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国盗り物語78

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:戦端 二児を殺された、ということを知った日、斎藤道三は、鷺山城外の野で鷹《たか》狩《が》りをしていた。野に、秋の色が深く
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戦端

 二児を殺された、ということを知った日、斎藤道三は、鷺山城外の野で鷹《たか》狩《が》りをしていた。
野に、秋の色が深くなっている。野を駈《か》けすぎ、森に入り、森のなかの小さな沼のほとりまできたとき、
「御屋形さまあーっ」
と、樹々《きぎ》のあいだを駈け近づいてきた一騎がある。よほど火急な報《し》らせをもってきたのか、鞍《くら》も置かぬ農耕馬に乗り、鞭《むち》ももたず、葉のついた生枝で馬の尻《しり》をたたきつづけていた。その生枝に深紅の葉がついている。うる《・・》し《・》である。
(うろたえ者め、かぶれるわ)
と、道三は小沼のそばで馬を立てながら、しずかにその騎馬の武士の近づくのを待っていた。
「お屋形っ」
と、武士は馬からとびおりるなり道三の馬前に平伏し、稲葉山城内で孫四郎・喜平次のふたりが討ちとられてしまったことを告げ、告げおわると大息を吐き、そのまま突っぷした。
道三にとって信ずべからざる大異変であった。子が殺されたことではない。偽子《ぎし》義竜はふたりの弟を殺した以上、稲葉山城に拠《よ》って国中の武士に檄《げき》をとばし、味方をつのり、道三の政権をたおして自立する覚悟であろう。いや覚悟の段階どころか、計画がよほど進んでいたればこそ、孫四郎・喜平次を殺したにちがいない。
道三は、無表情でいる。
こういうとき無用に取りみだせば部下が動揺し、国中にもきこえ、頼もしからざる大将として味方の動揺をまねくことになろう。道三は、人の親としてこれほど悲痛な報告をうけた瞬間も、なおそういう大将芸《・・・》を演技している。演技というより、庄九郎の時代から持ちこしてきたこの男の天性なのかもしれなかった。
「漆《うるし》を、捨てよ」
と、道三は馬上から注意した。報告者は真赤なうるしの生枝をなおもにぎりしめているのだ。
「手を洗ってやれ」
と左右にいった。
「沼へつれてゆくのだ」
と、さらにいった。口だけはそう動いているが、頭は、漆も報告者もみていない。自分が築きあげた天下第一の堅城稲葉山城が、脳裏にふとぶとしく立ちはだかっている。その城壁に義竜の戦旗がひるがえっている光景さえ、ありありとえがくことができた。
「与助」
と、死んだ孫四郎の近習《きんじゅう》だったこの報告者によびかけた。
「もう一度きく。稲葉山城の様子はどうか」
「申しわすれました。稲葉山城の城壁には、まあたらしき桔梗《ききょう》のノボリが九本、ひるがえっておりまする」
桔梗紋は先代土岐氏の家紋である。道三の斎藤家の旗ジルシは、道三の意匠による波頭《なみがしら》の二つある立波《たつなみ》の紋である。義竜が波紋《なみもん》をすて桔梗紋をたてたことで、
「土岐の姓にもどった」
ことを国中はおろか天下に布告しつつあるわけであろう。
(たれをうらむこともできぬ)
と、道三はにがい表情で、手綱をとりなおした。
(あの馬鹿《ばか》めを、みくびりすぎた。このおれともあろう者が。——)
空をみた。憎らしいほどに晴れ渡っている。
(ひさしぶりで、いくさの支度をせねばならぬ)
道三はゆるゆると馬をうたせ、森の下草を踏ませながら、思案した。わが子を相手にどのようないくさをしてよいのか、構想がうかばぬ。
ぼう然と道三は馬をうたせてゆく。その顔はハマグリのように無表情だった。頭のなかに、いかなる電流も通じていない状態である。むりもなかった。義竜ごとき者を相手に——というばかばかしさが、考えよりもまず先立ってしまうのである。
