れてゆくうちに、なにやら死の世界こそ甘美な彼《ひ》岸《がん》であるようにおもわれ、その世界へ、いまこそ脚をあげ戦鼓をならして歩武堂々と進軍入城してゆくようにも思われた。
堀田道空——つまり、道三のそば近くにつかえてこの魅力ある策謀家の策のかんどころを知りぬいている堀田道空でさえ、道三の独唱を聴きつづけるうちにわけもない涙があふれてきて、
「ありがたや」
と、何度もつぶやくほどであった。
道三は、さらに咆哮をつづけた。
咆哮しつつ、道三自身の体腔《みのうち》も、酸度のつよい感動で濡《ぬ》れはじめていた。
法悦というべきか。
いや、もっと激しいものだった。道三は自分の生涯《しょうがい》に別れをつげるための挽《ばん》歌《か》をうたっている。が、この挽歌は咆哮をつづけているうちに道三の心をゆさぶり、震盪《しんとう》させ、泡《あわ》立《だ》たせ、ついにはふつふつと闘志をわきたたせた。挽歌は同時に戦闘歌の作用をも持った。
道三の「偽子」義竜は、いまや一色左京大夫義竜と改称し、稲葉山城を中心とするクーデター政権の頂点にいた。
北方の山地から偵察者《ものみ》が馳《は》せもどってきて、
「入道様の軍が山をくだりつつあります」
と報《し》らせるや、ただちに貝を吹かせ、軍勢に進発の支度を命じた。
義竜自身も、武装し、馬に乗った。六尺五寸、三十貫の巨体で馬にのると、あぶみ《・・・》から足をはずせば、足が地につくほどであった。
家中は蔭《かげ》では、
「六尺五寸様」
と、よんでいた。口のわるい武《む》儀郡《ぎのこおり》あたりの出身の連中は、
「六尺五寸様が御馬にまたがられると、足が六本におなりあそばす」
と、いった。跨《また》がりながら、長い脚で地を漕《こ》いでゆく、という意味である。この当時の馬は三百数十年後に輸入された西洋馬からくらべると、ひどく小さく驢馬《ろば》のやや大きい程度でしかなかった。
このため、体が異常発育をとげてしまった義竜などは、むしろ馬に乗るより歩いたほうがましなのであったが、それでは一軍の大将の容儀にかかわるので、やはり世間なみに騎乗せざるをえなかった。
しかし、ものの三町も騎《の》りつづけると、馬の息づかいが荒くなり、眼のまわりから汗を噴きだした。義竜はやむなく乗りかえ馬を五頭用意し、三町ごとに馬をのりかえるのを常としていた。
軍勢の進発準備がととのった。
が、義竜はそれらを待機させたまま、稲葉山山麓《さんろく》の居館で、刻々と南下をつづける道三軍の状況を注意していた。
(いったい、どこへ出る気か)
というのが、義竜の懸《け》念《ねん》であった。道三の軍は、どこを衝《つ》く気なのか。
(まさか、決戦する気ではあるまい)
人数がちがいすぎるのである。道三ほどの練達の男が、巨岩に卵を投げつけるような、それほどの無謀をするとはおもえなかった。
(この美濃の中央部を突破して尾張に入り信長の城に逃げこむつもりか)
その公算が、もっともつよい。
むろん、その公算のもとに義竜は作戦計画をたて、尾張に逃がさず、木曾川以北で道三軍を殲滅《せんめつ》するつもりでいた。
尾張に対する警戒用の別働隊も出してある。この隊は二つの任務をもっている。信長が万一、道三救援のために北上してきたばあい、それをふせぐ役目、それと道三が美濃をぬけ出て尾張に走る場合、取りこぼさぬように網を張っておく役目、このふたつである。
この別働隊は、隊長を牧村主水助《もんどのすけ》、林半《はん》大《だ》夫《ゆう》のふたりとし、兵三千をあたえ、稲葉山城の西南方大浦《おおうら》(現在の羽島市)付近に逆《さか》茂木《もぎ》、堀、柵《さく》などをつかって堅固な野戦陣地をきずかせ、
「もし信長が突撃しても、柵から出て行っての合戦はするな。あくまでも防禦《ぼうぎょ》を専一とし、守りに守って信長の兵を一兵たりとも美濃に入れぬようにせよ」
