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国盗り物語86

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:須賀口 近江《おうみ》木《き》ノ本《もと》から北国街道の山坂をゆるゆるとのぼると、左手に賤《しず》ケ岳《たけ》が見え、そ
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須賀口

 近江《おうみ》木《き》ノ本《もと》から北国街道の山坂をゆるゆるとのぼると、左手に賤《しず》ケ岳《たけ》が見え、そのむこうに余呉《よご》の湖《うみ》が光っている。
峠に茶屋がある。
山肌《やまはだ》を背にして建てられ、茶屋のまわりに五月躑躅《さつき》がみごとに群落しているところから、さつき茶屋ともよばれていた。
さきほどから茶屋に腰をおろしている旅僧が商人《あきんど》らしい男を相手に、東海地方でおこった信ずべからざる政治的激変について語っていた。話の様子では、旅僧は駿河《するが》から三《み》河《かわ》、尾張、美濃、北近江を経てきて、いまから若《わか》狭《さ》へ行こうとしているらしく、東海地方の最近の政情についてはじつにくわしい。
「尾張の織田上総介《かずさのすけ》殿といえばとほうもない阿《あ》呆《ほう》といわれ、土地では女子供までたわけ《・・・》殿とよんでいた。そのたわけ《・・・》殿が、なんと東海一円の覇《は》王《おう》今川治部大《じぶだ》輔《ゆう》殿(義元)を田楽狭《でんがくはざ》間《ま》においてみごと討ちとった。今川殿も相手に事欠き、清洲のあほう《・・・》殿に討たれるとは死んでも死にきれぬほどに無念であったろう」
「いつのことでござりまする」
「五月の十九日であったか」
「あ」
ごく最近の風聞である。
「ほんの三日前のことでござりまするな」
と、商人はうれしそうにいった。この風聞を次の宿場にもって行ってやればひとによろこばれるであろう。
「聞けば今川殿は大軍をもって京にのぼり、天子・将軍を擁して天下に号令せんとなされたそうな」
(そのこと、聞いていた)
と、ひとりうなずいたのは、すみで茶をのんでいた色白の武士である。
「東海の覇王が」
と、旅僧はいった。
「京にのぼれば天子、将軍家の御日用は豊かになる。公卿《くげ》や将軍側近の武士たちは今川殿の上洛《じょうらく》をどれほど待ちわびたことであったろう」
(左様、待ちわびていた)
と、旅の武士は、心中、自分にささやいた。
「哀れやな」
旅僧はいった。
「そのことも画《が》餅《べい》に帰した。今川殿不慮の討死の風聞は今日あたり京にきこえているであろうが、都の貴顕紳士のなげきはいかばかりであろう」
「御坊」
旅の武士は立ちあがった。
「いまのお話、まことでござるか」
「うそではない。わしはその戦場を通って尾張に入り、美濃を経ていまここにある。この目で見、この耳できいたことに、なんのまや《・・》かし《・・》がござろうかい」
「ごもっともでござる」
武士は鄭重《ていちょう》に詫《わ》び、茶代を置き、編笠《あみがさ》をかぶりなおして街道へ出た。
武士の足もとに、五月躑躅の紅が、陽《ひ》のなかで燃えるように咲きみだれている。武士はしばらく佇《たたず》んで考えている風《ふ》情《ぜい》だったが、やがて思いを決したように踵《きびす》をひるがえし、もときた道をくだりはじめた。
「あの牢人《ろうにん》、越前方面にゆくつもりではなかったのか。引きかえしたぞよ」
と、旅僧は茶屋の老婆にいった。
武士は、明智十兵衛光秀である。
実は京から越前一乗谷《いちじょうだに》にゆくつもりで湖北を通り、この峠にさしかかったのである。が、あまりにも衝撃的なうわさをきき、急に思いかえして尾張へ行こうとした。
ここ数年、光秀は諸国の豪族の動静を知るために天下を遍歴していた。
(足利幕府を再興したい)
とおもう一念にはかわりがない。乱世を一つにおさめて秩序をつくるためには、日本中の武家の頭領《とうりょう》である将軍の威権を回復する以外に方法がないと信じ、諸国の城下へゆき、その志を説いてまわっている。
