織田軍の最前線陣地、といえばきこえはいいが、粗末なものだ。丸根砦《とりで》というのは、ここらあたりの古寺を改造したもので、塀《へい》には舟底板のようなものを打ちつけ、柵《さく》には生木を底浅く打ちこみ、砦のまわりにたった二間幅の堀を、それも一重にめぐらしただけのもので、富強な今川軍からみれば、
——これが尾張織田の関門か。
と笑いたくなったであろう。
その丸根砦の攻撃にむかった今川軍の支隊長が、十九歳の徳川家康(松平元康)であった。
二千五百人の大部隊がひたひたと丘陵地帯の街道をすすんで丸根砦の包囲を完了したのは十九日の陽が昇ろうとする刻限であった。この日、日ノ出は午前四時二十七分である。
丸根砦には、四百の人数しかいない。
「揉《も》みつぶすがよろしかろ」
と、家康の先鋒《せんぽう》たちは刀槍《とうそう》をきらめかせてわめき進んだが、たちまち城方の弓鉄砲のため堀ぎわで打ちたおされ、先鋒隊長の松平喜兵衛、筧《かけい》又蔵らが戦死した。包囲軍の崩れをみた砦の主将佐久間大学は、
「いまぞ。続けや」
と城門をひらいて突撃してきたため、徳川方の足軽が塵《ちり》のように蹴《け》ちらされ、将校《ものがしら》の高《こう》力《りき》新九郎、能《のう》見《み》庄左衛門が戦死した。
打撃をあたえたとみるや、砦方はさっとなかに入って城門をとざしてしまう。
「無理だ」
と、馬上で朱具足の家康はつぶやいた。この物事に慎重すぎるほどの人物は、その性格とは反対に、生涯《しょうがい》、野外決戦を得意とし、気長を要する城攻めを最大のにが手とした。このときも、かれにとっては愉快な戦闘ではなかったであろう。
「かえせ。遠巻きにせよ」
といって陣容をたてなおし、弓隊、鉄砲隊を進出させて射撃で敵の気勢を削《そ》ぎ、機会をみて突撃にうつろうとした。
その間、砦の守将佐久間大学はしばしば城門をひらいて突撃しようとしたが、そのつど射撃をくらって味方をうしない、ついに彼みずからも城門外で銃弾を受けて馬からさかさまに落ち、絶命した。砦方がその死体を城門内に運び入れようとしたとき、徳川方がすかさずそれに追尾し、城門になだれこみ、城内の者をほとんど皆殺しにして城を陥《おと》し、さらに陥落を敵味方に知らさしめるために火を放ってさかんな黒煙を天にあげた。
やや遅れて、丸根砦とともに織田軍の前線のおさえだった鷲津砦も、今川軍の支隊長朝《あさ》比奈《ひな》泰能二千の兵によって陥落した。
——これが尾張織田の関門か。
と笑いたくなったであろう。
その丸根砦の攻撃にむかった今川軍の支隊長が、十九歳の徳川家康(松平元康)であった。
二千五百人の大部隊がひたひたと丘陵地帯の街道をすすんで丸根砦の包囲を完了したのは十九日の陽が昇ろうとする刻限であった。この日、日ノ出は午前四時二十七分である。
丸根砦には、四百の人数しかいない。
「揉《も》みつぶすがよろしかろ」
と、家康の先鋒《せんぽう》たちは刀槍《とうそう》をきらめかせてわめき進んだが、たちまち城方の弓鉄砲のため堀ぎわで打ちたおされ、先鋒隊長の松平喜兵衛、筧《かけい》又蔵らが戦死した。包囲軍の崩れをみた砦の主将佐久間大学は、
「いまぞ。続けや」
と城門をひらいて突撃してきたため、徳川方の足軽が塵《ちり》のように蹴《け》ちらされ、将校《ものがしら》の高《こう》力《りき》新九郎、能《のう》見《み》庄左衛門が戦死した。
打撃をあたえたとみるや、砦方はさっとなかに入って城門をとざしてしまう。
「無理だ」
と、馬上で朱具足の家康はつぶやいた。この物事に慎重すぎるほどの人物は、その性格とは反対に、生涯《しょうがい》、野外決戦を得意とし、気長を要する城攻めを最大のにが手とした。このときも、かれにとっては愉快な戦闘ではなかったであろう。
「かえせ。遠巻きにせよ」
といって陣容をたてなおし、弓隊、鉄砲隊を進出させて射撃で敵の気勢を削《そ》ぎ、機会をみて突撃にうつろうとした。
