陰暦四月といえば、樹《き》の種類の多い稲葉山は全山がさまざまな新緑でかがやく。
その稲葉山が霧でつつまれ、そこへ陽光がかっと射《さ》したために、長良川北岸に布陣する道三の側からみると、霧の粒子のひとつぶひとつぶが、真青に染められているようにみえた。
その青い霧がうごく。
西へ。
風は西に吹き、敵味方の旗はことごとく西にむかってはためいている。
その前面の青い霧のなかから、竹腰道塵のひきいる敵の先鋒六百が、銃を撃ち槍《やり》の穂をきらめかせて突撃してきたとき、
(ほう、美しくもあるかな)
と、道三は、敵の色とりどりの具足、形さまざまな旗指物をみて、極彩色の絵《え》屏風《びょうぶ》でもみるような実感をもった。美濃へきていらい、数かぎりとなく戦場をふんできたが、戦場の光景がうつくしいと思ったことはかつてない。
つねに必死に戦ってきた。それを色彩のある風景として観賞したことがなかった。心にゆとりがなかったのであろう。
いまは、それを観賞している。
(おれはどうやら変わったらしいな)
と、道三は、自分をあらためて眺《なが》めるようなおもいがした。
どうやら声明《しょうみょう》をうたいつつ北の山から降りくだってきたとき、すでに道三はそれ以前の自分とはまるでちがう者になりはてたようであった。
(勝負、ということを捨てたせいかな)
道三は、敵を見ながらそう思った。生涯、梯《はし》子《ご》をのぼるような生き方で送ってきた。梯子の頭上にはつねに敵がおり、それを斬《き》りはらいつつ一段々々のぼり、ついに梯子をのぼりつめたときには、こんどは逆に下からくる敵と戦わねばならぬ羽目になった。
防衛である。
防ぎには、勝負のたのしみがない。勝ってもともとである。生来、攻撃することだけに情熱をもやすことができたこの男は、なんとなくこの梯子の下から来る敵を斬りはらう作業に情熱がわかなかった。かつ、数量的に勝利をのぞむべくもない。それがこの男に勝負の意識をすてさせ、執着を去らせた。その拍子に、別の道三の顔が出た。
敵の突撃をながめている道三の顔つきは、なにやら紅葉狩りにでもきて四方《よも》の景色をうちながめている老風流人のようなのんきさがあり、とうてい、これから戦闘をしようという指揮官の顔ではない。
かといって、道三は、手をこまねいて眺めているわけではなかった。
すでに床几《しょうぎ》から立ちあがっている。
采《さい》を休みなく振り、五段に構えた人数をたくみに出し入れしつつ、最初は鉄砲で敵の前列をくずし、ついで敵の左右の側面を弓組で崩させ、その崩れをみるや、すかさず槍組に突撃させ、敵の中軍が崩れ立ったと見たとき、左右の母衣武《ほろむ》者《しゃ》のなかから誰々《だれだれ》と名指しして三人をえらび、
「道塵の首をあげてこい」
と、手なれた料理人のような落ちつきようで、ゆっくりと命じた。混戦のなかで敵将が孤立している、いまなら接近できる、と道三は老練な戦場眼でそうみたのであろう。
道三の眼にくるいはなかった。手もとから母衣武者三騎が、流星のように駈《か》けだした。かれらは乱軍のなかへ駈け入るや、一挙に敵の中軍に揉《も》み入り、するすると道塵にちかづき、まるで草を薙《な》ぐような容易さで、その首をあげてしまった。
あっというまの出来ごとである。
主将をうしなって敵は総崩れになり、長良川にむかって遁《に》げだした。
道三は声をあげて笑いだした。
「わが腕をみたか」
と笑いながら腰をたたき、どさりと床几に腰をおろした。わずかに疲れた。
たしかに勝った。
道三の兵たちは潰走《かいそう》する敵兵を、猟犬のように追っている。が、道三は、この一時的戦勝が、結局はなんの意味もなさないであろうことを知りぬいていた。