(おれの生涯《しょうがい》で、こんなばかげた瞬間をもとうとは思わなかった。義竜は躍起になって兵をつのるだろう。それはたれの兵か、みなおれの兵ではないか。義竜は城にこもるだろう、その稲葉山城というのもおれが智能をしぼり財力をかたむけて築いたおれの城ではないか。しかも敵の義竜自身——もっともばかげたことに、あれはおれの子だ。胤《たね》はちがうとはいえ、おれが子として育て、おれが国主の位置をゆずってやった男だ。なにもかもおれはおれの所有物《もの》といくさをしようとしている。おれほど利口な男が、これほどばかな目にあわされることがあってよいものだろうか)
道三は、顔をゆるめた。
いつのまにか、顔が笑ってしまっている。笑う以外に、なにをすることがあるだろう。
(おれは若いころから綿密に計算をたて、その計算のなかで自分を動かしてきた。さればこそ一介の浮浪人の身から美濃一国のぬしになった。計算とは、奇術といってもいい。奇術のたねは、前守護職土岐頼芸だった。頼芸にとり入り、頼芸を利用し、頼芸の権威をたねにあらゆる奇術を演じ、ついに美濃一国をとり、頼芸を追い出した。頼芸はおれにそうされるに値いした。なぜならばとほうもないあほうだったからさ。しかしそのあほうにも生殖能力だけがあることをおれはわすれていた。深芳野と交接し、その子宮に杯《さかずき》一ぱいのたねをのこした。深芳野は泣く以外になんの能もない女だったが、深芳野の子宮はふてぶてしくもその胤をのみこみ、温め、月日をかけて一個のいきものに仕立てあげてこの世へ出した。それが義竜だ。おれはそれを自分の子として育てた。そうすることに政治上の価値があったからだが、国主にまでする必要はなかった。それをおれはした。おれの心に頼芸への憐憫《れんびん》があったからだろう。その憐憫というやつが、おれの計算と奇術をあやまらせた。……)
ばかげている、と思った。人智のかぎりをつくした美濃経営という策謀の芸術が、なんの智恵も要らぬ男女の交接、受胎、出産という生物的結果のためにくずれ去ろうとは。
(崩れるだろう)
と、道三は自分の終末を予感した。これが、自分の生涯の幕をひかせる最後の狂言になるだろうとおもった。
森を出た。
街道に出るや、道三は森の中の道三とは人がかわったように活気を帯びた。鞭をあげ、馬を打った。馬は四肢に力をみなぎらせ、一散に鷺山城にむかって駈け出した。

鷺山城に帰るや、
「広間に老臣をあつめよ」
と命じ、庭へ出、茶室に入り、炉に火を入れさせて茶を点《た》て、茶を二服喫し、喫しおわると、覚悟がついた。
(おれの最後の戦いだ。ひとつ、はなばなしくやってやろう)
広間には石谷対馬守《いしがやつしまのかみ》、明《あけ》智《ち》光安、堀田道空、それに赤兵衛らがずらりと顔をならべていた。
「一件きいたか」
と、道三はすわるなりいった。
みな、うなずいた。どの男の顔も、目ばかりが光っている。道三はそれらをながめ、顔のひとつひとつを見、顔の奥の心底まで読みとるほどに熟視してから、
(この連中は、おれに命をくれそうだ)
と、おもった。たしかに、石谷、明智、堀田らの諸将は道三の風雅の友であり、道三と風雅を通じてふかく契《ちぎ》るところがあり、ゆめゆめ義竜方に走るようなことはないであろう。
が、なにぶん隠居城であった鷺山城に出仕している連中である。その数は平素から多くはない。道三は家臣団の八割までを義竜につけ、稲葉山に出仕させてあったのである。
「すぐ教書を発し、兵を駆りあつめよう」
と、道三は言い、かれらにその仕事を命じた。翌日になった。
稲葉山城のくわしい様子がわかった。義竜は斎藤の姓をすて、一色左京大夫《いっしきさきょうのだいぶ》という名乗りにあらためた。土岐姓を名乗らず、母深芳野の生家である丹後宮津の城主一色家の姓を冒したのは、土岐姓復帰は道三を討ってからのことにしようという魂胆なのであろう。
が、募兵の名目は、
「実父土岐頼芸の仇、道三入道を討つ」