その間、砦の守将佐久間大学はしばしば城門をひらいて突撃しようとしたが、そのつど射撃をくらって味方をうしない、ついに彼みずからも城門外で銃弾を受けて馬からさかさまに落ち、絶命した。砦方がその死体を城門内に運び入れようとしたとき、徳川方がすかさずそれに追尾し、城門になだれこみ、城内の者をほとんど皆殺しにして城を陥《おと》し、さらに陥落を敵味方に知らさしめるために火を放ってさかんな黒煙を天にあげた。
やや遅れて、丸根砦とともに織田軍の前線のおさえだった鷲津砦も、今川軍の支隊長朝《あさ》比奈《ひな》泰能二千の兵によって陥落した。
一方、清洲城を午前二時すぎにとびだした信長が、三里を駈《か》けて熱《あつ》田《た》明神に入り、ここで大休止をしたのは、最後の攻撃準備をととのえるためだった。
春敲門《しゅんこうもん》から入るや、
「熱田の者に申しきかせよ」
とどなった。
「よいか。子供の菖蒲幟《しょうぶのぼり》でもよいわ、ありあわせの染下地の木綿、白絹の端《は》物《もの》、なければ白い紙でもよいぞ。何にてもあれ、敵からみれば旗指物《はたざしもの》と見まがう白い物を、この熱田の高所の木《この》間《ま》々々に棹《さお》にて突き出し、おびただしくひるがえらしめよ」
これが信長が発した最初の軍令であった。
擬《ぎ》兵《へい》をつくるのである。今川軍から遠望すれば、
「信長の本隊は熱田の森にあり、容易に動かない」
と見えるであろう。信長はそれによって敵を油断させ、時をかせごうとした。
つぎに信長が熱田でやったことは、このおよそ神仏ぎらいな男が、家臣をひきいて神前に進み、戦勝祈願をしたことだった。
「殊勝なお心掛けじゃ」
と、あとで追いついてきた老臣たちは内心おどろいた。父の葬式のときでさえ、棺にむかって喚《おめ》きながら抹香《まっこう》を投げつけたこの風狂な若者が、どういう心境の変りであろう。
「運の末ともなれば神仏にすがる気持もおこり、遅まきながら、常人に立ちかえるものか。あわれなことよ」
そんなことをささやいている老臣もある。
信長は、祐筆《ゆうひつ》の武井夕庵《せきあん》をよんで、
「願文《がんもん》を書け」
と命じ、ほぼ口頭で大意をのべた。夕庵はたちどころに長文の漢文をつくりあげた。
やがて信長はひとり社殿に入り、扉《とびら》を締め、祈願をこらすふうであった。
ほどなく出てきて社殿の濡《ぬ》れ縁に立ち、
「ふしぎヤナ」
と叫んだ。
「おれが祈《き》祷《とう》をこめていると、ほの暗き社殿の奥のほう、神明坐《しんめいいま》すあたりに黒い気がうごき、鎧の金具の擦《す》れあう音が聞こえたわい。神明、わが祈りを聞召《きこしめ》したりと見たぞ」
(ほほう)
林通勝など老臣はまた驚いた。痴者《たわけ》がなにを言うやらと思ったが、あのたわけ《・・・》にしてかようなことを言うとすれば真実、神が甲冑《かっちゅう》を召して揺らぎ出《い》でられたのかもしれない、ともおもいなおしたりした。むしろそう思いたい。老臣たちも、
(勝ちたい)
と思う一念にかわりはない。敗《ま》ければ命も所領もうばわれ、一族は流《る》浪《ろう》せねばならぬであろう。
信長のこの一言が、沈みきっていた織田勢に多少とも希望を与えた。
「者ども」
と、信長はさらに叫んだ。
「人間、一度死ねば二度とは死なぬ。このたびは、おれに命をくれい。生きて熱田明神にもどれるとは思うな」
やがて信長は一千の軍勢をひきいて海蔵門を出た。
ここまでは古名将のふるまいにも似ていたが、海蔵門を出発して街道に入った信長の馬上の姿は、なんともいえず奇妙なもので、鞍の前《まえ》輪《わ》と後輪《しずわ》へ両手を掛け、体を横ざまにしてゆらゆらと揺られ、鼻さきに虻《あぶ》の羽音のような音をたてて心覚えの小《こ》謡《うた》をうたっている。
熱田の町の者はそれを見、
ヌルク馬鹿《ばか》々々しき体《てい》なり。アレにては
勝ち給ふ事は成るまじ。