(しかし、多少は息がつける)
それだけの意味である。
やがて霧が晴れはじめ、対岸に密集していた敵の主力が、三隊にわかれて長良川を渡河しはじめた。
川を埋め地を蔽《おお》うほどのおびただしい人馬である。その敵の三隊のうち二隊は左右に迂《う》回《かい》しようとする気配をしめした。やがては道三の軍を大きく包囲しようとするのであろう。道三は知っている。なぜならば自分が常用してきた得意の戦法だからである。
(おれが、おれの戦法でほろぶのか)
と、道三はわれながらおかしかった。
道三は、退《ひ》き鉦《がね》をたたかせた。
この男の考えでは、戦場に散っている自軍を集結し、一隊とし、その結束力によって敵が大きく打とうとする包囲の網をずたずたに破ってやるつもりであった。
その稲葉山が霧でつつまれ、そこへ陽光がかっと射《さ》したために、長良川北岸に布陣する道三の側からみると、霧の粒子のひとつぶひとつぶが、真青に染められているようにみえた。
その青い霧がうごく。
西へ。
風は西に吹き、敵味方の旗はことごとく西にむかってはためいている。
その前面の青い霧のなかから、竹腰道塵のひきいる敵の先鋒六百が、銃を撃ち槍《やり》の穂をきらめかせて突撃してきたとき、
(ほう、美しくもあるかな)
と、道三は、敵の色とりどりの具足、形さまざまな旗指物をみて、極彩色の絵《え》屏風《びょうぶ》でもみるような実感をもった。美濃へきていらい、数かぎりとなく戦場をふんできたが、戦場の光景がうつくしいと思ったことはかつてない。
つねに必死に戦ってきた。それを色彩のある風景として観賞したことがなかった。心にゆとりがなかったのであろう。
いまは、それを観賞している。
(おれはどうやら変わったらしいな)
と、道三は、自分をあらためて眺《なが》めるようなおもいがした。
どうやら声明《しょうみょう》をうたいつつ北の山から降りくだってきたとき、すでに道三はそれ以前の自分とはまるでちがう者になりはてたようであった。
(勝負、ということを捨てたせいかな)
道三は、敵を見ながらそう思った。生涯、梯《はし》子《ご》をのぼるような生き方で送ってきた。梯子の頭上にはつねに敵がおり、それを斬《き》りはらいつつ一段々々のぼり、ついに梯子をのぼりつめたときには、こんどは逆に下からくる敵と戦わねばならぬ羽目になった。
防衛である。
防ぎには、勝負のたのしみがない。勝ってもともとである。生来、攻撃することだけに情熱をもやすことができたこの男は、なんとなくこの梯子の下から来る敵を斬りはらう作業に情熱がわかなかった。かつ、数量的に勝利をのぞむべくもない。それがこの男に勝負の意識をすてさせ、執着を去らせた。その拍子に、別の道三の顔が出た。
敵の突撃をながめている道三の顔つきは、なにやら紅葉狩りにでもきて四方《よも》の景色をうちながめている老風流人のようなのんきさがあり、とうてい、これから戦闘をしようという指揮官の顔ではない。
かといって、道三は、手をこまねいて眺めているわけではなかった。
すでに床几《しょうぎ》から立ちあがっている。
采《さい》を休みなく振り、五段に構えた人数をたくみに出し入れしつつ、最初は鉄砲で敵の前列をくずし、ついで敵の左右の側面を弓組で崩させ、その崩れをみるや、すかさず槍組に突撃させ、敵の中軍が崩れ立ったと見たとき、左右の母衣武《ほろむ》者《しゃ》のなかから誰々《だれだれ》と名指しして三人をえらび、
「道塵の首をあげてこい」
と、手なれた料理人のような落ちつきようで、ゆっくりと命じた。混戦のなかで敵将が孤立している、いまなら接近できる、と道三は老練な戦場眼でそうみたのであろう。