例えば、中国の毛利氏の領国内にも入って重臣の桂能登守《かつらのとのかみ》の屋敷に逗留《とうりゅう》し、
「毛利氏の富強は天下にひびいています。いまにして志を大にし、山陽道を鎮《ちん》撫《ぶ》しつつ京に兵馬をすすめ、将軍を擁して立つあらば天下の諸豪は風をのぞんで帰服しましょう。将軍家との橋渡しは不肖《ふしょう》光秀がつかまつりましょう」
と説いた。
「貴殿が、将軍家との橋渡しを」
と、たいていの者がおどろく。
「いつわりはござらぬ」
将軍側近には光秀の親友であり、この世における唯一《ゆいいつ》の同志といっていい細川藤孝がいる。藤孝は将軍の館にあり光秀は外を担当し、たがいに幕府復興のために連繋《れんけい》をとりあっているから、光秀いかに、無位無官の牢人とはいえ、将軍の手代と同様の機能《はたらき》はもっていた。
しかし光秀がいかに諸国の大名を説いても、
「お説はまことに結構であるが、いまのところはとても」
と敬遠された。どの大名も近隣の大名とたがいに攻伐しあって片時もゆだんのならぬ情勢にある。京にのぼれるような余裕など、たれももっていない。
それでもこの遊説《ゆうぜい》は無駄《むだ》ではなかった。諸国を巡歴する行動そのものに列強の動静を知りうるという余得があったし、また将軍家にとってもむだではない。大名たちのなかには、光秀に説かれたがために将軍家の衰微に同情し、
「せめて将軍家の御日用の料でも」
と、金穀《きんこく》を上方《かみがた》へ送るような大名も出てきているからである。もっとも大名によっては、
「そこもと、天子、将軍などと、迂《う》遠《えん》なことを申し立てておるより、いっそわしに仕えぬか」
と、仕官をすすめるむきもある。光秀はそのつど惜しげもなくことわった。理由は簡単である。将軍を擁立する意思も実力もない大名に仕えたところで、たかだか田舎大名の家老程度でおわることになろう。
——自分は、明智氏という美濃源氏を代表する名族の出である。
という頭が、光秀にある。落ちぶれたりといえども足利将軍家の支族である以上、千石や二千石の禄《ろく》に目がくらんで田舎武士になるより、天下の機軸を動かすような場を独力で創《つく》りあげたい。さればこそ、いまは古わらじにもひとしい将軍家をかつぎまわり、その明日の価値を田舎大名どもに説いてまわっているのではないか。
(これがおれの志だ)
行動の原理といっていい。光秀はこの時代にはめずらしくそういうものをもっている。また持たねば行動をおこせぬたちの男でもあった。
そういうところへ、光秀は今川義元上洛の一件をきいた。光秀はこの一件を将軍側近の細川藤孝からきいたのである。
「いよいよ将軍家にも御運がむいてきたらしい」
と細川藤孝はいった。
「しかし十兵衛殿、今川義元はうまく上洛できるかどうか」
「さればさ」
光秀は、その豊富な諸国事情の知識から今川家の軍事力や沿道諸大名の実力をあれこれと論じ、
「今川義元はなるほど京にのぼって三《み》好《よし》一党を追い、将軍の御館《おやかた》などを造営してくれるだろう。そこまでは成功する。問題は義元の実力から考えていつまでその権勢をたもち得るかだ。これはあやうい」
「さればどうすればよい」
「越前の朝倉氏も京へよぶことだ」
この二大大名の連立によって京の足利政権を擁護してゆく——というのが、この事態に即応する光秀の幕府復興構想であった。
その案おもしろい、ということになり、あとから将軍家の御教書《みぎょうしょ》を差しくだすとして、とりあえず朝倉氏を打診し説得するために光秀自身が、単身、越前の首都一乗谷にゆくことになった。
(こんどこそ、積年の志に芽がふくぞ)
と光秀は心もかるがると京を発《た》ち、湖北を北上し、近江木ノ本から山坂をのぼり、峠でひと息入れるべく茶屋に入ったとき、なんとかんじんの今川義元が田楽狭間で落命したというはなしをきいたのである。光秀は鼓動がとまるほどの驚きを覚えた。
(なんと、将軍様も御運のないことよ)