と譏《そし》り笑った、と山澄本《やまずみぼん》の桶狭《おけはざ》間《ま》合戦記註《がっせんきちゅう》にはある。信長にすればそんなジダラクな乗り方のほうが楽だったのであろう。
熱田明神のほんのわずか南にある上《かみ》知我麻《ちかま》の祠《ほこら》から東方の三《み》河《かわ》の山野が遠望できた。
そのはるかなる遠景のなかで、二すじの黒煙が天を染めているのを見た。
(陥《お》ちたか)
信長は知ったが、表情はかわらない。将士が立ちさわぎ、老臣の一人が馬を寄せてきて、
——はや、丸根・鷲津の両砦は落ちたげにござりまする。
と教えると、信長は、
「おれにも眼がある」
無愛想にいった。言いおわると、「私語をするな、隊《たい》伍《ご》を乱すな、敵味方の強弱を論ずべからず。犯す者は斬《き》る」と手きびしく命じた。たちまち隊伍は粛然《しゅくぜん》とした。
やがて前方から埃《ほこり》と血と汗にまみれた兵が駈けてきて信長の馬前にひざをつき、佐久間大学らの討死を伝えると、信長は鞍の上で姿勢をただし、
「大学はおれより一刻《いっとき》さきに死んだぞ」
と天にむかって叫んだ。
信長は鞭《むち》をあげ、一軍に疾風のような行軍速度を命じた。信長が駈け、兵が駈けた。みちみち、諸砦の兵を合しつつ、井戸田、新《あら》屋《や》敷《しき》をすぎ、黒末川を渡って古《こ》鳴《なる》海《み》に出、そこから馬頭を南に向けた。道はすでに三河に近づいている。このあたりから地形は、低いなだらかな丘陵になってゆく。
敵情はわからない。今川義元の本陣がどこにあるかもわからない。とにかく、
(敵にむかって駈けよ)
というだけが、信長の作戦原理だった。それしかなかった。敵に接近するにつれて運がよければ敵の本陣の所在がわかるであろう。そのときは面《おもて》もふらず突き入ればよい。
暑い。
烈日が、具足を灼《や》き、人馬は汗みどろになりつつ、ただ夢中で足を動かしていた。山坂で息を切らして倒れる者もあったが、すぐ槍《やり》を杖《つえ》に起きあがり部隊のあとを追った。
余談だが、徳川初期、この日の信長の馬丁をつとめたという男がなお鳴《なる》海《み》の村で生きていて、それを尾張徳川家の臣山澄淡路守《やまずみあわじのかみ》と成瀬隼人正《はやとのしょう》がたずね、当時の模様を語らせた談話が、山澄本桶狭間合戦記註にある。その記述を意訳すると、
手前どもの記憶と申しましても、あの日は、信長公は、御馬でやたらと山を乗りあげ乗り下《くだ》し給うたことぐらいしか残っておりませぬ。ただはっきりと覚えておりますことは、あの五月十九日の暑さのことで、まるで猛火のそばに居るがようでございました。この齢《とし》になるまであれほどの暑気は知りませぬ。
春敲門《しゅんこうもん》から入るや、
「熱田の者に申しきかせよ」
とどなった。
「よいか。子供の菖蒲幟《しょうぶのぼり》でもよいわ、ありあわせの染下地の木綿、白絹の端《は》物《もの》、なければ白い紙でもよいぞ。何にてもあれ、敵からみれば旗指物《はたざしもの》と見まがう白い物を、この熱田の高所の木《この》間《ま》々々に棹《さお》にて突き出し、おびただしくひるがえらしめよ」
これが信長が発した最初の軍令であった。
擬《ぎ》兵《へい》をつくるのである。今川軍から遠望すれば、
「信長の本隊は熱田の森にあり、容易に動かない」
と見えるであろう。信長はそれによって敵を油断させ、時をかせごうとした。
つぎに信長が熱田でやったことは、このおよそ神仏ぎらいな男が、家臣をひきいて神前に進み、戦勝祈願をしたことだった。
「殊勝なお心掛けじゃ」
と、あとで追いついてきた老臣たちは内心おどろいた。父の葬式のときでさえ、棺にむかって喚《おめ》きながら抹香《まっこう》を投げつけたこの風狂な若者が、どういう心境の変りであろう。
「運の末ともなれば神仏にすがる気持もおこり、遅まきながら、常人に立ちかえるものか。あわれなことよ」