道三の眼にくるいはなかった。手もとから母衣武者三騎が、流星のように駈《か》けだした。かれらは乱軍のなかへ駈け入るや、一挙に敵の中軍に揉《も》み入り、するすると道塵にちかづき、まるで草を薙《な》ぐような容易さで、その首をあげてしまった。
あっというまの出来ごとである。
主将をうしなって敵は総崩れになり、長良川にむかって遁《に》げだした。
道三は声をあげて笑いだした。
「わが腕をみたか」
と笑いながら腰をたたき、どさりと床几に腰をおろした。わずかに疲れた。
たしかに勝った。
道三の兵たちは潰走《かいそう》する敵兵を、猟犬のように追っている。が、道三は、この一時的戦勝が、結局はなんの意味もなさないであろうことを知りぬいていた。
(しかし、多少は息がつける)
それだけの意味である。
やがて霧が晴れはじめ、対岸に密集していた敵の主力が、三隊にわかれて長良川を渡河しはじめた。
川を埋め地を蔽《おお》うほどのおびただしい人馬である。その敵の三隊のうち二隊は左右に迂《う》回《かい》しようとする気配をしめした。やがては道三の軍を大きく包囲しようとするのであろう。道三は知っている。なぜならば自分が常用してきた得意の戦法だからである。
(おれが、おれの戦法でほろぶのか)
と、道三はわれながらおかしかった。
道三は、退《ひ》き鉦《がね》をたたかせた。
この男の考えでは、戦場に散っている自軍を集結し、一隊とし、その結束力によって敵が大きく打とうとする包囲の網をずたずたに破ってやるつもりであった。
一方、信長は北進をつづけた。
途中、何度か馬をとめて家来の追いつくのを待ち、待っては駈けた。やがて富田の大浦の部落に入った。この地には聖徳寺がある。三年前、道三が婿《むこ》の信長とこの地で落ちあい、劇的な対面をとげた。その場所が、聖徳寺だったのだ。信長は、その寺の山門の前を駈けぬけながら、さすがに感傷的になったのか、
「蝮、生きていろっ」
と、闇《やみ》にむかって叫んだ。
叫びながら、信長は奇妙なことに気がついた。あの日は天文二十二年四月二十日であった。いまは年号こそ変われ、その三年後の、しかもおなじ四月二十日ではないか。
偶然かも知れない。
しかし信長には偶然とも思えず、
(どこまで芸のこまかい男か)
と驚嘆した。蝮は、自分と会った四月二十日を選び、おのれの命日にしたかったのではあるまいか。いやそうにちがいない。四月二十日を命日にしておけば道三のあとを弔《とむら》うべき信長にとって二重に意味のある祥月《しょうつき》命日になるのであった。されば信長は生涯道三を忘れぬであろう。
(あの男は、そこまでおれを思っている)
若い信長にとって、この発見は堪えられぬほどの感傷をそそった。
夜風を衝いて駈けながら、信長は馬上で何度も涙を掻《か》いぬぐった。
木曾川の支流の足《あ》近川《ぢかがわ》の土手まできたとき急にあたりが明るくなった。
陽が昇った。
背後をみれば、すでに追いついた人数はざっと三千人はあろう。
「殿、お耳をお澄ましあそばせ」
と、駈け寄ってきた者がある。織田家の侍大将の柴《しば》田《た》権六勝家《ごんろくかついえ》であった。
聞こえる。
霧のむこう、美濃平野のかなたで、陣貝、太鼓、銃声の遠鳴りが、にわかにひびきわたってきたのである。道三はもはや決戦をはじめたようであった。音の方角は北であった。北には稲葉山がある。だとすれば、戦場は長良川の渡河点付近であろう。
遠い。
「何里あるか」
「はて、四里はありましょう」
と柴田権六はいった。
信長は、土手に馬を立てていた。眼下に足近川が流れている。
「渡せ——えっ」