と、防禦をのみ命じてある。
夜半、重要な報告が入った。
道三の軍は、まっすぐに稲葉山城にむかってくる様子である、という。
「さては決戦をするつもりか」
と、義竜はあきれ、かつ戦慄《せんりつ》した。
すぐ軍勢を部署し、稲葉山城の防衛第一線である長良川まで押し出させ、そこで数段の陣をかまえ、総大将の義竜自身は、稲葉山の西北方にある、
「丸山」
という小さな丘に本陣を据《す》えた。時に月は東に傾いている。
一方、信長のほうである。
その夜、道三の密使耳次は、大《おお》桑《が》の山をかけくだり、美濃平野を駈《か》けすぎ、木曾川をおよぎ渡り、尾張清《きよ》洲《す》城に入った。
なお夜が深いところをみると、大桑から十三里の道を、ほとんど五、六時間で耳次は駈けとおしたことになる。
信長は耳次を座敷にあげて対面し、そのたずさえてきた密書をひろげた。
遺書である。
しかも、美濃一国の譲状《ゆずりじょう》であった。読みおわるなり信長は、
「ま、まむしめっ」
と世にも奇怪な叫び声をあげた。信長は立ちあがった。蝮《まむし》の危機、蝮の悲《ひ》愴《そう》、蝮の末路、それは信長の心を動揺させた。それもある。しかし亡父のほかはたれも理解してくれる者のいなかった自分を、隣国の舅《しゅうと》だけはふしぎな感覚と論法で理解してくれ、気味のわるいほどに愛してくれた。その老入道が、悲運のはてになって自分に密書を送り、国を譲る、というおそるべき好意をみせたのである。これほどの処遇と愛情を、自分はかつて縁族家来他人から一度でも受けたことがあるか。ない。
と思った瞬間、
「けーえっ」
と意味不明な叫びをあげていた。かつて、自分に対して慈父同然であった平手政秀の自《じ》刃《じん》のときも、信長は錯乱した。
いまも、
「狂《きょう》した」
と、近習はおもった。
信長は、駈けだした。廊下の奥へ駈けた。駈けながら、
「けーえっ」
と、もう一度叫んでいた。みな狼狽《ろうばい》した。「馬を曳《ひ》け」ともとれるし、「陣貝《かい》を吹け」ともとれた。聞きかえせば怒号を受けるだけのことだったから、家来どもはただちにその二つのことを実施した。
その間、信長は濃姫の部屋にとびこみ、「お濃、お濃、お濃」と三度叫んだ。
濃姫は、先刻、美濃からの使者がきた、ということをきき、さては美濃の父にかかわる凶《わる》い報《し》らせか、と直感し、すぐ起床し、居ずまいをなおしていた。
廊下からきこえてくる信長の声に、
「お濃はここにおります」
と、ふすまに走り寄り、みずからそれをひらいた。
「おお居たか」
とも信長はいわない。
道三の遺言状一枚を、濃姫があけたふすまのあいだへほうりこみ、
「蝮を連れてもどる」
と、叫びすてて駈け去った。
廊下を駈けながら信長は衣裳《いしょう》を一枚ずつぬいでゆき広間にもどったときには褌《まわし》さえとり去った素裸《すはだか》であった。
児《こ》小姓《ごしょう》が駈け寄って、その信長の腰に、切りたての真新しい晒《さらし》を締めた。ついで晒の肌《はだ》着《ぎ》に同じく晒の肩衣《かたぎぬ》を着つけさせ、さらに袴《はかま》、烏帽子《えぼし》、直垂《ひたたれ》などをつけ、ついでてきぱきと具足をつけさせた。
あとは、この男は駈けだすことしかない。玄関をとび出して馬に乗るや、まだ五、六騎しかととのわないうちに、もう鞭《むち》をあげて城門からとびだしていた。
信長という男は、その生涯、出陣の号令をくだしたことが一度もなかった。つねにみずから一騎でとびだし、気づいた者があとを追うというやりかたであった。
海東村まできたとき、すでに二百騎ぐらいになっていた。清洲から海東までの街道を、信長のあとを追う松明《たいまつ》がおびただしく流れ走った。信長はこの海東村の鎮守の鳥居の前で手綱をしぼって馬を立て、後続する者を待った。みるみる三百、五百と人数がふえた。