そんなことをささやいている老臣もある。
信長は、祐筆《ゆうひつ》の武井夕庵《せきあん》をよんで、
「願文《がんもん》を書け」
と命じ、ほぼ口頭で大意をのべた。夕庵はたちどころに長文の漢文をつくりあげた。
やがて信長はひとり社殿に入り、扉《とびら》を締め、祈願をこらすふうであった。
ほどなく出てきて社殿の濡《ぬ》れ縁に立ち、
「ふしぎヤナ」
と叫んだ。
「おれが祈《き》祷《とう》をこめていると、ほの暗き社殿の奥のほう、神明坐《しんめいいま》すあたりに黒い気がうごき、鎧の金具の擦《す》れあう音が聞こえたわい。神明、わが祈りを聞召《きこしめ》したりと見たぞ」
(ほほう)
林通勝など老臣はまた驚いた。痴者《たわけ》がなにを言うやらと思ったが、あのたわけ《・・・》にしてかようなことを言うとすれば真実、神が甲冑《かっちゅう》を召して揺らぎ出《い》でられたのかもしれない、ともおもいなおしたりした。むしろそう思いたい。老臣たちも、
(勝ちたい)
と思う一念にかわりはない。敗《ま》ければ命も所領もうばわれ、一族は流《る》浪《ろう》せねばならぬであろう。
信長のこの一言が、沈みきっていた織田勢に多少とも希望を与えた。
「者ども」
と、信長はさらに叫んだ。
「人間、一度死ねば二度とは死なぬ。このたびは、おれに命をくれい。生きて熱田明神にもどれるとは思うな」
やがて信長は一千の軍勢をひきいて海蔵門を出た。
ここまでは古名将のふるまいにも似ていたが、海蔵門を出発して街道に入った信長の馬上の姿は、なんともいえず奇妙なもので、鞍の前《まえ》輪《わ》と後輪《しずわ》へ両手を掛け、体を横ざまにしてゆらゆらと揺られ、鼻さきに虻《あぶ》の羽音のような音をたてて心覚えの小《こ》謡《うた》をうたっている。
熱田の町の者はそれを見、
ヌルク馬鹿《ばか》々々しき体《てい》なり。アレにては
勝ち給ふ事は成るまじ。
と譏《そし》り笑った、と山澄本《やまずみぼん》の桶狭《おけはざ》間《ま》合戦記註《がっせんきちゅう》にはある。信長にすればそんなジダラクな乗り方のほうが楽だったのであろう。
熱田明神のほんのわずか南にある上《かみ》知我麻《ちかま》の祠《ほこら》から東方の三《み》河《かわ》の山野が遠望できた。
そのはるかなる遠景のなかで、二すじの黒煙が天を染めているのを見た。
(陥《お》ちたか)
信長は知ったが、表情はかわらない。将士が立ちさわぎ、老臣の一人が馬を寄せてきて、
——はや、丸根・鷲津の両砦は落ちたげにござりまする。
と教えると、信長は、
「おれにも眼がある」
無愛想にいった。言いおわると、「私語をするな、隊《たい》伍《ご》を乱すな、敵味方の強弱を論ずべからず。犯す者は斬《き》る」と手きびしく命じた。たちまち隊伍は粛然《しゅくぜん》とした。
やがて前方から埃《ほこり》と血と汗にまみれた兵が駈けてきて信長の馬前にひざをつき、佐久間大学らの討死を伝えると、信長は鞍の上で姿勢をただし、
「大学はおれより一刻《いっとき》さきに死んだぞ」
と天にむかって叫んだ。
信長は鞭《むち》をあげ、一軍に疾風のような行軍速度を命じた。信長が駈け、兵が駈けた。みちみち、諸砦の兵を合しつつ、井戸田、新《あら》屋《や》敷《しき》をすぎ、黒末川を渡って古《こ》鳴《なる》海《み》に出、そこから馬頭を南に向けた。道はすでに三河に近づいている。このあたりから地形は、低いなだらかな丘陵になってゆく。
敵情はわからない。今川義元の本陣がどこにあるかもわからない。とにかく、
(敵にむかって駈けよ)
というだけが、信長の作戦原理だった。それしかなかった。敵に接近するにつれて運がよければ敵の本陣の所在がわかるであろう。そのときは面《おもて》もふらず突き入ればよい。
暑い。
烈日が、具足を灼《や》き、人馬は汗みどろになりつつ、ただ夢中で足を動かしていた。山坂で息を切らして倒れる者もあったが、すぐ槍《やり》を杖《つえ》に起きあがり部隊のあとを追った。