ということにある。そう明記して国中の美濃侍を勧誘した。要するに数百年来、美濃における神聖血統である守護職土岐氏の当主として命令をくだしたのである。
このため、美濃侍は動揺した。土岐《・・》義竜の命とあれば駈けつけざるをえない習性をかれらはもっている。
それに利害から考えても、義竜方に圧倒的な利があった。まず現役国主であったために平素稲葉山城への常勤者が多い——ということは、常備軍の点で、道三の隠居城とは格段の兵力差がある。
それに、義竜はなんといっても美濃における主城の稲葉山城にいる。小山の上に居館をかまえた程度の鷺山城とはちがい、これは難攻不落の大要塞《ようさい》だった。大要塞に拠《よ》る義竜のほうが、攻防いずれにかけても有利なことは子供でもわかる。
     ……………………
(勧募はむりだぞ)
と、道三でさえおもった。
が、この男は最後まであきらめず、鷺山城の補強にとりかかった。
美濃に二人の主人ができた。国中の村々にふたりの国主の使者が入りみだれてやってきては、
「わがほうにつかぬか」
と、利と情をもって説いた。道三自身はこの見とおしを、
(義竜の十分の一もあつまればよいほうだ)
と、さほど期待もしていなかったが、あきらめもしなかった。しかしありがたいことに稲葉山城に道三の旧臣がぞくぞくと入城しているというのに、当の義竜は容易に道三攻めにかかろうとしなかったことであった。
道三の作戦能力が、義竜とその徒党をおそれさせていた。かれらは要慎《ようじん》の上にも要慎をかさねた。その無能な慎重さが、道三のいくさ支度に時間をかせがせた。
 一方、木曾《きそ》川《がわ》ひとすじをへだてて隣国の信長の耳にも、道三の不幸の報が入った。
信長は、おどろいた。信長はちょうど、本家筋の岩倉城主織田信賢《のぶかた》を相手に泥《どろ》まみれの内戦を演じている最中でとうてい兵力に余裕はなかったが、すぐ救援をおもい立ち、
「援兵の用意がある。騒ぎの内実を教えてもらいたい」
と道三に密使を出し、同時に美濃の事情をさぐるために多数の諜者《ちょうじゃ》を送りこんだ。
諜者のほうが、さきに帰ってきた。それらの報告によると、道三の側にあつまっている兵数はおどろくほどすくなく、
「とうてい、入道様におん勝目はござりませぬ」
と異口同音にいった。
「すくないか」
と、信長は、裂くような語気でいった。
「それにひきかえ、稲葉山の義竜様のもとにあつまる人数は日に日にふえておりまする」
(蝮《まむし》めも、天命きわまったな)
と、信長もおもわざるをえない。道三が魔術師のような軍略家であったとしても、兵力差というのは時に絶対の壁になることがおおい。その差も敵の半数ならばまだしも戦術でおぎなうことができよう。しかし道三のばあいは稲葉山城の十分の一であるようだった。
「濃姫《のうひめ》にはいうな」
と、信長は奥の者に美濃情勢に関する箝口《かんこう》令《れい》をしいた。すでに母をうしなっている濃姫が、いま父をうしなうとなれば悩乱するかもしれなかった。
その信長の密使が道三の居城鷺山城に入ったのは、霜のふかい朝である。
道三は着ぶくれていた。
「婿《むこ》どのが、援助をと?」
と、道三はさすがにうれしかったのか目を大きく見ひらき、瞬きをせず、やがてその老人にしては長すぎるまつげにキラリと涙を宿したが、すぐ破顔一笑し、
「さてさて他人の疝《せん》気《き》が気にかかるとは、上《かず》総介《さのすけ》どのも若いに似あわず苦労性におわすことよ。せっかくだが、手は足っていると申せ」
と、事もなげにいった。
この報告をきいておどろいたのは、信長である。きいた直後は、
(蝮め、虚栄を張りくさるか)
と、おもった。あの男らしいやせがまんだと思った。そのあと、ふと、
(蝮はこれを最後に死ぬ気かな)
と思って、がくぜんとしたのである。死ぬ気なら尾張の人数もなにも要らぬであろう。されば道三のいくさ支度は、勝利のためでなく自分の幕を華々しく閉じるための最後の奇術なのか。
信長は、もはや濃姫に事情をいわざるをえなかった。
「そなたの父は自殺しようとしている」