と暗然としたが、悲嘆に暮れているばあいではない。その風聞がまことかどうか尾張清洲の城下でたしかめてみることであった。そのうえで、あらたなる構想をたてねばならない。
清洲へ。
と、この行動力に満ちた男は五月の湖北の風に旅衣《たびごろも》をひるがえしながら木ノ本へ降りて行った。

近江から美濃関ケ原に出、大垣の城下を通り、そこから墨股《すのまた》、竹鼻《たけがはな》を経て、木曾川を渡った。
(まさか、あの信長が)
と疑いが光秀の脳裏を去らない。あれはた《・》わけ《・・》ではないか、という信長伝説が光秀の先入主にある。だからこそ今川義元の上洛を、
——やすやすと京までのぼれるだろう。
と光秀は判断し、細川藤孝にもそういったのである。
光秀は、間接ながら信長と縁が濃い。亡《な》き道三が、
「将来《さきざき》、見込みのある者といえば、美濃ではわが妻の甥《おい》光秀、尾張ではわが婿《むこ》の信長だ」
といっていたし、かつ道三は、自分が身をもって学びとった「戦国策」を、光秀に教え、また光秀が聞くところでは信長にもそれを教えていた形跡がある。いわば相弟子の関係ではないか。かつ、信長の妻濃姫は道三・小見の方の娘であり、小見の方の甥である光秀は、濃姫といとこ《・・・》の血縁になる。
だからこそ、光秀の信長に対する心情は複雑といっていい。
(なんの、信長づれが)
とおもう競争意識に似たものがある。むしろ信長の噂《うわさ》のなかでその欠点をのみよろこんで記憶にとどめ、
(あんな阿《あ》呆《ほう》のどこがいいというのか。おれの器量とくらべるなど、亡き道三殿も、晩年は智恵の鏡が曇っていたようにおもえる)
と奥歯で歯ぎしりをするような思いで、それをおもっていた。その思いのなかから、こんどの今川義元上洛の成否を判断し、清洲の信長などはどうせ田《た》螺《にし》のように踏みつぶされるであろうと考えていた。
その田螺が、なんと三河境いまで進撃して、田楽狭間とやらで義元の首を刎《は》ねてしまったというのである。
「いや、本当らしゅうございますよ」
という言葉を最初にきいたのは、美濃の大垣城下の旅籠《はたご》の主人からであった。主人も隣国の大名の批評だからそこは遠慮はなく、
「死にものぐるいのねずみが、猫《ねこ》を噛《か》んだようなものでございましょう。それにしても人は見かけによらぬものでございますな」
と、あまり好意的でない批評をくだした。
ところが、木曾川を越えて尾張に入ると、まだ戦後十日も経《た》っていないだけに領内は戦勝気分で沸き立っており、光秀が通ってゆくどの村、どの市《いち》でも田楽狭間の戦さばなしで持ちきりで、信長の人気も当然ながら、かつてとは一変していた。
「あれはうつけ《・・・》者よ」
といっていた同じ人の口が、
「軍神摩利支《まりし》天《てん》の御再来ではあるまいか」
と、掌《たなごころ》をかえすように評価をかえていた。馬鹿《ばか》が一夜で生神になった、という例は、さすが諸国の珍談を見聞している光秀も、きいたことがない。かれが読み知った本朝異朝の史書にも、これほど極端なことがなかったようであった。
(しかしなぜ信長は田楽狭間で義元の首を獲《と》ったあと、その勢いを駆って追撃戦にうつり敵の本軍を潰滅《かいめつ》せしめなかったのか。おれならそうしている)
という疑問をもったが、次第に合戦の詳細を知るにつれて、信長があの奇襲に全軍を投入したこと、奇襲の目的は義元の首を刎ねるというただ一点にしぼっていたこと、刎ねたあとは今川軍を追撃するだけの余力がなかったことなどがわかってきた。むしろあれだけの奇功をおさめていながら、その戦果を拡大することなく、首一つに満足してさっと兵をひきあげた抑制力は、尋常のものではない。
(が、それだけのことだ)
光秀は村々を過ぎて、やがて信長の主城である清洲の城下に入った。
ここでも光秀は小さなおどろきをもった。なるほど尾張領内の他の村々では戦勝気分で沸き立っていたが、この首都の城下はまるで様子がちがっていた。街に秩序があり、むしろ粛然、という言葉があたるほどのにおいをもっている。街路をゆく侍どもの容儀もじだらくでなく、町家の者も合戦の評判などはせず、連れ立って歩いている足軽までが、その足どりに節度がある。