余談だが、徳川初期、この日の信長の馬丁をつとめたという男がなお鳴《なる》海《み》の村で生きていて、それを尾張徳川家の臣山澄淡路守《やまずみあわじのかみ》と成瀬隼人正《はやとのしょう》がたずね、当時の模様を語らせた談話が、山澄本桶狭間合戦記註にある。その記述を意訳すると、
手前どもの記憶と申しましても、あの日は、信長公は、御馬でやたらと山を乗りあげ乗り下《くだ》し給うたことぐらいしか残っておりませぬ。ただはっきりと覚えておりますことは、あの五月十九日の暑さのことで、まるで猛火のそばに居るがようでございました。この齢《とし》になるまであれほどの暑気は知りませぬ。
鳴海の東方に善照寺という織田方の砦がある。信長がこの善照寺の東方台地に対したのが、午前十一時ごろであった。急いだようでも途中諸砦の兵を呼び集めながらの行軍だったため、熱田から善照寺までが三時間近くかかったことになる。
この善照寺東方台地で、信長は最後の攻撃準備をするため行軍を一時とめた。すでに諸方から兵が合流してきているため、三千人に達していた。信長が決戦場に投入しうるかぎりのぎりぎりの兵数といっていい。
熱田出発以来、信長はおびただしい数の斥候を放って今川義元の所在を執拗《しつよう》に探索させつづけているが、いまなお確報が入らない。そのうち、急報が入った。
またしても敗報であった。鳴海方面へ進んでいた信長の右翼隊五百人が敵の大部隊と遭遇戦を演じ潰滅《かいめつ》した、というものであった。このため右翼隊長である佐《さつ》々《さ》隼人正と軍中にあった熱田の大宮《だいぐう》司千《じち》秋《あき》加賀守季忠《すえただ》が戦死した。
「死んだか」
信長はそういっただけであった。そのうち右翼隊の敗兵が合流してきた。その敗兵のなかから、前田孫四郎(のちの利家《としいえ》)という二十歳の将校《ものがしら》が、自分の獲《と》った首を高くかかげつつ走り出てきて、
「殿、一番首でござりましたぞ」
と叫んだが、信長は、
「阿《あ》呆《ほう》っ」
そう言っただけでそっぽをむいた。孫四郎はそういう信長に腹が立ち、御前を駈け去るや、首を沼のなかにたたきこんでしまった。
そのとき、信長の生涯《しょうがい》と日本史を一変せしめた偵察《ていさつ》報告がとどいた。
「義元殿は、ただいま田楽狭《でんがくはざ》間《ま》に幔幕《まんまく》を張りめぐらして昼弁当をお使いなされておりまする」
というものであった。この報告をもたらした者は、沓掛村の豪族で織田信秀のころから織田家に属している梁《やな》田《だ》四郎左衛門政綱という者であった。梁田はこの日、かれ自身の手もとから諜者《ちょうじゃ》を放ち敵情をさぐっていたが、そのうちの一人が田楽狭間の付近まで忍び入り、この重大な情報を得たわけである。信長は梁田にのち三千貫の領地をあたえて、その功にむくいている。
ちなみにいう。後世、この決戦の場所を「桶狭間」と言いならわしているが、地理を正確にいえば「田楽狭間」である。桶狭間は田楽狭間より一キロ半南方にある部落で、この戦いとは直接関係はない。
「さてこそ!」
叫ぶなり信長は身をひるがえして馬上にあり、敵の本陣に突撃する旨《むね》を明示し、
「名を挙げ家を興すはこの一戦にあるぞ。みな、奮え」
と駈け出しながら、「目的は全軍の勝利にあるぞ。各自《めいめい》の功名にとらわれるな。首は挙ぐべからず、突き捨てにせよ」と叫んだ。
この善照寺から田楽狭間までの道はふたとおりある。信長は、山中の迂《う》回《かい》路《ろ》をとった。距離は、六キロであった。
このとき、太陽のそばに一《いち》朶《だ》の黒雲があらわれ、たちまち一天にひろがり天地が陰々として参りました。
と、山澄淡路守が会った信長の馬丁は語っている。夕立の気配が満ちてきたのである。