と、そんな言い方をして、情勢の説明をした。自殺、とはつまり、ロマンティックな自殺的戦闘を準備している、という意味であった。
「わしの援兵の申し出をさえことわった。いい年をして錯乱している。そなたからも手紙をかいてなだめてやるがよい。使いは、福富平太郎がよかろう」
といった。福富平太郎は道三が可愛がっていた若侍で、濃姫の輿《こし》入《い》れのときに随臣として織田家に転籍した。福富がゆけば道三も心底をみせて語るだろうとおもったのである。
 濃姫の使者として、福富平太郎は物売りの姿に変装し、夜陰にまぎれて木曾川を越えた。この国境線にはすでに義竜方から警戒兵が出ており、道三と信長との軍事連絡を絶とうとしていた。
福富は、途中、三人の警戒兵を斬《き》り、みずからも左肩を斬られ、血まみれになって鷺山城に駈けこみ、旧主と久しぶりの対面をした。
道三はひとわたりの話をきき、
「たわけ《・・・》殿は、やさしいことをいうわ」
と、前額《でこ》の発達した顔をくしゃくしゃにしてよろこんだが、援軍の件はがんとして受けようとしない。
平太郎のみるところ、道三は多分に感傷的になっているようだった。再起にあがくよりも自分の人生の退《ひ》きぎわをいさぎよくしたいという気持に逸《はや》っているようであった。これが、貪婪《どんらん》な野心家であり、冷血な策謀家であり、神のような計算能力をもった打算家であるかつての斎藤山城入道道三なのか、と、福富平太郎はかえって道三の変貌《へんぼう》がなさけなくなり、
「殿、左様なお気のよわいことを!」
と、その似つかわしからぬ感傷主義をののしるようにして諫《いさ》めた。
ところが道三は、
「ばかめ」
と、苦笑した。
おれの計算能力がおとろえるものか、と道三は言い、
「だからこそ、信長の援軍をことわっている」
「なぜでござりまする」
「美濃は大国だぞ」
「はて」
「火事も大きいわ」
「それがどうしたと申されるのでござりまする」
「信長はまだ尾張半国の小身上《こしんじょう》にすぎぬ」
「まことに」
「その信長もいま、岩倉織田氏と交戦中だ。考えてもみよ。手前の火事を消すにも手が足りぬというのに、おれのほうの火事にどれだけの人数が割《さ》けるか。割けるとしても、せいぜい千か千五百だろう。これも送れば、自分の清洲城があぶなくなってしまう。たとえ二千の人数をおれの火事に送ってくれたとしてもこっちにとっては焼け石に水だ。舅《しゅうと》と婿がうすみっともなく、共倒れになるだけさ」
「は?」
「勝つ見込みがないというのだよ」
と、道三ははっきりいった。だから道三は信長に、「よせ」というのである。計算能力が衰えたどころか、前途に跳梁《ちょうりょう》する死神の人数までかぞえきった結果の回答が、この男の「拒絶」だった。
「わかったか」
と、道三はむしろ、そういう自分の冷徹さをほこるような、ちょっとふしぎな明るさをおびた微笑を頬《ほお》にのぼらせ、
「おれは老いぼれてはおらぬ、とたわけ《・・・》殿に申せ」
「し、しかし殿」
と、福富平太郎は顔を涙でよごしながら拭《ふ》きもあえずにいった。
「このたびは義による援兵でござりまする。お受けなされませ。その援兵のなかに非力なれどもそれがしも加わり、殿の御馬前にて死にとうござりまする」
「義戦じゃと?」
道三は目をむいた。
「ふしぎなことを言うものかな。まさか信長ほどの男が、左様なうろたえた言葉はつかうまい。国に帰れば申し伝えておけ、いくさは利害でやるものぞ。されば必ず勝つという見込みがなければいくさを起こしてはならぬ。その心掛けがなければ天下はとれぬ。信長生《しょう》涯《がい》の心得としてよくよく伝えておけ」
「で、ではそれがしなどはどうなりまする」
「そちは平侍じゃ。いま申したのは大将の道徳、平侍の道は、おのずから別じゃ。そちら平侍は義のために死ね」
凛《りん》と言いはなって、淀《よど》みもない。福富平太郎は、一瞬威にうたれて、おもわず平伏した。