その夜、道三の密使耳次は、大《おお》桑《が》の山をかけくだり、美濃平野を駈《か》けすぎ、木曾川をおよぎ渡り、尾張清《きよ》洲《す》城に入った。
なお夜が深いところをみると、大桑から十三里の道を、ほとんど五、六時間で耳次は駈けとおしたことになる。
信長は耳次を座敷にあげて対面し、そのたずさえてきた密書をひろげた。
遺書である。
しかも、美濃一国の譲状《ゆずりじょう》であった。読みおわるなり信長は、
「ま、まむしめっ」
と世にも奇怪な叫び声をあげた。信長は立ちあがった。蝮《まむし》の危機、蝮の悲《ひ》愴《そう》、蝮の末路、それは信長の心を動揺させた。それもある。しかし亡父のほかはたれも理解してくれる者のいなかった自分を、隣国の舅《しゅうと》だけはふしぎな感覚と論法で理解してくれ、気味のわるいほどに愛してくれた。その老入道が、悲運のはてになって自分に密書を送り、国を譲る、というおそるべき好意をみせたのである。これほどの処遇と愛情を、自分はかつて縁族家来他人から一度でも受けたことがあるか。ない。
と思った瞬間、
「けーえっ」
と意味不明な叫びをあげていた。かつて、自分に対して慈父同然であった平手政秀の自《じ》刃《じん》のときも、信長は錯乱した。
いまも、
「狂《きょう》した」
と、近習はおもった。
信長は、駈けだした。廊下の奥へ駈けた。駈けながら、
「けーえっ」
と、もう一度叫んでいた。みな狼狽《ろうばい》した。「馬を曳《ひ》け」ともとれるし、「陣貝《かい》を吹け」ともとれた。聞きかえせば怒号を受けるだけのことだったから、家来どもはただちにその二つのことを実施した。
その間、信長は濃姫の部屋にとびこみ、「お濃、お濃、お濃」と三度叫んだ。
濃姫は、先刻、美濃からの使者がきた、ということをきき、さては美濃の父にかかわる凶《わる》い報《し》らせか、と直感し、すぐ起床し、居ずまいをなおしていた。
廊下からきこえてくる信長の声に、
「お濃はここにおります」
と、ふすまに走り寄り、みずからそれをひらいた。
「おお居たか」
とも信長はいわない。
道三の遺言状一枚を、濃姫があけたふすまのあいだへほうりこみ、
「蝮を連れてもどる」
と、叫びすてて駈け去った。
廊下を駈けながら信長は衣裳《いしょう》を一枚ずつぬいでゆき広間にもどったときには褌《まわし》さえとり去った素裸《すはだか》であった。
児《こ》小姓《ごしょう》が駈け寄って、その信長の腰に、切りたての真新しい晒《さらし》を締めた。ついで晒の肌《はだ》着《ぎ》に同じく晒の肩衣《かたぎぬ》を着つけさせ、さらに袴《はかま》、烏帽子《えぼし》、直垂《ひたたれ》などをつけ、ついでてきぱきと具足をつけさせた。
あとは、この男は駈けだすことしかない。玄関をとび出して馬に乗るや、まだ五、六騎しかととのわないうちに、もう鞭《むち》をあげて城門からとびだしていた。
信長という男は、その生涯、出陣の号令をくだしたことが一度もなかった。つねにみずから一騎でとびだし、気づいた者があとを追うというやりかたであった。
海東村まできたとき、すでに二百騎ぐらいになっていた。清洲から海東までの街道を、信長のあとを追う松明《たいまつ》がおびただしく流れ走った。信長はこの海東村の鎮守の鳥居の前で手綱をしぼって馬を立て、後続する者を待った。みるみる三百、五百と人数がふえた。
道三は南下した。
伊佐見をとおって富岡に入り、粟《あわ》野《の》へ出、岩崎で敵の前哨《ぜんしょう》小部隊を蹴《け》ちらし、さらに南下をつづけた。
稲葉山城を衝《つ》くべく、長良川を押し渡るつもりであった。
渡河点がいくつかある。
道三は、稲葉山城への最短距離である「馬《ばん》場《ば》の渡し」をえらび、先鋒《せんぽう》部隊をその方向にむけさせた。
夜はまだ明けない。
物見が帰ってきて、
「馬場の渡しのむこう岸に、おびただしい大軍が布陣しております」