この善照寺東方台地で、信長は最後の攻撃準備をするため行軍を一時とめた。すでに諸方から兵が合流してきているため、三千人に達していた。信長が決戦場に投入しうるかぎりのぎりぎりの兵数といっていい。
熱田出発以来、信長はおびただしい数の斥候を放って今川義元の所在を執拗《しつよう》に探索させつづけているが、いまなお確報が入らない。そのうち、急報が入った。
またしても敗報であった。鳴海方面へ進んでいた信長の右翼隊五百人が敵の大部隊と遭遇戦を演じ潰滅《かいめつ》した、というものであった。このため右翼隊長である佐《さつ》々《さ》隼人正と軍中にあった熱田の大宮《だいぐう》司千《じち》秋《あき》加賀守季忠《すえただ》が戦死した。
「死んだか」
信長はそういっただけであった。そのうち右翼隊の敗兵が合流してきた。その敗兵のなかから、前田孫四郎(のちの利家《としいえ》)という二十歳の将校《ものがしら》が、自分の獲《と》った首を高くかかげつつ走り出てきて、
「殿、一番首でござりましたぞ」
と叫んだが、信長は、
「阿《あ》呆《ほう》っ」
そう言っただけでそっぽをむいた。孫四郎はそういう信長に腹が立ち、御前を駈け去るや、首を沼のなかにたたきこんでしまった。
そのとき、信長の生涯《しょうがい》と日本史を一変せしめた偵察《ていさつ》報告がとどいた。
「義元殿は、ただいま田楽狭《でんがくはざ》間《ま》に幔幕《まんまく》を張りめぐらして昼弁当をお使いなされておりまする」
というものであった。この報告をもたらした者は、沓掛村の豪族で織田信秀のころから織田家に属している梁《やな》田《だ》四郎左衛門政綱という者であった。梁田はこの日、かれ自身の手もとから諜者《ちょうじゃ》を放ち敵情をさぐっていたが、そのうちの一人が田楽狭間の付近まで忍び入り、この重大な情報を得たわけである。信長は梁田にのち三千貫の領地をあたえて、その功にむくいている。
ちなみにいう。後世、この決戦の場所を「桶狭間」と言いならわしているが、地理を正確にいえば「田楽狭間」である。桶狭間は田楽狭間より一キロ半南方にある部落で、この戦いとは直接関係はない。
「さてこそ!」
叫ぶなり信長は身をひるがえして馬上にあり、敵の本陣に突撃する旨《むね》を明示し、
「名を挙げ家を興すはこの一戦にあるぞ。みな、奮え」
と駈け出しながら、「目的は全軍の勝利にあるぞ。各自《めいめい》の功名にとらわれるな。首は挙ぐべからず、突き捨てにせよ」と叫んだ。
この善照寺から田楽狭間までの道はふたとおりある。信長は、山中の迂《う》回《かい》路《ろ》をとった。距離は、六キロであった。
このとき、太陽のそばに一《いち》朶《だ》の黒雲があらわれ、たちまち一天にひろがり天地が陰々として参りました。
と、山澄淡路守が会った信長の馬丁は語っている。夕立の気配が満ちてきたのである。
これより前、今川義元は沓掛《くつかけ》村から大高村へ馬を進め、その途中、前線から丸根・鷲津の敵砦を攻めつぶした旨の勝報をきき、
「さもあろう。わが旗の押し進むところ鬼神も避けることよ。まして信長づれが」
と大きく笑い、前線から送られてきた織田家の諸将の首をみて子供のようによろこんだ。
この今川方の戦勝の報が戦場付近の村々にもつたわり、近在の寺院の僧、神社の神官がひきもきらず戦勝祝いにやってきた。かれらにすればやがて来《きた》るべき今川方の大勝利によって東海地方の政治地図が大きく変わることを見越し、そのせつは寺領社領を安《あん》堵《ど》してもらうために義元の機《き》嫌《げん》をとっておこうというのが本音だった。そのため酒、魚介など、おびただしい祝い品をもってやってきている。
義元は機嫌よくかれらのあいさつを受けつつ馬を打たせ、かれらが持ってきた酒肴《しゅこう》の処分方を考えた。運ぶのは重い。捨てるのはもったいない。結局、軍を大休止せしめて昼弁当をつかい、あわせて戦勝の小宴を張ろうとした。この当時、まだ二食の風習がつよく残っており、昼はたとえ腰兵糧《こしびょうろう》をとるにしても本隊のことごとくを止めてめしを食う、というような大げさな食事はしない。義元にすれば、戦勝の祝い気分と、酒肴献上という二つがかさなったために、ついこういう処置をとったのである。