そのあと酒肴《しゅこう》を頂戴《ちょうだい》し、ふたたび町人に変装して美濃を脱出し、尾張に帰った。
 道三と義竜の戦闘準備は、そのあと、信じられぬほどのゆるやかさで進行した。
年を越して弘治二年春。
義竜は、稲葉山城に一万二千人をあつめ得てようやく戦端をひらく決意をした。道三の鷺山城にあつまっている人数は、わずか二千数百にすぎない。
南泉寺の月 
 かず《・・》、がものを言う。
敵の義竜が一万二千、自分のほうの鷺山城にあつまってきたのがその六分の一では、さすがの道三も自分のあまりの落ちぶれぶりを笑ってしまうしかない。
(まあ、予期したとおりの数字ではある)
と、道三はおもった。
(しかし世間の愚夫愚婦が期待するように、奇跡というものがおこってもよいではないか)
堀田道空や赤兵衛なども、それを期待したようであった。かれらは毎日、城内にいる人間の数を祈るような面《おも》もちでかぞえ、もはやこれだけしか集まらぬと知ったとき、最後のたのみに、
「お屋形さま。貝を吹き立てましょう」
と、道三のゆるしを得、城壁の四方に貝のじょうずな者を立て、かわるがわる吹き立てさせた。
——道三様へお味方せよ。
という、村々への催促の法螺《ほら》貝《がい》であった。それが美濃平野のあちこちにむかって、びょうびょうと吹き鳴らされた。吹き手と風むきによっては、三里四里の遠くへもひびきわたった。
昼も夜も、貝を吹く兵は城壁に立ち、東へ吹き、西へ吹き、北へ吹いた。南には敵の稲葉山城があるために、この方角へは吹かなかった。
鷺山城はだだっぴろい美濃平野の真ん中にある。貝の音は天にひびき、野を駈《か》けめぐったが、野がひろいせいか、その音は妙に物哀《ものがな》しかった。
どの村にも春が訪れている。城壁から遠望すると、梅の多い村は白っぽく、桃の多い村は淡々《あわあわ》と紅《あか》く、ひどく童話的な風景にみえた。そういう春の村々にむかってむなしく貝を吹きたてている道三の兵もまた、一幅の童画のなかの人ではないか。
貝は、二昼夜、吹きつづけられた。
が、どの村からももう、一騎の地侍、一人の足軽もはせ参じて来なかった。夜陰寝床のなかでその貝のむなしい音をきいていると、道三はやりきれなくなった。自分の生涯《しょうがい》が、こういう物淋《ものさび》しい吹奏楽でかざられねばならぬとは、どうしたことであろう。
三日目の朝、道三は起きぬけるなり堀田道空をよび、
「あの貝を、やめい」
と、不機《ふき》嫌《げん》そうにいった。
道空は城壁へかけあがり、貝を吹く兵士たちに、もうよい、やめよ、ととめた。兵士たちは力尽きた表情で、唇《くちびる》から貝をはなした。
城も野も、静寂に戻《もど》った。
さて、戦術である。
味方の人数がこうすくないとなれば、平野での合戦はできない。いきおい、山に籠《こも》って天嶮《てんけん》を利用しつつ山岳戦をやらざるをえないであろう。堂々たる野外決戦のすきな道三は、猿《さる》のように山道をのぼりくだりする山岳戦など、このましい趣向ではなかったが。
四月のはじめ、道三は最後の軍議をひらき、基本方針をきめた。
「まず、風の夜を選んで稲葉山の城下町を焼く」
と、いうことがきまった。
稲葉山の城下町井ノ口(現在の岐阜市)は、楽市楽《らくいちらく》座《ざ》という、道三の独自の経済行政によって異常な繁栄をひらいた、いわばこの男の自慢の町である。その町を自分の手で焼きはらわねばならなくなるとは、この男は夢にも思っていなかった。
しかし焼かねばならない。城というのは、城下の侍屋敷の一軒々々がトーチカの役目をなしている。それを焼いて、本城を裸にしてしまわねばならなかった。
翌日、風が吹いた。
巳《み》ノ刻《こく》、道三は行動を開始した。みずから全軍をひきい、長《なが》良《ら》川《がわ》を渡り、まるで野盗の隊長のようなすばやさで稲葉山城下へ下り、
「焼けいっ」
と、命じたのである。道三の将士は、手に手に松明《たいまつ》をもち、それぞれいっぴきの火魔に化したごとく街路を走り、軒下を走り、手あたり次第に火をつけてまわった。