と報告した。
(義竜も、おれが馬場の渡しから渡河するとみたか)
道三は、片腹いたく思った。義竜は三十のこのとしまで、一軍の指揮官として合戦を指導した経験がない。おそらく、左右が智恵をつけたのであろう。
道三は、多数の物見を放った。
やがてそれらが帰ってきて、敵の軍容、人数、部署などを報告した。
それらを総合すると、予想される合戦の形態は、どうやら長良川をはさんでの決戦、ということになりそうであった。
道三はそれをすることを決心し、軍の行進を停止させ、長良川畔の野に軍を展開させるべく、諸将を部署した。
さて、本陣の位置である。
崇福《そうふく》寺《じ》という寺があり、その南西の方角に堤に沿って松林がひろがっている。
その林間を、陣所にきめた。
道三の兵は機敏に動いた。やがて陣所の前に逆《さか》茂木《もぎ》が植えこまれ、竹矢来が組まれ、幔《まん》幕《まく》がはりめぐらされ、親衛部隊が布陣した。
道三がその本陣に入るや、かれの旗ジルシである「二頭波頭《にとうなみがしら》」の紋を染めぬいた九本の白旗が打ちたてられた。
やがて夜があけ、朝霧のこめるなかを弘治二年四月二十日の陽《ひ》がのぼりはじめた。
道三は、床几《しょうぎ》に腰をおろしている。
「陣貝を吹け」
道三は、銹《さ》びた声でいった。
朝の陽の下に、対岸の風景がにぎやかに展《ひら》けはじめた。
雲《うん》霞《か》の軍勢といっていい。
おびただしい旗、指物《さしもの》が林立している。それらの背後、義竜の本陣のある丸山には、土岐源氏の嫡流《ちゃくりゅう》たることをあらわす藍色《あいいろ》に染められた桔梗《ききょう》の旗が九本、遠霞《とおがす》みにかすみつつひるがえっていた。
「やるわ」
と、道三は苦笑した。
その表情のまま顔をゆるやかにまわし、自分の兵たちの士気をみた。もはや生をあきらめた必死の相がどの将士の面上にもある。
(みな、おれと地獄にゆく気か)
と、道三は、一抹《いちまつ》のあわれを催した。同時に、三十数年前、美濃に流れてきた他所うまれの人間のために、その最《さい》期《ご》を共にしようという者が二千人もあるという事実は、道三にとっては感動すべきことでもあった。
ふと、
(信長は、どうしておるかな)
という想念が、あたまをかすめた。その援兵を断りはしたが、あの若者のことだ、来るかもしれない、と思った。
(来る、ということを、全軍《みな》に言いきかせてやろうか)
と思ったのは、一同に希望をもたせてやりたいという思いがきざしたからであった。援軍がくるときけば、戦闘にはげみも出る。崩れるところを必死に踏みとどまる気にもなろう。
が、道三はやめた。
どの男の顔にも、そういう気休めをいう余地がないほどに決死なものがみなぎっていたからである。
なまじい、援軍うんぬんを言えば、せっかくのその気組がくずれ、かえって依頼心が生じ、士気が落ち、この正念場《しょうねんば》をしくじるかもしれない。
時が流れた。
やがて、対岸の義竜の陣地から、陣貝《かい》、太鼓、陣鉦《かね》の音がすさまじく湧《わ》きおこり、先鋒部隊がひしめきながら渡河しはじめた。
「出よ」
道三の采《さい》が空中に鳴った。
同時に押し太鼓が鳴りわたり、堤防上に布陣していた道三の鉄砲隊が、撃っては詰めかえ撃っては詰めかえして、すさまじい射撃をはじめた。
その弾雨をしのぎつつ渡河してきたのは、義竜軍の先鋒竹腰道塵《どうじん》のひきいる六百人であった。
道塵は、道三がかわいがって大垣城主にしてやり、道三の道《・》の字を一字くれてやったほどの男である。
道三は、床几を立った。
伊佐見をとおって富岡に入り、粟《あわ》野《の》へ出、岩崎で敵の前哨《ぜんしょう》小部隊を蹴《け》ちらし、さらに南下をつづけた。
稲葉山城を衝《つ》くべく、長良川を押し渡るつもりであった。
渡河点がいくつかある。