「よい場所はないか」
「このさきに田楽狭間と申し、松林にかこまれた窪《くぼ》地《ち》がござりまする」
「それ、そこにせよ」
と義元は命じ、馬を進ませた。部下が走って義元のために設営した。
義元の御座所は、松林のなかの芝生の上に敷皮をひろげて設けられ、まわりを、桐《きり》の紋を染め出した幔幕でかこまれていた。
義元は、敷皮の上にすわった。色白でやや肥満しそのうえ胴が長大なためにすわるとどうみても見事な東海の帝王であった。もっとも顔は、流れる汗で、化粧がすっかり剥《は》げ落ちてしまっている。
義元は、盃《さかずき》をあげて飲みはじめ、ほどよく酒がまわったあたりで近習《きんじゅう》に小鼓をうたせ、謡《うたい》をやや高めの声でうたった。
二万五千の今川軍のうち、義元を親衛する本軍は五千で、これが田楽狭間という小さな盆地にすっぽりとおさまっている。むろん義元の幔幕をかこむ警備は十分なもので、街道の要所々々には諸隊が出ていた。ただ不幸なことにそれが一せいに昼食をとっていた。
「雨よ」
とたれかが叫んだのは、正午ごろであったか。天が暗くなったかと思うと、たちまち砂《さ》礫《れき》を飛ばすほどの暴風になり、雨が横なぐりに降りはじめた。
付近には恰好《かっこう》な民家がなかったため、雨はこの松林の松の根方で避けるほかなかった。が、松林の周囲にいる身分の軽い士卒たちは四方に散って、山の蔭《かげ》、野小屋などに走りこんだ。
このころ信長は、山を越えきってすでに谷に入っていたが、途中この嵐《あらし》に遭い、
(天佑《てんゆう》か。——)
と狂喜したが、しかしいかにこの無法な男でも軍を前進せしめられるようななまやさしい風雨ではなかった。地を這《は》わなければ吹きとばされそうになるほどの風速で、しかも滝のように降ってくる雨のために視界はほとんどなかった。部隊は細い谷川のなかを進んでいる。忽《たちま》ち水かさがふえ、足をとられる者が多い。それでも信長は進んだ。
途中、六百メートルほどの平野を横切ったが、この部隊行動が風雨の幕のために今川方からついに見えなかった。信長はさらに山に入って南下した。山には道がない。木の枝、草の根をつかんで全軍がのぼりくだりした。が、信長は馬から降りない。子供のころから異常なほどの乗馬好きだったこの男は、蹄《ひずめ》の置ける場所さえあれば楽々と馬を御《ぎょ》することができた。
善照寺を出発して以来、道もない山のなかを六キロ、二時間たらずで踏みやぶり、田楽狭間を見おろす太《たい》子《し》ケ根《ね》についたのは午後一時すぎであったろう。風雨がさらに強くなったためにここで小歇《こや》みを待った。
天がやや霽《は》れ、風が残った。その風とともに全軍、田楽狭間に突撃したのは、午後二時ごろであった。
(天佑《てんゆう》か。——)
と狂喜したが、しかしいかにこの無法な男でも軍を前進せしめられるようななまやさしい風雨ではなかった。地を這《は》わなければ吹きとばされそうになるほどの風速で、しかも滝のように降ってくる雨のために視界はほとんどなかった。部隊は細い谷川のなかを進んでいる。忽《たちま》ち水かさがふえ、足をとられる者が多い。それでも信長は進んだ。
途中、六百メートルほどの平野を横切ったが、この部隊行動が風雨の幕のために今川方からついに見えなかった。信長はさらに山に入って南下した。山には道がない。木の枝、草の根をつかんで全軍がのぼりくだりした。が、信長は馬から降りない。子供のころから異常なほどの乗馬好きだったこの男は、蹄《ひずめ》の置ける場所さえあれば楽々と馬を御《ぎょ》することができた。