轟《ごう》っ、と諸所で大きく火の手があがった。
その火《ほ》明《あか》りに照らされながら、道三は恩明《おんみょう》ノ辻《つじ》といわれる辻に馬を立て、黙然と四方の夜景をながめている。
前面に稲葉山がそそり立ち、難攻不落といわれる道三築くところの稲葉山城が見えた。篝火《かがりび》が、星のように黒い峰々をかざり、敵兵は、本丸、二ノ丸、三ノ丸などでしきりと動いている様子であった。
しかし、敵の義竜は、小《こ》勢《ぜい》の道三に足もとを焼きはらわれながら、なお打って出ないのである。
偽父《ちち》の道三といえば、合戦にかけては半神的な名人であるという頭があった。わざわざ放火にやってきたのは、五段六段にも構えた深い作戦の結果であろうとみた。
むろん道三としてはそれだけの備え立てを用意している。敵が城門をひらいて突進してくれば横なぐりに叩《たた》きやぶる伏兵も準備していたし、退くとみせて長良川《か》畔《はん》の低湿地にさそいこみ、包囲して殲滅《せんめつ》する手も支度していた。なにぶん夜戦である。小部隊で大軍を相手にまわすにはうってつけであった。
が、敵は来ない。大軍を擁しながら道三の兵の跳梁《ちょうりょう》にまかせて、じっと巨体をすくめているのである。
道三は焼くだけ焼き、なお馬を立てて相手の出戦を待ったが、来ぬ、とわかると、
「つまらん」
と、地に唾《つば》を一つ吐きつけ、馬頭をひるがえし、さっさと野外に集結させ、稲葉山城下から北東四里の丘陵地帯にある北野城に入るべく、全軍の移動を開始した。
途中、兵を割き、自分が隠居城としてくらしてきた鷺山城を焼くように命じた。
大橋という部落をすぎるとき、後方の天にひとすじの黒煙があがった。鷺山城が炎をふきはじめたのである。
(よう燃えるわ)
と、道三は馬上、背後をふりかえり、乾いた眼で、野と、その上に立ちのぼる一条の煙を見た。
想《おも》い出のふかい城であった。はじめて美濃に流れてきたとき、土岐頼芸に拝謁《はいえつ》したのもあの城の広間においてであったし、深芳野を賭《か》け物にして長槍《ちょうそう》をとり、画虎《がこ》の瞳《ひとみ》を突いてみせたのもあの城であったし、頼芸を酒池肉林のなかに浸《つ》けて骨ぬきにしたのも、いま燃えている鷺山城においてである。美濃を奪ったのち、稲葉山の本城は義竜に与え、自分は身を退いて鷺山城に退隠し、あの城で濃姫らをそだてた。おもえば、自分の一代の絵巻が、鷺山城をもってはじまり、そこから展開し、ついにそこにおわっているといっていい。
(おれの一代が、燃える。——)
と、道三は思った。が、馬をとどめず、道三の旌《せい》旗《き》はなお北にむかって進んでいる。
やがて北野城に入った。

数日経《た》った。
道三は北野城の防衛第一線を、北野から二里南方の岩崎城とし、ここを部将の林道慶《どうけい》にまもらせていた。
北野城の出丸といっていい。この岩崎城はひくい丘陵上にある。丘陵の下を、北野への街道が北上している。敵がもし北野城を攻めようとすれば、その進攻路上にある岩崎城をつぶさねばならなかった。
四月十二日、義竜は大軍を催し、この岩崎城に攻めかかり、揉《も》みにもんでわずか一日で攻めおとしてしまった。守将林道慶は、北野城の道三へ最後のいとまごいの使者を出し、本丸に火を放ち、火炎のなかで腹に白刃をつきたて、命を絶った。
「道三の腕も、さほどのことはない。すでにあの大入道から、神通力が落ちている」
と義竜と、その部将たちが勇気づけられたのは、この岩崎城落城からである。
「あたりまえさ」
と、道三はその風聞をきいてあざ笑った。
「すでに憑《つ》きが落ちた以上、なるほど斎藤道三はなお生きてはいるが幽鬼と同然さ」
道三は山の尾根を伝って奥へ奥へと走り、かれがかつて頼芸のために築いた山城の大桑《おおが》城《じょう》に駈け入った。かといって籠城《ろうじょう》するためではない。
敵はここまで来るには多少の時間がかかるであろう。その間、自分の生涯の整理をしておくためである。