道三は、稲葉山城への最短距離である「馬《ばん》場《ば》の渡し」をえらび、先鋒《せんぽう》部隊をその方向にむけさせた。
夜はまだ明けない。
物見が帰ってきて、
「馬場の渡しのむこう岸に、おびただしい大軍が布陣しております」
と報告した。
(義竜も、おれが馬場の渡しから渡河するとみたか)
道三は、片腹いたく思った。義竜は三十のこのとしまで、一軍の指揮官として合戦を指導した経験がない。おそらく、左右が智恵をつけたのであろう。
道三は、多数の物見を放った。
やがてそれらが帰ってきて、敵の軍容、人数、部署などを報告した。
それらを総合すると、予想される合戦の形態は、どうやら長良川をはさんでの決戦、ということになりそうであった。
道三はそれをすることを決心し、軍の行進を停止させ、長良川畔の野に軍を展開させるべく、諸将を部署した。
さて、本陣の位置である。
崇福《そうふく》寺《じ》という寺があり、その南西の方角に堤に沿って松林がひろがっている。
その林間を、陣所にきめた。
道三の兵は機敏に動いた。やがて陣所の前に逆《さか》茂木《もぎ》が植えこまれ、竹矢来が組まれ、幔《まん》幕《まく》がはりめぐらされ、親衛部隊が布陣した。
道三がその本陣に入るや、かれの旗ジルシである「二頭波頭《にとうなみがしら》」の紋を染めぬいた九本の白旗が打ちたてられた。
やがて夜があけ、朝霧のこめるなかを弘治二年四月二十日の陽《ひ》がのぼりはじめた。
道三は、床几《しょうぎ》に腰をおろしている。
「陣貝を吹け」
道三は、銹《さ》びた声でいった。
朝の陽の下に、対岸の風景がにぎやかに展《ひら》けはじめた。
雲《うん》霞《か》の軍勢といっていい。
おびただしい旗、指物《さしもの》が林立している。それらの背後、義竜の本陣のある丸山には、土岐源氏の嫡流《ちゃくりゅう》たることをあらわす藍色《あいいろ》に染められた桔梗《ききょう》の旗が九本、遠霞《とおがす》みにかすみつつひるがえっていた。
「やるわ」
と、道三は苦笑した。
その表情のまま顔をゆるやかにまわし、自分の兵たちの士気をみた。もはや生をあきらめた必死の相がどの将士の面上にもある。
(みな、おれと地獄にゆく気か)
と、道三は、一抹《いちまつ》のあわれを催した。同時に、三十数年前、美濃に流れてきた他所うまれの人間のために、その最《さい》期《ご》を共にしようという者が二千人もあるという事実は、道三にとっては感動すべきことでもあった。
ふと、
(信長は、どうしておるかな)
という想念が、あたまをかすめた。その援兵を断りはしたが、あの若者のことだ、来るかもしれない、と思った。
(来る、ということを、全軍《みな》に言いきかせてやろうか)
と思ったのは、一同に希望をもたせてやりたいという思いがきざしたからであった。援軍がくるときけば、戦闘にはげみも出る。崩れるところを必死に踏みとどまる気にもなろう。
が、道三はやめた。
どの男の顔にも、そういう気休めをいう余地がないほどに決死なものがみなぎっていたからである。
なまじい、援軍うんぬんを言えば、せっかくのその気組がくずれ、かえって依頼心が生じ、士気が落ち、この正念場《しょうねんば》をしくじるかもしれない。
時が流れた。
やがて、対岸の義竜の陣地から、陣貝《かい》、太鼓、陣鉦《かね》の音がすさまじく湧《わ》きおこり、先鋒部隊がひしめきながら渡河しはじめた。
「出よ」
道三の采《さい》が空中に鳴った。
同時に押し太鼓が鳴りわたり、堤防上に布陣していた道三の鉄砲隊が、撃っては詰めかえ撃っては詰めかえして、すさまじい射撃をはじめた。
その弾雨をしのぎつつ渡河してきたのは、義竜軍の先鋒竹腰道塵《どうじん》のひきいる六百人であった。
道塵は、道三がかわいがって大垣城主にしてやり、道三の道《・》の字を一字くれてやったほどの男である。
道三は、床几を立った。