善照寺を出発して以来、道もない山のなかを六キロ、二時間たらずで踏みやぶり、田楽狭間を見おろす太《たい》子《し》ケ根《ね》についたのは午後一時すぎであったろう。風雨がさらに強くなったためにここで小歇《こや》みを待った。
天がやや霽《は》れ、風が残った。その風とともに全軍、田楽狭間に突撃したのは、午後二時ごろであった。
敵の警衛陣は、風雨を避けるために四散していた。雨のなかから躍りこんできた織田兵に気づいた者も、風雨のために友軍との連絡が断たれているため有機的活動ができず、ただ逃げるしか仕方がなかった。それにこの乱軍のなかで、最大の不幸がおこった。
「裏切りぞ」
という叫び声があがったことであった。今川軍では信長がまだ熱田か、せいぜい善照寺あたりに居るものと思っていたため、味方の反乱としか思えなかったのであろう。この混乱のなかでそういう疑惑がおこった以上、もはや味方同士を信ずることが出来なくなった。互いに互いと衝突しては打ち合い、逃げ合い、たちまち軍組織が崩壊した。
義元は、松の根方でひとり置き去りにされた。小姓どもは周囲のどこかで戦っているのであろうが、みな義元をかまうゆとりがない。
「駿《すん》府《ぷ》のお屋形っ」
と叫んで、義元にむかい、まっすぐに槍を入れてきた者がある。織田方の服部《はっとり》小平太であった。
「下《げ》郎《ろう》、推参《すいさん》なり」
と義元は、今川家重代の「松倉郷の太刀」二尺八寸をひきぬくや、剣をあげて小平太の青貝の槍の柄《え》を戞《かつ》と切り飛ばし、跳びこんで小平太の左膝《ひざ》を斬った。
わっ、と小平太が倒れようとすると、そのそばから飛びだしてきた朋輩《ほうばい》の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃ちこみ、義元がひるむすきに組みつき、さらに組み伏せ、雨中で両人狂おしくころがりまわっていたが、やがて新助は義元を刺し、首をあげた。首は、首のままで歯噛《はが》みしており、その口中に新助の人差指が入っていた。
戦闘が終結したのは、午後三時前である。四時に信長は兵をまとめ、戦場にとどまることなく風のように駈けて熱田に帰り、日没後、清洲城に入った。
「お濃《のう》、勝ったぞ」
と、この男は、濃姫にひと言いった。
「裏切りぞ」
という叫び声があがったことであった。今川軍では信長がまだ熱田か、せいぜい善照寺あたりに居るものと思っていたため、味方の反乱としか思えなかったのであろう。この混乱のなかでそういう疑惑がおこった以上、もはや味方同士を信ずることが出来なくなった。互いに互いと衝突しては打ち合い、逃げ合い、たちまち軍組織が崩壊した。
義元は、松の根方でひとり置き去りにされた。小姓どもは周囲のどこかで戦っているのであろうが、みな義元をかまうゆとりがない。
「駿《すん》府《ぷ》のお屋形っ」
と叫んで、義元にむかい、まっすぐに槍を入れてきた者がある。織田方の服部《はっとり》小平太であった。
「下《げ》郎《ろう》、推参《すいさん》なり」
と義元は、今川家重代の「松倉郷の太刀」二尺八寸をひきぬくや、剣をあげて小平太の青貝の槍の柄《え》を戞《かつ》と切り飛ばし、跳びこんで小平太の左膝《ひざ》を斬った。
わっ、と小平太が倒れようとすると、そのそばから飛びだしてきた朋輩《ほうばい》の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃ちこみ、義元がひるむすきに組みつき、さらに組み伏せ、雨中で両人狂おしくころがりまわっていたが、やがて新助は義元を刺し、首をあげた。首は、首のままで歯噛《はが》みしており、その口中に新助の人差指が入っていた。
戦闘が終結したのは、午後三時前である。四時に信長は兵をまとめ、戦場にとどまることなく風のように駈けて熱田に帰り、日没後、清洲城に入った。
「お濃《のう》、勝ったぞ」
と、この男は、濃姫にひと言いった。