大桑の山里に入った翌朝、この季節にはめずらしくあられが降った。あられは二時間にわたって峰や谷に降り、ふり敷いて雪のようになった。
「天はおれに山里の雪景色をみせてくれるというのか」
と、道三はよろこび、その霰《あられ》の小《こ》径《みち》をふんで、南泉寺という山寺にのぼった。南泉寺へのながい石段をのぼっているうちに、霰は去り、四月の陽《ひ》が雲間から出た。陽はたちまち樹間に降りころがっていた霰のむれを融《と》かし、つかのまの雪景色を消した。そのはかなさ、人の世の栄華のようであった。
この南泉寺には、道三におわれて異郷で病没したふたりの美濃守護職の位《い》牌《はい》がまつられている。土岐政頼と同頼芸の兄弟である。道三は僧をよび、多額の金銀をやり、政頼と頼芸の供《く》養《よう》を命じた。なぜいまさら、このふたりの美濃王の霊に対して感傷的になったのか、道三自身も自分の気持を解しかねている。察するところ、道三の政治哲学は、「君主は無能こそ罪悪である」ということになっている。その無能即罪悪のゆえに道三に追われた先代・先々代の美濃王の系列に、道三自身も、
「あらためてお仲間に入れて頂きます」
と、あいさつしたかったにちがいない。道三自身、その油断のゆえに義竜からその地位を追われようとしている。ただこの男は、先代や先々代のように命からがら国外に亡命しようとはしなかった。女婿《じょせい》の織田信長の尾張亡命のすすめをしりぞけ、いま身ぎれいに最後の決戦をしようとしている。
道三には、孫四郎・喜平次を殺されたあと、なお二児がある。まだおさなかった。二児は、いま北野の奥の山里にかくまわれている。道三の仕事はまずその二児を国外に落さねばならぬ。
道三は、赤兵衛をよんだ。かつて京の妙覚寺本山の寺男であったこの兇相《きょうそう》の男は、道三の美濃征服とともに守《かみ》を名乗る身分になったが、ふたたびもとの木《もく》阿弥《あみ》にもどろうとしているようであった。
「おん前に」
と、赤兵衛は平伏し、やがて、このところめっきり老《ふ》けた顔をあげた。
「赤兵衛。ながい狂言はおわったようだ。そちは京へもどるがよい」
「えっ」
赤兵衛はポカリと唇をあけた。この男は当然なこととして、道三と運命を共にする覚悟でいるのである。
「そ、それはなりませぬ」
と、あわててなにか言おうとすると、道三は無言で顔をしかめた。元来、赤兵衛は、道三が庄九郎だったむかしから手足のように使ってきた。手足が余分なことをいうのを道三は好まない。
「行けというのだ。だまって行くがよい。ついでにわしの残された二児を伴うて行って貰《もら》おう。よいな」
赤兵衛は、うなだれた。
「美濃から落ちるに際して、あの者たちの頭を剃《そ》ってしまえ」
「えっ、僧になさるので」
「それが安穏《あんのん》な生き方だ。侍の大将などというあぶない世渡りは、わしほどの才覚があっても最後はこのとおりだ。京にのぼればまっすぐに妙覚寺本山に連れてゆけ。妙覚寺は、わしやそちの出た寺だ。その後も、美濃の常在寺を通じて多くの寄進をしている。わしはかつてあの寺をとびだした無頼破戒の仏弟子だが、いまは第一等の大旦《おおだん》那《な》である。寺もわるいようにはしないだろう」
「そりゃもう」
「その上、かつての寺男だったそちがつれてゆく。話がうまくできている」
「できすぎている」
赤兵衛は、泣きっ面《つら》で笑った。赤兵衛にとっては堂々めぐりのすえ、もとの寺にもどることになるのだ。
「あなた様についてあの寺を出たはずでございますが」
「もとのふりだしにもどるわけか」
「はい」
「くだらぬ双六《すごろく》だったと思うか」
「さあ」
「人の世はたいていそんなものさ。途中、おもしろい眺《なが》めが見られただけでも儲《もう》けものだったとおもえ」
「左様なものでござりますかな」
と、赤兵衛は狐《きつね》つきが落ちたような、うすぼんやりした顔で道三を見つめている。やがて気をとりなおし、
「お屋形さまはどうなさるので」
「おれか」