と、信長は鞭《むち》をあげて長い叫びをあげたかと思うと馬を駈けおろして河原へ進み、さらにざぶりと流れに入れた。
三千の織田軍が渡った。難なく押しわたってさらに進むと、眼の前に低い丘陵がうねうねと展開している。
おどろいたことにその丘陵のことごとくが、敵の野戦陣地になっており、無数の旗がひるがえっていた。
義竜の支隊である。
支隊ながら人数は信長軍よりも多い。
——おそらく信長が救援にくる。
という想定のもとに義竜は、牧村主水助《もんどのすけ》、林半大夫らを将とする一軍をこの方面に配置し、戦場への参加をこばもうとしているのである。
かれら丘陵陣地の将は、
——あくまで防禦《ぼうぎょ》に終始せよ。信長が仕かけてきても固くまもって押しかえすな。
という命令をうけていた。
そのため、陣地の前に濠《ほり》を掘り、柵《さく》をめぐらせ、逆《さか》茂木《もぎ》を植えこみ、堅固な野戦築城をきずきあげている。
城塞《じょうさい》を攻略するには、その守備兵の十倍の人数で攻撃するというのが、合戦の常識になっていた。信長のばあい、人数は逆に守備兵よりもすくない。
信長は兵を部署し、ただちに鉄砲隊、弓隊を前進させて、射撃を開始させた。
敵は動く様子もない。
整然と応射しはじめた。信長はさらに先鋒《せんぽう》を前進させた。
敵は柵のなかで鉄砲をかまえ、織田の先鋒が射程内に入ると、正確に狙《そ》撃《げき》した。
信長は鞍《くら》の上でとびあがり、
「踏みやぶれーっ」
と叫びつつ馬を駆って射程内に突撃し、何度もそれをくりかえしたが、馬廻《うままわ》りの士をばたばたと倒されるばかりで何の効もない。
やむなく柵の前から一町後退し、銃陣を布《し》き、射撃戦を再開した。
その間も、稲葉山城下の長良川の方角にあたって、すさまじい合戦のひびきが遠鳴りにきこえてくる。
(蝮め、苦戦しているであろう)
と、おもえば気が気ではない。信長は、一ツ所で馬をぐるぐると駈けまわしながら、
「蝮め、死ぬか、死ぬか」
と、何度も叫んだ。
当の道三は、硝煙のなかにいた。
敵の包囲は、すでに完了した。
道三は残る手兵をあつめ、何度か突撃して敵の包囲網をやぶった。
が、破ってもやぶっても、敵の人数は湧《わ》くように出てきて、その破れ目をうずめ、うずめるごとに包囲の輪はいよいよちぢまった。
敵は、包囲陣のなかを駈けまわっている道三の兵を、できるだけ鉄砲でうちとろうとした。この戦法は効果的だった。
道三の兵は、敵と組み打たぬうちに、鉛の弾《たま》をくらってばたばたとたおされた。
道三はその弾を避けさせるために兵を松林のなかに入れた。
松の幹が、防弾の楯《たて》になった。
その松と松のあいだを縫って、敵の騎馬隊が、勇敢に肉薄してきた。
敵の目標は、いまや道三ひとりである。
すでに道三の身辺には数人の母衣武者がひかえているにすぎない。
が、道三は、あくまでも床几に腰をおろしたまま、動こうともしない。
若いころは軍中で床几を用いず、つねに馬上で指揮をし、つねに戦場を動きまわり、ときには長槍をふるって大将みずから敵陣に突撃したものだが、いまの道三はことさらにそれをしたくなる衝動をおさえていた。
どうせ、死ぬのである。軽躁《けいそう》にはねまわって見ぐるしく死にたくない。美濃の国主らしく、どっしりと床几に腰をおろしたまま、最後の時間を迎えたいとおもっていた。
そこへ、道三の風雅の友であり亡妻小見《おみ》の方《かた》の実家《さと》の当主であり今日の合戦の一手の将でもある明《あけ》智《ち》光安が駈けてきた。
頬《ほお》に銃創をうけたらしく、半顔が血だらけになっている。
「お屋形、退《ひ》かせ候《そうら》え」