(みな、なにものかを怖《おそ》れている)
そのなにものとは信長その人であろう。この病的なほどに規律好きな男は、自分は思うままにふるまうくせに、家来、領民に対しては統制への絶対服従を強《し》いていた。自然、この性格が織田の家風になっているのであろう。
「尾張衆は弱い」
というのが、東海地方の定評であった。東海地方では一に美濃、二に三河、という。この両国の兵は強い。が、尾張は土地が豊饒《ほうじょう》で百姓に貧農はすくなく、そのうえ海陸の交通の便がいいために商業が早くから発達し、猛兵を育てるような条件からほど遠い。そういう弱兵をひきいて、駿遠参《すんえんさん》三カ国の今川軍をうちやぶったのは、まったく信長の統率力によるといっていいであろう。
(あるいは怖るべき男かもしれぬ)
光秀は、宿をとった。
さっそく織田家の家中の猪《いの》子《こ》兵助《ひょうすけ》という者に手紙を書き、宿の主人に持ってやらせた。
別に深い理由はない。他国の牢人が城下に滞在する場合、無用の疑いをうけぬよう、家中の知人を保証人にしておくのである。
猪子兵助は、故道三が可愛《かわい》がっていた美濃武士で、道三崩れのあと、美濃を脱走していまは尾張織田家に仕えている。光秀は、猪子兵助程度の身分の者とは直接《じか》のつきあいなどはなかったが、それでも、
「明智十兵衛光秀」
と当方が名乗れば、猪子は這《は》いつくばうようにしてやって来るであろう。
やがて猪子兵助が宿にやって来、光秀に対し十分な会釈《えしゃく》をして帰った。
その翌日である。
光秀が街へ出、清洲の須賀口のあたりを歩いていると、むこうから馬《ば》蹄《てい》のとどろく音がきこえ、見るうちに往還の人々が夕立に遭ったように軒端《のきばた》へ散って膝《ひざ》まずいた。
「何事ぞ」
ときくと、殿様がお通りになられまする、と町人がいう。光秀はおどろいた。町人たちは信長に戦慄《せんりつ》し、その馬蹄のとどろきを遠くからでも聞きわける能力をもっているようであった。
「あなた様もお早く」
と袖《そで》をひかれたために光秀は編笠《あみがさ》をとり、身を後じさりさせて軒端にたたずみ、わずかに小腰をかがめて信長の通るのを待った。やがて信長は鷹《たか》野《の》の装束で馬を打たせつつやってきた。供まわりは五騎三十人ほどもいたであろう。今川義元を討ちとった尾張の大将としては軽すぎる容儀であった。
(これが信長か)
光秀は、はじめて見た。異様に感じたのは信長は顔を心持あげ、天の一角を凝視したまま、視線も動かさず、まばたきさえせぬ表情で駈《か》け来《きた》り、駈け去ったことであった。
信長は半町ばかり行ったとき、かたわらの猪子兵助に声をかけ、
「いま、須賀口で妙なやつを見た」
といった。信長の視線は一瞬光秀をとらえたようだったが、当の光秀は見られたことに気づかなかった。むしろ信長を見た《・・》つもりであった。見る《・・》のはむろん不敬といっていい。顔を伏せ視線を地に落しつつ領主の通りすぎるのを待つのが、路上の礼儀であるべきだった。信長のいう「妙なやつ」とは、
「おれを見たやつがある」
という意味であった。あれは誰《たれ》か、と猪子兵助にきいたのである。
猪子兵助も、軒下の光秀に気づいていた。
「あれは」
と、小さな決断をこめていった。
「奥方様にはいとこ《・・・》にあたられまする美濃明智の住人、十兵衛光秀と申す者でござりまする」
「美濃者か」
信長は無表情でいった。
「何をしにきたのか、調べておけ」
兵助はすぐ馬をかえして須賀口にもどったが、もう光秀はいなかった。さらに馬を駆って光秀の宿にゆくと、宿では、
「もはや出立なされました」
という。どこへ——と兵助が問いかさねると、「はて」と宿の主人は小首をかしげ、「越前へ、と申されていたようでござりますが、シカとはわかりませぬ」と答えた。
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