道三は経机《きょうづくえ》に寄りかかり、筆のさきを指さきでいじっている。
「おれかね」
「左様で」
「おれは美濃を織田信長にゆずろうとおもうのさ。美濃を制する者は天下を制する、とおれは思っている。あの男にこの国を進呈し、おれの築いた稲葉山城のぬしにし、あの城を足場に天下に兵を出し、ついには京へのぼって覇《は》者《しゃ》とならしめる。おれが夢みてついに果たさなかったものを、あの男にさせようというわけだ。あの男なら、きっとやるだろう」
「美濃を上総介《かずさのすけ》殿におゆずりあそばすので」
「そう」
「すると、お二人の若君には、もう相続権がないのでござりまするな」
「坊主になるはずのあの二人に、国や城などが要るものか。しかし長じて自分が斎藤道三の子であったことを思いだして、またまた義竜のように悶着《もんちゃく》をおこすかもしれぬな。のちのちの証拠に、一筆書いておこう」
道三は紙を展《の》べ、紙のはしに文鎮を置き、筆をとった。
わざわざ申し送り候《そうろう》いしゅ(意趣)は、
美濃はついには織田上総介の存分に
まかすべく
ゆずり状、信長に対し、
つかわしわたす、その筈《はず》なり。
下口《しもぐち》、出勢《しゅっせい》、眼前なり。
其方《そのほう》こと
堅約のごとく京の妙覚寺へのぼらる
べく候。
一子出家、九族天に生ず、といえり。かくの
ごとくととのい候。
一筆、
涙ばかり。
よしそれも夢。
斎藤山城《やましろ》、いたって法花妙諦《ほっけみょうたい》のうち、生《しょう》老《ろう》病
死の苦をば修羅場《しゅらじょう》にいて仏果をうる。
うれしいかな。
すでに明日一戦におよび、五体不具の成《じょう》仏《ぶつ》、
うたがいあるべからず。
げにや捨てたる
この世のはかなきものを、
いずくかつゆ(露)のすみかなりけん。
弘治二年四月十九日
斎藤山城入道道三
児《こ》 まいる
「赤兵衛、朱印を捺《お》せ」
と、道三は命じた。
赤兵衛は、机上にある「斎藤山城之印」と刻まれた角印をとりあげ、朱肉をたっぷりとふくませ、道三の署名の下にべたりと捺し、道三のための最後の仕事になるであろうこの小さな作業をおわった。
「苦労」
と、道三は、ねぎらった。そのみじかい言葉のなかに赤兵衛の半生の奉公を謝したつもりであった。
それをきくと、赤兵衛はこの男らしくもなく、わっと哭《な》きだした。
「おれはむかしから泣くやつはきらいだった」
と、道三はいった。
「この場になって泣けば、おれが半生、おれの存念の命ずるままに圧殺してきた亡霊どもが喚《おめ》きたって生きかえり、道三、ざまはなんだ、とよろこぶかもしれん」
「これは不覚でござりました」
「わかればよい。さ、早く発《た》て。今夜、おれには仕事がある」
「この夜ふけにて、もはやお寝《やす》みあそばすのではござりませぬので」
「寝るものか。夜半、月の出を待って軍を集め、山をくだって長良川畔で義竜と決戦をする」
げっ、と赤兵衛はおどろいたが、道三はすでに別の書きものにかかりはじめていた。
信長へのゆずり状である。
譲状は遺言状を兼ねている。
簡潔に書き、署名し、花《か》押《おう》をかいた。一国の将が他の将へ、たった一片の紙片で国をくれてしまうという例は、前にもない。後にもないことであろう。
短檠《たんけい》の輝きが、その道三の横顔を照らしていた。赤兵衛はじりじりとさがりつつ、やがてふすまのそばで道三の背へ一礼し、ふすまをあけ、廊下へ出、やがて閉じた。
道三は、耳次を呼んだ。
耳次がきた。
「これを、尾張の織田上総介までとどけるように」
と、道三はいっただけである。
耳次は赤兵衛とちがって寡《か》黙《もく》な男であった。命令には反問しない。
一礼し、部屋を去った。
あとは、道三にとってなすべきことは、武者わらじを取りよせ、それを穿《は》くことだけであった。
月が昇るまでに、すでに四《し》半刻《はんとき》もない。
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