と、明智光安はどなった。光安は、自分が血路をひらくによって城《き》田《たい》寺《じ》まで退却なされ、というのである。
「明智殿こそお退きなされ」
と道三は微笑し、自分は少々疲れたによってここは動かぬ覚悟でいる、卿《けい》は明智城にもどられよ、はやばやと退かれよ、これはわしの最後の下知《げち》である、と言い、
「城へもどれば、十兵衛光秀に言伝《ことづて》をしてもらいたい」
といった。光秀は、道三の命でこの戦場には出ず、明智城を守っているのである。道三敗北となれば光秀は城をすてて国外に逃亡せねばならぬであろう。
「光秀は、ゆくゆくは天下の軍を動かす器量がある。わしは一生のうちずいぶんと男というものを見てきたが、そのなかで大器量の者は、尾張の婿の信長とわが甥《おい》(義理の)光秀しかない。光秀を、この馬鹿《ばか》さわぎのために死なせてはならぬ。城をぬけ、国外に走り、ひろく天下を歩き、見聞をひろめ、わしがなさんとしたところを継げ、と申し伝えてもらえまいか」
さらに——と道三は言葉を継いだ。
「光秀は京にのぼることがあろう。京には、わしが見捨てたお万阿《まあ》という妻がいる。わしが一生、見ながめてきた女どものなかで、ずばぬけてよき者であったよ」
「そのお万阿殿を? つまり光秀に、お万阿殿をお訪ね申せと伝えるのでござるか」
明智光安は、せきこんでいった。
「ふむ。……」
道三は、奇妙にはにかんだような、少年のような微笑をうかべ、
「そのように頼む。すでに人をやって手紙は送ってあるが、光秀の口からわしの最《さい》期《ご》などをお万阿に物語ってもらえばありがたい」
時がすぎた。
明智光安は去った。
すでに戦場を見わたせば道三方の兵はほとんど生き残っておらず、硝煙のなかで駈けまわっている者といえばほとんどが敵軍だった。
かれらは道三をさがしている。
ついに義竜方の侍大将で美濃きっての豪勇といわれる小牧源太が、数間むこうの老松のあいだを駈けぬけようとしたとき、ふとふりかえり、おどろいて馬からとびおりた。
旧主道三を見たのである。
道三は、松の根方に床几をよせ、なお三軍を指揮しているような、傲然《ごうぜん》としたつら構えで腰をおろしていた。
小牧源太については、お勝騒動のくだりですでにふれた。尾張の出身で道三に仕え、道三によって一手の将に仕立てあげられた男である。
「お屋形っ」
と、源太は膝《ひざ》をつこうとしてここが戦場であることを思いだし、膝をまげたそのままの姿勢で槍をかまえ、じりじりと進んできた。
「なんじゃ、源太か」
道三は、蠅《はえ》でも見るような目で、この美濃第一の豪傑を見た。
「み、みしるし《・・・・》を頂戴《ちょうだい》つかまつりとうござりまする」
「獲《と》れるものなら獲ってみることだ」
と、道三はゆっくりと立ちあがり、陣《じん》太刀《だち》に拵《こしら》えた数珠《じゅず》丸《まる》のツカに手をかけ、やや眼をほそめて源太の動きを見さだめてから、
しゃっ
と、鞘走《さやばし》らせた。
同時に、源太の槍が伸びた。その穂を道三は、太刀でかっと叩《たた》きはらい、さらに踏みこんだ。源太はすばやくとびさがり、槍をみじかく繰りこんだ。
道三が右足をあげ、大きく踏みこもうとすると、源太の槍が横なぐりにその足をはらった。
道三はとびあがった。
そのときである。背後から一騎、疾風のように駈けてきた者がある。道三があっと気づいたときには、その肩さきを跳びこえ、跳びこえる瞬間、
「ご免っ」
と、馬上から大太刀をふるって道三の首の付け根をざくりと斬った。
義竜軍の部将林主水《もんど》である。
�《どう》と道三が横だおしにたおれるところを、義竜軍の物頭《ものがしら》長井忠左衛門という者が駈け寄って、道三に組みついた。
が、長井がのしかかったときは、この美濃王の霊はすでに天へ飛び去っていた。
長井はやむなく死体の首を掻き切り、持ちあげようとしたが、どうしたはずみか、首をかかえたまま足を苔《こけ》にすべらせて地に手をついた。この挿《そう》話《わ》、べつに意味はない。
道三の首はそれほど重かった、武者一人をころばすほどに重かったという、のちの風聞がでるたね《・・》になった。
敵の包囲は、すでに完了した。
道三は残る手兵をあつめ、何度か突撃して敵の包囲網をやぶった。
が、破ってもやぶっても、敵の人数は湧《わ》くように出てきて、その破れ目をうずめ、うずめるごとに包囲の輪はいよいよちぢまった。
敵は、包囲陣のなかを駈けまわっている道三の兵を、できるだけ鉄砲でうちとろうとした。この戦法は効果的だった。
道三の兵は、敵と組み打たぬうちに、鉛の弾《たま》をくらってばたばたとたおされた。
道三はその弾を避けさせるために兵を松林のなかに入れた。
松の幹が、防弾の楯《たて》になった。
その松と松のあいだを縫って、敵の騎馬隊が、勇敢に肉薄してきた。
敵の目標は、いまや道三ひとりである。
すでに道三の身辺には数人の母衣武者がひかえているにすぎない。
が、道三は、あくまでも床几に腰をおろしたまま、動こうともしない。
若いころは軍中で床几を用いず、つねに馬上で指揮をし、つねに戦場を動きまわり、ときには長槍をふるって大将みずから敵陣に突撃したものだが、いまの道三はことさらにそれをしたくなる衝動をおさえていた。
どうせ、死ぬのである。軽躁《けいそう》にはねまわって見ぐるしく死にたくない。美濃の国主らしく、どっしりと床几に腰をおろしたまま、最後の時間を迎えたいとおもっていた。
そこへ、道三の風雅の友であり亡妻小見《おみ》の方《かた》の実家《さと》の当主であり今日の合戦の一手の将でもある明《あけ》智《ち》光安が駈けてきた。
頬《ほお》に銃創をうけたらしく、半顔が血だらけになっている。
「お屋形、退《ひ》かせ候《そうら》え」
と、明智光安はどなった。光安は、自分が血路をひらくによって城《き》田《たい》寺《じ》まで退却なされ、というのである。
「明智殿こそお退きなされ」
と道三は微笑し、自分は少々疲れたによってここは動かぬ覚悟でいる、卿《けい》は明智城にもどられよ、はやばやと退かれよ、これはわしの最後の下知《げち》である、と言い、
「城へもどれば、十兵衛光秀に言伝《ことづて》をしてもらいたい」
といった。光秀は、道三の命でこの戦場には出ず、明智城を守っているのである。道三敗北となれば光秀は城をすてて国外に逃亡せねばならぬであろう。
「光秀は、ゆくゆくは天下の軍を動かす器量がある。わしは一生のうちずいぶんと男というものを見てきたが、そのなかで大器量の者は、尾張の婿の信長とわが甥《おい》(義理の)光秀しかない。光秀を、この馬鹿《ばか》さわぎのために死なせてはならぬ。城をぬけ、国外に走り、ひろく天下を歩き、見聞をひろめ、わしがなさんとしたところを継げ、と申し伝えてもらえまいか」
さらに——と道三は言葉を継いだ。
「光秀は京にのぼることがあろう。京には、わしが見捨てたお万阿《まあ》という妻がいる。わしが一生、見ながめてきた女どものなかで、ずばぬけてよき者であったよ」
「そのお万阿殿を? つまり光秀に、お万阿殿をお訪ね申せと伝えるのでござるか」
明智光安は、せきこんでいった。
「ふむ。……」
道三は、奇妙にはにかんだような、少年のような微笑をうかべ、
「そのように頼む。すでに人をやって手紙は送ってあるが、光秀の口からわしの最《さい》期《ご》などをお万阿に物語ってもらえばありがたい」
時がすぎた。
明智光安は去った。
すでに戦場を見わたせば道三方の兵はほとんど生き残っておらず、硝煙のなかで駈けまわっている者といえばほとんどが敵軍だった。
かれらは道三をさがしている。
ついに義竜方の侍大将で美濃きっての豪勇といわれる小牧源太が、数間むこうの老松のあいだを駈けぬけようとしたとき、ふとふりかえり、おどろいて馬からとびおりた。
旧主道三を見たのである。
道三は、松の根方に床几をよせ、なお三軍を指揮しているような、傲然《ごうぜん》としたつら構えで腰をおろしていた。
小牧源太については、お勝騒動のくだりですでにふれた。尾張の出身で道三に仕え、道三によって一手の将に仕立てあげられた男である。
「お屋形っ」
と、源太は膝《ひざ》をつこうとしてここが戦場であることを思いだし、膝をまげたそのままの姿勢で槍をかまえ、じりじりと進んできた。
「なんじゃ、源太か」
道三は、蠅《はえ》でも見るような目で、この美濃第一の豪傑を見た。
「み、みしるし《・・・・》を頂戴《ちょうだい》つかまつりとうござりまする」
「獲《と》れるものなら獲ってみることだ」
と、道三はゆっくりと立ちあがり、陣《じん》太刀《だち》に拵《こしら》えた数珠《じゅず》丸《まる》のツカに手をかけ、やや眼をほそめて源太の動きを見さだめてから、
しゃっ
と、鞘走《さやばし》らせた。
同時に、源太の槍が伸びた。その穂を道三は、太刀でかっと叩《たた》きはらい、さらに踏みこんだ。源太はすばやくとびさがり、槍をみじかく繰りこんだ。
道三が右足をあげ、大きく踏みこもうとすると、源太の槍が横なぐりにその足をはらった。
道三はとびあがった。
そのときである。背後から一騎、疾風のように駈けてきた者がある。道三があっと気づいたときには、その肩さきを跳びこえ、跳びこえる瞬間、
「ご免っ」
と、馬上から大太刀をふるって道三の首の付け根をざくりと斬った。
義竜軍の部将林主水《もんど》である。
�《どう》と道三が横だおしにたおれるところを、義竜軍の物頭《ものがしら》長井忠左衛門という者が駈け寄って、道三に組みついた。
が、長井がのしかかったときは、この美濃王の霊はすでに天へ飛び去っていた。
長井はやむなく死体の首を掻き切り、持ちあげようとしたが、どうしたはずみか、首をかかえたまま足を苔《こけ》にすべらせて地に手をついた。この挿《そう》話《わ》、べつに意味はない。
道三の首はそれほど重かった、武者一人をころばすほどに重かったという、のちの風聞がでるたね《・・》になった。
道三の討死の刻限、狐穴《きつねあな》付近の丘陵地帯で北上をさまたげられている信長には、むろんその死はわからなかった。
ただ、いままで北方の天にひびいていた銃声が急にやんだことで、その事態を察することができた。
信長は敵中で孤立した。
退却に移ったが、追いすがる美濃兵のためにこの退却は困難をきわめ、一戦ごとに尾張兵の死体を遺棄し、陽も高くなったころ、かろうじて足近川を渡り、ほとんど潰走同然のすがたで尾張に逃げもどった。
ただ、いままで北方の天にひびいていた銃声が急にやんだことで、その事態を察することができた。
信長は敵中で孤立した。
退却に移ったが、追いすがる美濃兵のためにこの退却は困難をきわめ、一戦ごとに尾張兵の死体を遺棄し、陽も高くなったころ、かろうじて足近川を渡り、ほとんど潰走同然のすがたで尾張に逃げもどった。
道三の首は義竜によって実検されたあと長良川付近にさらされ、ほどなく消えた。小牧源太の手でぬすまれたのである。源太はその首を、道三の最後の戦場だった松林のなかに葬《ほうむ》り、長良川から自然石を一つかかえてきて、その盛り土の上に据《す》えた。